泥棒少女イルマと失われた時計の力 〜後編〜
そこは、真っ暗な世界だった。アダは、その体からまばゆいばかりの光を発していたために落ち着いていられたが、それがなければ平静ではいられなかったことだろう。
アダは、自分の体を包み込む光をもとにイルマを探した。
しばらく歩いていると、その光が弱くなったり、点滅したりすることに気がつく。そこで、アダはニコラの言葉を思い出した。
――あの時計を形作っているもの、それは愛の心なんだ――
「……真実の愛だけが、時空の扉を開く鍵となる……」
ニコラは、確かにそう言っていた。
「この光、見覚えがあるわ」
アダを包み込む光の温かさは、時空を超える際に懐中時計から発せられる光とそっくりだった。
アダは立ち止まり、胸に手を当てて祈るように目を閉じた。すると、弱まっていた光に命が吹き込まれたかのように、アダは10メートル先まで見通せるほどの光を放つ。
「やっぱり、そうなのね。イルマを助けたいという思いが、この光を増幅しているのだわ」
そうつぶやきながら歩いて行くと、光の端に黒い塊が入り込んだ。アダが目を凝らしながら近づく。
黒い塊が動いた。ぎらりとした瞳がこちらに向く。
「……イルマ、ね?」
アダの問いに、イルマは怪訝そうな表情を向けた。
「あんた……さっきの……」
「イルマ、探したわ」
「……ああ、こいつのことか。この時計のおかげでこんなところに閉じ込められちまった。もういい。返すぜ」
投げ返された時計を、アダは両手でつかんだ。懐かしい重さを感じながら、イルマに手を差し伸べる。
「一緒に帰りましょう」
「帰る方法があるのか?」
「ええ。ニコラを信じる心があればね」
「ニコラって、サンタクロースのことだって言っていたよな。なるほど。私がここから出られないわけだ」
「イルマ。どうしても、信じることができないの?」
「あんたは、なんだってそんなに信じることができるんだよ」
「私も、2年前までは信じられないって思っていたのよ。でも、それと同じぐらい、信じたいとも思っていたの」
「ニコラはね、私がつらい時や悲しい時、いつも私のそばに寄り添っていてくれたの。姿は見えないけれど、いつも励ましてくれていたのだと思うの」
「それは、ただの妄想だろ」
「そうかもしれないわ。もしかしたら現実逃避だったのかもしれない。でもね、2年前にニコラと出会って、これまで私を励ましてきてくれたのはこの人だったんだと思ったの」
「そんなわけが……」
「なくてもいいのよ。妄想でもいいじゃない。それで救われることだってあると思うわ」
「私は、そんな妄想に花を咲かせるぐらいなら、その日の糧をどうやって得るかを考えるね」
「私は、食べ物だけじゃ人は生きていけないと思うわ」
「そりゃあ、着る物だって必要だろうけど」
「そういうことじゃないわ。誰かと一緒にいないと……」
その瞬間、アダは凄まじい形相でイルマに睨まれた。
「誰かが、いったい何の役に立つって言うんだ!」
「イルマ……」
「私は、あの女から逃げたかった。周りの連中は、私の黒い肌を蔑んだ。みんな、私を汚いものでも見るような目で見ていた。誰も、私を助けてなんてくれなかった」
「誰も……? 本当に?」
ひと息おくと、イルマが思い出したように言う。
「ひとり、時々かばってくれた人はいたぜ。でもさ、それがなんだって言うんだ。所詮はただの自己満足じゃねえか」
「自己満足?」
「そうさ。たまにきてかばってやっているっていう自己満足」
「そんな……っ」
「だってそうじゃねえか。その上、あの女はよけいなことまでした」
「よけいなこと……?」
「死ぬ寸前だった私を病院に連れて行ったんだ」
「それのどこがよけいなことなの?」
「生きちまったじゃねえかよ!」
アダはイルマの言葉に、頭を金槌で打たれたかのような衝撃を受けた。
「あの時、助かったおかげで、生きるのがよけいにつらくなった。死んでいたほうが……」
ばしんと、破裂音が辺りにこだました。イルマが驚きに目を見開く。その後、イルマは怒りに任せてアダにつかみかかったものの、すぐに手を離した。
「なに、泣いてんだよ」
言われて、アダは自分が泣いていたことに気がつく。とめどなく溢れる涙が、アダの白い頬を次々に流れ落ちていった。
「なんで、そこまで……なんで……っ」
「もういい。帰れるなら、とっとと帰れ」
泣きじゃくるアダに、イルマは背を向ける。アダは涙をぬぐうと言った。
「いやよ」
「時計は返しただろうが」
「言ったでしょう? 私はイルマを探しにきたの」
すると、イルマは振り返り首を傾げる。
「私は、イルマと一緒に帰りたいの」
「なんでだよ。あんたと私は何の関係もないだろうが」
「そうでもないわ。ニコラが言ったの。時計を持たない私が時空を超えるために必要なものは、愛の心だって。私は、あなたにもう一度会いたいって願ったわ」
「……」
「時計を取り戻すためにここにきたんじゃない。私は、あなたに会って、あなたをもとの世界に連れ戻すためにきたのよ」
「イルマ。ニコラを信じられないというなら、今はいいわ。でも、私のことを信じて」
「あんたを……?」
「今だけでいいの。ニコラを信じる私のことを信じてくれたなら、きっと時空の扉を超えられると思うから」
イルマが微笑んだようにアダには見えた。
「私は、アダ。帰りましょう、イルマ」
アダが再び手を差し伸べる。その小さな手を、イルマがそっととったのだった。
戻った時、陽はとっくに暮れ、空一面に星がきらきらと輝いていた。
「……おい」
声をかけられて、アダは我に返る。見れば、少し困ったような表情で、イルマが右手を見つめていた。
「あ……」
気づいたアダは、握りしめたままになっていたイルマの手を解放する。
「……それじゃあな、アダ」
そう言うと、イルマははにかんだような笑みを浮かべ、暗い路地の向こうへと消えて行ったのである。
そしてアダは、そんなイルマの後ろ姿を見送りながら、金色の懐中時計を胸に抱き、ニコラへの願いをつぶやいたのだった。
翌日のこと。
いつも通り靴磨きの店を出していたアダのもとに、風のように駆けてきたのはイルマだった。
「アダ、見てくれ!」
きて早々言うなり、コートの中に隠していた左腕をさらけ出す。そこには、人の腕を模した木製の立派な義手がついていたのだ。
「目が覚めたらさ、近くに置いてあったんだよ」
「……そうなの」
「義手ってその人に合わせて作るものだろ? 合うわけないって思ったんだけど、私にぴったりなんだ! しかも、からくり仕掛けになっているみたいでさ。指を動かすこともできるんだぜ」
そう語るイルマは、年相応の少女のようだった。そんなイルマを見ていると、アダもつい微笑んでしまう。
「……なあ、もしかして、アダが何かしたのか?」
尋ねられ、アダはこくりとうなずいた。
「お願いしたの」
「お願い? 誰に?」
「ニコラによ」
「ニコラって、サンタクロース?」
「そうよ」
「……ふうん」
信じているのかいないのか。それでも、イルマがアダを馬鹿にすることはなかった。
「ニコラはね、クリスマス・イブの日に一度だけ願いを叶えてくれるの」
「変な奴だな。それなら、自分のために願えばよかったじゃねえか。私ならそうするよ」
「私も、ずっとそう思っていたわ。でも、気づいたの。それじゃ、時計の力を活かすことはできないのよ」
「時計の力?」
「この時計は愛そのものだから。愛の心を持って使わないといけないのよ」
「愛の心……?」
「友情もね、愛の心だと思うわ」
そう言って笑うと、イルマもつられたように微笑んだ。
「イルマ、私と友達になって」
「友達、か。初めてだからよくわからないけど……」
「私は、イルマとならなれそうな気がするわ」
「そうだな……私も、アダとならなれそうな気がするよ」
そう言うイルマの笑顔は、とても愛らしいものだった。
イルマは、アダと少しだけ会話をしたあと、また路地の向こうへと風のように走り去って行く。その風には、以前感じた夜風のような冷たさはない。まるで、春風でも吹いたかのような温かさを帯びていた。
――よく気づいたね――
風に乗って、そんな声が聞こえたような気がした。
――君もイルマも、人と関わることを怖がっていた。でも、本来人は、人と関わり合って生きていくものなんだ。そうすることで、互いに高め合い、よりよく成長していけるところに動物と人との違いがある。お金があって、食べ物や着る物が豊富にあったとしても、それだけで人は生きてはいけないんだよ――
「ありがとう、ニコラ。私の願いを叶えてくれて。イルマに……腕を与えてくれて」
風が吹いた。
イルマとはまた違う。それは、透明な、優しさに満ちた風だった。
――メリー・クリスマス。君の成長を見守っているよ――
アダは、頬を撫ぜる風を感じて微笑むと、つぶやくように言った。
「メリー・クリスマス。ニコラ、また会いましょう」
風は、アダの言葉が終わるとまるで飛び立つかのように、晴れ渡る大空へと吹き抜けていったのだった。




