10月 後編 秋気ようやく深まり、旅路の疲れが心地よく身体に残る頃
帰りのバスは、みんな疲れてぐったりしていて、
気づけば窓の外の景色も流れるように変わっていく。
直哉は、ぼんやりと窓を眺めていた。
——その時。
す、と横から重みがかかる。
「……っ?」
反射的に振り向いた直哉は、言葉を失った。
綾瀬が、静かに肩に寄りかかって眠っていた。
無防備で柔らかい寝顔。
「えっ……あ……あの……朝比奈さん……!?
(ね、寝、寝てる……!?)」
起こす勇気なんてない。
綾瀬の表情は、どこか安心しきったようで、
ほんのり唇がゆるんでいる。
——そして。
ぽた。
(……ん?)
自分の肩に、わずかな生暖かい湿り気。
(………………え?
え?え?これって……よだ……れ……!?)
脳がフリーズした。
ぽた、ぽた。
肩の布地に、うっすらと濃いシミが広がる。
(しぬ……僕はもう……しぬ……
いやこれ普通に嬉しいんだけど!?
でも人としてどうなの僕!?
いやでも朝比奈さんかわいすぎる!!)
完全に混乱。
そして——
綾瀬の髪の香りがかすかに鼻腔をくすぐる。
直哉はそっと目を閉じて、自分の中のもう一人の声を聞いた。
(……ちょ……ちょっと吸っちゃお……)
くん……か。
香りという刺激で我に返った直哉は頭を抱え…たくてもできず、
(あああああああああ!!!!
何やってるんだ僕は!!
ただの変態じゃないか!!!
いやでもこれは事故だし!!いや無理か!!)
一見冷静に取り乱していた。
もはや過呼吸寸前。
そんな直哉の生き地獄を知らぬまま——
綾瀬は静かに、幸せそうに眠っていた。
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やがて学校に到着する。
「みなさーん、起きてくださいねー、学校に到着でーす」
先生の声で、綾瀬がゆっくり目を開けた。
「……ぁ……ん……」
そんな艶やかな寝起きの声を立てながら、ぽやんとした表情で直哉を見る。
直哉の魂が抜ける。
そして次の瞬間、綾瀬の視界に入ったのは——
自分が寄りかかっていた直哉の肩の“しっかりした濡れシミ”
「…………え?」
数秒間、完全に固まる。
そこから、頬が一気に真っ赤になった。
「な、な、な、な、な……っ!?!?!?
だっ……大森君っ!?
あ、あのっ……これはっ……えっ……ええぇぇぇぇ!?!?!」
完全に動揺モード。
「あっ、いやその……その……っ!
ぜぜぜ全然、大丈夫だから!!」
「だ、大丈夫じゃありませんわぁぁぁぁぁ!!!!!」
今年いちばん綾瀬が取り乱した瞬間だった。
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家へ向かう綾瀬は、まだ真っ赤な顔で一人反省会をしながら歩きつつ——
(な…なおくんの肩に……
よ、よだれ……とか……っ)
(あああああ……はず……っ)
ぼそ、と言って、さらに顔を覆った。
でも、その耳まで真っ赤になった綾瀬は、ほんのり笑っていた。
(……なおくんの肩……
あったかかったな……)
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直哉の自室にて。
家に帰り、荷物を置いた瞬間。
どっと疲れが押し寄せ——
その数秒後には、
脳内で今日の全シーンがリプレイされ始めた。
(……いやいやいや……
肩に……寝て……よだれまで……)
(えっ、あれ普通に死ぬほど可愛いんだけど……!?)
ベッドの上で転がりながら、
頭を抱えたり、枕に顔を埋めたり、
変な声が勝手に漏れたり。
(僕……生きてて……いいのかな……
いやむしろ……死んだほうが自然じゃ……)
そして最後にふと浮かぶのは——
眠りながら寄りかかってきた時の、
綾瀬の 重み・体温・香り。
(…………肩に、まだ残ってる……)
そう思い、肩をそっと手で押さえる。
胸がまたドクンと跳ねた。
(……来週、学校で顔合わせたら……
僕……絶対まともにしゃべれない……)
そう呟きながら、
直哉は布団にもぐり、天井に手を伸ばした。
(……朝比奈さん……
なんで僕の隣に来てくれたんだろ……)
修学旅行の“夢の時間”が、
ゆっくりと現実に滲んでいく。
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綾瀬の自室にて
家に戻った綾瀬もまた、
旅館から続く余韻に包まれていた。
荷物を部屋に置き、浴衣ではない普段の服に着替えた瞬間——
胸の奥に、寂しさが落ちる。
(……なおくん……)
学校に着く直前まで
“なおくんの肩の温かさ”がずっと残っていて。
ベッドに腰を下ろすと、
ぽす、と枕に顔を埋める。
(……よだれ……垂らしてもうた……
ほんま……はず……っ)
顔を覆って転げ回る。
布団の上で小さくじたばたする。
(でも……なおくん……
怒ってはらへんかった……
むしろ……優しかって……)
ほんのり笑みがこぼれる。
それから——
(……なおくん……
起こさずにいてくれはったん……
優しい……好き……)
胸がじんわり熱くなる。
(次……学校で会うの……
ちょっと……照れますわ……)
でも、その照れくささすら愛おしい。
修学旅行という“特別な数日間”の終わりに、
綾瀬はそっと胸に手を当て、つぶやいた。
(……なおくん……
うち、ほんまに……好きやわ……)
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翌日
教室の空気は、修学旅行明け特有のゆるさに包まれていた。
が。
直哉と綾瀬だけ、やけにぎこちない。
(ど、どうしよう……
顔合わせたら……絶対昨日のこと思い出す……!!)
(……なおくん、さっきから目合わせてくれはらへん……
あんな醜態みせたから、嫌われた……?)
すれ違っても、視線が交わる前にお互い逸らしてしまう。
その光景を見た山崎が言う。
「おい直哉、なんか綾瀬さんと距離おかしくね?」
「修学旅行で何かあったな……?」
(やめろおおおおお!!!!!)
直哉、心の中で土下座する。
綾瀬も机の上でそっと手を握りしめる。
(……なおくん……話しかけたいのに……)
その時、
直哉が意を決して綾瀬の近くを通り
「あっ…朝比奈さん…お、おはようございます……!」
「……あっ。おはようございます、大森君。」
二人とも顔真っ赤。
でも、その一言で心がふわりと軽くなる。
(あ……ちゃんと話せた……)
(……よかった……嫌われてへん……)
ほんの一言だけなのに、たまらないほど胸が温かくなる朝だった。




