乙女は絶体絶命の危機に陥る
「奈月は接吻もまだなのだろう? 私が教えてやろうか」
伊佐夫は奈月の耳元で恐ろしいほど優しく囁き、獲物をいたぶるように、ゆっくりと口同士の距離を近づけていく。
「やめてっ!」
奈月は悲鳴に近い拒絶の言葉を口にする。こんな男に初めての接吻を奪われるくらいなら……悔しい気持ちで涙が溢れ、脳裏にはドランクの姿が浮かんだ。その時、その幻影が実物のものになって現れる。
「ナツキ!」
ドランクの必死な声が奈月の名前を呼ぶと、のし掛かっていた伊佐夫の姿はどこにもなく、元から居なかったかのようにかき消えていた。
突然部屋に現れたドランクは、奈月をそっと抱き起こすと、乱れた髪を整え、奈月の涙を拭う。
「……リグ様?」
「ナツキ、大事ないか? もう大丈夫だ」
「リグ様……どうしてここへ?」
「さっき別れる時、ナツキの様子がおかしかったから、遠視の力を使って様子を見ていた。勝手に覗いてすまない」
ドランクは奈月の無事な姿にほっとしながらも、どこか気まずそうに言った。
「助けて頂いて、ありがとうございます」
奈月は改めて、ドランクに感謝をする。
「さっきの男が迷惑な客か?」
「はい。いろいろ複雑な事情がありまして、当家の顧客の家の方でもありますし、あまり無碍にもできず。いつも困っていたのです」
「すまない、大事な客だったのか。ナツキの身が危ないと思って、とっさに遠くに飛ばしてしまったが……まずかったかな」
「遠くへ飛ばす?」
「あぁ、多分、帝都だったか? あの本にあった座標に飛んでいると思う」
「まさか、氷菓子のお店ですか!?」
「恐らく。見てみるか?」
ドランクは奈月のおでこに自身のおでこをくっつけると、遠視の力を使って見える景色を共有する。奈月の脳裏に浮かんだのは、閉店中の真っ暗な氷菓子店で呆然と佇む伊佐夫の姿だった。
二人はいたずらが成功した子供のように、どちらともなく笑いあった。
「ナツキが元気になって良かった」
「リグ様のおかげです」
「気にするな、うまい握り飯のお礼だ」
「それじゃあ、夜も美味しいの作りますね。具は何がいいですか?」
奈月がそう問いかけた時、不意にドランクが咳き込む。ガフッと嫌な音で一つ咳き込むと、口を押さえたドランクの手にはべったりと赤いものが付いていた。
「リグ様っっ!!」
奈月の呼ぶ声が、薄い膜を通した様に遠くで聞こえる。ドランクは何か答えないと、そう思って口を開くが、ひゅーひゅーと苦しい息の音しか出て来ない。ドランクは視界がぐるぐると回り、すぐに立っていられなくなった。座り込むと同時に、視界が狭まり、目の前が暗くなっていく。ザーと砂嵐の様なノイズと伴に意識が遠のいていった。
「リグ様!! 誰か、誰か来てっっ!」
奈月の悲壮な叫びが離れに響いた。