4月 後編 花影ゆれる新学期
朝一のHRが始まると、教室はざわつきながらも
いつもの日常が始まる。
僕は次の授業の教科書を用意しながら、
なんとなく前の方へ視線を流してしまう。
――朝比奈さんが、窓際で友達と喋っている。
耳にかかっていた長い黒髪がさらりと肩に落ちる
手を口に添えて上品に笑う
小さな動作で身振り手振りする
ただそれだけのことなのに、胸がざわついて困る。
(いや、別に……見てるわけじゃなくて……
ただ、視界に入っただけで……)
自分に言い訳しながら、
そそくさと視線を教科書に戻す。
授業が始まる。
先生の声、クラスのざわめき、
字を書くペンの音。
全部普段どおりなのに、
彼女が視界に入るだけで、
僕だけ別の世界にいるみたいだった。
彼女にとって僕はただのクラスメイト。
それでいいはずなのに―
知らずのうちに、こぶしを固く握っていた。
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綾瀬は、前を向いたまま
聞こえないくらい小さく息を吸う。
ノートに視線を落としているふりをしながら、
背後の気配だけで十分わかっていた。
(なおくん……今日もうちのこと、よう見てくるなぁ……)
顔にも声にも出さない。
でも、胸の奥はほんのり熱くて、
その温度を誤魔化すように指先をそっと組む。
声にしたらあかん。
気づかれたらあかん。
(……ほんま、かわいい人やわ)
その囁きは、誰にも届かない。
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時計の針が動き、ようやく放課後のチャイムが鳴った。
友達と軽く雑談したあと、僕は荷物をまとめて席を立つ。
仕舞い切れていなかったプリントがひらりと床に落ちた。
「あ……」
拾おうとしてしゃがみかけたその瞬間。
すっと白い指が視界に入った。
小さく、細くて、儚い美しい手。
「……落ちましたよ、大森くん」
顔を上げると、朝比奈さんがプリントを差し出していた。
(え……近い……!)
「えっ、あ、ありがとう……!」
慌てて受け取る僕に、
彼女はいつもの上品な笑顔を向ける。
「汚れなかったですか? 踏まれなくて、よかったですね」
いつもどおり。
美しい所作で、美しい声で、美しいイントネーションで。
でも、語尾が柔らかい気がした。
「う、うん……ありがとう、朝比奈さん」
小さく会釈をして去っていく。
風のように軽く、香りだけが残る。
胸の奥がじんわり熱くなるのを感じて、
僕はしばらくその場に立ち尽くした。
去り際、誰にも聞こえないほどの声で。
「……はぁ……なおくん、照れすぎやわ……
ほんま、かわええ」
かき消された囁きは、
夕方の廊下にそっと溶けた。
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職員室に寄ってから下駄箱に向かうと、
直哉が靴ひもを結び直していた。
何気ない行動。
でも──
(……なおくん。靴ひも、そんな結び方したらほどけるやん……
しかも縦結び……不器用やわぁ……はぁ……何してもかわい……いや、落ち着け自分)
そんなことを考えていると、直哉がふと顔を上げる。
ばっちり目が合い、直哉がちょっと赤い顔でにへら、と笑う
(……目合った……あかん……その顔反則や……
そんな顔されたら……ほんま、好きや……)
「……あっ、朝比奈さん……」
「……あ。こんばんは、な……大森くん」
(うっかり“なおくん”って呼ぶとこやった……気ぃつけへんと……
けど心は勝手に言うてまう……ほんま、かわえぇ子や……)
「じゃ、また明日」
「はい、また明日」
そう言って分かれる二人。
一見よくある穏やかな日常風景だが、心中穏やかではない二人であった。




