イルマの初恋 ~前編~
メリー・クリスマス!
アダ十六歳。イルマ十八歳。
世界中の子供たち、大人たち、みんなに幸福がもたらされますように。
ところで、フィンランドの冬って、日が昇らないんですってね。
……うっかりしていました。
冷たい風が、あちこちの隙間から入り込む。
窓から射し込む淡い光。
小鳥のさえずりが鼓膜を刺激した。くすっぐたいような気がして、思わず身じろぎをする。
そして……。
「アダ! 朝だぞ! 起きろぉ!」
狭い家中に響き渡るような大声を浴びせられ、まどろむ余韻すら与えられないままに急速にアダは覚醒を強いられた。
「……イル、マ……?」
薄手のかけ布団を払いながら、不機嫌を隠すこともなくアダはイルマを見やる。一方のイルマは、そんなアダの様子を構うことなく上機嫌にアダに話しかけた。
「いつまで寝ているんだよ。こんな日に早く起きなきゃ損だぜ!」
「え……? いつまでって……」
いつもなら、アダはイルマよりも先に起きる。そして、眠っているイルマを起こすのだ。それが、今日はイルマに起こされてしまった。
『……私、寝過ごしちゃったのかしら……』
もしもそうなら、急いで支度して街に行かなくては。その日暮らしに近い生活を送っているアダとイルマにとって、一日だって仕事を休むことは生活を困窮させることに繋がる。
少しばかり焦りながら、枕元に置かれた懐中時計を見た。
「あら……?」
思わず声が漏れる。なぜなら、いつも目を覚ます時刻よりも一時間も早かったのだから。
アダは起き上がり、窓から外を眺めた。
一面に積もった雪の道が、ずっと先まで続いている。その上に、さらに新しい雪が降り積もっていく。
首を傾げるように空を見上げると、形を変えながら、ゆらゆらと緑色のカーテンが靡いているのが見えた。
オーロラだ。
フィンランドの冬は常に暗い。この季節には時折見られる光景だった。
「ねえ、イルマ。こんな日にって、どういうこと? オーロラを見せたかったの?」
「違うよ。だいたい、オーロラなんて、そんなに珍しいものじゃないだろ」
「なら、なんなの? いつも私よりも遅く起きるイルマが、こんなに早起きするだなんて」
「なんでって……それは、ほら、今日はあの日じゃないか」
「あの日?」
「一年に一度、願いが叶う日なんだろ?」
アダは、自分の手の中にある金色の懐中時計に目を落とす。それは、かつて、クリスマス・イブの夜に出会った、サンタクロースを名乗る人物から手渡された物だった。
彼は、アダに懐中時計を渡しながらこう言ったのだ。
この時計は、一年に一度、聖なる夜にのみその力を解放できる……と。
だが、しかし。
「なにを言っているの。それは明日でしょ?」
「え……」
「今日は、クリスマス・イヴ・イヴよ」
「……そう、だっけ?」
「そうよ」
「まあ、なんにしてもさ……」
イルマが、アダをまっすぐに見据える。
「会いに行ったらいいじゃないか。母親に」
「……」
アダは、懐中時計をもらって間もなく、病の母を亡くしたのだ。支えを失ったアダは、それからしばらくの間はなにも希望を抱けず、死を願ったことすらあった。
懐中時計の力を使って母に会いに行きたいという願いを、ずっと抱いていたのも事実だ。
けれども、今となっては、もうそんな願いを抱いてはいない。
なぜなら、今のアダには、もう一人の支えができたから。
母の代わりには、もちろんならない。出会ってからの月日も浅い。
けれども、同じ孤児同士、イルマとなら支え合って行けるとアダは確信していた。
「それは……もう、いいのよ」
アダが告げると、
「そうか」
とだけ返ってくる。
「じゃあ、まあ、朝食にしようぜ」
「……イルマが作ったの?」
「ああ」
「……どうしたのよ、いったい」
「どうって、なにがだよ?」
「だって、変じゃない? 今まで一度だって、食事の準備をしたことなんかなかったのに」
「失礼だな。食事ぐらい作れるよ。アダと会うまではずっと一人だったんだから。……そりゃあ、まあ、盗んだ食事の方が多かったかもしれないけれど……」
そう言いながら背を向けるイルマを、アダは訝しむように見つめた。
そうして、食事を終えると、
「ちょっと、イルマ!」
アダは慌ててイルマを呼び止める。イルマは首だけをこちらに巡らせ、
「悪い! 今日の仕事はいつもよりも早くに取りかかりたいんだ」
とだけ口早に言い、アダの言葉も聞かないままに走り去ってしまった。
そんなイルマの様子に、ただただ唖然とするアダ。
「なんなのよ、もう……」
そうつぶやき、首を傾げながらも、アダも出かける準備に取りかかったのだった。
ひと仕事を終えたアダは、その日得た小銭をポケットの中で握り締めた。
いつもながらたいした稼ぎにはならないが、今夜と明日の朝食分はなんとかなりそうだ。
ふと顔を上げる。
きらきらと輝く街並みがまぶしくて、目を細めた。
「明日、か……」
アダは、ずっとこの日を心待ちにしていた。
一年にたった一度だけ、時空の扉が開かれて、アダの願いを叶えてくれるだろうこの日を。
けれども、アダは、昨年あたりから、そんなことはもうどうでもよくなっていたのだ。
イルマと出会い、そして、二人で力を合わせて暮らしていくようになってからは。
母を亡くした寂しさなど感じている暇もないほどに、今のアダは、毎日が忙しくて、楽しくて、充実しているのだった。
「さてと。買い物をして帰りましょう。イルマは、今日はどこでなにをしているのかしら……」
いつも同じ場所で靴磨きをしているアダと違い、イルマはその日によって仕事内容も仕事場所もまちまちだった。
独り言をつぶやきながら帰り支度をするアダが、ふと顔を上げた時、
「……え……?」
その光景に目を見開いて固まってしまった。
「イル、マ……?」
思わず、白い吐息とともに漏れ出てしまった。
アダの大きな瞳は、通りの向こうの人影をとらえていたのだ。
人影はふたつ。
ひとつは、細身で黒い肌の少女。間違いなくイルマだ。
もうひとつは、白い肌に明るい髪色をしている。体格は細いが、イルマよりも背丈が高くてがっしりとしていることから、おそらくは男性だろうとアダは思った。
『仕事仲間かしら……』
そう思いながら見つめていると、イルマが白い肌の青年に何かを手渡している。その後、青年がとった行動に、アダは思わず息を呑んだ。
「……っ」
なんと、往来であるにも関わらず、青年がイルマを抱きしめたのだ。
あまりの光景に目が離せないでいると、すぐに青年はイルマから離れた。そして、うしろ手に手を振りながら角を曲がって行ってしまった。
いったい、今、目の前で何が起こったのだろう。
ぼうっとする頭で考える。
『イルマ……よね?』
もしかして人違いだったろうかと思ったが、あそこにいるのは間違いなくイルマだ。
『あんなことされて……イルマだったら、突き飛ばすなり殴るなりしそうなのに……』
そう思いながら見直すと、イルマは、青年が去った方をずっと見つめ続けていた。
「イルマ」
通りを渡り、思い切って声をかける。まるで打たれたようにイルマがこちらを向いた。
「どうしたの?」
尋ねると、
「べつに……なんでもないよ」
との返答が。
「今日はどうだった?」
「どうって?」
アダが尋ねることに、イルマはどこか心ここにあらずという感じで答える。
「仕事よ。私は、いつもよりもちょっとだけ多くもらえたわ。このお金で、夕食と明日の朝食を買って帰ろうと思っていたの」
「ああ……」
「イルマは? もしもイルマの仕事も順調だったなら、明日はクリスマス・イヴだもの。そのお金で、それらしいものが買えたらいいと思うのだけれど」
「うん……」
イルマの煮え切らない態度に、アダは眉間にしわを寄せる。
「イルマ……。どうしたの?」
改まった口調でそう尋ねると、
「ごめん」
とだけ返された。
「なにが……」
「ないんだ」
アダの言葉にイルマの言葉がかぶさる。イルマが続ける。
「お金、ないんだ」
「……1マルカも?」
こくりと、イルマがうなずいた。
その時、アダの胸にはある感情が押し寄せてきた。
これまで感じたことのない、なんとも言い表すことができないような、不安感が……。
「アダ……」
「なら、仕方ないわね」
なにかを言いかけたイルマの声を、アダは遮って歩き出す。
「私、買い物をしてから帰るわ。イルマは先に帰っていていいわよ」
できるだけ明るい口調で言ったつもりだった。
けれども、もしかしたら、イルマは責められたと思ったかもしれない。
アダは、得体の知れない不安感に加え、罪悪感をも抱きながら、足早に建物の角を曲がったのだった。
「……おっと」
買い物を済ませて店を出たアダは、その先でなにかにぶつかってうしろによろけた。それを、伸びてきた腕に優しく引き寄せられ、抱きしめられる。背中に温もりを感じた。
「大丈夫かい?」
顔を上げると、深い青色の瞳と目が合った。
「……え、ええ」
腕の中から逃れるように後ずさりながら、アダはその人物を観察する。
細身で背丈が高く、金色に近い髪色で、透けるように白い肌をした青年がそこに立っていた。
『……この人……』
さっきは遠目からだったし、暗がりでもあったのではっきりとしたことはわからない。けれども、なんとなく、今しがたイルマといた青年ではないかとアダは思った。
それを尋ねようとして口を開いたところ、
「やあ、君。チャーミングだね」
そんな言葉が、青年の口から漏れ出た。驚きに目を見開くアダに、青年はなおも言葉を紡ぐ。
「白い肌に赤く染まった頬……。まるで、雪の中に凛と咲くカメリアのようだ」
「可愛いね」と握り込まれた手を、アダは思わず力いっぱいに引いた。そしてそのまま、なにも言わずに踵を返すと、雪の降り積もる暗がりの道を駆け足で帰って行ったのだった。




