2月 後編 冬の静けさの中で、寄り添う距離が更に近くなっていきました。
静かなページをめくる音の中、
直哉は問題集とにらめっこしていた。
(……分からん……全然分からん……)
眉をひそめていると――
「なおくん、ここにいたんですね」
ふわり、と影が差す。
顔を上げた瞬間、
綾瀬の顔が近い。
「えっ、ち、近っ……!」
「え?こんくらい気にせんといてな、なおくん」
そう言いながら――
さらに半歩近づく。
距離が縮まりすぎて、
綾瀬の長い睫毛の影まで見える。
直哉の心臓が、どくん、と跳ねた。
(え、え、え……!?)
「さっきから悩んではるけど……見ましょか?」
(声が……息が……近い……!)
綾瀬は直哉の横に腰を下ろし、
問題集を覗き込む。
その動きが自然すぎて、
肩と髪が触れた。
「ひっ……!」
「どないしたん?なおくん」
すごくにっこりしている。
確信犯だとわかっていても、直哉は落ち着かない。
「い、いや……近くて……じゃなくて、その……」
綾瀬、首を傾げて微笑む。
「だめ……ですか?」
(“だめですか”の破壊力……!)
耳の奥が熱くなる直哉。
体が硬直して動けない。
その横で綾瀬は問題を指で示す。
「ここ、こうしたら解けはりますよ。
あ、字が見えへん?……もっと近づきます?」
(今でも十分近いです!!!)
「ち、ちかづかなくて大丈夫です!!」
「ふふ……なおくん、かわいい」
直哉は耳まで真っ赤。
とても勉強どころではない。
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それからしばらくして、
綾瀬は直哉と同じ机でノートを広げ、
二人の文字を書く音が響いていた。
そんな中、直哉はふと疑問が浮かんだ。
「綾瀬さんって……その、めっちゃ頭いいのに。
なんでこの高校入ったんですか?」
ふと疑問に思い、何気なく聞いただけのつもりだった。
……が。
綾瀬の手がぴたりと止まる。
顔を上げた綾瀬は、
ほんの少しだけ意地悪そうに微笑んだ。
「……何やなおくん。
うちがここ居るん、嫌なん?」
「えっ!? 違っ……!違うよ!??」
「ふふ、冗談ですよ。そんな慌てんでも。」
そう言って、再びペンを走らせる。
……が。
ページの端をなぞるような仕草のあと、
綾瀬は視線をノートから外し、静かに言った。
「……ほんまはね。」
「なおくんが入るって聞いたからや。」
「…………え?」
彼女は淡々と、
けれどどこか照れるように続けた。
「前に話したやろ?
子猫追いかけてたら、親猫に怒られて……
逃げ回っとった時に助けてくれた男の子の話。」
(……うん、覚えてる……)
「……あれ、なおくんやで。」
「——————ッ!?」
脳がフリーズした。
綾瀬はくすりと笑う。
「せやから、小さいころからずっと好きで……
追いかけて、この学校に入ったんです。」
「た……たったそれだけのことで……?」
思わずこぼれた直哉の言葉に、
綾瀬は一瞬だけきょとんとして――
それから、はにかむように笑った。
「ええ。“たったそれだけのことで”好きになったんよ。」
その笑顔は、理由を探すのが馬鹿らしくなるほど眩しかった。
「……ふふ。
うち、中学ん時、先生にも親にも反対されたんですよ。
『もっと上位校に行け』って。」
「えっ……」
「でも、決めてたんです。
なおくんと同じ学校に行くって。」
直哉は、言葉を失った。
(……それを、“たったそれだけ”って……
僕は、どれだけ軽く考えてたんだ……)
綾瀬は、そんな直哉の表情を見て、
少しだけ楽しそうに目を細める。
「……なんやなおくん。
今度は“えっ”も言わなくなったやん?」
イタズラっぽくそう言って、
真っ直ぐに、その瞳で見つめてきた。
(僕の為に高校のレベルを…)
再び勉強に戻った直哉は先ほどの綾瀬の言葉を反芻していた。
直哉は意を決した様に綾瀬に向き直り問う。
「綾瀬さんって……大学、どこを受けるかもう決めてるんですか?」
綾瀬はシャーペンをくるりと回し、あっさり答える。
「うちは……なおくんが行くところを受けますよ。」
「へっ……!? い、いやいやいや!
それでまたご両親と揉めたりしたら申し訳ないし……!」
慌てて手を振る直哉。
すると綾瀬は、少しだけ頬を膨らませて——
「……なおくん。うちと同じ大学いくの、嫌なん?」
「ち、違います!! そうじゃなくて……
その……今度は、僕が綾瀬さんのレベルに追いつきます!」
その言葉に、綾瀬のまつげが一瞬だけ震える。
目の奥が、嬉しさでふわっと緩んでいく。
「……ほんまに? なおくん……うちと同じとこ、目指してくれはるの?」
「はいっ! できるかどうかは……わかりませんけど……
でも、やります! 今度は僕が綾瀬さんの為に頑張りたいので!」
綾瀬はそこで、わざと無表情に戻り、さらりと言った。
「そしたらなおくん……うちと一緒に——
東大の文科二類、受けてくれはる?」
「………………………………え?」
世界が一瞬止まった。
手元のシャーペンを落とし、音が図書室に響く。
「と、とっっっ東大!?!?!?」
綾瀬は、にこぉ〜っと満開の笑顔。
「うん♡ なおくんなら、できるやろ?」
「いやいやいやいやいや!!! 無、無理無理無理無理!!!!!」
「なおくん、うちの為に頑張ってくれる言うたやろ?」
くい、と袖を引かれる。
直哉の理性が焼かれる。
「~~~~っ……!
……わ、わかりました!! “追いつく”って宣言したので……やります……!!」
半ばヤケクソ気味に叫ぶ直哉。
「えへへ……♡ うち、なおくんと同じ大学行けるん、楽しみやわぁ。」
対して綾瀬の声は甘く、子供のような素の笑顔で喜んでいた。
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ふたりは勉強を終え校門を出て、
ゆっくりと夕方の通学路を歩いていた。
和やかに話ていたが、分岐点に差しかかり、
「じゃあ、また明日」と軽く手を振って別れる。
直哉の背中が見えなくなってから——
綾瀬はふぅっと息を吐く。
(……言うてもうた……
ほんま、なおくんの前やと歯止めきかへん……)
頬がじわっと熱くなる。
眉をきゅっと寄せながら、
瞳を伏せて呟いた。
「……はず……」
声は小さく、自分にも聞こえるかどうかの音量。
でも、胸の奥は温かかった。
(……しかもなおくん、うちの為に勉強頑張るって……
ほんに嬉しいわ……精一杯サポートしたろ!)
恥ずかしさと嬉しさが胸の中でぐるぐる回る。
綾瀬は両手で頬を軽く押さえ、
冬の空気の中をとことこと歩き出した。
その歩き方は、
どこか浮き立つようで——
まるで恋を自覚したばかりの少女そのものだった。




