イルマの初恋 ~後編~
「きゃ……っ」
アダは、ぶるぶると首を振って雪を払った。
扉を抜けた先がちょうどモミの木の真下だったのだ。そして、これまたちょうど、木に積もった雪がアダの頭上に落ちてきたのだった。
「冷たい……」
ひとつ身震いをする。
そんなアダの目の前を、クラウスが通りかかった。
『あ……』
思わず目で追う。その先には、見知らぬ男がいる。男は、こちらに向かって歩いてきていた。
クラウスと男がすれ違う。
その時……。
「あ……!」
アダは、思わず声を上げてしまった。
クラウスが、すれ違いざまに男のポケットから財布を抜き取ったのがはっきりと見えたからだ。
唖然として見入っていると、次に現れたのはイルマだった。
イルマが男とすれ違う。そこで、男は自分のポケットに手をやった。財布がないことに気がついた男が、通りかかっただけのイルマの腕をつかむ。
「お前だな!」
間髪入れずに叫ぶ男に、イルマは思考が追いつかないようだ。ただ、無抵抗のままに腕をねじ伏せられている。
アダが男を止めようとした矢先のこと、なぜかクラウスが戻ってきた。
「どうしたんだい?」
クラウスが尋ねると、男がことの顛末を話す。すると彼は、
「証拠はあるのかい?」
と尋ねた。男はイルマを調べるものの、もちろん財布は出てこず、男の勘違いということでその場は収まった。
このことをきっかけとして、イルマとクラウスの関係は始まったのだ。
『この人、イルマを利用しようとしているのね』
ニコラは、透明な心で判断しなければならないと言ったので、アダはそう努めた。
『彼は、イルマの想い人に相応しくないわ』
そして、そう思ったのだ。
アダがそう思うには充分な理由があった。
イルマとクラウスが出会った時、クラウスはイルマを助けてくれた。けれども、なぜ、わざわざクラウスが戻ってきたのか。それが疑問だったのだが、その謎が解けたのだ。
クラウスは、男から財布を抜き取る直前にも盗みを働いていたのだ。その人物はクラウスの顔を知っていたようで、彼を探していた。その人物に見つかりそうになり、戻ってきたらしい。
しばらくの間クラウスを見張っていたアダは、仲間にそう語る彼自身の言葉を聞いていた。
つまり、イルマはクラウスの隠れ蓑に使われたということだ。
しかも、それだけではない。
やはり、クラウスがお金に困っているというのは嘘だった。
病気の妹などもいない。
彼は、とても裕福な家の一人息子であることもわかった。
『なんて人なの……!』
アダは、これまで感じたことのない怒りに震えた。それと同時に、イルマが憐れに思えた。
やっぱり、この恋は応援できない。イルマが傷つくだけだから。
でも、どうやってイルマに諦めさせよう。
どうやってイルマに伝えよう。
アダは、頭を悩ませた。
ずきりと胸が痛む。
その痛みを抱えたまま、時空の扉を潜ってもとの世界へと戻ったのだった。
アダが通ってきた光の道が消え、空に浮かんだ時空の扉が閉ざされる。
扉も消えて見えなくなると、目は自然と夜空に向かった。
相変わらず闇の中には星々が煌めき、緑色のカーテンが優雅に靡いている。
さっきと何も変わらない光景。
けれども、さっきよりも空は重くて、暗い。
『……寒い』
特に、胸の中心が……その奥が、痛いぐらいに寒く感じた。
「……はあ……」
溜め息とともに上がった白い煙は、雪をまとった風にすぐさまかき消されていく。
『イルマに、なんて話そうかしら』
そう思っていると、
「どうしたんだよ?」
突然の声に驚いてそちらを見る。すぐそばにイルマがいた。その状況にさらに驚き、アダは目を見開いたまま固まってしまった。
「なにを驚いているんだ? 驚くのはこっちだよ」
「イルマ、どうして……?」
「どうしてって、突然私の前に現れたのはアダの方だぜ」
「……」
「あ、もしかして、金時計の力ってやつか?」
「え……うん、そう」
「そっか。お母さんには会えたのか?」
「ううん。会ってないわ」
「……へえ?」
「もう、お母さんのことはいいの。会えたって、生き返るわけじゃないし。所詮は過去の投影にしか過ぎないから」
「ふうん。そっか」
ふと、うつむくアダ。俄かに会話が途切れた。
「そういえばさ」
イルマの声が沈黙を破る。
「もう忘れたぜ、あの男のことは」
妙に明るい声だった。
「あの男って……」
「昨日、話しただろ」
「もしかして……クラウス、のこと?」
「うん」
尋ねると、イルマは迷わずにうなずく。
「どうして……」
「他にも女がいるんだ。あの男の周りには。それも、たくさん」
「……」
「女といるところをよく見かけてはいたんだよ。それも、毎回違う女でさ。でも、ただの知り合いか、あるいは友人かなと思っていた。はは……。随分と都合いい解釈だったよな」
「……」
「それにさ、あの男の話が嘘だったってことも、さっき知った。あの男、いろんな女を騙していたんだ。そして……」
「……お金を受け取っていた……?」
アダが尋ねると、イルマはこくりとうなずいた。
「なんだ、知っていたのか?」
「さっきね。さっき、知ったの」
「そっか……」
「お金、返してもらいに行きましょうか」
「……もういい。私が渡した金なんてはした金だし、それに……もう関わりたくないんだ」
「そうね」
「アダ、ごめんな」
「なにが?」
「心配かけた」
「……うん」
ふっと、イルマが笑った。その場に似つかわしくない笑顔だったが、それを見ているうちにアダも吹き出す。
「もう、なによ」
笑いながらアダが尋ねると、
「嬉しいんだ」
そうイルマが答える。
「心配してくれる人がいるって、幸せなんだよな」
「そうね」
「アダ、ありがとう」
「どういたしまして」
さっきまでは痛いぐらいに感じていた寒さが、今ではだいぶ和らいでいる。
いや、むしろ温かい。
胸の奥からぽかぽかと湧き上がる陽だまりのような温かさを感じ、それを閉じ込めようとでもするかのように、アダはぎゅっと胸に手を押し当てた。
「来年も、そのまた次の年も、こんなクリスマス・イヴを送りたいわ」
そうつぶやいたアダの視線の先を、何かが駆けて行く。
星々の合間を駆けるそれは、ソリだ。
先頭には、角の長い動物が見える。
動物は複数で……一、二、三……七頭だ。
「コメット……」
なんとなく、一番うしろを走る動物がコメットのように見えたのだ。
「コメット?」
突然の隣からのつぶやきに、イルマが首を傾げる。
「ほら、あれよ」
アダが指を差す。
「あれ、ニコラじゃない? 七頭のトナカイに引かれているソリに乗っているわ」
「……あれは、ただの雲だろう? なんか、すごい長いな。あんな雲の形、珍しいよな」
アダの指先を追って目線を向けたイルマには、長い雲にしか見えていないらしい。
「いいえ。あれは、ニコラよ。きっと、サンタ・クロースが今年もやってきたのよ。子供にも、大人にも、みんなに夢と希望を届けるために」
そう語るアダの横顔を見つめながら、イルマは再びアダと同じように視線を空へと向けた。
すると、長い長い雲の切れ間から、きらりと光るものが見えた。
星か、それともオーロラか……。
しかし、それは、そのどれとも違う。
ゆらゆらと光るそれは、まるで、ふさふさとした毛皮を持つ動物の毛並のようだ。
「トナカイって、金色だったっけ?」
イルマが尋ねた。
「さあ? でも、コメットは金色よ」
アダが答える。
「コメットって、ニコラのトナカイ?」
「そうよ。七番目の子なの。いつも二コラと一緒にいるわ」
「へえ」
穏やかな笑顔を浮かべるイルマ。そんな彼女を横目に、アダも笑った。
『メリー・クリスマス。……ニコラ』
アダが心の中でつぶやく。すると、
――メリー・クリスマス、アダ――
風に乗って、二コラの優しい声が聞こえたような気がした。
温かみのあるジングル・ベルの音色とともに――。