泥棒少女イルマと失われた時計の力 〜中編〜
「私が時計の代わりに……?」
「あの時計を形作っているもの、それは愛の心なんだ」
「愛……?」
「真実の愛だけが、時空の扉を開く鍵となる」
「どうすればいいの?」
「ただ、あの子のことを想えばいい」
そこでアダは、ニコラの言葉に従ってあの少女へと思いを馳せた。
10分ほど経った頃、アダは堪りかねて目を開けた。
「駄目。どんなにあの子のことを思っても、あの子のいるところには届かないわ」
「それは、君があの子のことを心から想っていないからだよ」
そう言われ、アダは思わずニコラを睨みつける。
「そんなことないわ!」
そんなアダを前に、ニコラは平静を保ったままに口を開いた。
「君が想っているのは、あの少女のことなんかじゃない。お母さんのことだろう?」
ぎくりと肩を揺らした。
「君はただ、あの子から時計を取り返して、亡くなったお母さんに会いたいと思っているんだろう?」
今度はなんの反論もできなかった。アダ自身、少女のことはただの口実で、時計を取り返して母に会うことこそが本命であることに気づいていたのだから。
「……どう愛せというのよ」
震える声でアダがつぶやいた。
「私は、あの子のことを何も知らないのよ?」
言いながらふるふると首を振る。
「違う、知っているわ。あの子は泥棒よ。私から時計を奪った。私の願いを奪った。そして、ニコラのことを笑ったわ。ニコラを信じると言った私のことも、馬鹿にしたわ」
「……」
「愛せるわけがないじゃない!」
そんなアダに、ニコラは言い聞かせるように語った。
「時計が時空の扉を開いていられるのは今日までだよ。12時を過ぎて25日になったら、来年のクリスマス・イヴまで開くことは決してない」
「そんなこと……」
「そして、時計が君のもとに戻ることも、この先ずっとないよ」
「……」
「アダ、少し時間をあげるね」
アダがうつむいていた顔を上げると、ニコラの姿はすでに消えていた。
ニコラが去ったあと、アダは何をするでもなくただそこにいた。
時だけがいたずらに過ぎていく。
思い起こされるのは金色の懐中時計のことだ。
時計が戻らないのはとても残念なことではあるが、もうどうにもできないという思いにアダの心は支配されかけていた。
「くそっ……またあのガキにやられたぜ!」
弾かれたように声の上がった方を見遣る。そこにいたのは、昼間に泥棒少女を追いかけていた男だった。
「あのガキって、イルマのことかい?」
男の隣には、母親らしい老婆が立っている。
「名前なんか知らねえ。黒い肌のガキだよ」
「あの子をそんなふうに言うものじゃないよ」
いくつになっても母親には逆らえないものなのか、あれほどいきりたっていた男が押し黙った。
「あの子は憐れな子なんだよ」
「ただの孤児だろ? そんなヤツはいくらでもいるぜ」
男が、ちらりとこちらを見たようにアダは感じた。
「あの子はただの孤児じゃあない」
老婆が首をふるふると振りながら言う。
「もう17年くらい前になるかねえ。アンネがケニアに行ったことがあったのだけれど、その時に現地の黒人との間に子供をもうけてしまったのよ」
「アンネ?」
「ほら、近所にいただろう? 栗毛の可愛い子さ。昔は、お前ともよく遊んでいたじゃないか」
「ああ……いたっけなあ。それで、アンネはその黒人といい仲になったって話か?」
老婆はしばらく口籠り、続けた。
「それは、わからないよ。いい仲になって子供を産んだのか。それとも、あるいは……」
「……乱暴された、のか?」
「わからない。ただ、その男とは別々に暮らしていたのは確かだよ。そして、アンネは、あの子に……イルマにとても厳しかった」
「それは、躾けじゃないのか? 母さんだって、時々鬼ばばあって思うぐらいには厳しかったと思うぜ」
老婆は男を小突きながら続ける。
「あれはねえ、とても躾けといえるものじゃなかったよ。私も、何度アンネからイルマをかばったかわからない」
「そんなにか。しかし、俺は全然知らなかったな」
「昼間のことだからねえ。あんたは仕事に出ていたから、知らなくて当然だよ」
「そしてね、アンネは、幼いイルマを捨てたんだよ」
老婆は、その光景を思い出しているのか、眉間に深い皺を寄せて項垂れた。
「もっと早くに気づけばよかったと後悔しているよ」
「……何があったんだ?」
「隣の家から、アンネの叫び声が聞こえなくなってね、ようやくアンネも落ち着いたのかと思っていたんだ。でも、5日も何事もなくてね、少しおかしいと思ってアンネの家に行ったんだよ」
「暗い家の中は、外と変わらないぐらいの気温だったと思う。アンネの姿はなくてね、幼いイルマが壁にもたれかかって眠っているように見えた」
「……それで?」
「イルマに触れて驚いたわ。体温が感じられなかったから。イルマの体は、まるで氷のようだった」
「……」
「私は、すぐにイルマを病院に連れて行ったのよ。イルマは全身凍傷になりかけていて、特に酷かった足の指を3本と左腕を切断したの」
男は驚愕に満ちた表情で老婆を見遣る。ふたりの会話を聞いていたアダもまた、男と同じように老婆の次の言葉を待っていた。
「イルマの左腕には切りつけられたような傷があったらしくてね。手当てもされてなかったようだから、そこから凍傷が進行したのだろうと医者が言っていたよ」
「は……あいつ、左腕がないのか?」
「ああ」
「足の指も……?」
「ああ」
「信じらんねえな。足の指が3本もなくて、あんなふうに走れるものか?」
「だから、相当苦労したのだろうよ。盗みはもちろんよくないことさ。けれど、そうすることでしか生きていけなかったのだと思うと、私はどうにもイルマを責めることができないんだよ」
老婆と男の話を聞きながら、アダは自分のこれまでを振り返った。
アダは、2年前に孤児となった。しかし、それまでは母がいた。生活は貧しく苦しいものであったが、優しい母がいつもそばにいてくれた。
一方のイルマはどうだろう。
日頃から母に暴力を振るわれていたという。また、黒色人種の血が入っているということで、周りからもさぞ好奇の目で見られてきたことだろう。そして、幼くして母に捨てられ、左腕と足の指をも失ったらしい。
顔が熱くなった。
自分が恥ずかしくなったのだ。
アダはこれまで、心のどこかで自分を不幸だと思っていた。
貧しい中を必死に生きてきたのに、2年前……12歳にして母と死に別れて孤児となった。これほど不幸な境遇があろうかと、そう思っていたのだ。
だが、それは違った。自分よりもはるかに不幸な状況に身を置いていた少女がいたのだ。
「あの子を助けてあげないと」
アダは、自分を鼓舞するように胸元でぎゅっと拳を握り締めた。
「私、あの子を……イルマを助けてあげたい」
陽が暮れ始めていた。星がちらほらと空に浮かんでいる。
「……ニコラ、お願い」
目を閉じ、イルマとニコラの名を呼ぶ。
「お願い……。時空の扉よ、どうか開いて。私を、もう一度イルマに会わせて」
――それは、瞬きほどの時間だった。
アダをまばゆい光が包み込む。空に亀裂を見た。そこから凄まじい力の流れを感じたと思った刹那、瞬く間にアダの体は亀裂の中へと吸い込まれてしまったのである。




