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17.耐え難い恐怖

 アデルは目の前の魔人から発せられる強大な魔力に、正直動揺しきっていた。ここまでの相手と対峙したことなど今までにない。だからこそ、アデルは久しぶりに戦いへの高揚よりも、焦燥の気持ちの方が勝っていた。


 リューリエと名乗ったその魔人の、先程まで人間と同じ見た目だったはずの両腕は、今や怪物の口のようにグロテスクな見た目に変形している。口だけしかない怪物の双頭のそれぞれにギザギザと鋭い歯が生えており、肩までを紫の羽毛が覆っていた。


 リューリエは足元のミアを一瞥したあとにアデルたちの方を見て意地悪く笑みを浮かべる。それに対して最初に動き出したのはリリアだった。


「こ、この野郎! 【土の棘!(ソル・エピネー!)】」


 詠唱が終わった瞬間、リューリエの足元の地面から生え出るように無数の棘が現れる。それは、一般の感覚からすれば不意の攻撃のはずで、リリアもそう思っていた。


 ところがリューリエは棘が生え出てくる直前には既にその場から姿を消していて、気がついた頃にはリリアの目の前に立っていた。


「うわっ、ちょっと!」


 噛み付こうとしてきたリューリエの右腕の牙を間一髪というレベルでなんとかかわし、リリアはその驚くべき素早さに目を剥く。


 今の、なんだったの……。まるで、瞬間移動でもしているみたいな……。


「【巨木よ、彼の者を(アルブ・ジェオン・)潰してしまえ!(エクライザー!)】」


 リューリエが追撃をする前に、メルフィーは焦りつつもリリアを守るための呪文をなんとか唱えた。


 地面から生えてきた巨木はリリアの傍で仁王立ちしているリューリエに倒れ込む。ように思われたが、右腕の頭が巨木の幹に噛み付くと、それを持ち上げるようにして逆にメルフィーの方へ飛ばしてきた。


 なんて怪力……。


 情けなく声を上げつつ、なんとか当たらずに済んだメルフィーは地面に倒れ込む。そんな二人の様子を見ていたアデルは焦りつつ口を開いた。


「リリア! それにメルフィーも! 一人で闇雲に魔法を打たないで! この魔人は本当にやばいやつですから!」


 アデルは二人に向かって叫ぶようにそう言う。それから、その発言の理由となるある記憶を必死に辿り始めた。


 先程、リューリエは『元七災の四』だと名乗っていた。けれど『七災』なんてものを、アデルは聞いたことがなかった。いや、聞いたことがないと思っていた。だから、それがどれくらいの称号なのかわからなかった。


 ところが思い直してみれば、どこかで聞き覚えがある気がしてならなかった。そして、それがとても重要な単語だった気がしてならないのだ。


 アデルは頭を抱えて必死に思い出そうとする。『七災』という言葉。確か、誰かから聞いたのだ。比較的最近……何気ない会話の中で……。


「ああそうだっ! グレイス館長!」


 アデルはようやっと探していた記憶に辿り着き、手を叩く。そう、アデルは数日前グレイスに会った時に七災の話を聞いていたのだ。


 その時の状況を鮮明に思い出し、アデルは脳内で再生する。




     ☆


 


『そういえばアデル、中央領の外を旅する予定はないのですか』


『中央領の外、ですか? うーん、将来的にはそのつもりですけど……』


『そうですか。ならば気をつけてくださいね。女神様の保護範囲内である中央領と違って、外は危険が多いですから』


『いやいや、それに関しては大丈夫ですっ。だって私、元々中央領の外出身ですよ?』


『それは知っていますとも。しかしね、今度の貴女は暮らすわけではなく冒険をするわけでしょう。それなら、注意は常にしておくべきです』


『うんと、それというのは一体……』


『中央領の外にも人間の領土や国はあります。そしてそれと同じくらい、中央領の外には魔人の領土や国もあるわけです。


 つまり、旅をしている最中のあらゆる場所において油断できないということ。それに、各地を旅するということはそれだけ魔人の目につく回数も増えるということ。


 近年では人間の隷属化を謳って盛んに人里へ襲撃をするような集団も組織されつつあります。決してほのぼので平和な旅とはいきませんよ』


『それは凄く、なんていうか物騒ですね……。で、でもっ、私はそういうものを無くすために旅をしているっていうか、だから、信じていてくださいよ』


『ああ、いえ、誤解させるような言い方になってすみません。貴女のことは信じているのですよ。ただ……アデル、七災という言葉をよく憶えていてくださいね』


『七災、ですか。それって何なんですか?』


『……近頃暗躍している、北方魔神教会が運営する組織のことです。発足されたのはつい数年前ですが……正直言って、かつてないほど人間を(おびやか)かす存在だと、私は思っています。


 アデル、貴女にこれを憶えておいて欲しいと言った理由は二つあります。一つは単純に、所属している魔人たちが手に負えないほど強いから』


『手に負えないって、館長でも……?』


『ふふっ、どうでしょうね。……もしかしたらそういうこともあるかもしれません。でも、そう不安そうな目は向けないでください。とりあえずはとても強いというだけの話です。だからといって、安心しろと言っているわけでもないのですが。


 ……それで二つ目の理由は、七災の目的が大悪魔ユラヴィを封印から目覚めさせることであるから。これは、英雄を目指す貴女には言っておいた方がいいでしょう?』


『はっ、はい! それはもちろん!』


『ですがね、アデル。やる気があるのはいいことなのですが、私としては七災と戦うのは絶対にやめた方がいいと思っています』


「えと、それはどうしてでしょう?」


『単純に、相手の何もかもが具体的に知れていないからです。この私でさえ、魔人たちの動向を探り切るには限界があります。未知の存在を前に一切警戒しない旅人ほど愚かなものはありません。……ねえ、そうでしょう、アデル』




     ☆


 


 神妙な顔でそう言われたことをアデルは思い出す。考えてみれば、あれは何気ない会話なんかじゃない。本気の忠告だったのだ。


 どうして忘れていたのだろう。悔やみつつ、アデルは目の前の恐ろしい魔人を睨んだ。


 リューリエは(わら)っていた。両腕の怪物の口角も上がっていた。目が合ったアデルは息を呑んだ。


 恐ろしいと思った。けれど、どうしてこんなにも目の前の魔人が恐ろしく感じるのか、アデルにはわからなかった。


 背筋が凍えるような感覚がする。相手は小さな子供の見た目をしているというのに、その邪悪な瞳をじっと見ていられない。


 先程も感じた嫌な感覚。戦闘に対する高揚、興奮よりも先に不安や焦燥、恐怖が襲いかかってくる。冷や汗が額を滴り、呼吸が乱れた。どうしてこんなに――


 ……ああ、まずい。冷静になれ。


 そう頭の中で唱えるが、依然として冷や汗や動悸は治まらない。身体が言うことを聞かない。


 アデルはまるで、自分が自分でないような感覚に陥った。


 明らかにおかしかった。この恐怖は自分の意思ではない。精神が操られているとしか考えられなかった。目の前にいる、一見するとただの小柄な少年であるリューリエによって。


 強制的に恐怖を感じさせられている。それも、あまりにも耐え難い。アデルの心臓は悲鳴を上げ、脳みそがぴりぴりと痺れるような感じもしていた。


 きっと、これも彼の魔能力の一つなのだろう。獲物を恐怖で服従させ、歯向かう気すら無くさせるというような。そんな、とても理不尽な能力なのではないかとアデルは推察する。


 見れば、メルフィーは苦しそうに地面にうずくまり、リリアも腰が抜けて身体が動かないようだった。まともに立てているのはアデルだけだった。


 アデルは絶体絶命の状況であることをようやく実感し始める。自分だけが辛うじてこの場に立っている。しかし、だからなんだというのだろう。そういう能力であると見破ったところで、自分にはなんの対処法もない。


 アデルはちらと考えた。ここで全滅するのか。こんなにあっけない負け方でいいのか。まだ、旅は始まったばかりなのに。これからなのに。


 アデルは奮起して槍を握る手に力を入れる。が、いつの間にか槍を構える自分の手が震えていることに気がついた。まずい、このままでは。気を確かに保たないと……。


 ――気が狂う。狂ってしまう。


 リューリエは面白そうにほくそ笑みながら、ゆっくりとこちらへ歩み寄ってくる。


 恐怖に完全に支配された瞬間、きっと死んでしまう。気を確かに。そう思っているのに、心の中で叫んでいるのに、彼が近づいてくるたびに恐怖は増大し、息が苦しくなる。目眩がする。


 目の前の小さな少年は、今では巨大な化け物のように見えた。瞳を紫に光らせて、こちらを食べようとしている巨大な化け物。それが幻覚だとわかっていても、どうしようもなかった。


 やがて息ができなくなる。だが、アデル本人はそれに気がつかない。


 アデル、恐れないで。戦うんです。戦って、困っている人をみんな救って、立派な英雄になるんでしょう。ねえ、最高の魔法使いになるんでしょう。


 それで、グレイス様に褒めてもらうってそのために頑張ってきたんじゃないんですか。


 自分を精一杯鼓舞した。心の中でめいっぱい叫んだ。けれど、恐怖に支配されていく頭の中で、勇気が燃え盛るスペースはなかった。


 視界内のリューリエが霞んで見え、アデルの意識はどんどんと泥中に沈んでいく。



 

     ☆

 

 


『ねえね、グレイス様。きいてほしいことがあるの!』


 幼い少女が得意げにそう言った。少女は言いながら、無礼にも巫女様の膝の上に勝手に座る。


 周囲の村人たちは驚き、一斉に少女を引き離そうとする。しかし巫女はそれを制すると、少女の頭を優しく撫でた。


『なんですか。是非とも聞かせてください』


『わたしね、おおきくなったらグレイス様みたいになりたいなっておもうんだ!』


 言うと、巫女は驚いたように声を上げる。そんなことをこんなにも幼いのに言ってのけるなんて。いや、むしろ幼いからなのかもしれない。


 少女は期待の眼差しを巫女に向け、返事を待っている。巫女は面白そうに笑って答えた。


『あら、ふふっ、つまり貴女の将来の夢は私ということですね。でも、どうしてそう決めたのですか』


 そう尋ねられると、少女は少しのあいだ考えてから答えた。


『うんとね、かっこいいからかな! わたしもグレイス様みたいなかっこいいまほうつかいになりたいの!』


『ふふっ、そうなのですね。これは、貴女が大きくなるのが今から楽しみです』


 少女はそう言われて嬉しそうにしていたが、やがてもじもじし出すと恥ずかしそうに巫女に訊く。


『もし、わたしがおおきくなってすごいかっこいいまほうつかいになったら、グレイス様ほめてくれる?』


『ええ、もちろん褒めますよ』


『いっぱい?』


『ええ、いっぱい褒めてあげます』


 それを聞いた少女はパッと笑顔になって喜んだ。喜びに満ち溢れた。


 彼女の心の中には、この時から強い信念として火が灯されていた。絶対に何にも侵されることがないくらいに。



 

     ☆


 


「はっ、所詮この程度か。見捨てるぐらいなら死んでも構わないと言って、結局なんの手出しもできないまま死ぬんだな。全く馬鹿馬鹿しい」


 リューリエの呆れきったような声が聞こえてくる。いつの間にか、アデルの目の前というところまで迫ってきていた。


 アデルは少し困惑した。時間が飛んだのかと思い、それから思い直してすぐに状況を察する。どうやら自分は、一瞬気を失っていたらしい。


 それに気づいたのと同時にアデルは、恐怖に打ち震えていた自分の身体の緊張が、いつの間にか解けていることに気がついた。


 ……少し、昔のことを思い出したからかもしれない。


 いや、理由はわからない。しかし、とにもかくにも、九死に一生。今なら身体が動く。今の状態なら戦える。


 アデルは目を開けると、すぐに大きく息を吸って(から)になっていた肺に空気を入れる。リューリエの腕はすぐそこまで迫っていた。


 右腕があんぐりと大きく口を開けて、アデルにかぶりつこうとしてきている。しかし、アデルも咄嗟にリューリエの首元めがけて槍を振っていた。


 ほんの一瞬、リューリエの瞳に驚きが満ちる。槍の刃先は空を斬り、リューリエは右手での攻撃を中断すると後ろに飛び退いた。


「……驚いたぜ。まさか俺の魔力瘴気(オーラ)の恐怖汚染から抜け出すとはな。なかなか自我が強いみたいじゃないか」


「……はあ……っはぁ……こんなものに、屈する、ものですかっ!」

 

 アデルは呼吸を整える。喉はからからに乾いている。汗もびっしょりかいている。けれど、今度は身体が動く。


 恐怖感は先程よりも薄れていた。代わりに、闘志が湧き上がってきていた。

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