予兆2
3
「…ん、ねえ」
月岡蟇蟻はぽんとスマホを放り投げ、隣に寝そべる男の頭を小突いた。
「どうしたの」
「ねえ、寂しい」
そう呟けば、男はすかさず頭を撫でてくれる。
「何で死んじゃったの棗くん…あたしすっごい好きだったんだよ、もう何年も見てたの、ほんとに好きなの」
数日前から蟇蟻はこの調子だった。彼女の追いかけているヴィジュアル系バンド『VELLSY』のドラマー、「ナツメ」が自殺したのだ。そのつい1時間前まで彼はライブでドラムを叩き、観客を熱狂させていた。興奮冷めやらぬ中、彼が死んでいるという知らせが飛び込んできたのだ。事故ではなかった。本人の筆跡の遺書があったのだ。
「あんなに楽しそうにドラム叩いてた人が自殺なんて。ありえないよ、絶対誰かが仕組んだに決まってるよ…」
ぼろぼろと涙を零しながら蟇蟻は続けた。
「ボーカルのれみみとか仲悪かったって噂だもん。何かひどい事言って自殺させたんだよ」
「そうなる前にバンド辞めるもんじゃないの?」
「VELLSYはメンバーが中学生の時からやってる思い入れの強いバンドだもん。棗くんだって、辞めるくらいなら死ぬって言うくらいだったんだよ」
「有言実行したわけか」
蟇蟻は声をあげて泣いた。
男はよしよしと頭を撫でてくれる。その温かい胸に縋りつき、蟇蟻はひたすらに涙を流した。
「…えっ、ねえ、ちょっとこれ見て、蟇蟻」
「何!」
無理矢理身体を引き離され、抗議しようと顔を上げると、男はスマホをぐっと突き出していた。涙をぐいっと拭い、顔を近付ける。
「…ヴィジュアル系バンドVELLSYのドラマー、ナツメが見つかる…?えっ!どういう事、これ!」
男の手からスマホをひったくり、表示されているニュースを見る。
1度死んだはずの棗が暮波のライブハウスに突如現れたというのだ。前と寸分違わぬ、明るくて元気そうな姿で。記事にはライブハウスに現れたという棗の写真も上がっていた。
赤銅色の長い髪、白い肌に綺麗な顔。化粧こそしていなかったが、蟇蟻にはすぐ分かった。これは棗だ。間違いない。
「…何だ、死んでなかったんだ…」
ほっとした瞬間に涙が出て来た。蟇蟻は再び男にしがみついた。彼のシャツは涙で湿ってしまっている。再び頭を撫でてくれる男に甘えていたが、しばらくしてはっと顔を上げた。
蟇蟻は慌てて財布を探し出した。同時にポケットにスマホを突っ込む。化粧ポーチを引っ張り出し、大慌てで洗面所へ向かった。
「どうしたの、急に」
「この記事ついさっきだ!もしかしたらまだいるかも!」
男の見せてくれた記事は、ツイッターのまとめだった。あれはツイート数の多い話題について簡潔にまとめただけのものだから、あのライブハウスではまだライブが行われている。試しにツイッターを開いてみれば、よくあのライブハウスに来ている子達が次々に呟いていた。
『棗だよあれ!まじで!』『ナツメ~♡良かったよおお;;;;』『ナツメ本物だよ』
「ほら!早く行かなきゃ!ああどうしよ、目腫れちゃったよ…」
大急ぎで化粧を始めた蟇蟻に、男は「そうかな」と呟いた。
「数日前起きた、アイドル生還事件知ってる?」
「うん。そういえばあの子達も棗くんと一緒だったね」
「あれさ、監禁から抜け出してきたって報道もされてるみたいだけど実際は違うぞ」
「ふうん」
「人殺したって噂だぞ、あれ」
「は?」
蟇蟻は思わず手を止めた。
男の言っているのは、ついこないだ起きた、死んだと思われていた暮波のローカルアイドル達が帰ってきた事件だ。彼女達は事故に遭ったのか遭難したのかはよく分からないが、とにかく1度は死亡が確認されている。だが数日後、帰ってきたと報道が成されたのだ。そこそこ人気のあったアイドル達だったからか、その報道には様々な声が飛び交った。杜撰な放送、マスコミの緩さなどに批判の矛先が向いたが、アイドル達は沈黙を貫いている。今は活動を休止しているようだが、彼女達に関する噂は活発なままだった。監禁から抜け出してきたという話も、その噂のひとつだ。
「何、殺したって。ありえなくない?」
「俺も詳しくは知らないよ。でもそういう噂が出てる。ほら、この前の…何だっけ、男5人が死んで1人重体のち死亡って事件」
「ああ…それも暮波で起きたやつ。物騒だよね」
蟇蟻の頭にニュース記事が甦った。そういや、あのアイドル達を応援してた男性達が死亡したって記事が出てたっけ。
化粧を再開させる。つけまつげはどこにやったっけ…。
「あの人達を殺したの、あのアイドル達って噂なんだぞ」
「いや、それはないでしょ…死んだ人達、あのアイドルのファンだったって噂だし」
「だからだよ」
男は立ち上がって蟇蟻の傍にやって来た。思わず手が止まる。
「何。うざいんだけど」
「俺、会社行かなきゃいけなくなっちゃった」
「は?今日土曜じゃん」
「ほんとは今日も出勤だったんだけどね、休んでたの。けど何かあったみたいだから」
「…分かったよ。じゃあね」
いつの間にかきっちりスーツを着込んで男は出て行った。ばたんとドアが閉まる。
「…急がなきゃ」
4
渡辺棗は暮波の街を歩いていた。時刻は昼時、太陽は空の真ん中にある。久しぶりに見た太陽にテンションが上がる。くあっと欠伸と伸びをしながら大通りをうろついていると、ぐうと腹の虫が鳴いた。
「…腹減ったなあ…」
腹が減るという感覚も久しぶりだ。ここ3日は何も食べていなかったが、特に腹が減る事もなく、何だか寂しかったのだ。
「いらっしゃいませ!1名様ですか?」
目についたファミレスに入ると、店員がにこやかに声をかけてきた。こんな反応も久しぶりだ。それにしてもこの店員、なかなかカワイイ。大きな目に小さな背丈。小動物のようだ。
「1人」
「お煙草はお吸いになられますかー?」
「…いいや」
ポケットの中にはまだ中身のある煙草の箱があったが、棗はそれをぐしゃりと握り潰した。つい数日前に覚えた味は苦くてまずくて、嫌な思い出しかない。
「ではこちらの禁煙席へどうぞー、メニュー決まりましたらこちらのボタンでお知らせください!」
ごゆっくり、と言い残して店員は去っていった。
食べるものは決まっている。すぐにボタンを押すと、今度はだいぶ歳のいった女性店員が来た。さっきのカワイイ子に担当してもらいたかったのに、と内心で歯噛みする。
この店で一番安いドリアとドリンクバーを注文し、席を立った。女性店員は棗に一瞥もくれる事なく去っていった。これだからおばさんは、と思わず溜息が出る。がっかりだぜ。
ジュースを注いで戻ると、棗はスマホを取り出した。チャットのアプリを開き、目当ての名前を探す。あまり連絡を取らない相手なので、探し出すのに苦労した。
ようやく見つけた、パズルのようなアイコンの相手とのチャットルームを開く。日付けは半年前になっていた。そんなに話してなかったっけ、と首を傾げる。ライブハウスでは頻繁に話していたから、そこまで連絡を取っていない印象がなかったのだ。
コールを鳴らすも、相手は全く出ない。今日は土曜日だったはずだが、忙しいのだろうか。
ああそれとも…棗は思わず顔を顰めた。俺のせいかもしれない。ここ3日間の記憶はそんなにはっきりしているわけではないが、あまり良い記憶ではなかった気がする。悪夢、ゆらゆらと不安定な足元、冷たい水、暗闇、銀慈の怯えた顔…目頭を押さえて溜息をついた。
VELLSYはどうしているだろうか。久しぶりの太陽と解放感にテンションが上がり、つい散歩に出てしまった。だが、まずは彼らと連絡を取り合う事が先だ。
そう思い立ち、次々に電話を鳴らしてみる。だが、誰も出ない。出る気配もなかった。
もしかしたら、と気分が翳る。俺の連絡先は既に削除されたのだろうか。
ふるふると頭を振っていると、不愛想な女性店員がドリアを運んできた。棗を見る目は不審者に向けるそれだった。取り繕うように笑顔を向けるが、彼女は全く意に介さず、仕事に戻っていった。何だよ、少しは優しくしてくれよ。
「…いただきます」
久しぶりに口にしたドリアは、こんな美味しいものは今まで食べた事がない、という程に美味しかった。熱々の米に蕩けるチーズ、絶妙なしょっぱさのミートソースが、口の中でじんわりとミックスされていく。最高に旨い。
「うっま~!」
思わず叫ぶと、さっきの不愛想な女性店員が眉を顰めてこちらを見た。絶対に変な人だと思われている。それもそうだろう、全飲食店で一番安いといっても過言ではないドリアを食べて、旨いと叫んでいるのだ。そんな事を言うのはよっぽど飢えた人間だけだろう。
だが棗はそのよっぽど飢えた人間だったので、5分もせずに完食した。ドリンクバーに殆ど行っていない事を思い出し、慌てて継ぎ足しに行く。流石に1杯だけでは勿体ない。
だがあまり量は飲めず、結局3杯でおしまいにした。どれも安いジュースだが、久しぶりの身体には染み渡る薬のようだ。心持ち元気になった棗は会計をして店を出た。最後の会計はあのカワイイ店員だったので、気分は上々だ。
「皆に連絡取らないとな…」
どうにかして戻ってきた事を伝える必要がある。それも、銀慈の事は伏せて、だ。彼のいないVELLSYなどVELLSYではないが、せめて仲間とは連絡を取っておく必要がある。
「ライブハウスに行けば会えるかな」
暮波には幾つもライブハウスがあるが、普段VELLSYが使っているのはその中でも一番大きなライブハウス、暮波カルテットだ。毎日何かしらのライブをやっているから、上手く行けばメンバーの誰かに会える。もし会えなくても、友達がいれば連絡を取ってもらえるだろう。
そう考えて歩き出した棗は、すぐに立ち止まる事になった。
「わっ!」
びしゃ、と水が降ってきたのだ。
「えっ何、何、雨?!」
空を見上げるが、太陽は相変わらず全力全開で仕事をしている。きょろきょろと辺りを見回していると、後ろから声がかかった。
「すまん!兄ちゃん」
「…ああ」
振り返ると、近くの飲食店の従業員らしき男性が、水ホースを持って慌てていた。水ホースはまるで蛇のようにくねくねと動き、水を吐き出し続けている。給水システムが暴走したのかな、と棗は思った。この街は『日本のヴェネツィア』と呼ばれる程水に富んだ街だが、その水を扱う技術はまだまだだ。特に最近はよく水が止まったり、反対に止まらなくなったりする。自治体も頑張っているようだが、原因はまだ掴めていないようだった。
「気にしないでください、大変ですね」
「本当にすまん、これ使ってくれ」
差し出されたタオルを棗は「どうも」と受け取った。もろに水を被った髪と肩を拭いていると、男性は棗をまじまじと見てきた。
「兄ちゃん、もしかしてVELLSYってバンドの人か?」
「あー…ああ…」
いささか面倒な事になった。よく考えたら、銀慈と違い死に顔が綺麗だった棗は、死亡が報道されていてもおかしくはない。しかも遺書まであったのだ。
「娘が好きでさ、あんたボーカルのれみみさんだろ?」
「!っはい!そうです!」
この男性がいつバンドを見たのかは知らないが、そういえばボーカルは一時期、今の棗と同じ髪色をしていた。彼の歳では、顔でメンバーを判別するのは至難の技だろう。
「何かメンバーが亡くなったらしいねえ…頑張んなさいな」
「…ありがとうございます」
頭を下げると、彼は手を振って店へ入っていった。ほっと安堵の溜息をつき、上着についていたフードを頭の上まで引っ張り上げる。よく考えたら、棗の事を知っている人間は大勢いるのだ。
「…行かない方が良いかな、ライブハウス」
思わず独り言が漏れたが、せっかく戻ってきたのだ。メンバーの元へ行かないと何も始まらない。銀慈も可哀想だ。
ああそういえばタオルを返し忘れた、と振り返るも、当然ながらさっきの男性はもういない。まあいいか、とポケットに濡れたタオルを突っ込んだ。
周囲を見回して、誰もいない事を確認した。スマホを取り出してチャットアプリを起動させる。先程は応答しなかったパズルのアイコンをタップし、通話ボタンを押した。今度は出てくれ。頼む。
出ないかなあ、と諦めかけたところで呼び出し音が止まった。警戒するように黙ったままの相手に、棗は意気揚々と話しかけた。
「久しぶり、論理さん」
5
船越英は道を走っていた。せっかく休みにしたのに、結局出勤する羽目になった。内心舌打ちをしながら電車に乗り込む。ここから会社まで30分程だ。
呼び出してきたのは今年入ったばかりの新人だった。会社に入れない、と泣きそうな声で言うのだ。社員証は反応するが、ドアが開かない。中にはまだ何人か残っているはずだが連絡が取れない。
忘れ物なら明日取りに来れば良いだろう、と言うと、新人は定期を忘れて帰れないと泣きついてきた。出勤しているはずの社員何名かに電話してみたが全員出ない。仕方がない、と英は重い腰を上げた。せっかく女の子の家でごろごろしていたというのに、とんだ休日になってしまった。
「船越さん!」
会社のビルの前には、連絡を寄越してきた新人が泣きそうな顔で立っていた。
「まじで開かないのかよ」
「開きません」
英は半信半疑で自分の社員証を翳した。ぴ、と音がしてパネルが青く光る。だが、ドアは何かに押さえつけられたかのように開かなかった。ぐぐぐ…と振動してはいるので、内側にバリケードでも築かれているのかもしれない。それか壊れたか、どっちかだ。
「…本当だ」
「開きませんよね」
考え込んでいても仕方がない。
英は管理会社へ電話をかけた。ワンコールで繋がる。
『管理センターです』
「あのーすみません、ドアが開かないんですけど」
『…少々お待ちください』
保留音が鳴り出した。「もりのくまさん」のオルゴールバージョンだ。これってそんなにしんみりした曲だったか?と英は思わず首を傾げた。
新人が不安そうにビルを見上げている。中の社員を案じているのか、自分の定期を案じているのか、分からないがきっと後者だろう。祈るように胸元で組まれた手は、男のくせになよっとしていた。
「…おせえ」
耳元では相変わらず呑気なオルゴールが流れている。思わず煙草を取り出したところで、がしゃん!と激しい音がした。
上だ!
見上げると、大きな塊が自分に向かって降ってくるところだった。新人の悲鳴が響き渡る。ぴし、とガラスの破片が頬に突き刺さった。
「邪魔だ、どけ!」
男の太い声が降って来る。
次の瞬間、衝撃が英を襲った。首がぐにゃりと曲がり、潰される。男が英の上に落ちてきたのだ。到底支えきれず、英はガラスの破片だらけの地面に倒れ伏した。男の重みで破片の刺さった身体が痛い。
「船越さん!」
新人が駆け寄ってきたが、それよりも早く男はひょいと起き上がった。
「悪い!」
悪いで済むか!と怒鳴ったつもりが、声にならなかった。喉にも破片が刺さったらしい。急速に身体から力が抜けていく。男は舌打ちをひとつすると、走り去っていった。
「船越さん!」
身体の下敷きになったスマホからは、まだオルゴールの音が聞こえる。電話するべきは管理センターではなく警察だったようだ。意識がすうっと遠のいていく。
「もりのくまさん」の呑気なオルゴール音を聞きながら、英は目を閉じた。