相容れぬもの
今朝もいつもと同じように、スーツを着て満員電車に揺られていた。数年前、初めてこの『満員電車』というものに乗ったときは、体感したことの無い息苦しさと圧迫感で、目的地に着く前に死んでしまうのではと思ったし、これを毎日続けるなんて人間のすることではない、とも思った。
しかし、そんな日々を続けた今では、この電車に揺られている時間は嫌いではなかった。乗り込んで身を落ち着けてしまえば、目的地までじっとしていれば良い。体の訴える不快感はシャットアウトし、ただ思考をめぐらせて時を過ごす。
いつもこの駅で乗り込んでくるあの男性は、背広を新調したのだなとか、この混雑した車内で単語帳を必死にめくっている学生はこれから試験でもあるのだろうかとか、言ってみればどうでもいいことを考えるともなしに考える。そんな時間が、今では小さな楽しみともなっていた。
今日も、人の頭で出来た隙間からのぞく僅かな外の景色にぼんやりと目をやっていると、ふと腰元に振動を感じた。短く振動を繰り返し、着信を知らせてくる。知らぬ振りを通そうと思ったが、目の前の男性からちらりと咎めるような視線を向けられた。この閉ざされた空間の中では不快な出来事は一つでも減らすように、とでも命じるように。
「すみません」と口の中で呟き、少し身を捩ってスーツのポケットから振動の発生源を引き摺り出す。ちらりとディスプレイを確認すると、そこには『母』の文字。素早く親指を滑らせて着信を止め、スーツのポケットに押し戻す。目を外に向けると、空は綺麗に晴れていたが、自分の心には微かに雲がかかるのを確かに感じた。
****
オフィスを出て、小さく息をつく。抱えていた案件が一つ片付いたのだ。それほど大きな仕事ではなかったのだが、初めてチームのまとめ役を任され、気を張る日々が続いた。なんとかまとめ上げ、上司の承認も得られた。
「よくやったな」という上司の言葉で、一気に体の力が抜けた。この会社に、ほんの少し『自分の居場所』を作れたような、そんな気もしていた。
やり遂げた充足感と共に帰途につく。スマートフォンでニュースを流し見ながら電車を待っていると、瞬間画面が切り替わり、着信のバイブレーションと『母』の文字。それを見た途端、今までの高揚感がみるみる萎んでいくのが分かった。しばらくの間画面を見つめていたが、親指を滑らせて着信を止め、電車に乗り込んだ。
車内は僅かに混んでいたが、朝のラッシュほどではない。しかし、夜の電車はあまり好きではなかった。何だか皆疲れた顔をして下を向いているし、外を見ようとしても、同じように疲れた顔をしている自分の顔が映り込む。もし、あの着信が無ければ、もう少し晴れやかな顔をしていたのだろうか。スマートフォンを取り出し、着信画面を確認する。
母からの電話は十日振りだった。不思議なことに母は、自分が着信を確認できる時間に電話してくる。仕事中や寝ている時間、誰かと居るときにさえ掛ってきたことが無い。必ず折り返そうと思えば折り返すことができる、そんなときに掛ってくる。
それでも自分は何かと言い訳を付けて、その折り返しを先延ばしにしていた。出勤前だから、電車が来たから、だから電話には出られない、落ち着いたら折り返そう、そう言い聞かせて。
駅を出ると目の前のスーパーに入る。時間も時間だけに、人もまばらで客も店員もどこか活気が無い。煌々と明るい店内とそこに流れるやたらと元気なBGMやアナウンスは酷く不似合いだ。
いつものように、酒を数本カゴに放り込み、夕飯を求めて総菜コーナーを物色する。半額になっていた唐揚弁当を手に取ったとき、隣に筑前煮のパックが並んでいるのに気付いた。最近、野菜を採っていないな、という思いと、これを食べたところで解消されるものでもないな、という思いで逡巡する。
しかし、サラダコーナーは棚が空になっているし、残っているのは揚げ物類だけだ。今から野菜売場に戻るのも面倒だし、今度でいいかと弁当だけをカゴに入れる。レジに向かおうとしたとき、頭の中で声がした。
「野菜もちゃんと食べているの?」
足を止め、売場へ戻ると、筑前煮のパックをカゴに入れた。
テレビを見ながら、買ってきた酒を飲む。何も考えなくていいバラエティーは気が楽だった。たくさんの芸能人が楽しそうに笑って、それを見て自分も笑う。ただそれだけでいい。それに笑っていると少し気分が良くなった。例えどんなに酷い一日だったとしても、そうやって笑って終われば、今日一日が良い日だったと錯覚できる。
電子レンジで温めた弁当の蓋を取ると、ふやけて衣の剥がれかけた唐揚げを口に放り込む。特に旨いわけでも不味いわけでもなく、ただ食欲を満たす為だけの食事。半分ほど食べたところで筑前煮に目をやる。温め直そうか、それとも食べずにおこうか。自分の性格を考えると、冷蔵庫に入れたら次に出てくるときは捨てるときだろうな、とも思った。
仕方ない、と蓋を開け食べ始める。冷えたままのそれはひどく塩辛く感じた。次々と具材を口に入れていくと、最後に人参が二つ残った。
人参は苦手だった。独特の匂いや甘みのせいなのか分からないが、小さいときからずっと苦手だった。大人になった今では、人前で好き嫌いをするのも情けないというか恥ずかしいので、残しはしないが、やはり苦手なのは変わらなかった。だからいつも無意識に最後まで残してしまう。そして飲み込むようにして食べ、その食事の後味は苦手な味で終わってしまう。それを後悔して、次からは最初に片付けてしまおう、と思っても、気が付けば、また最後には人参が残っている。何度繰り返しても、どうしても最後になってしまうのだ。最初であれば料理の具材の一つでしかないのに、避けて食べ進めていくと、最後に残るのはただの人参だ。
今日は誰が見ているでもない、このまま捨ててしまっても、誰に何を言われるわけでもない。それでもどうしようかと悩んでいるとき、スマートフォンが振動した。ディスプレイには『母』の文字。しばらく画面を見つめていたが、小さく息をついて指をスライドさせ、電話に出た。
****
「あら、出た」
いつも、掛けてきた方が言うにはおかしい台詞で母との電話は始まる。
「ごめん、忙しくて掛け直せなかった。何かあったの?」
「忙しい忙しいばっかりで、そっちからは全然掛かってこないし、心配してるのよ。たまには連絡ぐらいしなさい。どうせ面倒くさくて掛け直さなかったんでしょ」
決めつけるような、それでいて見透かすような母の言葉に少し強い口調で言い返す。
「本当に忙しかったんだよ。任されていた仕事もあったし」
「あらそう。あんた、ちゃんと仕事してるの?無理しすぎるのも良くないけど、きちんと仕事しないと、このご時世いつクビになってもおかしくないんだから」
「ちゃんとやってるって」
「本当かしら、あんたは昔っから集中力がないから。ほらよく通信簿で『落ち着きがない』って書かれてたじゃない」
「いつの話してるんだよ」
「人間そう変わるもんじゃないからねぇ」
「ところで、何か用なの?」
母と電話を始めたときは、掛け直さなかった罪悪感もあって柔らかい物言いを心掛けるのだが、すぐに苛立ちの方が勝ってしまう。返答も短くぶっきらぼうになっている自分に気付く。
「ほら、あんた、中学のバレー部で一緒だった同じ学年で山本くんっているでしょ。その山本くんがお母さんの職場の子と結婚したのよ。それでね、あの三丁目に床屋さんあったでしょ、そこのご主人がちょっと前に亡くなってお店閉まっちゃって、あそこ空き地になってたのよ。そこに家を建てるんですって。それでね・・・・・・」
母の話が大して重要ではないと分かると、自分の返事は「へぇ」と「ふぅん」しか出なくなった。自分はバレー部じゃなくてバスケ部だったし、山本はおそらくそのバスケ部の後輩だ。三丁目の床屋が空き地になったのは確か自分が小学生の頃だった。
いちいち訂正していては切りがないし、経験上話が長くなるだけだと分かっていた。だからただただオウムのように「へぇ」と「ふぅん」を繰り返すことが、できるだけ短く切り上げる唯一の方法なのだ。
「ちょっとあんた、聞いてるの?」
「え、ああ聞いてるよ」
「どうだか。そんなだから集中力がないって言われるのよ。あんたよく忘れ物して、お母さん学校まで届けに行ったのよ。本当大変だったんだから。自分一人で大きくなったような顔してるけど、あんたは手の掛かる子だったんだからね」
「だから、いつの話だよ」
「好き嫌いも多くて、特に人参なんか全然食べないし。いつも人参だけ綺麗に残して食べてねぇ。ほら、いつだったか鼻をつまんで食べようとして。あんなのみっともないからやめなさいって叱ったこともあったね。どうせ今でも食べられないんでしょ」
「・・・・・・そんなことないよ」
パックの上に残った人参が目に入る。いつもそうだ。母に見えているはずがないのに、分かるはずがないのに。それなのに母に嘘を付くのには、よくわからない勇気がいる。
「まぁ、そんなことより、たまには帰ってきて顔を見せなさいよ。もうずっと帰ってきてないでしょう。お母さん、そのうちあんたの顔忘れちゃうわよ。あと、ちゃんと栄養のあるもの食べて。健康は大事なんだから。そう言えば、この間お母さんが病院に行ったらね・・・・・・」
「分かってる。今夕飯の途中だし、明日も早いから、もう切るよ」
続きそうな母の話を遮ると、母は不満そうに「あらそう」と呟いた。
「じゃあ、また」
掛ける、という嘘は付けなくて。そう言って通話を切った。
残っていた人参がじっとこちらを見ている。そんな気がして目をそらした。もう捨ててしまおう、そう思ってパックを手に取る。
スーパーのビニール袋に突っ込もうとした手を止め、少し迷ってから手掴みで人参を二ついっぺんに口に放り込んだ。何度も、何度も、咀嚼し、飲み込む。甘く、それでいて僅かにえぐみを含んだ味が口の中に残る。
やはり、苦手だ。
【 了 】