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序章

どうぞ宜しくお願いします

 記憶に残っている最後の思い出は何だっただろうか?

 暗転した視界とは裏腹に意識だけが妙に確りしてきて不気味だ。

 86歳の誕生日辺りまでの思い出ははっきりしている。しかし、その後はまるで抜け落ちたかのようにない。

 そこまで認識すると何故か自分の状況が納得出来た。

 万里子が生まれたのは戦時中、戦後は高度経済成長期の真っ只中に息子が生まれたはずだ。何かと競争させられる世知辛い時代だった。

 しかしそんな中、平凡な専業主婦として穏やかに人生を送れた。それは一重に身を粉にして働いてくれた主人のお陰だと感謝している。先にいってしまったが、私のことをどこかで待っていてくれているだろうか?


 子供は3人欲しいと思っていたのに1人しか授からなかったことがやや口惜しい。

 それでもそのたった唯一の宝を育て上げたのは私の誇りだ。

 もう一ついえば、その子に迷惑をかけてしまったかもしれないことが心残りだ。だが、今となっては確かめようがない。


 ありがとう。心を満たすのはその言葉だけ。

 思い残すことがないと言えば嘘になる。けれど、そんな恨み言を連ねるより、私はこの幸福な一生と、それを支えてくれた人々に感謝したい。


ーーありがとうーー



 祈るような、念じるような、そんな思いを抱いた瞬間。

 私は自分の存在が希薄になっていくのを感じた。まるで眠りに落ちるように……。


 しかし、完全に意識が失われる直前のことだった。私はこれまでに感じたことのない激しい苦痛に見舞われた。

 それは消えかかった私の存在をはっきりと呼び覚ます。

 全身を苛む痛みと圧迫感。何がどうと形容することすら出来ない。強いて言えば陣痛や出産すら目じゃないほどとでも言おうか。

 紛れもない危機が自分の身に起きている。私はパニックに陥った。


“たすけて。たすけて。まだ死にたくない”


 覚悟したはずの終わりを突き付けられて、本音が漏れだす。86年も生きれば大往生。まだ未練があったなど自分でも驚きだった。

 それでも祈らずにはいられなかった。


“神様、たすけて”


 信心深くもないのにこんな時だけ神に祈る。至極滑稽な話しだが、もうすがるものもない。


“たすけて、お母さん”






「はじめまして……、私の」


 ふと苦痛が消え去り、私は安堵から泣き出した。すると私の泣き声の奥で掠れた女性の声が聞こえた。

 目は霞み、それが何者か分からない。ただ安らかな響きが耳に心地よい。ひどく穏やかで毛羽立った気持ちを優しく撫で付けるようだ。

 心許なくぶら下がっていた手足が、その音源と思われる温もりにふれる。すると、僅かな血の臭いに混じって甘く懐かしい香りが鼻腔をくすぐる。


「会いたかったわ」


私も会いたかった……、ような気がする。

 懐かしくて、温かくて、柔らかくて、優しい気持ちが溢れだす。安心感が爪先から、指先、髪の毛の先にまで浸透していく。


 私はゆっくりとその温かさの中で意識を手放した。








前置きです。宜しくお願いします

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