5月 前編 風薫る頃、危うき刻
今日も今日とて変わらぬ一日が始まる。
いつも通り授業を受け
いつも通り弁当を食べ
いつも通り友達と喋り
いつも通り気になる人をひっそり目で追い
いつの間にか放課後になる。
いつも通り友達と分かれ
いつも通りの帰路につく…はずだった。
(車道に…子猫が居る!?)
夕方の道。
たまたま車の切れ間だった車道を、子猫がよちよちと横切ろうとしていた。
(あんなところに居たら危ない…助けないと…)
直哉は車が近くに居ないことを確認し、子猫を抱きかかえる。
胸にふっと安心が混ざった――が。
ギャァァアアアア!!
交差点の向こうから、猛スピードで車が飛び出してきた。
「っ…!」
直哉の身体が硬直する。
足も、手も、考えすら止まってしまう。
(これ…死…)
衝突に備えて身構える
その瞬間、襟首を後ろから強く引かれ、体がふっと宙に浮いた。
固い地面に打ち付けられるかと覚悟をしていたが、衝撃はこない。
代わりに―柔らかく、暖かく、いい匂いに包まれていた。
(あれ、もう天国…?)
「大丈夫!?」
一瞬自分が死んだと勘違いした直哉の耳元で、切羽詰まった声が響く。
僕は、死んでいない。誰かに、助けられた。
恐る恐る首を動かし声の主を見上げると、朝比奈さんの顔が至近距離にあった。
「ああああああああああ朝比奈さん!?!?」
「お前こんなところで何しよんねん!!死ぬ気かボケッ!!!!」
普段の彼女からは想像もできないくらいの剣幕で怒られた。
「京都弁…?」
直哉のつぶやきに、綾瀬の肩がピクリと震えた。
一瞬だけ「しまった」という顔を見せるが、すぐさま険しい表情に戻る。
「じ、自覚あるん!? あんた今…っ!」
叱りつける声が、だんだん震え始め、
が、だんだん声が震え始める。
「何もなくて…ほんに…よかった…」
綾瀬は抱きとめた体勢のまま、ぎゅう、と直哉を抱きしめ直した。
(あーーーー!!ほんとになおくん生きててよかったあああああ…今のうちになおくん吸っとこ)
「あああ朝比奈さん!!!本当に反省しているので、そろそろ放してください…!!!」
直哉はパニックになりながら叫ぶ。
怒られたことで落ち着いたはずなのに、
綾瀬に抱き抱えられている事実に気づいた瞬間、
頭が真っ白になった。
助けた子猫はいつの間にかいなくなっていた。
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「朝比奈さん、本当に…ありがとう。僕、あのままだったら…」
「当たり前やろ。あんなとこおったら、轢かれてまうに決まっとるやん」
綾瀬はまだ怒りの余韻をまとっていたが、
それでも震える指先が、本気で怖かったことを物語っていた。
直哉はふと、彼女の袖口から血が滴っていることに気づいた。
「…え、朝比奈さん!血が出てる…!」
綾瀬ははっと目をそらし、慌てて傷を隠した。
「あ…ちょっと擦りむいただけやし…へーきや。なーんも痛うあらへん」
(いや、痛くないはずない…!)
直哉は焦りで頭が真っ白になった。
「だ、大丈夫なわけないよ! 僕の家が近いから…! 来て! すぐ手当てしないと!」
「え…え…? お、おおもりくんの…家…?」
その一言で、綾瀬の顔色が真っ赤に染まった。
心臓が跳ねる。
耳まで熱い。
呼吸の仕方を忘れる。
(…………うち、死ぬ…?)
「ほら、早く! ちゃんと消毒しないと!」
「………うん」
まさかの申し出に思考停止した綾瀬は、直哉に引っ張られるように大森家に向かった。
家に着くなり、直哉は救急セットを探す。
「朝比奈さん、洗面所で傷口洗ってくれる?」
綾瀬は袖を捲り、水で洗い流す。
救急セットを見つけた直哉は、慣れない手つきで消毒液を開けた。
「…しみるかもしれないけど、ごめん」
「ふ、ふつうに大丈夫やで…?」
痛みで震えてるわけではない。
かといって緊張と歓喜で震えているとも言えない。
直哉がそっと彼女の腕を持ち上げる。
白く細い腕。
血が滲む傷口。
自分を助けるためについた傷。
(…僕のせいだ)
胸がぎゅっと痛む。
「朝比奈さん…ありがとう。本当に、僕なんかのために…」
「なおっ…」
綾瀬の口から、うっかり名前が漏れかける。
「…大森くんが無事やったら、それでじゅうぶん、や」
声が震えた。
涙じゃない。
でもそれに近い柔らかさがあった。
直哉は息を呑む。
「終わったよ。痛くない?」
「ん…ちょっとだけ。けど、大森くんに手ぇ握っててもろた方が…痛み、忘れるし」
「……え……!?」
(やばい…意味わかんない…何言ってるんや、自分…!)
綾瀬は自分の両頬を押さえ、急に立ち上がった。
「あ、あかん…こんなん、顔見せられへん…帰る…!」
「えっ!? ちょ、ちょっと待って――」
玄関で靴を履きながらも、綾瀬の耳は真っ赤だった。
「…なお――…大森くん。
ほんまに…ありがとな」
言い終えて、顔も合わせないまま玄関を出て行った。
突然の展開に思考が追い付いていなかった直哉は
玄関の扉が閉まる音で我に返った。
「え、あ……ちょ、朝比奈さん!?」
慌てて扉を開けたときには、もう彼女の姿は見えない。
夕暮れの住宅街を見つめながら、直哉は小さく呟いた。
「…朝比奈さん。本当にありがとう。気をつけて帰ってね」
その声は、春風に溶けて消えていった。
その後、冷静になった直哉は、
自分は小柄とはいえ、同じくらいの背の男子を、
あんな儚い女の子が自分を引っ張り上げたことに
(…あの細腕で?)
ほんのわずかに疑問がよぎった。
けれどすぐに
(いや、火事場の馬鹿力ってやつだよな)
と無理やり自分を納得させた。
考えれば考えるほど、
胸の奥がくすぐったくて落ち着かなくなるから。




