乙女は帝都を夢見る
御神木である樹齢百年は過ぎているであろう大きな木の根元に神秘的な佇まいの少女が一人、一つに括った長く真っ直ぐな黒髪が風に揺れる。少女の嫋やかな指が手元に持つ本の頁をそっと捲る。長い睫毛に縁取られた瞳を物憂げに伏せ、ほうっと息を一つ吐く。その情景は一幅の絵のように美しく、誰もが思わず目を止めることだろう。
少女はおもむろに木陰に敷いた一人用の敷布の上にころんと寝転がると、奇声をあげながらゴロゴロと転げ回る。
「あぁ~! 帝都で流行ってる氷菓子を食べてみたいっっ~!! どんな味なのかしら~~あうっ、ヨダレが」
この残念な美少女の名前は黒須奈月。着物の裾が盛大に捲れ上がり、日に焼けていない白い足がはしたなくも覗いているが全く気にすることなく、本を眺めてはだらしなく笑み崩れる。家人が見たら大きな雷が落ちること間違い無しの姿だ。けれど、切り立った崖の上にあるこの場所には人が来ることは殆ど無い。奈月にとって乙女の野望に存分にふける事ができる秘密の場所だった。
奈月が頭上に掲げてニヘニヘと眺めているのは、婦女子に大人気の冊子『帝都見聞録草紙』。帝都で流行りの活動写真の役者絵、話題の商店紹介、服飾の最新情報、家政のお役立ち豆知識、ちょっぴり大人の社交場体験記と内容盛りだくさん。多色刷りも鮮やかな、人気絵師の挿絵が彩りを添える。ただし彼女が手に持つそれは三年も前に発刊された古いものだ。
「氷菓子……美味しいんだろうなぁ~……。ハァ~新しい『帝都見聞録草紙』読みたいな~」
幼い頃から甘味と言えば、山で採れる木の実や蒸した芋が精々で、稀に帝都の客人からもたらされる干菓子が最高のご褒美に位置付けられる。高価な材料をふんだんに使い、更には氷を使って作られると言う氷菓子など、辺鄙な黒須家で口にするのは夢のまた夢である。
黒須家は古くから神々と対話しご神託を賜り、作物の出来や天災を占ってきた。その異能の力は尊ばれ、遠路はるばる帝都の大物政治家が密かに訪れる程。近代化が進んだ昨今でも、黒須家への崇拝は根強く続く。
生まれた時から山深く閉鎖された黒須家で、厳しい修行に明け暮れてきた奈月と『帝都見聞録草紙』の出会いは今から三年前。十三歳になり、ようやく神巫見習いとして認められた彼女が、初めて外界から来た客人の案内役を任された時。
帝都からやってきた妙齢のご婦人は、暇つぶしにと持ってきていた数冊の『帝都見聞録草紙』を「読み終わったから処分しておいてくださる?」と無造作に奈月に渡した。奈月は見たことのない美しい絵のついたその本にすっかり魅了され、捨てるふりをしてこっそりと御神木の虚に隠した。今でもその行いは英断だったと思っている。
黒須家の仕来りと神巫としての彩りの無い生活しか知らなかった奈月にとって、『帝都見聞録草紙』を通してみる外界はまさに夢の世界。小さく狭かった奈月の世界は一気に広がり、年頃の少女の心を豊かにしていった。
「……つき……な……き様~……」
遠くから家人が奈月を探す声が微かに聞こえて来る。ちょっとだけと思って読み始めたものの、いつの間にか随分長い時間を過ごしてしまったようだ。慌てて敷物に冊子を包み、見つからないように本を隠す。衣服の乱れをさっと整えると、黒須家が誇る神巫に相応しい姿で楚々と家人の元へ向かうのだった。
◇◇◇
講義の時間ぎりぎりで講堂に駆け込んだ奈月を、呆れたように見てくる姉の弓月と従妹の葉月の横に急いで座る。
「奈月、また山へ行っていたの?」
「奈月姉様は本当に物好きね。お勤めで嫌でも行かなきゃいけないのに」
「休憩時間なんだからどう過ごしたっていいでしょう」
三人は共に神巫としての修行を行う仲間であり当代神巫の座を競うライバルでもある。
「三人とも静かに、奈月はもう少し余裕を持って行動なさい」
三人の娘達のおしゃべりを諌める声をかけながら講堂に入ってきた立ち姿の美しい女性は奈月の母、佳月。三人はこの秋に行われる神事に向けて奉納舞の練習に励んでいる。
「では、この前の続きから」
それまでの和やかな雰囲気は途端に消え、スッと立ち上がった三人は舞の姿勢をとった。奉納舞の練習が始まると佳月の叱責が講堂に響く。
「弓月、いいよ、指先まで神経を行き渡らせて!」
「奈月、旋回が半拍遅れてる、合わせて!」
「葉月、腕が下がってる、最後まで気を抜かない!」
舞の名手である佳月の教えは厳しいものだが、三人は文句も言わずにそれについていく。奉納舞は神の信託を我が身に降ろしやすくする大事なものだと幼い頃から教えられてきたからだ。一時も気が抜けない舞の練習が続き、三人の衣の色が汗で変わり、集中が切れ始めた頃、佳月はパンパンと手を鳴らした。
「本日の練習はここまで」
「「「ハァ~、ありがとうございました」」」
一息ついた後、佳月は娘達を集め話し始めた。
「美月が当代神巫を務め上げ、この度一族の男に嫁ぐことになったのは知っているわよね。秋に行われる神事では貴女達の中から、次代の当代神巫が選定される事になるでしょう。奉納舞は神々との対話です。今の自分の舞に満足する事なく精進なさい」
佳月は三人を激励して講堂を後にした。
「やっぱり、弓月姉様が選ばれるんじゃない?」
「姉さんが一番奉納舞が上手いものね」
妹達の熱い尊敬の眼差しにちょっと得意げながらも弓月は真面目な顔を取り繕う。
「選定の儀はご神託で決定するものでしょ。誰が選ばれるかは分からないわよ」
現在、当代神巫は奈月の叔母である美月が勤めているが、この度その役目を全うし任期を終える事となった。次代の当代神巫候補である三人のうち、有力候補とみなされているのはしっかり者で奉納舞が一番上手い弓月。しかしながら、選定の儀で行われる信託では一族の思惑通りの人選が行われないことも多々あり、誰が選ばれるのかはまさに神のみぞ知る。
「当代神巫に選ばれたら、当面結婚できないからなぁ~」
「葉月はまだ諦めてなかったのね。かの君を狙ってるお姉様方は多いわよ~」
「まだ決まったお相手がいるわけではないもの、希望はあるわよ。奈月姉様だって、凝りもせず帝都へ行くことを夢見てるじゃない」
「帝都は当代神巫の御使に選ばれれば行けるもんね~、葉月の計画よりは現実的よ~」
「もうっ! 奈月姉様の意地悪!」
いつもの妹達のやり取りに呆れつつ弓月は仲裁に入る。
「さぁ、二人とも手が止まってるわよ。葉月は夜のお勤めでしょ。奈月は早く就寝しないと明日起きられなくなるわよ」
「きゃ~、急いで掃除を終わらせないと遅刻しちゃう」
「そうだった、明日朝番だ~」
三人は慌ただしく講堂の片付けを終えると、それぞれの担当へと向かった。