空色ジェリービーンズ
学校から帰宅する時の事だ。
佑也は友人の良平と話しながら、冷たい風に吹かれてプラットホームで電車を待っていた。
「おい、あれ見ろよ」
良平がにやにやしながら、佑也の腕を肘で小突いてくる。
線路の向こう側に、こちらを見ながら意味あり気にはしゃいでいる三人の女子高生が目に入った。
右と左の友達二人が、中央に立つ髪の長い少女に顔を寄せて何やら囁いている。
ちらちらと佑也に視線を送る二人とは対照的に、少女は恥ずかしそうに顔をストールに埋めていた。縮めた体が華奢で儚げだ。
「あの様子だと、真ん中の子、お前に気があんじゃね?」
「はあ?まさか」
そう言って、佑也は下を向いている女の子を眺めた。
女の子がゆっくりと顔を上る。伏せていた目がぱっちりと開いて、佑也を見つめた。
(ゆかり?)
大きく息を飲んだ。音が消え、世界が止まった。
「おい佑也!何やってんだよ。危ないだろ!」
良平に怒鳴られて我に返った。
途端に耳元で雑踏が溢れ出し、電車到着の電子音が天井から降ってくる。
ホームドアに乗り上げるような格好をしている自分に気が付いたのはその直後で、佑也は良平に襟首をつかまれ引き戻されていた。
電車がホームに入って停車し、ドアが開く。佑也は後ろに並んでいる乗客に押し込まれるように電車に乗った。乗車するしかなかった。
(ゆかり!)
反対側の窓に移動しようにも、防寒着を着込んだ人で埋め尽くされた車内では身動きが取れない。
もぞもぞと体を動かしているうちに電車は走り出した。
(間違いない。あの子は、ゆかりだ)
ずっと覚えていた。
白い肌。丸い大きな瞳。桜色の小さな唇。鼻の先がほんの少し上を向いているのを、一度たりとも忘れたことはない。
だけど。
(ゆかりだって?まさか、そんな筈ない。だって、ゆかりは…)
七年前に死んでいるのだから。
*****
佑也がゆかりと出会ったのは六才の頃。幼稚園の年長の同じ組でだった。
七月が誕生日のゆかりはとても活発な子供で、暇があれば男の子達と園庭を駈けずり回っていた。
対して佑也は、一月生まれ。
半年という年の差は大人ならば何でもないが、幼児であればかなりの開きになる。
足が早くてボール遊びも上手なゆかりは、男の子達に一目置かれていた。
彼らの仲間に入りたくて、もたくたと足を動かしながら必死でついてくる佑也に、ゆかりはいつも優しかった。
何をするにも友達よりテンポが遅い佑也だったが、ゆかりが目を掛けてくれたおかげで、男の子達から仲間外れにならないで済んでいた。
幼いゆかりを思い出しながら帰宅した佑也は、ドアの鍵を開けて家の中に入った。
父は会社、母はパートで、家の中には誰もいない。
エアコンのスイッチを入れてリビングが温かくなってくるのを待ってから、ダッフルコートを脱いだ。
冷蔵庫の前に直行すると冷凍庫の引き出しを開けて、中を覗き込む。目に留まった冷凍グラタンを取り出すと、袋を破って電子レンジの中に放り込んだ。
スイッチを押すと、レンジの中でオレンジ色の光が灯り、ブーンと音を立て始めた。
熱で表面がぐつぐつと泡立ち始めた乳白色のグラタンを、裕也はじっと見つめていた。
小学校に入学した佑也は、ゆかりとクラスが別になった。一組と四組にクラスが離れ、家もそれ程近くないので、次第に一緒に遊ばなくなっていった。
五年生でクラス替えがあった時、再びゆかりと一緒になった。
同級生になって、ゆかりが激変していたのを見て驚いた。
幼稚園の頃の弾けるような活発さはどこにもなかった。
熟れたリンゴのような頬は、皮膚が透けるような白さに変わり、しなやかだった手足は小枝のように細く弱々しくなっている。
園庭中に響くほど元気だった声はひっそりとして、瞳だけが大きく、やたらきらきらと光っていた。
佑也が家に帰ってそのことを母親に伝えると、「ああ、田中さんの娘さんね。心臓が悪いって聞いたわよ」と、声を落として教えてくれた。
その時、母が表情を硬くしたのを、今でもはっきりと覚えている。
佑也はレンジからグラタンを取り出して食べ始めた。
*****
ゆかりとは反対に、佑也は活発な男の子に成長していた。
昼休みになると同級生の男の子達を引き連れて校庭に繰り出し、サッカーボールを追って走り回るくらいに運動するのが好きになっていた。
幼稚園の頃とは別人のように弱々しくなってしまったゆかりをどう扱ったらいいのか、佑也には見当もつかなかった。
あまり友達とも会話せずに、ひっそりと自分の席に座って本を読んでいるゆかりに、積極的に声を掛けることもしなかった。
クラスメイトになって四か月が経ったが、二人の間に会話らしい会話はなかった。
あの時を除いて。
通学路になっている児童公園の脇道、たまたま帰宅時間が一緒になった佑也に、ゆかりが話しかけてきた、ほんの数分間。
忘れない。
忘れられない。
違う。
絶対に、忘れちゃいけない。
佑也はグラタンを口に運ぶのを止めて、スプーンをぎゅっと握りしめた。
*****
「佑也君」
鈴を転がすような声に呼び止められて、佑也は後ろを振り返った。
公園の、むせ返るような木々の緑が陰を作るその下に、ゆかりが笑顔で立っていた。
「あ。えっと、たなかさん」
「何それ、すっごく他人行儀。幼稚園の時のようにゆかりちゃんって呼んでよ」
タニンギョウギの意味が分からずに、佑也はただ、こくこくと小刻みに頷いた。
ゆかりは軽やかにステップを踏むと、佑也と肩を並べて歩き出した。
「佑也君はいつもこの時間に帰るの?」
ゆかりの他愛もない質問に、佑也は黙って頷いた。
「ふうん。そうなんだ」
その後の会話が続かない。佑也とゆかりは足を前へと動かすだけになった。
「あのね、いいもの見せてあげる」
突然、ゆかりが佑也に話し掛けた。薄い綿のカーディガンのポケットに手を突っ込んで、小さなものを指で摘んで取り出す。
「佑也君、見て、ジェリービーンズだよ」
佑也はゆかりの親指と人差し指の間にある、そら豆のような形をした青い物体をぽかんと眺めた。
「ジェリービーンズ?なに、それ」
「お菓子。見たことないの?」
「うん。ない。初めて」
首を横に振ってから、佑也は改めてジェリービーンズに目をやった。
つるりとした空色のジェリービーンズは、あまりおいしそうには見えない。
「それ、どうするの?」
聞いてみると、ゆかりは嬉しそうな顔をして口元を綻ばせた。
「プレゼントするの」
「プレゼント?誰に?」
佑也が聞くと、ゆかりはにっこりと微笑んだ。
ゆかりの笑顔に、佑也の心臓がとくん、と、小さく飛び跳ねた。
「神様に」
ゆかりの言葉に佑也はえらく失望した。ゆかりが自分にジェリービーンズをプレゼントしてくれるのではないかと、密かに期待したからだ。
「神様ぁ?」
すねた口調で聞き返す佑也に、ゆかりは怒りもせずに明るく言った。
「今日ね、私の誕生日なの」
「誕生日だったら、プレゼントを貰うのはゆかりちゃんだろ?何でゆかりちゃんが神様にプレゼントするんだよ」
それはね、と、ゆかりは囁くように喋り始めた。
「今年も誕生日を迎えられたから。神様、どうか来年の誕生日も無事に迎えられますようにって、ゆかりのお願いを叶えてもらいたいからプレゼントするんだよ」
ゆかりの言葉の意味がさっぱり理解出来なくて、佑也はふうんとだけ言った。
「で、どうやって、そのジェリービーンズを神様にプレゼントするだい?」
そう、佑也が質問してくるのを、ゆかりは待っていたのだろう。大きな瞳を見開いて、弾けるような笑みを浮かべたのだから。
「空に投げるの」
ゆかりの青白い頬が薄く上気して、ピンク色に染まっている。
「うんと高く、空に投げるの。そうすれば、神様がキャッチしてくれるから」
「……」
訝しげな表情で自分を見る佑也に、ゆかりは寂し気に目を伏せた。
「だけど、私の腕の力だと、あんまり高く投げられないの。だから、神様がちゃんとジェリービーンズを受け取ってくれているか、毎年不安になっちゃうんだ」
「だったら、僕が投げてやるよ」
ゆかりがぱっと顔を上げて、佑也を見た。長い睫毛に縁取られた瞳がとても綺麗だ。
気恥ずかしさに背中がむずむずしてきた佑也は、ゆかりから顔を背けた。
「貸して」
ぶっきらぼうに言う佑也の掌に、ゆかりがジェリービーンズをそっと置く。愛おしげにジェリービーンズを見つめるゆかりに、何故か佑也は怒りを覚えた。
「そらっ」
腕を大きく、思いっきり振って、佑也はジェリービーンズを空に投げた。
ゆかりが弾かれたように空を見上げる。
「すごーい!もう見えなくなった。佑也君、どれだけ高く投げたの!」
手を叩いて喜ぶゆかりに、佑也が、にやりと笑って手を開いた。
そこには握り潰されて平たくなったジェリービーンズがあった。
「あ…」
凍り付くゆかりの表情を眺めながら、佑也はジェリービーンズを口の中に入れた。
やっぱりだ。甘いだけで全然おいしくない。
佑也を見つめるゆかりの目に涙が溢れた。
ぽろぽろと涙をこぼし始めたゆかりを置いて、ランドセルを揺らしながら、佑也は一人で家へと駆け出した。
「ゆかりさんが△県の○○小児専門病院に入院しました」
朝のホームルームに担任の先生から聞いて、佑也はぎょっとした。
クラスの誰かが手を上げてゆかりの容態を先生に尋ねているが、自分の心臓の音が佑也の耳元で、どきんどきんと鳴り出したので、よく聞こえない。
「あと二日で夏休みですからね。二学期になれば、また元気に学校へ通えるって、ゆかりさんのお母さんが仰ってましたから、みんな安心して下さいね」
(よかった。二学期になったら、ゆかりちゃんは学校に来るんだ)
先生の言葉に、胸の中で飛び跳ねる音が次第に収まっていく。
意地悪するつもりなんてなかった。
ゆかりがあんなに嬉しそうな顔でジェリービーンズを見つめなければ、ちゃんと空に投げていた。
(ゆかりちゃんが学校に戻ってきたら、ごめんねって、きちんと謝ろう)
佑也はそう心に誓った。
*****
二学期が始まっても、ゆかりは学校に来なかった。
先生の話だと、ゆかりの病気はまだ良くならないらしい。
(大丈夫なのかな)
呑気な佑也が、ゆかりの容態を本気で心配し始めた秋の中頃、突然の訃報が教室にもたらされた。
「ゆかりさんが亡くなりました」
驚愕に、佑也の体が硬直した。
「昨日の夜、容体が急変したそうです。ゆかりさん、心臓が悪かったんです。学校に行きたい、クラスのみんなに早く会いたいって、治療を頑張っていたのに、とても残念です」
目頭をそっと指で押さえる先生を眺めながら、佑也は口をあんぐりと開けていた。
ゆかりの葬儀にクラスメイトが参列することはなかった。
ゆかりの母親が、亡くなった娘と同い年の子供達を見るのが耐えられないからだと、佑也は後になって母から聞かされた。
葬儀に参列した母の話だと、ゆかりの母は精神的にかなり不安定になっていたようだ。
「可愛い盛りの一人娘に先立たれたんだから、その気持ちは痛い程分かるわ」
神妙な顔で溜息をつく母が、自分の頭を撫で回す。佑也は嫌がりもせずに、母にされるがままになっていた。
娘の葬式を済ませたゆかりの両親が佑也の住む町から引っ越したのは、それから半年も経たなかった。
自分の前からゆかりの全てが消えてしまったのだと、その時初めて佑也は実感した。
クラスの中で存在が薄かったゆかりは、みんなからあっという間に忘れ去られた。
ゆかりの席は教室の片隅に追いやられ、死んでしまった少女の思い出を口にする友人は誰もいなくなった。
佑也もゆかりの使っていた机をなるべく見ないようにしていた。
机が視野に入ると、ゆかりの泣き顔を思い浮かべてしまうからだ。
ちょっぴり困らせるつもりだった。本当にそれだけ。
だけど、ゆかりにどれだけ酷い事をしのか、佑也自身も理解していた。
「神様にジェリービーンズをプレゼントするの」
ゆかりのプレゼントは神様に届かなかった。
佑也が食べてしまったから。
神様はジェリービーンズの代わりに、ゆかりを空へ、天国へと連れて行ってしまったのだ。
(ごめん。ゆかりちゃん。あんな意地悪して、ほんとうに、ごめん)
佑也は心の中でゆかりに謝り続けた。
*****
電車を待っていると、どこからか視線を感じた。
はっとして向かいのホームに目をやると、昨日見たゆかりにそっくりな女の子が、線路を挟んで佑也の正面に立っていた。
友達はいない。今日は一人で帰るらしい。
「急用を思い出した。良平、ごめん、先に帰ってて」
良平の返事を待つことなく、佑也はホームを駆け出した。階段を急いで上がると、隣のホームに降りて行った。
運の良いことに電車はまだ来ていなかった。
背伸びして乗客でごった返すホームを見渡すと、少女はさっきと同じ場所にいた。息せき切って近づいてくる佑也を、きょとんとした表情で眺めている。
「す、すいません!あの…」
声を掛けたはいいが、何を言ったらいいのか分からない。
(あなたは田中ゆかりさんですか?)
目の前の少女に聞きたいのはそれだけだ。
佑也は緊張した面持ちで少女の前に立ち尽くしていた。
*****
七月二十日が、ゆかりの誕生日だ。
六年生になった佑也は通学路で使う公園の脇道を、袋を片手に歩いていた。
袋の中には、赤、白、黄色、そして空色のジェリービーンズが詰まっている。
佑也はいつもの場所に来ると袋を開けて、中から空色のジェリービーンズを摘み出した。そら豆の形をした菓子を額に近付けると、祈るように目を閉じた。
「ゆかりちゃんが天国で楽しく暮らしていますように」
そうやってから、ジェリービーンズを空に向かって力一杯放り投げた。
ジェリービーンズはすぐ前の公園の芝生の上にぽたりと落ちた。
次のジェリービーンズを取り出すと、再び空に投げる。今度は足元に落ちてきた。
三つ目。四つ目。
袋の中の空色のジェリービーンズがなくなるまで、佑也は小さな菓子を投げ続けた。
*****
ドアの閉まった電車がゆっくりと走り出す。
がたんごとんと規則正しい鉄輪の音が遠ざかると、目の前の少女が佑也の名を呼んだ。
「佑也君」
「ゆかり…?」
懐かしいその名前を掠れ声で呼ぶと、少女は大きく頷いた。
「うん、そうだよ。久しぶりだね」
ゆかりだ、本当に、ゆかりなんだ。
張りつめていた緊張の糸が切れ、佑也の足から力が抜けた。
「やだ、こんなところにしゃがみ込まないでよ」
自分の目の前にへたり込んだ佑也の腕を取ると、ゆかりは「よいしょ」と声を出して持ち上げた。
「うわ、佑也君、背が伸びたねー」
ゆかりは目をくりくり動かしながら佑也を見上げた。頬が上気して赤くなっている。
華奢な体つきは相変わらずだが、小学生の頃よりもずっと元気そうだ。佑也は瞬きもせずにゆかりを凝視していた。
「佑也君、何か喋ってよ。そんなに見つめられたら、私の顔に穴が開いちゃうよ」
笑いながら話すゆかりに、佑也は「ああ、うん」と、しどろもどろで返事をした。
「あ、あんまり久しぶりなんで、びびび、びっくりしちゃって、その…」
頭が酷く混乱して、何を話していいのか分からない。
「元気だった?」
口からやっとひねり出した言葉が、ゆかりにはえらく間が抜けて聞こえたようだ。口に手を当ててくすくすと笑い出した。
「元気って、ねえ。佑也君もとっても元気そうで安心したよ」
ひとしきり笑うと、ゆかりは自分の前に放心状態で立っている佑也を下から覗き込むように顔を近付けた。
「あのさ、こんな寒いホームに、いつまでカワイイ幼馴染を立たせておくつもり?」
「ごめん。コンビニにでも行く?」
「…佑也君、君、モテないでしょ。ここは最低でも、ファストフード店くらいには連れて行くところだよ?」
ゆかりは佑也の二の腕を掴むと駅の階段を上がり始めた。
*****
今日はゆかりの誕生日だ。
中学生になっていた佑也は、野球部の練習を休んで公園に来ていた。
手にはジェリービーンズの袋がある。
「ゆかり、誕生日おめでとう」
小さく呟いてから、空色の菓子を雲一つない空に投げる。
大きく弧を描いたジェリービーンズは、梅雨が開けたばかりの青い空に一瞬だけ溶け込んだ。野球部で日々鍛えられているせいか、去年よりは高く投げられたみたいだ。
だけど、芝生の上にジェリービーンズが落ちていくのは変わらない。
佑也は袋から二つ目を取り出した。腕を大きくスライドさせて指に挟んだジェリービーンズを放った。
「もっと高く、もっと遠く」
ゆかりのいる天国に届け。
*****
「タピオカミルクティー、か」
駅の改札を出たところにある店の前で、ゆかりが足を止めた。腕を組んで店の上に掲げられたピンクの看板をじっと睨んでいる。
「この店でいいかな」
ゆかりが佑也にうんと頷いた。店に入ると、暑いくらいにエアコンが効いている。
「うわ。むっとするね」
ゆかりが制服の上に着ていた紺色のコートを脱いだ。冬に冷たいミルクティーを客に飲ませるには、暑いくらいの温度が必要なのだ。
自分達と同じような学生達が席に座って、プラスチックのコップを片手に楽し気に会話している。
開いている席を見つけてゆかりを座らせると、佑也はミルクティーを買いに行った。
一つ買って手渡すと、ゆかりはすぐにはストローに口を付けないで、透明なプラスチックのコップを頭の上に翳した。
薄茶色のミルクティーの中に大きな黒い粒がぎっしりと並んでいるのを、興味深そうに覗き込む。
「もしかして、タピオカ、好きじゃなかった?」
うーんと唸って眉間に皺を寄せているゆかりに、佑也は尋ねた。
「何なの、この黒いボツボツ。始めて見た。美味しいの?」
ゆかりはタピオカを知らないらしい。佑也は戸惑った顔でゆかりを見た。
「少し前からブームになっているじゃないか。雑誌とかテレビで随分取り上げられてただろ?」
「そうだっけ」
ゆかりがストローを咥えて、コップの中身を吸い上げる。
「あら。結構、美味しい」
「そりゃ、よかった」
嬉しそうな表情になった佑也を見て、ゆかりがミルクティーを飲みながらにこりと笑った。
「ねえ佑也君。公園に行こうよ」
「どこの公園?」
聞き返すと、「やだ。小学校の通学路だった公園に決まっているじゃない」と、ゆかりが口を尖らせた。
*****
ゆかりの誕生日にジェリービーンズを空に投げるようになってから、七年近くが経っていた。
今年は台風に当たってしまった。それでも佑也は大雨の中、公園のいつもの場所に向かった。
傘を差すと飛ばされそうなので、コンビニで買った携帯用のレインコートを羽織ったが、首筋を伝って入ってくる雨に、忽ち体はびしょ濡れになった。
顔に強風と横殴りの雨が容赦なく叩き付けるのも構わずに、佑也は灰色の空に向かって力を込めてジェリービーンズを投げた。
「ゆかり、誕生日おめでとう。お前も十八歳になったんだな」
雨と風にもみくちゃにされたジェリービーンズは、佑也が立っているすぐ近くの道端に落ちた。
「ゆかり…」
雨に打たれている空色のジェリービーンズに目を落として、佑也はゆかりの名を呟いた。
「ゆかり。俺みたいな馬鹿な奴、お前は、許してくれないよな」
全身ずぶ濡れになりながら、佑也は落ちたジェリービーンズをじっと見つめていた。
*****
高校野球の全国大会、地方選抜を二回戦で敗退してから、佑也は野球部で共に汗を流した良平と一緒に予備校に通い始めていた。
四番打者だった良平は学業でも本領を発揮して、あっという間に成績上位者になっていた。
佑也はと言うと、自分の打率同様、あまり伸びない成績に、溜息が続く毎日だ。
夏休みが終わって高校の運動部員達も本格的に受験モードへと突入してから、三か月が駆け足で過ぎた。気が付けば一月で、センター試験があと数日に迫っている。
「今から公園に行くって?そんな暇ないよ。ゆかりだってもうすぐ受験だろ?」
「うーん。まあ、そうなんだけどさ。ここまで来たら二時間くらい勉強しなくったって、入試には何の影響もないと思うよ」
「お前は優等生なんだろう?だから、そんな悠長なこと言っていられるんだよ」
「いいじゃん、ちょっとの時間、私とデートしたって。息抜きしようよ」
ゆかりの言う通りだ。ストレスを蓄積させて受験に挑んでも、いい結果は生まないだろう。
「じゃあ、ちょっとだけね」
佑也が席を立った。先に店を出る。振り返ると、ゆかりが自分の後を付いて来る。
その姿を見て、佑也は胸を躍らせた。
*****
公園は寒かった。
広葉樹が多い公園の木々は殆んどが丸坊主だ。芝生も枯れていて、目に映る緑はない。
七年前の夏の記憶がどこにもない場所で、佑也とゆかりは少し離れてベンチに座った。
空は今にも雪が落ちてきそうなほどの重たい雲で覆われている。
「懐かしいなあ。七年ぶりかぁ」
吐く息を白くして、ゆかりが言った。
「うん。そうだね」
相槌を打ったものの、毎年ゆかりの誕生日にここに来る佑也には、懐かしさなど何もない。
「遠くの病院に入院してからは一度も来てなかったから。この古いベンチなんか全然変わっていなくて、ちょっとびっくり」
病院と聞いて、佑也の肩がぴくりと持ち上がった。
「…ゆかり、ごめん。本当に、ごめん!」
耐え切れなくなった佑也はゆかりに向かって腰を直角に曲げた。
「神様への大切なプレゼントだったのに、ジェリービーンズを食べちまって。俺、馬鹿だから。本当にバカだったから…」
「やだあ。気にしないでよお」
ゆかりはしゃがみ込んで、涙を堪えて顔をくしゃくしゃにしている佑也の顔を下から覗き込んだ。
「小学生の、他愛のないおまじないだったんだからさ」
「だけど…」
「いいから、いいから。だって、もう、病気は治ったんだから」
「治った?病気が?」
あんなに重かった心臓病が?
驚き過ぎて呆けた顔をしている佑也に、ゆかりは「うん」と頷いた。
「そうなの。でもまあ、ずっとずっと入院してたからね。クラスのお友達の記憶から、私がいなくなっちゃうんじゃないかって思うと、とっても寂しかった。特に佑也君に忘れられちゃうと思うと、すっごく悲しかった」
「忘れてなんかない!忘れたことなんて、なかった。だって、俺は…」
ずっと君を想っていたから。
顔を上げてゆかりを見た。大切な思いは飲み込まれて、別の言葉が口を突いた。
「ゆかり、病気は治ったんだよね。もう入院は、しないんだよね?」
だから、ゆかりは、ここにいる。
佑也の隣にいる。
「うん。治ったよ。私はね、もう、どんな病気にもならないの」
どんな病気にもならない。
佑也は自分の膝から目を離さないまま、激しく瞬きをした。握りしめた両手が痛い。
「良かった。心臓の病気が治って、ゆかりの体はとっても丈夫になったんだね」
「佑也君、知っているでしょ」
ゆかりが佑也にゆっくりと近づいた。
隣から頬を寄せるようにして佑也の横顔を見つめて、膝の上で握り拳になっている佑也の手に、小さな手をそっと乗せた。
「私は七年前に死んでいるって」
*****
「だけど!だけど…君の手はこんなに温かいじゃないか」
自分の手の甲に添えられた掌からは体温がはっきりと伝わってくる。
だから、信じられない。
信じたくない。
「それはね。私の魂が、別の女の子の体を借りているからなの」
ぎょっとして顔を上げた佑也に、ゆかりは照れくさそうに舌を出した。
「誤解しないでね。この子の体に無理矢理入ったわけじゃないから」
「借りたって…」
言葉を失っている佑也にゆかりは説明を始めた。
「だって私、死んでいるんだもん。実体がないの。だから彼女に理由を話して、少しの間だけ体を貸して貰ったの」
「よく貸してくれたね」
言ってしまってから慌てて口を塞ぐ佑也を見て、ゆかりが屈託のない笑声を上げる。
「いやぁ、ホント、世の中には優しい人がいるもんだよ。でね、彼女、佑也君のことが好きなんだって。駅の隣のプラットホームからいつもあなたを見ていたらしいわよ」
「あの子?」
佑也は驚いた顔をゆかりに向けた。
昨日、初めて気が付いた、線路を挟んだ駅のホームに佑也の正面に立っていた女子高生。
「気が付かなかったの?」
「ああ。全く気が付かなかった。そういや良平がゆかりと同じこと言ってたかも」
「モテないわけだ」
ゆかりが苦笑した。
「彼女ね、高校に通う三年間、ずっと佑也君に思いを寄せているんだよ?こんなに純真で奥手の子って今時珍しいよね。まあ、佑也君も、この子と同類だけど」
「仕方ないだろ!だって、俺はっ!」
思わず声を荒げた。驚いたゆかりが目を大きくして佑也を見る。
「ゆかりが好き、なんだ」
幼稚園の頃から、ずっと、ずっと。
佑也の目から涙が溢れた。
*****
この想いに気が付いたのは、ゆかりが死んでからだった。
あまりに幼い子供だったから、好きの意味が分からなくて自分に苛々した。
君が優しく見つめるジェリービーンズに嫉妬した。
それで、あんな意地悪をしてしまった。
好きという感情が理解出来た頃には、君はこの世にいなかった。
愛する気持ちがどれほど尊いものか知る前に、俺は君を失った。
だから、だから。
「俺は、ゆかりの他に、誰も好きになんかならない」
*****
「ありがとう、佑也君」
ゆかりは、両手で顔を覆いながら肩を震わせる佑也の背中を優しく撫でた。
「私ね、生まれ変わるの」
ゆかりの言葉を聞いて、佑也は顔を覆った手を膝に下ろした。
「生まれ変わる?」
「うん。早く死んじゃった子供はね、この世界でもう一度、赤ちゃんからやり直せるの」
涙に濡れた佑也の顔が希望の笑みで溢れた。
「だったら、俺はゆかりとまた出会えるんだね!」
ゆかりは佑也にしっかりと頷いた。しかし、その表情は寂しげだ。
「会える。会えるよ。でもね、佑也君の想いが強過ぎて、私の魂が離れられないの」
「離れられない?何から?」
「佑也君、あなたからよ」
だって、私も佑也君のことが好きなんだもの。
ゆかりは、はにかんだ表情で、佑也に呟いた。
*****
幼稚園の年長組、同じクラスになった自分より小さな男の子が何となく気になっていた。
大人しいその子は、クラスの隅っこでいつも一人で遊んでいたからだ。
ゆかりが園庭で遊ぶ時、その子が他の男の子の後ろから付いて走るのを見て、声を掛けた。
男の子はとても嬉しそうな笑顔で、「ゆかりちゃんと友達になりたい」と言った。
ゆかりも嬉しくなって、男の子と一緒に遊ぶようになった。
小学校に入学すると、組が離れた。
ゆかりはがっかりしたが、男の子が別の友達を作って遊ぶようになったのを見て安心した。
その頃から体の調子が悪くなり、ゆかりは病院で精密検査を受けた。
検査の後、お母さんとお父さんがあまり笑わなくなったのは、辛い記憶として残っている。
ゆかりは定期的に病院に行くようになった。
年ごとに飲む薬が増えていった。
入院して、学校にいけないこともあった。
五年生の始めにクラス替えがあって、仲の良かった男の子と一緒になれた時には、飛び上がるくらい嬉しかった。
男の子はゆかりをあまり覚えていないらしく、クラスでは殆んど話す機会がなかった。
仕方がないと思った。あの年齢の男の子って、同じ男の子達と遊ぶのに忙しいんだから。
遠くの病院に入院することが決まった時、ゆかりは自分から男の子に話し掛けようと決心した。
男の子と会話のないまま入院するのが嫌だったから。
教室では気恥ずかしい。だから、学校が終わってからにしようと、ゆかりは、男の子が帰宅する後を少し離れて付いて行った。
友達と別れた男の子が一人になるのを待って、勇気を出して後ろから声を掛けた。
「佑也君」
驚いて振り向いた佑也の顔が照れくさそうになっていくのが嬉しくて、ゆかりはにこにこと笑った。
「佑也君って、いつもこの時間に帰るの?」
それからゆかりは、空色のジェリービーンズをポケットから取り出して佑也に見せた。
*****
「前世に未練を残している魂は、生まれ変わることが出来ないの」
そう言うゆかりの顔は寂しそうだった。
「佑也君の私への想いが、私を捕らえて離さない。私も大好きな佑也君と離れたくない。でも、それでは、二人とも前に進めないでしょ?」
だから忘れて。
ゆかりが優しく、とても優しく、佑也の耳元でささやいた。
「佑也君、この恋は過去のものなの。私を初恋の相手として、記憶の中にしまってくれる?」
「そんなの嫌だ!ゆかりは俺のたった一人の…」
わめく佑也をゆかりの唇が封をした。
「!」
真っ赤になって口を閉じた佑也に、ゆかりが悪戯っぽく舌を出す。
「佑也君、駄々をこねないでよ。大丈夫、私達、また会えるんだから」
天国に行ってしまった好きな女の子を、片時も忘れない男の子に感動した神様からのプレゼントだそうだ。
「会えるって、いつ会えるんだよ!いつか出会えたとしても、俺はどうやってゆかりを見つければいいんだよ?」
「安心して、絶対に出会える方法があるんだから」
ゆかりはベンチから素早く立ち上がると、佑也の正面に向いた。
「そしてあなたは、再会した私を、誰よりも愛してくれるのよ」
ゆかりは満ち足りた表情で佑也を見つめた。
「だって私は、あなたの子供に生まれ変わるんだもの」
「えっ!」
驚きのあまり言葉を失っている佑也の額に、ゆかりは人差し指を押し付けた。
「さようなら佑也君。十年後に会いましょう」
佑也の目の前で強い光が弾けた。
視界と一緒に、佑也の頭の中も真っ白になった。
*****
「あれ、俺、ここで何していたんだっけ?」
佑也は公園のベンチに一人で座っている自分に驚いた。
きょろきょろと辺りを見回すが、寒風が吹く薄暗い公園には人影はない。
「うわ、もうこんな時間だ。やばい、早く予備校に行かなくちゃ」
腕時計に目を落とた佑也はベンチから急いで立ち上がった。
ふと空を見上げた佑也の上に、空からひとひらの綿毛のような雪が、ひらりと舞い降りた。
*****
「あの…これ…受け取って下さい!」
電車を待つ佑也に、真っ赤な顔をした女子高生が震える両手を差し出した。
あの子だ。二日前、良平がお前に気があるって言ってた女の子。
驚く佑也の手に小さな紙袋を押し付けると、女子高生はものすごい勢いで駅の階段を駆け上がっていった。
「な、なんだ?」
紙袋の中には青色の合格祈願のお守りが入っていた。
「お、佑也君にモテ期到来。ヒューヒュー」
照れ隠しに、しつこく冷やかす良平の首を羽交い絞めにする。
「ほら、お守りの他にも何か入っているぞ」
良平に指摘されて紙袋の中を覗くと、空色の紙が一枚、小さく折り畳んで入っていた。
何て書いてあるんだと肩を突つく良平に、佑也は照れながら短い文章を読み上げた。
「彼女、俺と同じ大学を受験するみたいだ。頑張ってって書いてある」
「へえ。じゃあ、一緒に合格ってなったら、お付き合いちゃえば?結構、かわいい子だったじゃないか。彼女いない歴、更新しなくて済むぞ」
「お前なあ…」
呆れた顔で隣を見ると、良平は真顔に戻っていた。
「何にしたって、大学合格決めてからだからな」
「そうだね」
突然の贈り物に勇気が湧いた。
「絶対、合格するぞ」
手のなかのお守りを、佑也はそっと握りしめた。
終