ベティと黄金の犬 ~中編~
目を開くと、アダは見知らぬところにいた。
まばゆいばかりの光に包まれた、広い場所だった。見たこともない、高価そうな物がたくさん並べられている。見上げると天井はかなり高く、きらびやかに飾りつけられた電灯がぶら下げられていた。
「うわあ……」
そう感嘆の声を上げたつもりだったが、実際に出たのは、
「くうん……」
という声である。
「え……!」
驚きに声を上げるも、
「わん……!」
という声が耳に届いた。しかも、それは、明らかにアダの声とは違う。頭が真っ白になって途方にくれていると、部屋の扉が開かれた。
「どうしたの? コメット」
女の子だ。ふわふわの金髪を靡かせた背の高い女の子が、部屋に入るなりアダに声をかけたのだ。女の子はアダの前にしゃがみ込む。そこで気がついた。女の子が背が高かったのではない。アダが伏せていただけだったのだ。
「コメット」
女の子が言う。
「違うよ、私はアダ」
そう言ったつもりだったが、またも、
「くうん、わん」
と、まるで犬のような声が漏れた。いや、まるで、ではない。部屋の片隅には、全身を映せる鏡が置かれていた。それはちょうどこちらを向いていて、アダと女の子を映し出していたのだが……。どういうわけか、そこにアダはいなかった。アダは、女の子に向いているのが自分だと認識できる。しかし、鏡に映る自分は、自分ではなかったのだ。
それは、美しい黄金の毛並みを持つ動物だった。女の子ぐらいならその背に乗せられるのではないかと思えるほど、大きな大きな犬の姿だった。
「そうね、そろそろご飯の時間よね」
アダの鳴き声をどのように解釈したのか、女の子は部屋の扉を開けると、
「ユリウス」
と呼ばわった。間もなく、黒スーツをびしっと着こなした、白髪の混じった茶髪の初老男性が現れた。
「はい、お呼びでしょうか。ベティお嬢様」
「コメットにご飯を」
「はい、ただいまお持ち致します」
女の子はベティというらしい。お嬢様と呼ばれているということは、富裕層の子なのだろう。ユリウスという使用人らしき男性が去ると、ベティはまた部屋の扉を閉めた。
「コメット、もうすぐご飯がくるからね」
ベティは、アダの前にしゃがみ込むと、綺麗に笑いながら頭を優しく撫でてくれた。
それから間もなく、部屋の扉が叩かれると同時に、
「ベティお嬢様、お持ち致しました」
との声とともに、ユリウスが入室する。その手には、銀製の大皿があった。それをアダの前に置く。
「さあ、コメット。召し上がれ」
ベティが優しげな眼差しを送ってくる。実は、アダも空腹ではあった。しかし、アダにもプライドはある。いくらなんでも、犬の餌を口にするなど耐えられなかった。
「どうしたの、コメット?」
ベティが心配そうにこちらをのぞき込む。
「お腹、空いているのでしょう?」
――空いているわ……。
そう思ったら、思わず、
「くうん」
と鳴いてしまった。
「ほら、やっぱり空いているんじゃないの」
ベティがふわりと笑うので、アダは自分が痩せ我慢をしているようで、少し恥ずかしくなって視線を落とした。すると、銀製の大皿に乗せられた餌が目に入る。ごくりと、アダの喉が鳴った。
これは、本当に犬の餌なのだろうか。アダが今までに見たこともないような、美しく盛りつけられた料理がそこにあった。見た目だけではない。今までに嗅いだことのないような芳醇な香りも漂ってきている。
ごくり……。
また、喉が鳴る。
次の瞬間、アダは餌にかぶりついていた。
……美味しかった。これまでに口にしてきたどの料理よりも。アダは、ひと口ごとに満たされるような思いであった。
あっという間に食べ終えると、ベティは笑いながら頭を撫でてくれた。犬の餌がこんなに贅沢なものであるなら、ベティはいったいどんな素晴らしい料理を食べているのだろうと思っていると、
「ベティお嬢様、お嬢様もそろそろお食事になさいませんか?」
ユリウスがお伺いを立てた。しかし、
「まだいいわ」
ベティがアダを撫でながら言う。しばらくの沈黙があり、再びユリウスが口を開いた。
「お嬢様……」
「わかったわ。食事を摂ります。持ってきてちょうだい」
「……かしこまりました」
間もなく食事が運ばれてきて、食卓に並べられた。寝そべっていたアダは、身を起こしてそれをのぞき込む。思った通り豪華な食事だった。だが、その量はかなり少なかった。アダに出された餌の半分ぐらいの量だったのだ。それを、ベティはナイフとフォークを上手に使って食べる。2、3回口に運んだあたりで、ベティはナイフとフォークを置いた。
「もう下げてちょうだい」
「お嬢様、いけません。もう少しお召し上がり下さい」
「もう無理……」
「お嬢様」
「食べたくないの」
「それではお体が……」
「食べられないの! どうせ私はもうすぐ死んじゃうんだもの。放っておいてよ!」
言ったあと、言い過ぎたと思ったのか、
「……ごめんなさい」
ベティは素直に謝った。ユリウスはまったく気にしていない様子で、
「わかりました。では、食後のお茶をお持ち致しましょう」
そう言うと、ほとんど手のつけられていない食事を持って退室していった。
うつむくベティを見て、アダは励ましてやりたくなった。ベティのもとへ行き、その身をベティの足元に擦りつける。ベティは笑いながら、アダを撫でてくれた。しかし、その手は小刻みに震えている。
「コメットはいいわね、たくさん食べられて。私は駄目なの。喉の奥に出来物ができて、どんどん大きくなって、食べるたびにすっごく痛むの」
よく見れば、ベティは裕福な家のお嬢様とは思えないほど、がりがりの体つきをしていた。また、声も、時折濁音が混じったように聞こえてくる。
「ユリウスを怒鳴ってしまったわ。ユリウスは、お父様やお母様よりも長く、ずっと私の傍にいてくれたのに……」
アダの鼻先に滴がぽとりと落ちた。思わず舐めとると、塩の味がした。
「今日はクリスマス・イヴよ。なのに、お父様もお母様も、ずっと遠い所に行っているの。帰るのはひと月後ですって。珍しいお土産を買って帰るからって言っていたけれど、ふたりとも全然わかってないのよ。私、そんなもの望んでないの。ただ、普通の家庭のように、家族でクリスマスを過ごしたいだけなの」
滴は止めどなく流れ落ち、アダの毛を濡らしていった。
「私ね、もう助からないの。お父様とお母様は、必ず治すと言ってくれているわ。それで、今もその方法を探しにでかけているの。でも、私にはわかるの。きっと、今夜、私は死んじゃうんだわ」
思わずベティを見上げた。ベティは、涙に濡れながらも、優しい眼差しをアダに向けている。
「コメットに出会ったのは、7年前のクリスマス・イヴだったわね。パーティに行った帰り道、泥だらけのあなたを拾ったのよ。覚えてる? そして、ちょうどその頃、私に病があることがわかったの。私、あなたはきっと、サンタクロースの使いなんだって思っていたわ」
「……」
「それから年々、私の体は思うようにならなくなった。それで、思ったの。私は、コメットが私のもとに使わされた日から7回目のクリスマス・イヴの夜に天に還るのだろうって。ほら、7は完全を表す数字でしょう? 私の人生が、そこで完了する……みたいな、ね。それに、私も願っているの。もうこれ以上、痛いのも辛いのも嫌なの。ユリウスだって、いつも私の世話ばかりで……。私、楽になりたいのよ。ユリウスのことも、楽にしてあげたいの」
これが、本当にアダと同じ年頃の少女の言葉だろうか。アダも目頭が熱くなるのを感じていた。それとほぼ同時に、自分がなぜコメットの体を借りてここに呼ばれたかを理解した。
――私とベティは、似ているんだわ……。
環境も立場もまるで違うけれど、寂しくて、苦しくて、死んでしまいたいと思うほどに切ない……。その心において、ふたりはよく似ていた。ベティを見て、客観的に自分を見てみなさいと言われているようにアダには思えたのだ。
そして、アダは客観的に見て、ベティの友人としてなにをしてあげられるのだろうかと考えた。
ベティを助けられるのなら助けてあげたい。でも、富豪の両親が7年もの間探し続けても見つからないのだ。おそらく、今の医学では治すことはできないのだろう。
治せないなら、延命しかない。しかし、その結果がこれなのだ。年々出来物が大きくなり、痛みが増し、食事もろくに喉を通らず、風が吹けば飛びそうなほどにがりがりに痩せてしまっている。その上、傍にいて欲しいはずの両親は、ベティの病を治すためにその治療法を探し求めてほとんど家には帰ってこないという。命を長らえたからといって、これが本当に幸せだと言えるだろうか。
――なら、他には……?
アダは考えた。ベティが言うように、心安らかに死なせてあげることを願うのも、友人としてのひとつの愛なのではないだろうか。もう助かる見込みがないのなら、せめて苦しまないように、心穏やかに、と……。
――二コラ……。
アダは、心の中でサンタクロースの名を呼んだ。




