6月 前編 湿り始めた空気の中で、越えてはならない線だけが静かに在りました。
昼休み。
蒸し暑い七月の空気が、廊下の窓から入り込んで、むわっと肌にまとわりつく。
直哉は、購買のパンを片手に歩きかけて――ふと足を止めた。
廊下の先で、綾瀬が誰かに話しかけられている。
(……あれ、サッカー部の先輩だ。なんで朝比奈さんに?)
彼は学年でもちょっとした“陽キャの人気者”で、女子に気軽に話すタイプの先輩だ。
悪い人ではないが、調子に乗ると距離感がおかしくなるのが玉に瑕だった。
今日もまさにその最中らしく、
綾瀬にずい、と近づいては軽口を叩いていた。
「綾瀬ちゃん、今度さー、みんなで遊びに行くんだわ。
良かったら一緒に――」
「先輩、あの……お気持ちだけで十分ですので……」
綾瀬の声はやわらかい。
言葉遣いも丁寧。
だけど――直哉には分かった。
(ちょっと……いや、だいぶ距離取ってるよな)
先輩はそれを“恥じらい”と誤解したらしく、にやりと笑ってもう一歩踏み込む。
「えー?いいじゃんいいじゃん。せめて連絡先だけでも~」
その瞬間――
綾瀬の瞳の奥、光がほんの一瞬だけ消えた。
スイッチを切ったかのように、すっと。
(……あ、これアカンやつや)
「先輩……あまり近づかれますと、困ります」
声は丁寧でやわらかいまま。
だけど、語尾だけが冷たい金属のように響く。
先輩は気づかない。
むしろ「照れてる」と思い込んで、さらに調子を上ようとした、その時。
直哉が割って入った。
「あ……朝比奈さん……」
「あら、大森君。こんにちは」
「……先輩、失礼ですが……」
直哉は一度言葉を探してから、続けた。
「朝比奈さん……少し、嫌がってるように見えます」
「そんなことないでしょ。
ねー? 綾瀬ちゃ――」
「…………先輩。」
綾瀬が、逆に一歩、前に出た。
湿気を含んだ七月の空気が一瞬で凍りつくような、そんな錯覚。
背筋はすっと伸び、表情は笑っているのに、声だけが異様に静か。
「先ほどから、わたくし……
“先輩のメンツを立てるために”
やんわりお断り申し上げておりますのに……」
先輩の顔から笑みが消える。
「お分かりいただけませんのなら、はっきり申し上げますね?」
そして――完璧な微笑み。
「わたくし。先輩に興味、ございません。
つきまとわれるのは迷惑ですので……
どうぞ、お引き取りくださいまし。」
ピシッ。
周囲の空気が張り詰めた。
たまたま近くにいた生徒たちも、息をのむ。
先輩は、声も出せず、目をそらすようにして廊下の奥へ消えていった。
直哉は心の中で叫ぶ。
(……す、すご……!
いや、めちゃくちゃ怖……くはないけど……
いややっぱ怖い!
でも朝比奈さんかっこよ……!!)
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先輩がいなくなった後。
綾瀬はそっと息を吐き、肩の力を抜いた。
そして――
直哉のほうを見るのではなく、視線を床に落としたまま、小さく呟く。
「……なおくんの前で、こんな顔……
ほんまはしたないのに……」
その声は、直哉にだけ届くくらいの小ささ。
(……なおくん……?
えっ……僕……?いやまさか……)
直哉の胸が、じわりと熱くなる。
六月の陽気よりも、ずっと暖かく。
その熱は、しばらく冷めそうにない。




