イルマの初恋 ~中編~
「ねえ、イルマ」
アダがそう切り出したのは、夕食を終えてからのことだ。
「もしかして……」
「え……?」
「お金……」
「……」
「……お金、渡したの?」
一瞬、イルマの空気が変わった。
「あの、男の人に」
「……あの、って……誰のことだよ」
「金髪で白い肌をした、背の高い人。青い目をした……」
「……なんで……」
「偶然、見えたの」
「……偶然?」
「うん。偶然。イルマが……その人に、抱きしめられているのが……」
「……」
ふうっと、息を吐き出す声が聞こえた。イルマが、天井を仰ぎ見る。
「イルマ……」
「……ん?」
「好き……なの?」
「……」
「その人のこと」
「あ……まあ、そう、言うのかな。こういうの」
「……」
「わからないんだよ、私。こんな気持ち? こんな、感覚? なんていうか……初めてだからさ」
「そう……」
「うん……」
「でも、どうして、お金を?」
「……ごめん」
「……べつに、責めているわけじゃないわ。でも、理由を聞いておきたいの」
アダがそう言うと、イルマは静かに青年について話し出した。
いつものように街に出てきたアダは、仕事の準備をしながら昨夜のことを考えていた。
イルマと青年は、何日か前に偶然に出会ったらしい。
青年の名前は、クラウス。
イルマがスリに間違えられて責められているところを、彼がかばってくれたのだと言っていた。
そして、何回か会ううちに、クラウスが病気の妹を抱えていることを知ったのだ。
クラウスは、お金に困っているらしかった。
クラウスからお金を要求されたわけではない、とイルマは言った。ただ、イルマが、彼の力になってあげたかったのだ。
『……本当かしら……』
イルマの話を、アダは信じきることができなかった。
もちろん、イルマが嘘を言っているとは思わない。
ただ、お金に困窮しているというわりに、クラウスの身なりは決してみすぼらしくはなかった。アダやイルマでは到底得ることができないような、上等な物を着ているようにアダには思えたのだ。
準備を終えたが、まだお客さんは来ない。
かじかむ手を少しでも温めようと、アダはポケットに手を入れた。
チャリン……と、金属のこすれる音がする。
それを指先で手繰り寄せ、ポケットから引っ張り出す。
金色に輝く懐中時計が顔をのぞかせた。
「クリスマス・イヴ……」
白い息とともに漏れ出た言葉。
今夜はどんなことを願おうかしら……。
そんなことを考えていると、一人目のお客さんがアダに靴を差し出してきたのだった。
めっきり客足が遠のき、アダもそろそろ店じまいをする。
腰を屈めると、また、ポケットから音がした。
空を見上げる。そこには、闇の中に、緑色のカーテンがゆらゆらと靡いていた。
『イルマ……。また、彼に会っているのかしら』
ふと、思った。もしも会っているのだとしたなら、彼にまたお金を渡したのだろうか。
『イルマの恋なら応援したい。でも、これは、応援してもいいの……?』
アダは、クラウスに対して不信感を抱いていた。
会った直後に自分を抱きしめ、「チャーミングだ」と語ったクラウスに嫌な感情を持った。
『軽薄な人……』
そう思ってしまったのだ。
「ニコラ……」
思わずつぶやく。握り締めた金時計が、わずかに熱を持った。
「……」
見上げた夜空。
満天の星々。
ゆらゆらと、色を変えて揺れるオーロラ。
瞼にひとつ、白いものがあたった。
『……冷たい……』
思わず目を閉じる。すぐにそれは溶けて、水滴だけが瞼に残った。
そっと目を開ける。
次の瞬間、アダは目を一杯に見開いた。
「メリー・クリスマス!」
いつの間にか、少年が立っていた。
アダよりも少し年上だろうか。少年と言うよりは青年と言った方がいいのかもしれない。
見たことのない人物だった。
けれども、すぐに彼が何者なのかわかった。
目の前の青年には心当たりはないけれど、その姿は、きっと彼だと思った。
なぜなら、青年は、銀色の髪にアイスブルーの瞳をしていたから。
「ニコラウス!」
今日のこの日に現れるのは、彼しかいない。
そう確信したアダは、自信を持って彼の名を呼んだ。
「うん、そうだよ」
青年がこくりとうなずく。
「君が僕を呼んだから」
来てみたんだ、と彼は笑った。
「ねえ、ニコラ。今日はクリスマス・イヴよ」
「そうだね」
「願いごと、叶えてくれるんでしょう?」
アダが懐中時計を見せる。二コラは目を細めた。
「なるほどね。だから、僕は君に呼ばれたのか」
「お願い、ニコラ。私、叶えて欲しい願いがあるの」
「なにを?」
「……イルマの恋を、実らせてあげたいの」
すると、ニコラは夜空を見上げた。冷たい風が吹き抜け、舞った雪がアダの頬をかすめる。
そして……。
「それは、できない」
ニコラは、はっきりとそう言った。
「それを叶えることは、誰かの心を操作するということだから。僕の力は、すべての人の幸福に繋がることに使われなくてはいけないんだ」
アダは、驚いた。
ニコラがアダの願いを断ったことにではない。
ニコラに断られて、どこかほっとしている自分自身に驚いたのだ。
そんなアダを見て、ニコラがくすりと笑う。
「君だって、それが正しいことだとは思っていないんだろう?」
アダはうつむいた。
確かに、その通りだと思ったから。
「ねえ、ニコラ」
「なんだい?」
「イルマの想い人のことなんだけれど、あなたは彼のことをどう思う?」
「どうって?」
「いい人? それとも、悪い人?」
「さあ?」
「二コラになら、わかるでしょう? 彼がどんな人か」
「あのね、アダ。いい人か悪い人かなんて、誰のことも断定はできないものだよ。どんなに素晴らしく見える人にだって、悪いところがまったくないわけではないんだからね。悪人に見える人にだって、優しい面があったりするものだよ」
「……」
「だから、彼がどんな人なのか、君が確かめてきたらいいじゃないか」
「……私が、確かめる?」
「そう。君の友人にとって、その人はいい人なのか悪い人なのか。その恋を応援してもいいのか。友人として、君がその目で見て判断したらいい」
「私の、目で……」
「うん」
ニコラが、そっとアダの両手を包み込む。指の間から、まばゆいばかりの光が溢れ出てきた。
懐中時計だ。
金色の懐中時計が、アダの手の中で光を放っている。
「ただ、忘れないで」
アダが顔を上げた。
「透明な心で、正しく判断するということを」
「透明な、心……?」
「そうでないと、間違った見方はみんなを不幸にする。君の友人も、その想い人も、それから君自身もね」
「……わかったわ」
チチチチチチチチ……。
音に導かれるように、手の中の懐中時計に目を落とす。針が、高速に時を巻き戻していた。
そして、闇の中、光の扉が現れた。
扉に手をかけながら、ふと振り返る。
ニコラが笑っていた。
その朗らかな笑顔に見送られるように、アダは今年も、その扉を潜ったのだった。




