3月 後編 春寒なお残る折、胸に灯る想いがひときわ深まる頃
卒業式当日
三月の澄んだ光が、体育館の窓から静かに差し込んでいた。
空気は少しだけ冷たく、けれど式のざわめきがその冷たさを和らげている。
在校生席に並ぶ直哉は、胸の奥が落ち着かないのを感じていた。
(……綾瀬さん、今日は送辞。“読む予定じゃなかった”はずだけど……)
式の一時間前。
「生徒会長がインフルエンザで欠席!?送辞が読めない!」
「……原稿は生徒会長が持っていて……誰も代わりが……」
「ど、どうするんだ……卒業式、あと10分しかないぞ……」
「代読でも……? いや、原稿が無いんだってば!」
「まさかこんなタイミングで倒れるなんて……」
混乱する職員室の中で、ひとりの先生がふっと言った。
「……朝比奈なら……頼めるかもしれない……」
そう言うや否や、先生と生徒会メンバーが綾瀬のクラスへ押しかける。
「……朝比奈。
原稿が無いのに申し訳ないが……学年一位で、落ち着いて物事を進められるのはお前だけだ。
お前に送辞を頼めないだろうか……?」
だが綾瀬は、ほんの一瞬だけ目を伏せて——
「……承りました。
精一杯務めさせていただきます。」
静かに頷いた。
その知らせを聞いた直哉は、動揺しすぎて喉が詰まりかけた。
(あ、あ、綾瀬さんが送辞!?
しかも即興!? そんなの負担じゃ……大丈夫なんだろうか……!)
けれど同時に思う。
(……綾瀬さんなら、きっと……)
そう信じたくなるだけの“何か”があった。
そして、式が始まった。
卒業生が入場し、厳かな雰囲気の中、
卒業証書授与が終わり——司会の声が響いた。
「つづきまして、在校生代表、送辞」
体育館に静けさが落ちる。
綾瀬がゆっくりと壇に上がった。
凛とした姿勢。
淡い光を反射する黒髪。
緊張ではなく、静かな覚悟を湛えた表情。
直哉は、息を飲んだ。
(……すごい、雰囲気が……いつもと違う……)
(なおくん、ちゃんとうちのこと、見ててね…)
マイクの前に立ち、綾瀬は深く礼をしてから、ゆっくりと言葉を紡ぎ始めた。
「ご卒業される先輩方——本日はおめでとうございます。」
自然で流れるような声。
だが、その手には原稿は無い。
「三年間という日々の中で、皆さまが積み重ねてこられた努力と歩みは、
私たち在校生にとって、常に指針となるものでした。」
視線は、まっすぐ壇下へ。
卒業生ではなく、後輩全体を包むような柔らかさ。
「時に厳しく、時に優しく、
学業に向き合う姿勢、行事を導く姿、
目標へ向かって一歩ずつ進むその後ろ姿は、
私たちの道標となりました。」
直哉は胸の奥がじんと熱くなるのを感じた。
(……綾瀬さん、本当に……即興で? やっぱり、すごい……)
綾瀬は一度だけ小さく息を吸い、言葉を続けた。
「先輩方が紡いできたその足跡は、
私たち在校生にとっての“道標”となり、
これからの一年を歩むうえで大きな支えとなるでしょう。」
ほんの少しだけ間を置き、柔らかく微笑む。
「どうか安心して次の舞台へ進んでください。
先輩方が示してくださった背中を胸に、
私たちも、それぞれが“大切に思う誰かのために”
在校生一同、日々の歩みを大切に積み重ねていく所存です。」
体育館が、水を打ったように静まった。
「三年生の皆さまのこれからのご健勝とご活躍を、心よりお祈り申し上げます。
令和7年度 在校生代表 朝比奈綾瀬」
綾瀬は深く、深く頭を下げた。
静寂のあと、
拍手が、一拍遅れて大きく広がる。
どこか誇らしく、あたたかい拍手。
直哉は知らぬ間に泣きそうになっている自分に気づいた。
(……うまく言えないけど……
ああいう姿を見ると……やっぱり……すごいなって思う)
胸の奥がじんとして、ほんのり痛い。
ただ尊敬して、憧れて、好きで。
どうしようもない気持ちが、静かに満ちていく。
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式が終わり、体育館からの流れが落ち着いた頃。
廊下で控えていた綾瀬が、ふっと直哉の前に現れた。
「なおくん……その……どう、でした……?」
いつもの優しい声に、ほんの少しの不安が混ざる。
直哉は反射で答えていた。
「……す、すごかったです。
あれ……即興なんて……本当に……綾瀬さん、すごい……」
言いながら、自分の声が震えているのを感じる。
綾瀬は、胸の前でそっと指を組みながら微笑んだ。
「……なおくんが見てくれてるって思ったら……
頑張れました。」
その言葉に直哉の心臓が大きく跳ねた。
(ずるい……そんな言い方……ずるすぎる……)
けれど綾瀬は、言葉を変えず、そっともう一度だけ。
「なおくん……ありがとう。」
春の光の中で、ふたりは少しだけ照れながら並んでいた。
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こうして、僕らの高校2年目は幕を閉じた。
そして僕は、彼女に追いつくための――遅すぎる受験勉強を始めた。
可憐で苛烈な気になるあの子 2年生編 終
一旦ここで終了です。
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