ベティと黄金の犬 ~後編~
がちゃり、扉が開かれる音に目を覚ました。アダは、いつの間にか眠ってしまっていたらしい。背中に温かい重みを感じる。
「ベティお嬢様」
ユリウスだ。足早にこちらに向かってくる。
「ベティお嬢様。……お嬢様!」
アダの前に膝まづくと、ユリウスはアダの背中に乗っかかっていたものをどけた。それは、ベティだったらしい。
――眠っているのかしら……。
そう思ったアダだったが、ユリウスの表情を見てそうではないのだと悟った。ふと、ユリウスの背にした壁にかけ時計が見える。時刻は、ちょうど夜の12時を回っていた。
ひとつ瞬きをし、目を開いた瞬間、アダの目には銀世界が広がっていた。いつの間にか、家の外に出されたようだ。目の前の家の窓から、ベティとユリウスが見える。コメットの姿はなかったが、なぜかユリウスがそれを気にする様子は見られなかった。
降り続く雪が、黄金の毛並をひんやりと湿らせていく。アダは、まだコメットの体の中にいるらしい。
「お帰り、コメット」
突然に声をかけられ、驚いてふり向いた先には、もみの木の枝に腰をかけた銀髪の中年男性がいた。
「うん? コメット……いや、君はいったい誰だい?」
ふり向いたアダに男性が尋ねる。その時、アダとコメットの間に、引き裂くような強い力を感じた。コメットの中から追い出された精神が、みるみるうちに形作っていく。手足がはっきりと分かれ、しばらくぶりに2本足で立ったアダは、ようやく自分が人間に戻れたことを実感した。隣を見ると、いつの間にかコメットは犬の姿から、立派な長い角を2本生やした凛々しいトナカイの姿へと変貌を遂げていた。黄金の毛並を持つ大型犬のコメットは、1年前に出会ったトナカイのコメットだったのだ。
「君は……」
言ったあと、アダの胸に光る懐中時計を見た男性は、すべてを知ったようにうなずいた。
「そうか。君は、僕に会ったんだね」
アダが首を傾げる。
「君が会った僕は、この姿ではなかったのかな。いつの時代であったのかはわからないけれど、それを持っているということは、君が僕に会ったという証拠だよ」
「あなたは……?」
「僕は、人がサンタクロースと呼ぶ存在」
「もしかして、ニコラ……? ニコラウスなの?」
「ほら、やっぱり会ってた」
中年の姿でも、ニコラは初めて会った時とまるで変わらない、柔らかい笑顔をアダに向けた。
もみの木から飛び降りると、ニコラはアダの前に歩み寄る。
「それを手にしてここにいるということは、君の願いは叶えられたのかい?」
「私の願い……」
アダは考えた。この世界にくる前にアダが願ったのは、死ぬことだった。
今年の初め、最愛の母を亡くしてからというもの、アダは生きる希望を見出せず無気力になってしまっていた。また、母に会いたいという思いは日に日に募り、いつしかそれが死にたいという願いへと変わった。そして今夜、その思いを二コラから託された懐中時計に込めたのだ。
そうして訪れたこの世界で、アダは、初めこそまるで似つかないように見えたが、それでもどことなく自分と似ているように思えたベティという少女と出会った。彼女もまた、死を望んでいた。しかし、その理由はアダとはまったく違う。アダは、母の死という重みから逃れたくて死にたいと願った。けれどもベティは、自分が楽になりたいというだけでなく、自分の世話をしてくれるユリウスのことも楽にしてあげたいのだと言った。
――ベティは、本当は生きたかったのだわ……。
そう思うと、つうっと涙が頬を伝い、雪の中に吸い込まれるように消えていった。
ベティが死を望んだのは、病が良くなることはないということを知っていたからだ。良くならない病の治療法を探し回る両親と、両親の代わりに自分の世話をかいがいしくしてくれるユリウスを見ていて、自分のためにこれ以上苦しんで欲しくないと思ったからなのだ。周りの人々が自分のために一生懸命に頑張ってくれているのを知って、嬉しくもあり、きっと心苦しくもあったのだろう。治る見込みのない病であればなおのこと……。
――ベティ……ありがとう。
窓の向こうのベティを見てそう胸のうちでつぶやくと、
「叶ったわ」
二コラに向き直り、笑顔で、それでいてはっきりとした口調で答えた。
「私、強く生きていきたいって願ったの」
「へえ? それはまた、変わったお願いだね」
「ええ、自分でもそう思うわ。でも、サンタクロースはどんな願いだって叶えてくれるのでしょう?」
「うん。ただ、それにはひとつだけ条件があるよ」
「条件?」
「夢見ることをわすれないこと」
「忘れないわ」
アダは真剣な眼差しで言った。
「二コラ……私、きっと長生きするわよ」
そう言った途端、アダの体をまばゆいばかりの光が包み出した。光の中心にある時計を見ると、時計回りに高速で針が回転している。
「アダ」
二コラが言う。いつの間にか、中年男性から1年前に出会った時と同じ青年の姿に変わっていた。
「思い出したよ。というよりも、君と出会った二コラウスが、僕にその時のことを教えてくれたんだ」
アダには二コラの言うことがよくわからなかったが、それでもなんとなく、ほんの少しだけわかるような気がして微笑んだ。
「メリー・クリスマス。成長したアダ……君にね」
チチチチチチと針の回転は続き、光の渦に流されるような感覚に思わず目を閉じた。そして開けた時、アダはいつもの街角にいた。時計の針は、夜の6時を回ったところだった。アダが、ベティのいた世界に行った時間まで戻されていた。
「……さて、帰ろうかしら」
しばらくは夢見心地だったアダだが、いい加減に寒さが募ってきたので、早く家に帰ろうと商売道具を片付けはじめたところであることに気がついた。お客さんの靴を上げる台に、なにかが置いてある。手にすると、手紙のようだった。雪明りに照らして読む。差出人の名は、「サンタクロース」……。
中には紙が1枚きりで、開くと実にシンプルな文章がそこにはあった。
――I hope that you look and feel difference in time――
(――時を感じていてね――)
アダは、くすりと笑った。こんなふうに笑うのは、母が亡くなって以来初めてのことかもしれない。それに気づいたアダは、今度は声を上げて笑う。冷え込む肌とは対照的に、心がぽかぽかとしていくのを感じた。
「メリー・クリスマス、ニコラ」
その時、ちりんちりんというベルの鳴る音が聞こえた気がした。空を見上げると、雲の絨毯が敷かれている。その上を走るのは……。
「ジングルベル、ジングルベル、鈴が鳴る……」
突然歌い出すアダ。だが、それを見ても、誰ひとり訝しむ人はいなかった。
なぜなら、今宵はクリスマス・イヴ。大人も子供も開放的な気分にさせる、年に1度の聖なる夜なのだから。




