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その子の口

作者: KUZUAN餅

「しんでやる。」

 家から飛び出してきた勢いで走って三分のところにあるバス停で、無意識に漏れ出ていた欲望の凶々しさにぎょっとした。誰かに聞かれていないか不安になって辺りを見渡したが、幸いなことに人気はなかった。右手に着けた、中学校受験の合格祝いにプレゼントされた母親好みのピンクの縁どりのBaby-Gを確認すると、現在時刻は帰宅部の学生たちが帰宅したり塾へと出向いたりするために屋外に出ている時間帯をとうに過ぎた午後七時五十五分。

 はぁぁぁ、と大げさにため息をつく。

 それが安堵によるものなのか若しくは落胆なのか、伊都子(いつこ)自身にも分からない。

 改めて、気を取り直して、声を張り上げる。

「・・・しんでやる、しんでやる、しんでやるウッッ」

 沈んでいく夕焼けに向かって咆吼した直後、背後の気配に振り返ると、今から飲みにでも行くのであろうか、Tシャツにゆったりしたスウェットというラフな格好をした中年男性の二人組が、はて、僕たち何も聞いていなかったよ、という体で手にしたスマートフォンを一心不乱に操作していた。


  *


 新渡戸(にとべ)伊都子(いつこ)は背が高い。従って、公共交通機関を利用する際、よく定期券と学生証の提示を求められる。日常茶飯事だ。ついこの間の木曜日も寝坊してしまい、朝食を抜くという苦渋の選択の末に一限目の開始時間にギリギリ間に合うダイヤのバスに飛び乗ることができた。にもかかわらず、バスが中学校の前に停車し、生徒指導教員の目の前を間一髪ですり抜ける快感を思ってにやにやしながらいざ乗降口から飛び降りようとしたところで手首を掴まれ、振り返ると運転士が「君、中学生?」と目深に被った制帽の下から怪訝な面持ちで訊いてきた。慌てふためきながら通学定期と学生証を見せてバスから転げ落ちるように降車し、中学校の門を潜ろうとしたが、遥か彼方に見える校舎に設置された時計が示すのは午前八時三十二分。完全に閉ざされた重々しい鉄の塊の前で、生徒指導を担当するジャージ姿でスポーツ刈りの数学教員、柏崎恒彦(かしわざきつねひこ)が腕を組んで仁王立ちでこちらをにこにこと見据えており、「残念だったね。」と涼しげに勝利宣言をした。

 あの時は、本当にキレそうだった。

 今でも思い出される、十五年と五日の長くも短くもない人生の中でも最上級に匹敵する、怒り。

 だが、伊都子は頭がいい。

 学内の定期試験では、常に学年五位以内の成績をキープしてきた。

 頭のいい友人も、教員も、両親も、自らの頭の良さを十二分にわかってくれている。

 だからその木曜日、もとい、昨日。

 伊都子は耐えた。

 現場で怒りを放出させずに、ちゃんと放課後に生徒指導室に居残って今月に入ってから三回目の遅刻に対する反省の気持ちを原稿用紙三枚に丁寧にしたためて提出した。

 そして、その日の夜、自室のパソコンに向かうまで、耐えた。

 向かって、爆発させた。

 インターネットオークションで、大好きなアイドルの三軒屋光(さんげんやみつ)寿(とし)のポスターを四万二五四円で落札した。

 使ったクレジットカードは、中学校に入学した直後に、「何かあった時に使いなさい」と言って父が持たせてくれたものだ。聞くと、伊都子名義の口座に十万円振り込んであるとのことだった。

 この頭のいい私が、抗いようのない事態によって、反省文を書かされたのだ。

 この上ない、恥をかかされたのだ。

 いま使わなくて、いつ使う。

 その翌日、もとい、今日。

 学校から帰宅した伊都子は玄関先で、いつもより早めに帰宅したらしい苛々した様子の父に、出迎え頭にスマートフォンの画面を突きつけられながら問いただされた。いくら血を分け与えられた父とはいえ年頃の中学生からは近寄るのをためらわれてしまう中年男性の脂で汚れた画面をいやいやながらよく見ると、新渡戸伊都子名義の口座から四万二五四円が引き落とされたという旨を通知するメールが表示されていた。ネットオークションを主催する会社名と落札された商品名も、きっちりそこにはある。

 そこから後は、早かった。

「なんなんだ、これは」「なんなんだって、ネットオークションだよ」「通販に五万んんん」「五万じゃないよ四万二五四円だよ」「一緒だろう」「だってみっつんの去年のファン感謝祭一夜限りの超レアなポスターなんだもん」「紙切れなんかに」「紙切れじゃないし」「そんなもんに五万円」「だから四万円だって。お釣りが九七四六円も」「屁理屈を抜かすな」「屁理屈でも理屈はり」

 最後の言い分を言い切らないうちに、突然、左頬に衝撃が走った。

 しばらく呆然としていたが、だんだんと、状況を把握した。

 叩かれた。

 生まれて初めて、殴られた。

 暴力を、振るわれたのだ。

 しかも、自身の論理的主張を捻じ曲げる形で。

 言論を、力で、へし折られた。

 武力では何も解決しないと、毎日毎日飽きるほど新聞で読んでいるはずなのに。

「・・・しんでやる!」

 踵を返し、伊都子は涙を目一杯浮かべて家を飛び出した。


  *


 現在時刻は八時二十分。

 伊都子は、分厚い雲で覆われて見えない星の代わりにきらびやかに夜空を照らしている、目の前の派手な照明を見ている。

 家を飛び出した伊都子は、今日は絶対に家には帰らないと決めていた。

 頭のいい伊都子は、友人も全て頭のいい女子生徒を選抜して付き合っている。そのため、もし家に友人が「一晩泊めて」と泣きながら転がり込んできたら、頭のいい彼女たちのことだ、優しく受け入れてくれる。そして、温かい飲み物を用意するその足で、自宅に電話を入れることであろう。

 自分だってそうする。絶対に。

 繰り返すが、新渡戸伊都子は背が高い。そのため、実年齢よりかなり上に見られることが多い。場合によっては大学生にさえ見間違えられてしまうほどに老けて見られているという事実は、それまで伊都子にとってコンプレックスでしかなかったが、今回、初めてそのことを幸運に思った。閉店前の大型スーパーの二階で、流行に疎い伊都子の母でも買ってこないような、率直に言ってしまえばダッサいデザインのカットソーとロングスカートを選んで購入し、トイレで着替えた。見た目年齢はおそらく二十歳くらいにはなっていることだろう。滞在先の候補はいくつか上げた。二四時間営業のファミリーレストランやファーストフード店は深夜にトイレが封鎖されると聞いたことがあるので駄目。コンビニで夜通し立ち読みは辛い。マンガ喫茶は昨今年齢確認が厳しくなって入店しようとしただけでも断られたことがある。

 友人も教員も両親も大いに理解しているその頭の良さをフルに活用して思考し、たどり着いたのが、ここ。

「・・・カラオケ・・・。」

 伊都子はつばを飲み込む。

「・・・よし。」

 決意を固め、自動ドアの前に踏み出した。


 バスと電車を乗り継いでたどり着いたカラオケ店の受付は、まだ時刻は午後九時にも回っていないというのに、週末恒例の泥酔客の対応に追われていた。自動ドアを抜けて左手に設置されたソファーの下に、大学生風の若い男が横たわっていて、その傍ではスカートの短いやたらと声の高い女が男に何事か囁いている。意味はわからないがその言葉の卑猥な内容だけは伊都子にも理解できたので、表情に出てしまいそうになった嫌悪感を慌ててしまい込む。気を取り直して前を向き、正面の受付に向かって歩を進める。

 一歩、二歩、三歩、停止。

 カラオケ店など、中学一年生の時に入学直後出来た頭の悪い友人達と一度来たきりだ。大していいと思えないシンガーソングライターの歌をまったくいいと思えないがなり声で熱唱する彼女らの姿を見て、愛想笑いをしながら手拍子を打ちつつも、頭の悪い人は頭の悪い趣味にはまるものだと心の中で辟易し、それ以来、その友達に遊びに誘われても一度もついていくことはなかった。だが、今日になって、伊都子は彼女らに感謝する。カラオケ店という宿泊場所の情報を提供してくれてありがとうと、届けるつもりのない謝辞を心の中だけで読む。

「あの、お客さん?」

 店員の呼びかけにより、はっと我に帰る。

「すすすいません!!一名、フリータイムで!!」

 受付で不審に思われて止められないよう、店前で何度も練習した文句であったが、結局どもってしまった。

「あー、一名様ですね。」

 髪を青色に染めて唇に銀色のピアスが光るその男性店員は、特別怪しむ様子もなく、パソコンのキーボードを叩き出した。

「いますぐにご利用になれるのはJOYになりますが、よろしいですか?」

 初対面の上に緊張しているはずの伊都子にもその声に含まれた疲れが読み取れた。若くてロックミュージシャンでも目指していそうな風体なのに、気の毒だなあと思う。しかし、今の伊都子には好都合である。

「はい!結構です!」

 体育の授業の度に担当教員に毎回褒められる、元気溌剌な返事をした。店員は、その声の大きさに、一瞬訝しむような目つきで伊都子を見た。

 やばい、怪しまれてる。

 伊都子は内心で冷や汗をかいたが、店員は簡単に部屋とフリードリンクの案内をして、受付札とマイクを手渡すと「ごゆっくりどうぞー」と厄介払いのかわりに声をかけ、伊都子の後ろに並んでいたカップルに向き直った。

 その店は、年齢確認を怠っていることで地元の学生に評判のいい店であった。


 色も味も薄いコーラに口をつけながら、伊都子は策を練る。

 警察に補導されずに安全な場所で一夜を過ごす場所を確保するという一つ目の問題を難なくクリアし、次に彼女が考えなければならなかったのは、自殺の方法だった。

 勢い余って啖呵を切って出てきてしまったものの、正直なところ、動機などあってないようなものだ。

 死への熱い思いでは負ける。

 だが、やる気はある。

 うまく死ぬ方法はいくらでもあるはずだ。

 伊都子は今までもそうやって自分に強く言い聞かせることで、中学校入試や定期テストで優秀な成績を収め続けてきたのだ。

 部屋に入ってしばらく真剣に思考してみること十五分。

 名案が浮かばない。

 というか、飽きた。

 折角なので、二年ぶり来訪したカラオケというものを堪能しようと思い立つ。まず、選曲をしないでいる間、TV画面に延々と流れ続けている映像に目をやってみた。その騒々しいサブリミナル映像は彼女の目にとって極めて珍しいものとして映った。J-POP、演歌歌手、声優、俳優・・・様々なジャンルの芸能人達が、自分の持ち歌よりも好きな食べ物や休日の過ごし方、好きなタイプの異性について熱烈にアピールし、肝心の新曲情報についてはほんの数秒しか触れない。とある男性アイドルを敬愛している伊都子であるが、両親が彼女に視聴を許しているTV番組といえば、ニュースと一部の映画のみである。その視聴制限について、彼女も異論はない。むしろ、ドラマやアニメ、バラエティ番組の内容を毎日飽きもせずに嬉々として話している頭の悪そうな同級生たちを軽蔑すらしている。特にこれといった価値は感じられないがなぜだか目を離すこともできない映像を三周ほど黙ってじっくりと鑑賞し終えると、今度はリモコンを操作してみた。生涯でたった一度の来店の際にも驚いたそのタッチパネル式のリモコンは、たった二年の間に更なる進化を遂げていた。選択した曲目によっては、普通伴奏、練習用、コーラス入り、ライブ映像と、伊都子に度々の選択を迫った。彼女は、大好きなアイドルグループの曲名一覧のあ行の一曲目に表示されたヒット曲『ATSU!SUMMER TIME☆』のライブバージョンを流すように機器に指示を出した。すぐさま画面が暗転し、静寂が流れる。数秒後、画面には、常日頃お慕い申し上げている三軒屋光寿の暑苦しい笑顔が大々的に映し出された。

「みっつん・・・!」

 そのまま、伊都子そのアイドルグループの持ち歌を全て流すよう機器に指示を出し、瞳を爛爛と輝かせてテレビ画面に見入った。

 写真入りのうちわを持ってこなかったのを、少し後悔していた。

 

 TV画面越しに三軒屋光寿の活躍の全てを見届け、ついでに幼年期に見ていたアニメの主題歌四曲を歌唱し終わり、次は何を歌おうかと嬉々としてリモコンを手にとってタッチパネルと操作していると、ふと、1:05という時刻表示が目に入った。入室から四時間が経過していた。伊都子は我に返り、時間を忘れるほどに頭の悪い趣味に没頭していた自分を恥じ、しかし、たまに気分転換に来るにはいいかもしれない、とも思い直し、

「あ、私、今日、しぬんだった。」

と本来の目的を思い出した。もう二度とカラオケに来ることはないという事実に直面し、胸に物悲しい気持ちが湧き上がってくる気がしたが、すぐに無視した。

「さ。考えよ。」

 改めて。

 レッツゴートゥー

 ダイ。

 物心ついた頃から小学校卒業まで毎週欠かさず見ていたTVアニメの名探偵コナンで、犯人が犯罪を成し遂げた際の必須条件は何だ?完全犯罪を成立させるためのトリックが重要であることは言わずもがなであるが、そんなものより欠かしてはならないのは、動機だ。苦しい。憎い。なんとしてもあいつを殺してしまいたいという情熱だ。私も自らを殺すために、この身に熱い思いを滾らせねばならない。TV画面が繰り返し流す映像にもそろそろうんざりしてきた深夜二時三十分時頃、ふと画面に映った中年ロック歌手が目に飛び込んできた。

「あれ、パパに似てる。」

 と無意識に自分の口から呟かれた声に、忘れかけていた家を飛び出した理由を思い出させられた。そこからは早いものだった。平手打ちをしたパパの大きな手、冷静になって帰ろうにも玄関に置いたままにしてしまった家の鍵、三軒屋光寿のうちわをしまっていた机の引出し、家の目の前の横断歩道の信号機の赤、降りようとしたところで定期券と一緒に学生証の提示を求めてきたバスの運転士、一度のICカードのタッチで開かなかった自動改札口、電車の中のサラリーマンの大きすぎるくしゃみ、またしても一度のタッチで開かなかった自動改札口、駅員の聞こえるか聞こえないかわからない(伊都子には聞こえた)ギリギリの音量の舌打ち、カラオケ店の受付前のソファーで猥談をしていた頭の悪そうなカップル、態度の悪い店員。

 十分すぎるほどに血が激ってきた。意識していないのに、自分の両の目がつり上がっていくのを感じる。

 簡単にホテルに連れ込めそうな尻の軽い女はいないかと扉の覗き窓を覗き込んだサラリーマン風の男と目が合ったが、なにかとてつもなく恐ろしいものを見てしまったかの如く即座に目をそらして去っていった。

 動機はできた。

 完璧だ。

 時刻は深夜三時を回ったところで、難問をクリアした喜びの勢いに任せてカラオケ店を飛び出したいところであったが、さすがにその時刻に女子ひとりで外に出てしまっては、最悪の場合、暴漢に殺されてしまいかねない。

 それはいけない。

 私は自殺をしなければならないのだ。

 自分で自分をころすのだ。

 自分で目的を達成せねばならぬのだ。

 他人なんかにころされてなるものか。

 なにも暴漢に襲われるのが怖いというわけではない。

 決して、ない。

 騒々しいTVの電源を切ってソファーに横たわって少し眠り、営業終了時刻の午前六時きっかりに支払いを終えて、店を後にした。


 早朝にもかかわらず、小さなショッピングモールに併設されたハンバーガーショップは、ほとんどの席が学生やフリーター風の若者で埋まっていた。かろうじて空いた一席を見つけて腰をかけ、エッグマフィンをかじる。甘い。なんで主食メニューなのにバンズから甘ったるいメープルシロップの味がするのだ。再び怒りがこみ上げてくる。パパ、ママ、運転士・・・いけない。動機作りはもういい。十分だ。頭を振って自分を落ち着かせる。二口ほど口をつけたところでマフィンをトレーに置き、考える。

 さて、どうしたものか。

 十分、三十分、一時間と時間は経っていく。

 自殺の方法を考えている。

 家を飛び出した当初、これは一番簡単な練習問題だと思っていた。しかし、いざ考えてみると、思いつかないものである。

 もちろん、方法だけならカラオケ店にたどり着く前にいくつか候補をあげていた。首吊り、飛び降り、車道への飛び込み・・・。

 だがこれという方法が思いつかない。

 首吊りは首がしまってから意識が飛ぶまでに少なくとも数分はかかるからその間に首の骨が折れる激痛を耐えねばならないとコナン君が教えてくれた。飛び降りは高層ビルの屋上から飛び降りて地面に叩きつけられるまでに意識がうまく失われないとに地面についた瞬間の激痛を体感しなければならないとコナン君が力説していた。車道への飛び込みは先に挙げた二つの方法よりも意識が長く残っている可能性があると服部も言っていた気がする。

 どれもきっと、めちゃくちゃ痛い。

 しぬより、痛い。

 他にも一酸化炭素中毒(苦しいかもしれない)やSNSを利用しての嘱託殺人(相手が女の子の苦しむ顔が見たい変態とかだったら嫌だ)など様々な方法を思い浮かべては却下し続けては二時間が経過し、幼い頃、晩御飯を欠かしても毎週の名探偵コナンは欠かさなかった自身の生真面目さに恨めしいような感謝するような複雑な気持ちを抱いた。そうしていると、

「ごおおおおおおお」

と、右隣から、猛獣の唸り声が聞こえた。振り向くと、作業着を着た白髪交じりの男性が突っ伏して眠りこんでいた。どうやらその唸り声はいびきのようであった。

 肉体労働に従事している人物特有の体臭を漂わせるその姿は、普段であれば、嫌悪感すら抱かない。視界に入れることをしないからだ。

 だがしかし、眠り込んでいる肉体労働者のその姿を見た伊都子は、ある方法を思いついた。

 その方法には色々と準備物が必要になりそうだったので、他にもっと手頃で簡単なファストトゥーダイウェイはないかと更に五分という伊都子にとって長い長い時間を費やして策を練ったが、結局他にこれといっていい方法は浮かばなかった。

 渋々その方法を採用することにした。


 ハンバーガーショップを出た伊都子は、まずドラッグストアへ向かった。

 自動ドアから入ると、レジのすぐそばに置いてある睡眠導入剤の一番大きな箱を手に取り、白衣を着た初老の店員につきだした。箱を受け取った店員は、箱と伊都子の顔を見比べ、柔和な笑みを浮かべて「眠れないの?」と訊いた。「そう!三日三晩寝てないの寝れなくて寝れなくてしにそうなの!」と聞き返されるのが嫌で大声で答えると、店員は仏のような微笑を崩さず簡単に服用の仕方を説明し、「考えすぎちゃだめだよ」と優しく諭し、精算した。少し良心を痛めながらも無言で乱暴に包みを受け取りドラッグストアを出て伊都子が向かった次の行き先は、そこから歩いて十分ほどの場所に位置するホームセンターである。そこでは世話焼きの店員に声をかけられるようなこともなく、すんなりと予定通りにロープと金槌とカッターナイフを購入することができた。もし店員に怪しまれたら「文化祭の準備で必要なので領収書をください」とでまかせを言う心の準備を整えていたが全くもってその必要はなかった。無関心社会さまさまだ。

「まったく。」

 無意識に口に出ていた。

 いや待て、なにに対して「まったく」なのだ?

 なんだかんだ言って話を聞き出そうとしなかったおじいちゃん店員の態度の緩慢さにか?使途を問い正さなかったパート店員の無関心さにか?

 どちらの対応も、伊都子の計画を実行する障壁にならずに済んだではないか。

 死ぬための道具を難なく揃えることができたではないか。

「・・・・・・。」

 頭を振って、思考を切り替える。

 迷いはいらない。

「案外大変なものね。」

 しぬのって。

 そんなことを思ってため息をついたところで、ちょうど目的地へ行くバスが来た。

 降車するバス停名は、釣り堀前だ。


 その釣り堀で目当ての品が手に入るかはこの計画を実行するにおいて最大の賭けだった。

 中学校入試の面接より緊張している。幼い頃、父に連れられて何回か来たことがあったボート貸出の係員をやっていた年配の男性は、古い記憶にある頃から既に耳が遠かった。  小屋の前にたどり着いて中を伺ってみると、奥の方で重々しく鎮座している係員が、数年前に来場した時に会った老人と同一人物であることをみとめた。そのでっぷりと肥った白髪交じりの容姿に、胸に懐かしい気持ちがこみ上げたが気のせいだと言い聞かせて頭を振り、昨晩四曲しか歌っていないのに枯れ気味でヒリヒリと痛む喉に鞭打ち、大声を振り絞る。

「すいませーん!」

 新聞を眺める係員の後ろ姿に動きはない。

「すいませーん!」

 ぴくりとも動かない。さては死んでるんじゃないか。

「おじいさー」

「誰がおじいさんじゃ!」

 振り向いた。

 良かった。

 生きてた。

 一喝された怒りよりも孤独死の第一発見者として通報しなくて済んだという安堵の方が大きい。

「ボート、ください!」

「ボート?七百円。」

 記憶にある頃より値段が上がっている。これが不況か。世知辛い世の中だ。

 げんなりする気持ちに流されずに、言う。

「一番、古い、ボロボロのが、いいんだけど!今にも、壊れそうなの!水に、浮かべたら、すぐ、崩れそうなの!」

「はァ?」

 世迷いごとを抜かす客という印象を受けたのを隠す様子はない。

 挫けそうになるが踏ん張る。

 私はしぬのだ。

 こんなところで負けてられない。

「だから!一番」

「好きなもんもってけ!」

 眉間にしわを寄せて言い捨てると、いそいそと手元のスポーツ新聞を読むのに戻った。客の立場でありながら、商売道具をそんな雑な管理の仕方で扱っていいのかと心配になるが、今回の策は係員のそのぞんざいさを頼みにしていた点があるので気に留めないことにする。係員の元を離れ、ボートを物色し、ところどころペンキの剥げ落ちた一番古そうな木製のボートを選んだ。そして、周りに人がいないのを確認し、係員が女優のヌード写真に見入っているのを一瞥してついでに舌打ちすると、できるだけ静かにそのボートを水面から引き上げ、引きずりながら、浜辺の人気がいない方へと歩き出した。

 伊都子は心の中で、ひとりごちる。自らに言い聞かせる。

 「貸してください」とは言っていない。「ください」と私は言った。

 私は頭がいい。

 だから大丈夫。

 私は悪くない。

 ちゃんと聞かなかったあの係員が悪い。

「新渡戸伊都子は頭がいい。」

 そう呟き、大きく頷いた拍子に、バランスを崩して大きな音を立ててひとりで転倒した。


 持ち物は、睡眠導入剤(大量)、ロープ、鉄槌、ナイフ、ボート(今にも壊れそうな古いものがベスト)、大きな岩(ボートに載る位の大きさで、自分で持ち運ができる限界の重さのもの)。

 行き先は、誰もいない海岸。

 ハンバーガーショップのトレーに敷いてあった裏紙に書いたチェックリストにマークを振っていきながら、まるで遠足に行く準備みたいだなと、伊都子は苦笑する。

 だが目的は潮干狩りではない。

 自殺だ。

 目的地は、あの世なのだ。

 あとひと押しで大海原に繰り出せる波打ち際までボートを押してきて停止した。そのへんで見つけた岩をロープで括り、ロープの反対側の先端は伊都子の左足にしっかりと巻かれている。

 装備は十二分に整っている。

 さあいよいよ冒険の海、いや、冥海へ乗り出すときだ。

 重い荷物を押してきたせいで乱れた呼吸を整える。高鳴る鼓動を落ち着ける。いや待て、乗り出すその前に先に睡眠導入剤を一気に服用してしまおう。だがそこで気づいた。睡眠導入剤を胃に流し込むための水を買ってくるのを忘れていた。盲点だった。仕方がない。睡眠導入剤は海原に乗り込んでから海水と一緒に一気に飲み干すとして、意識がはっきりしている今、先にカッターナイフで手首を切りつけておこう。カッターナイフの包装を乱暴に開ける。が、封を閉じていた金具の尖端が皆の左手の指を刺し、血が滲む。「痛っ」と声が出るがその程度の痛みに怯んではいられない。

 これから私はしぬんだ。しぬんだ。しぬんだ。

 自分に言い聞かせながらカッターの刃を左手首に押し当てる。押し当てるが、力は入らない。

 しぬんだ。しぬんだ。しぬんだ。

 死ぬんだ。

「・・・・・・」

 一とタとヒじゃない。

 氏でもない。

 死ぬんだ。

「・・・・・・・・・」

死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死

 し。

「・・・・・・・・・・・・」

 数十秒間、自分に発破を掛け続けていたが、

「ま、後でやっても変わんないし。」

 カッターナイフをボートの中に無造作に投げ入れた。

 不備はたった一つ、たったのひとつだけあったものの問題は無い。

 まったくもって無い。

 ボートは砂浜を引きずってきただけでもう木片が散らばっているのが散見されるボロ具合だ。その姿を見ただけでも万全だ。

 準備万端。

 心強い。

 「・・・しんでやる、しんでやる、しんでやるウッッ」

 新渡戸伊都子は、頭がいいし、元気もいい。

 大きく息を吸い込んだ。

「よし。行」

「ねぇ。」

 出鼻をくじかれた。

 後ろから声をかけられた。

 その声の方向に、振り返った。

「楽しそうね。」

 スーパーの袋を手に提げた女性が、すぐ後ろで微笑んでいた。


 用意するものは、できるだけたくさんの睡眠導入剤と、ロープ、鉄槌、ナイフ、今にも壊れそうな頼りない感じのボート、持ち運べるくらいのだけどそれなりに重い岩。実行場所は、誰もいない海岸。

 方法は、まず睡眠導入剤を全部一気に飲み干すでしょ?次にナイフで手首を切っておくでしょ?で、岩と自分の足首をしっかり結びつけて、ボートに岩を載せて一緒に乗り込むでしょ?ボートで海に乗り出すでしょ?沖に出たところで鉄槌で小さく穴を開けておくでしょ?で、そうこうしているうちに睡眠導入剤が効いてきて眠り込んでしまうでしょ。そうしたらもう占めたもの。いつの間にかボートが沈没して意識を失っているうちに溺死完了。そうでなくても手首の傷から海水が入って血液中に塩分が混じって失血死。いろんな方法考えたけどこれなら誰にも見つからないからみんなに迷惑かからないしめちゃくちゃ痛かったり苦しかったりする可能性も低い。

「最ッッッッ高の、自殺法でしょう?」

 空に高らかに謳いあげた後、女性の方に手振り付きで振り向いた。

 女性は砂浜にしゃがみこんで、物珍しそうにボートの淵を右手の人差し指でなぞり、左手で顎を支えていた。人の話は姿勢を正して目をしっかり見て聞くようにと学校で教わらなかったのか。裾の弛んだグレーのトレーナーとジーンズ姿で、長いストレートの黒髪を後ろで一つに束ね、化粧気のないその女性の風体は、一言で表すとだらしがない。

「すごいわね、自分で考えたのね、えらいわ。」

 語尾を伸ばして、女性は話す。

「でしょう!?」

 当たり前だ。伊達に進学校に入学してからの定期試験で一度たりとも学年六位以下の成績に落ちたことがないのだ。伊都子は胸を張る。突然現れた大人に賛辞を贈られて興奮気味な彼女には、その声に感情がないことに気づかない。

「でもね、お薬、水なしで飲むの?」

 女性は、先ほど伊都子を讃えた声と同じ、人を苛立たせる目論見が裏にあるのではないかと疑わせる間延びした調子で、女性は問う。

「それは、海水で」

「海の水って、意外としょっぱいのよ。溺れて、死んじゃう前に、先に血が塩で一杯になって、死んじゃうかもよ?」

 自身の首を両手で締めて「きゃー」と上げた悲鳴からは緊迫感をまるで感じられなかったが、女性の返答の意味を自分なりに噛み砕いて考えてみると、悲惨な情景が頭に浮かんだ。

 ・・・塩分中毒になるってこと?

「うわ、それ苦しそう。」

 伊都子は怯んだ。

「でしょう?」

 出会った頃から口元に浮かべたままの微笑は変わらない。

「あとね、血の出しすぎで死んじゃうには、手首、すぱーんって、骨ごと全部、切り落とすくらいで、切っちゃわないと。ちょこっと傷つけたくらいじゃあ、血液が、出たくない出たくないって、体の中をぎゅんぎゅんに巡りまくるだけで、負けちゃうからね。」

 頭の悪い人間が用いる表現はいちいちわかりにくい。

 伊都子は聞いているうちに胸元に苛立ちがこみ上げてくるが、しかしなぜだか女性の話を無視することができない。

 右手の指先から手首までが我が身から離れて、湿った砂浜に突き立っている様を想像する。

 背筋が凍る。

「て、いうか、ね。お父さんとお母さんには、迷惑がかかるよね、絶対。子どもが急にいなくなって、何もしようとしてなかったらさ、世の中の人は絶対に、怪しむよね。あの家の子最近見ないけどどこいったんだろーって。どんな親であっても、子どもがいなくなったらさ、寂しいよううちの子はどこーって、アピールくらいはしとかないとね。だって、お腹を痛めて生んだ我が子でしょう?そんな、尊い尊い、目に入れても痛くないはずの持ち物が、ある日突然、いつのまにかなくなって、なのにその親御さんがケロッとしてたんじゃ、誰だって疑っちゃうでしょ。実はいらなくなってやっちゃってましたーとか、ね?」

「アピール・・・」

 成人しているのであろう女性の口から出た数々の単語の持つ威力は、おそらく自身が考えているよりもおぞましいものであった。

「失踪しましたっていう届出をして、捜索願を出して、周りがあんまりうるさいようであれば、会社休んで、ビラ配りとかもして」

 アピール、失踪、捜索、ビラ配り・・・。

 周囲が被る被害についてのシミュレーションが至っていなかったことに気づかされ、血の気が引いてくるのが自分でもわかる。

 絶句する。

 が、言われてばかりでもいられない。

「き、決めたことは最後までやり通さなきゃいけないでしょう!?」

 パパもママも先生も、口を酸っぱくして言う言葉だ。至言だ。

「うん。それはとても大切なことね。」

 幼稚園児がするような大きな振りで、女性は頷く。

「言われなくても全部わかってるよ!私は頭がいいんだから!」

 必死さのあまり、大人に対してタメ口で会話してしまっているが、伊都子は気が回らない。

「へー。頭いいんだ。」

 女性が感心している風を装ってはいるものの、内心では逆の感情を抱いていることは、伊都子にもわかった。

「私は私立の有名進学校で、ずーっと学年五位以内なんだから!」

「頭がいいのと、成績がいいのって、一緒じゃないってこと、知ってる?」

 心臓を、なにか冷たくて鋭いもので貫かれたような感覚があった。

「へ・・・?」

 伊都子が嫌っている間の抜けた返しを、自分でしてしまった。

 女性は、その短い問いかけに応える気はないらしかった。

「そんな立派な計画聞かされて、へーすごいねーがんばってーって、私がこのまま帰っちゃったのバレちゃったら・・・なんだっけ、先週のコナン君で見た、アレ」

「・・・自殺幇助(ほうじょ)の罪?」

 先週は両親とも帰りが遅かったので、三週間ぶりに名探偵コナンを鑑賞することができた。

「そう!じさつほうじょ!やっぱりあなた、あったまいい!」

 今更言われても嬉しくない。

「人様に迷惑かけちゃ、いけないわよね?」

「・・・・・・でも」

「いけないわよね?」

「・・・・・・。」

 完全に負けた。

 みっともない。

 伊都子は全身の力が抜けてしまい、その場にへたりこんだ。

 必死で考えた計画を通りすがりの頭の悪そうな知らない女の人にいとも容易く論破された。

 一世一代の自殺という晴れ舞台を台無しにされた。

 恥ずかしい。

 こんなに恥ずかしいと思ったのは、中学に入ってから初めての中間テストの現代国語で、初めてカラオケに誘ってくれた北村瑠璃より十点も低い点数を取ってしまった時以来だろうか。

 顔から火が出そうだ。

 これから不良女子中学生として警察に突き出されるのだろうか。

 情けなさのあまり何も言い出せずに、黙って次の言葉を待っていた。

 しかし、女性の下した判決は、そう頭のよくない伊都子にとっても、まったくもって予想外のものであった。

「唐揚げ、食べに来ない?」

 元々小作りなのがさらに細められたその目からは、彼女の思惑が読みとれなかった。



 井倉(いくら)苑子(そのこ)、とその女性は名乗った。

「私が生まれる時、私、とっても難産で、陣痛が始まって、二日経っても三日たっても四日経っても、なかなか出てこなかったんだって。で、私のお母さんが、いたいたいたいたい焼肉食べたい叙々(じょじょ)(えん)行きたいー!って、病院中に聞こえる大声で叫んだ瞬間にツルって生まれたのが、私。」

 だから、叙々苑の苑と書いて、そのこ、と言って、にっこり笑った。

 自信を打ち砕かれて考える余裕がなかった伊都子は、促されるがままに、知らない大人についてきてしまった。苑子が住んでいるという集合住宅に行くまでの道中、苑子は聞かれもしないのに、自分の話をぺちゃくちゃと勝手に話しだした。

「私、そこのスーパーのお肉屋さんで働いてるんだけどね。シフト制だから、時々お休みに間違えて行っちゃうのよ。ばかなのよ、私。」

 あてつけだろうか。

「で、そういう時、朝早すぎて、家に帰っても何にもすることなくって、暇だから、適当に買い物してからしばらく海をぼぉーっと眺めてから帰るんだけど。今日も同じようにしてぼぉぉーっとしてたら、なんか、女の子が重そうな物引きずって、一人できゃあきゃあ言ってるでしょう?なんだろー、面白そって、思ってね。」

 苑子の話すスピードはゆったりとしていて、度々話題が脇道に逸れる。しかし、話すこと自体は好きなようで、伊都子が相槌を打っていてもいなくても、気にせず喋り続ける。

 今日は土曜日で、今の店では土曜日の晩御飯には牛肉を食べるご家庭が多いようで鶏肉が売れないのにパートの西田さんが云々。聞き手に全く興味関心を抱かせない身の上話を右から左へと聞き流しながら、伊都子は苑子の容姿を観察していた。

 背の高い伊都子よりも少なくとも二十センチは身長が低い。トレーナーを着ているため正確には判断がつきかねるが、どちらかといえば痩せ型。胸も尻も薄い。

「・・・せくしい?」

「ふわぁっ」

 不意に顔を下から覗き込まれ、情けない声を上げてしまった。

 日が昇る前に出勤して日が沈んでから退勤することが多い、などと先ほど述べていた。そのためか、肌は不気味なほどに白い。細い目の面積の多くを占める大きくて真っ黒な瞳、小さな鼻、微笑を浮かべた、艶を感じさせない薄い唇。三十歳と紹介されたら納得するし、実は十九歳と明かされても、信じられないことはない。

「ななななんですか!?」

「じろじろ見てるから、そんなに私の身体はえっちかなーって。」

 自身に向けられた目を察していたようだった。

 時々鋭いのだ。この人は。

「えっちって・・・」

 あなたの容姿から、最も縁遠い形容詞。

「まぁいいわ。さ、どうぞ。」

 苑子を見ると、いつの間にか集合住宅の、今にも一階の一室の扉のノブを握っていた。鍵は開いているようだ。

「ただいまぁー。」

 苑子が元気よく挨拶すると、扉を開いた先の奥に声をかけると、おかえりーと返す、男性の声が聞こえ、同時に、体に良くなさそうな油の匂いがぷうんと鼻を突いた。


 人生最大の屈辱に打ちひしがれていた伊都子は、部屋に入る前に聞こえた、風船の空気が抜けていくときに出る音のような覇気の感じられない男性の声にふと我に返り、苑子の背中から声の主の容姿を確認すべく、ひょこと顔を覗かせた。

 見た目の第一印象は、白いカエルだった。

 三十歳くらいだろうか。色白で、肥満とまではいえないぽっちゃり体型。髪はところどころ縮れていて(後に天然パーマだと聞かされた)、目が丸っこく、鼻は鷲鼻で唇が厚い。顔のパーツがいちいち大きく、派手だ。雨の日には勝手に歌っていそうな、カエル。その場に居合わせた誰彼構わずに「さんはい」と輪唱を促してきそうな風体。そのカエルが黒いスーツの上にエプロンを着けて、何かを調理している。

 ナーバスになってる時に、また面倒くさそうなのが。

「んん?」

 白い蛙は、見慣れない人間の視線に気づき、銀縁の分厚いレンズの眼鏡越しに、ぎょろっとした丸い目を伊都子に向ける。

「俺、しもだはんた!よろしく!」

 その濃厚な笑顔は、にこにこというよりもにたにたとしていた。

 いつもであれば、頭のいい新渡戸伊都子らしく、相手が誰であろうともたとえカエルであろうとも、元気に爽やかに自己紹介を返すのであるが、ついさっき自信をボキボキに折られたばかりで、営業用の笑顔を浮かべる気力はない。

「・・・新渡戸伊都子です。」

 消え入りそうな声で名乗り、視線を派手な顔の右、伊都子から向かって正面の畳敷きの部屋に移した。

「面倒くさいわよね。」

 包み隠さず代弁してくれた。

「なんですか面倒くさいのって、俺のことですか?」

「伊都子ちゃんていうのね。名前、聞き忘れてたわ。」

「苑子さん、名前も知らない女の子自宅に連れこんだんですか?」

 苑子もしもだも、伊都子の非礼に対して特に興味はなさそうだ。

「伊都子ちゃん、もうちょっとしたら美味しくないかもしれない唐揚げがいっぱいできるから、そこのちゃぶ台のところで、TVでも見て、待っててくれる?」

「美味しくないかもってなんですか!せめて美味しいかもでしょ?」

「えー、美味しいかもだったら、美味しくない可能性の方が、高い感じしない?」

「えっ、ええーと・・・どっち?」

 二人のやり取りを横手に聞き流しながらすたすたと畳の間に入り、その場にあった座布団に腰掛け、リモコンでTVの電源を入れた。だが、玄関から入って正面突き当りに配置されてある、今時珍しいブラウン管の分厚いTVはいつまでたっても映像を映し出さない。

「あ、ごめんね、大きい方は壊れちゃってるから、TVは左側の薄い方ね。」

 声を聞いて、左手のTVに向き直り、再度電源を入れる。今度はちゃんと点いた。たまたま最初に映ったのは釣り番組で、体格が良く顔の濃い俳優が、釣竿と巨大な鯛を抱えてがははと豪快に笑っていた。

 つい一時間前、私は必死に自殺しようとしていた。

 それが今や、見知らぬ大人達の能天気なやり取りを聞きながら、美味しくないかもしれない唐揚げが食卓へ運ばれてくるのを頬杖をついて待っている。

「・・・へんなの。」

 ひとり、呟いた。

 

 苑子の家に上がってから数分後、入口から入って左手に台所を併設する短い玄関を抜けたところにある三畳間の一部屋に、三人がちゃぶ台を囲んで腰掛けていた。

 三人とは、伊都子と、苑子と、しもだ。

 ちゃぶ台の上には、およそ三人では到底食べきれない量の唐揚げが盛られた大皿が、中央にどでんと座している。そして、苑子寄りの位置に、ジュース作りが趣味だという苑子特製の林檎ジュース入りのピッチャー、三人の前には、それぞれ箸とコップが置かれていた。

「いただきます!」「・・・いただきまーす。」

 神頼みでもするかの如く几帳面に両手を顔の前で合わせて食前のお辞儀をする二人に気後れしながらも、遅ればせながらも渋々と、両手を合わせる伊都子。

 顔を上げると、しもだは生きている鶏を捕らえるかの如く唐揚げに素早く箸を伸ばし、掴んだそれを、自らの口に投げ入れた。

「あっふっ」

 そりゃ熱いでしょ。

 伊都子は内心呆れながら、中学生の一般的な動作で唐揚げに箸を伸ばし、一口齧る。口の中に、体に良くなさそうな油で揚がった衣と、うっすらとした醤油や酒の風味と、鶏肉の味が広がる。

「・・・普通。」

 普通に出た感想だった。

「そう!普通なのよ、毎週揚げてるはずなのにね、これがいつも。」

 意を同じくする者を見つけたという喜びに満ちあふれた表情で、苑子が手を叩いた。

「これが美味しくなかったら、やっぱりしもだだねって言えるのにねぇ。」

「苑子さんいつも言いますけど、やっぱりしもだだねってなんですか?なにがやっぱりなんですか?」

「えー?なんか、しもだって、なにをやらせても、しもだだねぇ、上田にはなれないわねぇって、そんな感じよぉ。」

 しょうもな。

「・・・全国各地に点々と散らばっている下田さんに失礼でしょ、謝ってくださいよ苑子さん。ていうか俺そのしもじゃないし!志に茂る田んぼで志茂田(しもだ)だし!」

「えっ似合わな」

「おい、似合わなって言ったろそこの女子大生!」

「女子大生じゃないし女子中生だし!」

「ええー!老けすぎだろ!」

「老けてないもん背が高いだけだもん!」

「あら、初めて会う女の子に、そんな失礼なこと、言っちゃうのね。そんなのだから、やっぱり」

「だからそのしもだじゃないですって!」

 他愛もない口喧嘩を交わしながら、志茂田は勢いよく、伊都子は早くもなく遅くもなく、苑子はゆっくりしたペースとで、美味しくなくはない普通の唐揚げを胃に収めていった。

 二十分ほど食事を続けて誰からともなく全員の箸が止まり、まだ大皿に残った唐揚げを苑子が台所に下げ、再度ちゃぶ台の前に戻って、座布団の上に腰を降ろした。

「ごちそうさまでした!」「ごちそーさまでした。」「ごちそうさま。」

 両手を合わせた。

 今度は三者のタイミングが合った。

 苑子が、伊都子の顔を見て、微笑んだ。

「ところでね、伊都子ちゃん。」

 曲線を描いた薄い唇が、安い油で照って輝いていた。

「お願いがあるの。」

 厚い瞼の下の黒くて大きな瞳には、嫌と言わせない何かがあった。



 何度も何度も繰り返す。新渡戸伊都子は、頭はよくないが、背が高い。だから、初対面の大人にも、よく実年齢よりも年上に見間違われることが多い。

 苑子のお願いとは、伊都子のコンプレックスであるその特徴を、大いに利用することができるものであった。

 伊都子のスマートフォンの電話番号と苑子の自宅の固定電話の番号を交換し(苑子は今時珍しく、スマートフォンどころか、携帯電話すら持っていなかった)、家を後にした伊都子は、バスと電車を乗り継いでさらにもう一度バスに揺られて、およそ十八時間ぶりに自宅に戻った。

 呼び鈴の前でどう言い訳をしようか考え込んでいると、勢いよく父と母が扉を開けた。門の外に伊都子の姿を認めた二人はぱっと破顔し、「いっつこォッッ」と大声を上げて泣きながら両手を広げて伊都子に飛びかかった(後に聞いた父の話によると、「あの時は感動のあまりおもわず二人して抱きついちゃったよハッハッハッ」だそうだ)。疲れ果てた様子の両親の姿を目にして一瞬だけ心に浮かんだ後悔も吹き飛ぶほどの大袈裟な再会の演出に、伊都子は強制的に冷静に戻らされた。「大丈夫?怪我はない?」「変なことされてない?」「ああ無事でよかった」「ちょうど今から警察に行こうとしてたんだよ」「あの時はごめんなぁ。五万円なんて大事な私たちの伊都子に比べたら紙切れ同然だよ」などと口々に言葉をかける両親たちを「違うよ四万二五四円だよ」などと反論したいのをぐっと堪えることができる程度には頭がよくなった伊都子は、時間をかけて辛抱強くなだめた。

 そしてその日の夕食の席で、大量に出された伊都子の好物である豚カツの香ばしい匂いに胸焼けを起こしながらも、言った。

「毎週土曜日と日曜日、塾の特別講習に通いたいの。」

 伊都子の突然の申し出を聞き、両親は一瞬何を聞いたのかわからないというような表情をした後、再び涙をぽろぽろと流し始めた。「そうかぁ伊都子もやっと塾に通いたいと言ってくれるようになったか」「ミッチーの追っかけなんかより、塾に行きたいと思ってくれるようになったのね」「ミッチーじゃないよみっつんだよ」「伊都子はあなたに似て頭がいいから塾なんていらないかと思っていたわ」「違うよ君に似たんだよ」「いいえあなたよ」などと愛しの三軒屋光寿の愛称を言い間違われた今回は反射的に言い返してしまったが次第に惚気(のろけ)に溺れていく両親には気づかれなかったようだ。

 流れのままに、伊都子は来週の土曜日から塾の特別講習に通う許可と、今月分の受講料八千円を現金で受け取ることに成功した。もちろん来月以降も約束してある。

「私は頭がよくないの。でも、パパとママに負担をかけたくないから、週に何日も通おうとは思わない。毎週土曜日と日曜日だけでいいの、生徒会長の幸田雪乃(こうだゆきの)さんが通っている塾の特別講習に通いたいの。土日、土日だけでいいの。」

 母親が心酔し、伊都子が内緒で毛嫌いしている同級生の名前と、つい数時間前に痛切に認識させられた衝撃の事実を織り交ぜた、右に記した最高の演説原稿を用意していたが、出番はなかった。自分たちは頭がいいと誤認しているらしい両親は、説得の必要はなく、ほとんど勝手に納得してくれた。

 塾なんて、特別講習なんて、幸田雪乃なんて、まっぴらごめんだ。

 伊都子は、毎週土曜日と日曜日、幸田雪乃の通う塾と最寄り駅を同じくするスーパーに、アルバイトをしに行く。八千円は、そのための交通費と諸経費だ。

 苑子の頼みとは、彼女が働いているスーパーの惣菜部で、諸事情により退職した高校生アルバイトが悪い噂を流してしまい、そのため募集をかけても新人が入ってこなくて困っているから、その代わりに伊都子に入って欲しい、というものであった。もちろん給与は支払う。勤務中は衛生上の都合から、髪の毛一本も外目に触れない真っ白な作業帽と作業着とマスクで全身を覆わなければならないから、伊都子の背の高さを見て、まさか中学生が働いているとは誰も思うまい。

 愛しの三軒屋光寿を追い求めるための資金を自分で調達できるというメリットは伊都子にとって素晴らしいものであった。

 だが、苑子の頼みを引き受けた理由は、それだけではない。

 この大人の女性は、自分の大嫌いな部分を、特長として見てくれている。

 そのことが、伊都子は本当に嬉しかった。

 自室の勉強机で封筒の中身を出して数え直し、きっちり千円札八枚があることを確認した後、伊都子はひとりで呟いた。

「頭がよくなるって、きっとこういうことだよね。」

 良心は、痛まなかった。



 翌週の金曜日の放課後、苑子の家でアルバイトの面接に備えるための作戦会議が開かれた。

 だが実際のところ、会議とは名ばかりのもので、履歴書を作成したり惣菜部主任の人となりについての説明を受けたりした後は、他愛もないただの雑談になだれ込んだ。

「志茂田半太は、私のお店にお肉を卸してくれている、お肉屋さんの営業くんよ?」

 伊都子が、苑子と志茂田の関係についてにやにやと意地の悪い笑みを浮かべながら尋ねると、そのような答えが返ってきた。

「お肉屋さんの営業?だって、苑子さんはお肉屋さんでしょ?」

 苗字が違う点からして夫婦ではない、ということは恋人同士かあるいはなどと下世話な推測に一週間胸を躍らせて続けていた伊都子は、それでも何か面白い話の糸口はないかと、質問を重ねた。コップに並々と注がれたジュースを一口飲む。今日の苑子特製ジュースはオレンジだ。甘酸っぱくて美味だが、除き忘れられた種や筋が時々喉にひっかかる。

「お肉屋さんだけど、お肉屋さんじゃないのよね。精肉部なのよね。」

 直接会うのは二回目で、まだまだ謎に包まれた女性である井倉苑子だが、ひとつだけ、会って三十分ほどで伊都子は痛切に理解したことがある。彼女は説明するのが下手だ。

「ええと、簡単に言うとな。」

 ジュースを勢いよく飲み干した志茂田が割って入る。

「俺の勤めてる肉の卸しの会社から苑子さんがお肉を仕入れて、苑子さんはそれを切ったりパックに詰め直したりして、お客さんが手に取りやすく、調理しやすくして付加価値を付けて、売ってるの。だから、簡単に言うと、俺の会社が肉屋さんで、苑子さんは加工屋さん。」

 志茂田が助け舟を出す。

「ふうん。」

 特に興味がない伊都子は、曖昧に頷いておいた。

 


 今日は大量の美味しくないかもしれない唐揚げは無い。

 志茂田の口から聞いたところによると、精肉部勤続四十六年というベテランパート従業員の西田(にしだ)(よし)()さんが、毎週土曜日に鶏肉が大量に入荷するよう発注をかけてしまうのだそうだ。土曜日に鶏肉が大量に売れていたのはもう二十年以上前の話で、何度注意してもそのミスは改善されない。苑子が気づいて発注機を訂正したり取引先に電話をしたりしても、どうしてだか土曜日早朝には筋のしっかりした綺麗な桃色の肉塊が山のように届けられる。毎週クリスマスパーティーを開くわけにはいかない。土曜日の早朝、その瑞々しい塊を苦々しい気持ちで見るやいなや、すぐさま取引先やパート従業員、他部署の社員にも確認をとってみると、必ず、出るのだ。「西田さんが」「西田のおばあちゃんが」「西田さんねェ」。転勤してきて一ヶ月も経たない頃、この少し腰の曲がったしわしわのおばあちゃんは、精肉界に一体どんな独自ルートを持っているのかと疑ってぞっとしたものだった。もしかしたら認知症が出ているのではないかと疑われ、医療機関への通院を促したり退職を迫ったりしてみたものの、若い時に夫を交通事故で亡くし、二人いる息子は家を出て離れた土地で暮らしているという小さな老人の涙ながらの「私は働かにゃ生きていけんのです」という訴えは、意外と淡白な苑子さんには響かないが、昨年母を亡くしたという心優しい店長を、いつも簡単に説き伏せてしまう。とはいえ、土曜日に大量発注をして赤字を出す点を除けば、西田良枝さんは使える人材である。パック詰めやラベル貼りは正確で丁寧かつ早い。繊維を殺さず美しく薄く肉をスライスする技術を持っているので、正直なところ、入社五、六年目の精肉部担当社員福元(ふくもと)(はじめ)君よりも、重宝している。

「・・・なんだけどね。」

 商品の陳列を終えたある土曜日の昼下がりに、作業場裏の自販機前に設置されている喫煙スペースでため息をつきながら、入社して五年だか六年だか(細かい年数は興味がないので覚えていない)の間に色々見てきたはずなのにそれでも未だに目を輝かすことがある、この精肉の仕事に夢と希望を捨てきれずにいる担当社員の福元(ふくもと)(はじめ)君には聞かせたくない愚痴を、たしか下田(しもだ)とかいった出入りの業者の兄ちゃんに聞いてもらっていた。

「あれ、全部売り場に頑張って陳列したって、大赤字だもの・・・。転勤したての頃はお惣菜で使ってもらったりもしてたけど、こう、毎週毎週となると、ね・・・。」

「大変ですよねぇ。やっぱ主任さんは。」

 煙草を吸わない苑子はオレンジジュースの缶を、いつもは吸っているが女性の前で気を遣った志茂田は特に好きでもないブラックの缶コーヒーを手にしていた。

「そうよ。いつもにこにこの苑子さんだって、こればっかりにはストレスマッハよ。」

 空を仰ぎ、缶ジュースの底を眉間にあてる。

「そうですよね。ストレスマッハですよね。苑子さんて綺麗な名前ですよね。」

「先々月から毎週毎週自腹で山盛り買って帰ってるから、先々月の鶏肉が、まだたんまり冷蔵庫の中でお休みしてるのよ。」

「えっ捨てたり入れ替えたりしないんですか?お腹壊すじゃないですか。」

「あら?そうね。」

 本当にたった今気づいたらしい。缶をおろして正面に向き直り。しばらく考える様子で人差し指を顎にやっていたが、

「・・・ま、いいんじゃない?」

 その時の、自らの横着さに呆れて苦笑した苑子さんの様子が、生きてきた中で目にしたどんな生き物とも比べられないほどに愛くるしくて可愛くて抱きしめたかったと、下手くそな声真似を用いた当時の再現を中断してまで志茂田はのろけたが、伊都子は気持ち悪いと思っただけで特に反応を示さなかった。

 自然な流れを意識して取り入れたつもりの口説き文句を自然な流れで聞き流された志茂田は、だがそれでもくじけなかった。

 気になっている女性に、作業場でも事務所でもない場所へ誘われてふたりきりで話をするチャンスなど、もう二度と巡ってこないかもしれないのだ。

「・・・俺、半分出します。」

「なぁに?」

 決死の覚悟で予定調和を崩す試みをしてみたが、聞き返された。

「全額はいろいろ、その、癒着とかになっちゃって駄目だけど、その、半分くらいなら。予算に合わない、苑子さんが毎週買って帰ってる分の半分くらいなら、俺、自腹で買取ります。」

「ええー?」

「その代わり・・・ってなんか変なんですけど」

「ん?」

 前任担当者に引き連れられて挨拶しに来た時から綺麗だなと思っていて、毎回の値段交渉の際も恥ずかしくていつも目を背けてしまっていたその女性の黒目がちな瞳を、その時初めてまっすぐに見たそうだ。

「唐揚げ、作らせてもらえませんか?苑子さんの家で!」

「いいわよー。」

 その道中、あれは自分にとって一世一代の愛の告白だったのだと志茂田から聞かされた時も、苑子は、

「そうだったのね。ありがとう。私、大好きな人がいるから。」

と、特に思うところのない様子で口にされたという。



 今日は苑子も志茂田も非番だそうだ。苑子はボーダーのスウェット生地のワンピース、志茂田は英単語が大きく印刷されたTシャツとチェックのゆったりとした短パンを着用している。伊都子は英語が得意である。その英単語のろくでもない意味を思い浮かべては心の中で笑みを噛み殺していた。伊都子だけの優越感を保持するため、あえてその意味は教えない。

「ああーっ!」

 もはや虚偽でない記載を発見することの方が難しい履歴書の最終チェックをしていた志茂田が、驚きの声を上げた。

「どうしたの?上田くん。」

「だから志茂田ですって。見てください、ここ。」

 大人の付き合いが面倒くさい伊都子は、ふたりが身を寄せ合って一枚の書類を注視している様を傍観している。

「普通運転免許取得って有り得ないでしょ。十七歳の設定なのに!」

「えー、いいじゃない。十七歳で運転免許持ってても。書き直すの面倒くさい。」

「面倒くさがってる場合じゃないですよ。怪しまれて別の箇所も追及されちゃったらどうするんですか!」

「大丈夫よ。伊都子ちゃんは出来る子よ。」

「いや無理だよ。」

「じゃぁ、十八歳の設定に変えちゃおっか?」

「駄目です。いくら伊都子ちゃんが老けて見えるからって、中学三年生と高校三年生の情報量にはどうしたって超え難い壁があります!中学生と高校生の俺の甥っ子たち見てたら全然違いますよ!」

「それは、男の子だからよ。女の子は違うわよ。中学生のうちにいっぱいいろんな知識蓄えちゃってるから、高校生になっても結局そう変わりないわよ。」

「そ、そうなんですか?」

 伊都子は、周知の事実のように彼女のコンプレックスを刺激した志茂田を言いくるめようとしている苑子の側に身体の重心を傾けている。

「言われてみればそうっすね・・・女の子って男に比べておしゃまですもんね。」

 今になって志茂田は、苑子の頬が自分の頬と擦れそうな近さにあることに気づいて、視線を落とし、思考が停止しかかっている。

 中学生の今後の人生がかかった大事なことでしょう。もうちょっと言い返しなさいよ。面白くない。

「そうよ。私が原付の乗り方を知ったのは十五歳の時だもの。女の子は早いのよ。」

「いやそれは駄目でしょう!?」

 案外不良だったのかな、苑子さん。

「十五の夜って歌があるじゃない。歌は人生を教えてくれるものだからね。」

「いや、それ駄目な教わり方です!憧れで終わらせるところです!」

 自分で言っていて心が痛まないのだろうか。

「なによ、私のお父さんが常々言ってたことなのに、ばかにしてるの?」

「お父様のおっしゃることには文句はないです。素晴らしいです。その、苑子さんの受け取り方が駄目なんです!」

 苑子は志茂田から履歴書を乱暴に奪い取り、わざとらしくため息をつく。

「もー、駄目駄目ばっかり言って。そんなのだからしもだなのよ。」

「そんなの!やっぱりじゃない!新しい!」

 聞いてられないわ。

 伊都子は呆れながら、空になっていたピッチャーにジュースを足すため席を立ち、台所に向かった。築六十数年という木造の集合住宅の床は、小柄な伊都子が歩くだけでもギシギシと音が鳴る。台所でミキサーに残ったジュースをピッチャーに移していると、特に意識していなくても聞こえてくる。今度は修正液を使うか新しく書き直すかでもめて、修正液の捜索にかける手間暇が惜しいからぐるぐると塗りつぶして目玉を二つ並べてしまえばあら可愛いという横着を躊躇なく主張する苑子に、感情に流されてまたしても白旗をあげそうになっている情けない志茂田の図が浮かんだ。

 ふたりとも頭が良さそうには見えず、お似合いだなという判定を心の中だけで下す。

「・・・ふふ。」

 伊都子の通う偏差値の高い私立校には、大人といえば、理路整然と話すか全く何も話さないかの、面白みのない教員達しかいない。両親や親戚の喋りも、まるで歩く新聞記事だ。

 くだらないことに本気になって、正しくない語彙を遣って言い合う大人の姿が、伊都子の目には新鮮に、快く映った。

「はいはい。修正液なら私のペンケースの中にありますよ。」

 笑い混じりに告げながら、伊都子はふたりの前に戻っていった。



 翌日、学校の授業を終えた伊都子はホームルームが終わると同時に教室を走り出て、バスに飛び乗った。四駅先のバスターミナルで降り(幸いなことに今日は運転士に呼び止められることはなかった)、百メートル先の改札を抜け、電車に飛び乗る。通過する八駅分の時間が惜しい。今日は抜き打ちの手荷物検査が実施されて、三名の漫画雑誌の持ち込みが明るみに出てしまい、ホームルームの時間が延びたのだ。みんな放課後は部活動とか塾とかで忙しいというのに、保健体育を担当する担任教諭の(どう)(じま)茂樹(しげき)は中学生を取り巻く世の中の厳しさを知らないらしい。「君たちは学校に何をしに来ているんだね!?」「勉強です。」クラスメイトで生徒会長の幸田雪乃は即答する。・・・嘘だ。二名を除く、幸田派に属していない他の生徒全員が空気で否定する。勉強とは、塾か家で行うものだ。私たちは青春をしに学校へ来ている。大好きなアイドルやアニメやスイーツやちんちんの話をしに来ている。クラスメイトの八割が無言ながらも同じ意志を共有していることがわかるが、正義に燃える担任と生徒会長にはその空気が読めないらしい。いつもなら十分程度で終わるホームルームは、担任教諭のとても尊く有り難い演説によって二十分も延長された。

「・・・迷惑でしかない。」

 ひとりごちる。よりによって、面接も兼ねた勤務初日に遅刻の危機だ。

 目的の駅に着いて電車を走り降り、改札を抜けた。出てすぐ左にある女子トイレで制服のスカートを脱ぎ、黒い綿パンツに履き替えて形だけの手洗いをする。上はカッターシャツなのでそのままで大丈夫だ。トイレを出て、大人の足で歩いて二十分の距離を、中学生三年生の全力疾走で九分に短縮させ、苑子の言いつけ通り、正面入口から回って後ろの搬入口から店内に入り、ところどころ錆付きが見られる事務所の扉の前で息を整え、三回ノックをする。「失礼します」を告げようと口の両端を斜め上に釣り上げた瞬間に扉が開き、出てきたコック姿のジャイアンと目があった。

「・・・・・・・・」「・・・・・・・・」

 不意打ちをくらった伊都子は「し」の口で硬直していたので、ジャイアンに「てめぇなに扉の前でニヤニヤつったってるんだこっち来い」などと怒鳴られて首根っこをひっ掴まれて事務所に引きずり込まれるかと身構えたが、目が合ったジャイアンは白い歯を見せてにかっと笑った。

「・・・いくらちゃん?」

訊いてきた。

 何のことだかわからず、即答できなかった伊都子であったが、そういえば井倉苑子精肉主任の年の離れた妹という嘘設定があったことを思い出し、

「ハッハイ!」

と大きく返事をした。ジャイアンは、初めてのアルバイトで緊張していると都合よく解釈してくれたらしく、

「じゃ、入って。」

目を細めて優しく入室を許可した。

「し、失礼しまぁす。」

 強面の大柄な男性が発する優しい響きに面食らいながらも、事務所に入った。

 座するよう促された事務椅子にちょこんと腰をかけ、向かいに座るジャイアンに、「よろしくお願いします」と言いながら頭を下げたまま両手で履歴書を差し出す。その緊張した様子に苦笑しながら履歴書を受け取り、内容に目を通している。そういえばこの人がお惣菜の主任さんで合ってるのかな、など今更ながら疑ってしまう。食卓に並ぶ煮物よりも相撲部屋でちゃんこ鍋を作っているのが似合っていそうな、そのどっしりとした風体を眺めていると、

「いくらちゃんが精肉主任って面白いよな。」

またも突如声をかけられた。

「ハイ!?」

 大きく肩を震わせた。志望動機や勤務希望など、苑子の用意した出題予想の範囲を大きく逸脱した問であったため、激しく混乱した。もしかして、質問が投げかけられた相手は自分ではないのかもしれないと目だけで周りを見渡したが、事務所には他に生臭い匂いのする白衣を着た老齢男性がひとり、パソコンに向かいながら頭を掻いているだけであったので、対象はやはり自分であると認識した。

「ほら、いくらちゃん。」

「・・・・・・」

 虚偽記載まみれの履歴書からようやく顔を上げたジャイアンのいたずらっぽい笑みを見つめているうちにだんだん緊張がほぐれてきて、彼の発する『井倉』のイントネーションへの違和感の理由が次第に理解できるようになってきた。

「・・・ああ、サザエさん!」

 無意識に上げてしまった歓声に、背後で老齢男性が振り向いた気配がした。両親に視聴を許可されたニュースと一部の映画と、留守番の時にこっそり見る名探偵コナンと動画サイトで見られる歌番組以外のTV番組名をほとんど知らない伊都子が、日曜夜の国民的アニメのサブキャラクター名を緊迫した状況下で思い出すのは、至難の業であった。

「たしかに!うけますね!」

 別に大して面白くはないよとの毒は心にしまっておく。

「なー。誰に言ってもそう言うんだぜ。気づいてないのかな。」

 そんなことはないだろうが、特別面白くもないから言っていないだけだよ、なんて真実を告げてしまっては傷つくのではないかと心配になるほど、ジャイアンは図体の大きさからは想像ができないほど、柔和な話し方をする。

「おっけー。学生証、いま持ってる?」

「すいません。紛失して今手元に無いんです。」

 志茂田に随分練習させられた台詞だ。

「あ、そう。じゃ、いいよ。」

 いいのかよ。その後の理由を説明するくだり、全然いらなかったじゃん。

「・・・採用ですか?」

「うん。いくらちゃんの妹さんだったら、問題ないでしょ。これからよろしくね。」

「あ、ありがとうございます。」

 どもらないで返事ができないことを苦々しく思うが、正面に座る相手は別段気にしていないようだ。スマートフォンを操作しながら続ける。

「あとは住民票記載事項証明書を役所でもらって、保護者の承諾書にお母さんに判子もらって、そのうち持ってきて。」

 おもむろに事務机の引き出しを開けて、幾つかの書類と小さな鍵を出し、伊都子の座っている机の上に置いた。

「じゃ、この契約書記入しといて。更衣室の説明とかパートさんにしてもらわないといけないから呼んでくるわ。」

 そう言って、事務所を出ていった。

 楽勝だった。



 初めてのアルバイトを終えた午後八時。伊都子は苑子の家で、やはり唐揚げを頬張っている。

「仕事終わりでも、やっぱり普通だね。」

「でしょ?自分で言ってくるくらいなんだから、てっきり、相当唐揚げに自信があるんだなって、期待しちゃうじゃない。でも、いつまでたっても普通なのよね。」

 本日、志茂田はこの場にいない。急遽会社から呼び出しを受けたとかで、鶏肉を揚げるだけ揚げて自分は料理に手をつけず、そそくさと家を後にしたのだそうだ。仕事終わりに惣菜部の作業場まで迎えに来てくれた苑子から「時々、そういう日が、あるんだって。」と説明を受けた時は、「なんだか家政婦さんみたいだね。」と率直に感想を漏らしてしまった。苑子は「ふふふ」と肯定するでも否定するでもなく、ただ小さく笑った。

「苑子さんの好きな人って、舘林(たてばやし)主任?」

 なんとはなしに、やっと覚えた惣菜部の主任の名前を出してみた。

「えー、ちがうわよ、ジャイアンなわけないじゃない。」

 苑子さんもあの外見からそう命名したのか。感性が似ていたことが分かり、嬉しく思う。

「でもあのジャイアン、優しいじゃん。」

「駄目よ?あの体の大きさと、喋ってみたら優しいところのギャップに惹かれて、好きになちゃった高校生のバイトちゃんが告白したんだけど、その現場を噂好きのパートさんに見られちゃって、そのバイトちゃんが辞めて、今の人手不足に繋がってるんだから。」

「うわ、きっつ。そのパートさんはまだいるの?」

「うん。全員。」

「え、全員?」

「うん。おばちゃんていうのはね、体の半分が、噂話でできてるようなものだからね。」

「ふーん・・・。」

 考えてみれば、今日勤務した三時間だけでも、おばちゃんたちの話題は韓流スターの性格の良さから始まり、芸能人の整形費用、嫁の悪口、惣菜部担当社員の愛想の悪さから若手俳優の不倫話まで、めくるめく移り変わりを見せていた。

「嫌いな奴がいたら、まずはおばちゃんにそいつの悪い話をして、噂を流してもらうのが、一番。」

 伊都子はぎょっとする。何も考えていないような覇気の感じられない口調で、苑子は時々恐ろしいことをさらっと口にする。惣菜部のおばちゃんたちよりも敵に回したくない人物だ。

 コップの水を一口飲む。水道水なので風味が薬っぽい。

「話は戻るけど、苑子さんの好きな人、同じスーパーの人?」

「ふふふ。」

 卓の上に頬杖をついて、微笑むだけ。何か返してくるかと期待して待ったが、一分三十秒の沈黙が流れただけだった。

 埒があかない。まあ、いいか。

「・・・今日はジュース、ないの?」

 唐揚げとともに食卓に出された飲み物が苑子の趣味である手作りのフルーツジュースではなかったため、一応聞いてみた。

「あら、伊都子ちゃん、私のジュース、好きだったのね。嬉しい。」

 味の濃い唐揚げとの相性が良いとはいえないが、彼女の作るジュースはほどよく果物の香りが残っていてかつ甘すぎないもので、確かに美味しかった。

「こっち、来て。」

 そう言って苑子は立ち上がると、伊都子を台所の方に手招きした。なんだろうとついて行ってみると、苑子はおもむろに冷蔵庫から薄緑色の粘着質そうな液体が入れられたピッチャーを取り出した。

「昨日、伊都子ちゃんが帰った後に、ドアの前に、名前がわからないお野菜が置かれてたのよね。」

「野菜?ドアの前?」

「そう。一緒にお手紙が入ってて、青果部・・・お野菜の部って言った方がわかるかしら、そこの社員さんが、十万円貸してくださいって。」

「え、きも。」

「そんなお金はないけどお野菜は捨てちゃうのもったいないから、試しにきゅうりと、冷蔵庫にあったキャベツとヨーグルトと蜂蜜を一緒にして、ミキサーにかけてみたのよね。」

「・・・レシピとかあったの?」

 ゆっくりと首を振る。

 味は想像したくない。

「お野菜を切るのを手伝ってくれた志茂田も、こればっかりは飲んでくれなかったわ。」

 苑子はおもむろに、棚から透明なグラスをひとつ降ろす。

「伊都子ちゃん・・・試しに飲んでみる?」

 今度は伊都子が素早く全力で首を振る。

 だが、苑子はそれをゆっくりとコップに注ぎ始めている。

「・・・今日、その野菜の社員さんは?」

「出勤だったわよ。」

 なんともなしに、普通に返される。

「・・・大丈夫だった?」

「なにが?」

 コップに並々と注がれていく、薄緑の液体。

「なにがって」

 苑子は腰に左手を当て、コップを右手で高く掲げてその色の不気味さを確認するように眺めてから、一息に口に流し込んだ。

「・・・・・・。」

 伊都子はその姿勢の芸術的な美しさと、みるみる苑子に吸い込まれていく地球外生命体の血液のようなそれに、目を奪われる。

「ぷはぁ」

 良い飲みっぷりだった。

「なんかね、昨日の夜中に志茂田から、青果部の人の件は大丈夫だからって電話があったの。私、眠かったからふぅんって言って切ったんだけど。で、今日青果の方行ってみたら、出勤のはずだったのに、その人、退職してたわ。」

「え、それって、志茂田」

「うぇ、やっぱ駄目。」

 苑子は口元を押さえ、伊都子が今まで見たことのない素早い動きでどたどたと家の外に走り出た。おそらく行き先は外にある共同トイレだろう。

 苑子とほぼ入れ替わりに、志茂田が家に入ってきた。

 伊都子は、目を見張った。

「おお、伊都子ちゃん、初仕事どうだった?」

 志茂田の喋り方は、相変わらず暢気だ。だが、たらこ唇の左端が、赤黒く腫れている。痛々しい。

「・・・・・・。」

 自分の口元を指差して、伊都子は尋ねようと口を開く。

「ああ、これ?そこらへんですっ転んだんだよ。」

 まだ訊いていないのに志茂田は笑いながら答える。

「うぇ、昨日のジュース、まだ残ってる。」

 視線はピッチャーに移っている。とにかく話題をそらしたいらしい。

「・・・まさか、スーパーの青果部の人と」

「んなわけないじゃん、短絡的なガキだなあ。」

「ガキじゃないもん、むしろ老けて見えるもん。」

「お?認めたな。」

 パパやママと話している時に度々感じる、もやもやする気持ち。

 子どもであることを理由に、大事なことをちゃんと話してくれない。

 これが、大人だ。

「じゃなくて、苑子さ」

「転んだんだよ。」

 笑っていたが、その目に真っ直ぐな強さに気圧された。

「苑子さんはトイレ?」

「・・・・・・。」

 仕方ない。大人にも子どもにも、話したくないことはあるのだろう。

 薄緑の液体を指差して答える。

「・・・これ飲んで吐きに行った。」

「えぇ!?苑子さんこれ飲んだの?じゃ、俺も飲まなきゃな。」

 なんでそうなるの、と勢い余って飛び出しそうになったが、野暮な気がしてやめた。代わりの言葉を吐く。

「・・・せつない。」

「何か言ったかのっぽちゃん?」

「のっぽじゃないし!背は高いけど!」

 そうしているうちに苑子が戻ってきた。吐いていないという身の潔白の主張と本日三回目の大便が出て大変快い気分だとの感想を嬉々として並べたて、両手を天高く掲げ、爽やかな笑顔をしている。苑子の供述を真に受けて、便秘だったからちょうどいいやなどと述べてピッチャーの注ぎ口に直接口をつけて一気に飲み干した志茂田は、シンクにそれを静かに置いた直後、速やかに部屋の外に走った。

 その背中を指差して、ふたりして腹を抱えて笑った。

 


 八回目の出勤にあたる、日曜日。

 伊都子はスーパーの惣菜部の作業場で、黙々とポテトサラダを計量し、プラスチックのトレーに移している。

「そんで?楠さん、元気だった?」「ええもう、元気元気。ドーナツ四個も平らげてたんだから。心労で辞めたとか嘘よ、あんなの。」

 あっはっはっ。

「新しい彼氏できたみたいだったものねぇ。この前のお祭りで、私見ちゃったんだから。」「んん?なにを?」「なんだと思う?」「勿体つけないでよ私高血圧で死んじゃうわよ。」

 あっはっはっ。

「背の高い彼氏と、手、つないで歩いてたのよ!」「エーッ!あの楠さんが!考えられない!」

 どの楠さんなのだろう。聞き流しながらも心の中で問い返す。どうやら楠さんとは、告白現場をパートさんに押さえられて泣く泣く辞めていった前任の女子高生アルバイトのようだが、彼女が店を去ってから数ヶ月は経っているはずなのに、その名前は未だにパート従業員達の興味を引きつけているらしい。

「はーい、もうちょっと口より手を動かそうねー。」

 作業場の奥に設置されたフライヤースペースから大量のエビフライを盛った大皿を抱えた主任が通過していく。通り過ぎたのを見計らって、おばちゃんたちの会議は再開される。

「・・・主任もさ、受けてあげたらよかったのに。」

 いや常識的に考えて駄目だろう。三十代と高校生だ。

「最近長年同棲してた彼女に振られて、寂しいみたいよぉ?」

 へぇ、そうなんだ。

「水曜日のお昼私と二人きりだった時に、誰にも言わないでねって言って愚痴ってたんだから。あ、これ、内緒よ?」

「そういえばいくらちゃん。」

「ハハハハイ!」

 盗み聞きを咎められるような気がして、反射的に身構える。

「お肉にいるいくらちゃんのお姉さん、彼氏とかいるの?」

「お、お姉さん?」

 私は一人っ子でそんな生々しいお姉さんなんていませんよと返しかけて、採用されるためにでっちあげた設定を思い出す。井倉苑子精肉主任の年の離れた妹という嘘八百だ。

「ああ!いませんね!」

 たぶん。

 好きな人はいるみたいだけど。

「だったら、ジャイアン主任、どうなのかねえ。」

「・・・館林主任ですか?」

「ああ、そんな格好いい名前だったわねえ。もういいじゃないジャイアンの方が主任らしいわよ。」

 本人がいてもいなくても言いたい放題だ。

「だって、歳もそう離れてないし、優しいし、きっとお似合いよ。」

「えーあたしはいやだわージャイアンなんて。いくら優しいって言ったって、ジャイアンじゃない。」

「ジャイアンジャイアンって主任にあんたねぇ」

 あっはっはっ。

 おばちゃん達は、取り敢えず笑える終着点に辿り着くことが出来ればそれでいいんだろうな、と軽蔑するような、しかし思春期で頭の固い伊都子にとっては少し羨ましいような気持ちになる。

「いくらちゃーん、そろそろ見切りー」

 売り場から、ジャイアンの声が呼ぶ。

 時計を見ると、午後五時を回っていた。

「はーい、すぐ行きまーす。」

 作業台の上にずらりと並んだトレーのふた閉めを、当分笑いが止みそうにないおばちゃん達にお願いして、半額シールを手に回転扉を押す。



 回転扉を出たところには、既に三割引のシールが貼られた惣菜のパックを手にした買い物客が綺麗な行列を成していた。

「お待たせしましたー。」

 勤務時間中、伊都子が最も楽しんで、しかし真剣に取り組んでいるのが、この午後五時から開始される半額見切りの時間だ。客が手にした惣菜の割引シールの上に半額シールを貼っていく、一見すると単純な作業である。気をつけなければいけないのは、シールの見極めだ。伊都子の担当する半額シールを貼っていいのは、賞味期限が当日限りで、既に三割引のシールを貼られたものだけである。割引シールが貼られていなかったり一割引のシールが貼ってあるものはまだ貼ることができない。うっかり貼ってしまえば、他の客が「じゃあこれも大丈夫だよね」と出来たて熱々今並べたところの惣菜のオードブルを持ってきて、断るとヒステリックな金切り声を上げられるなどという悲劇が起こりうる。また、貼り方にも細心の注意が必要である。既に貼られてある割引シールの上にしっかりと重なるように貼らなければ、混雑のピーク時に素早く客をさばくことを求められるレジ担当者が割引率を見誤ってしまい、やはりヒステリーを起こしてしまう惨劇になりかねない。

 一度、レジ担当の小さなパート従業員に「三割引シールと半額シールが一緒に貼られてあるってどういうことですか」と詰め寄られてぺこぺこと平謝りしている大きな館林主任を見てしまった際は、働くって戦争なのだな、と身の毛のよだつ思いがしたものだった。

 八回目ともなると手馴れたもので、工場の流れ作業のようにスムーズに半額シールを貼っていた。今晩のおかずに悩む主婦はもちろんのこと、お遣いを頼まれた小さな子どもからスーツをきっちりと着込んだ会社員、果ては伊都子くらいの年頃の中高生を怒鳴り散らすことを生きがいにしていそうな強面の老人まで、みな伊都子(の手にしたシール)を求めて一列に並ぶ。大人よりも偉くなったような気になれるこの十分余りの時間、伊都子はこの上ない優越感に浸る。

「あ、すいません。これ半額になりません。」

 心の内側でほくそ笑みながらも、仕事はきっちりやらねばならない。

 差し出されたのは、主任がたった今揚げたばかりの熱々のエビフライが入ったパックだった。衣の表面が油で照っている。

「えぇー、タイムセールでしょう!?」

 その甲高い声を聞いて、ハッと顔を上げた。

 幸田雪乃だった。

 同じクラスで生徒会長で常にテストの成績が学年三位以内の優等生で先生に人気で、去年九月の水泳の授業終わりに忘れ物を取りに寄った更衣室で男子生徒と性行為に及んでいる現場を目撃してしまうまでは伊都子自身も大好きだった、幸田雪乃だ。

「・・・すいません。半額になるのは三割引シールを貼ってあるものだけなんです。」

 動揺を悟られないように、言い慣れた決まり文句が出来るだけ当たり障りなく伝わるよう努める。

「だってー。どうする?」

 幸田雪乃は、隣にいたタンクトップと短パン姿の男に尋ねる。学校では決して聞かない猫なで声だ。

「おねえちゃん、なんとかならない?」

 その大学生風の男の口調は優しかったが、顕になっている筋肉は、中学三年生を威圧するには十分だった。長身のコンプレックスを分かち合っていたかつての同志に、またしても裏切られたような心地がした。

「な、なりません!」

 それでも、伊都子は踏ん張る。筋肉が怖くて、この仕事は務まらない。

「えー、ならないの?」

 うるせえ幸田雪乃。

「なーぁねえちゃんまだー?」「いいじゃん一個くらい半額にしてやんなさいよー」「えっ半額になるの?じゃあ私も買っちゃおうかしら」

 列が進まないことに苛立った後列から声が上がり始める。・・・まずい。

「あーすいません。それ、今出来たとこなんすよ。」

 図体も声も大きな主任がやっと割って入ってくれた。

「あ、分かりましたー。」

 世の中、やはり外見より中身である。悪意ある京極さんより心優しいジャイアンである。

 渋々身を引いたカップルが別の売り場で再びトラブルを起こすことのないよう、主任が少し距離を取りながらついて行く。

 やっと再開されたシールの貼付作業を流しながら、思い出したくない映像が脳裏に蘇る。幸田雪乃が連れていた男の背中は、更衣室で彼女の股に顔を押し付けていた、頭も体も悪そうな貧弱男の芯の細いそれとはまるで違った。軽い吐き気を催しながら作業をしていたら、うっかり一割引シールの上に半額シールを貼ってしまうミスを二回もしてしまった。行列の客を捌き終えて、売り場にわずかに残る三割引の商品に半額シールを貼り、うつむきながら回転扉の内側に入った。直後、脂っぽい匂いが鼻をついた。同時に、胸に込上がる気持ち悪さを抑えようと口元に手をやると、触れた先になにか違和感がある。

「どうしたの?伊都子ちゃん。」

 うたうような声に、顔を上げた。正面に、伊都子と同じ作業着の上に防水エプロンを着けた苑子が立っていた。どうやら、匂いの主は、彼女らしい。

「大丈夫?」

 微笑を浮かべたまま、苑子は伊都子を心配しているようだった。

 それにしても、このマイペースな女性がスーパーの精肉部を取り仕切る主任を務めているという事実は、伊都子の中で未だにイメージが合致しない。実は惣菜部のジャイアンと入れ替わってましたなどと言ってドッキリ大成功と書かれた派手なプラカードを出される可能性があるのではないかと半分本気で言ったら、パートのおばちゃん達にしばらく笑いのネタにされた。

 背の高い伊都子の顔を、至近距離から覗き込んでいる。脳裏で繰り返し流される、幸田雪乃の切れ長の目から覗いた計算高い瞳を、その白目を覆い尽くすような苑子の瞳の無邪気な黒色で覆い尽くしてほしい。伊都子の余裕のない頭はなぜだか、そんな欲求をしている。ぼうっと正面に立つ苑子を眺めていると、おもむろに、彼女はゆっくりとその身体を近づけてきた。

 え、なに?

 薄い胸元、細身の身体、脂と血の匂い、エプロンに飛び散った肉片、

 薄い唇。

 思わず、目を強く閉じた。

 瞬間、まぶたの上に、温度を感じた。

「・・・・・・。」

 数秒後、体温が離れる。

「熱は、無さそうね。」

 作業帽からわずかに覗く額の狭い範囲に自らの額を当てて、熱を測ったようだった。

「さ。あと三十分。がんばろー。」

 意気込みを感じられない気の抜けた調子で右手を高く挙げ、苑子は売り場に出ていった。

「・・・・・・。」

 顔が火照っていた。

 伊都子は苑子に対し、これといって魅力的なものを感じていなかった。不細工とか肥え過ぎているというような否定的な要素は見受けられなかった(初めて会った時は痩せ過ぎているようにも見受けられたが、毎週の唐揚げパーティーが功を成してか、苑子の身体には少し肉がついたようだった)が、性的な匂いも感じさせない。志茂田半太がどうして苑子にそんなにこだわるのかが伊都子には理解できないでいたが、今、少しわかったような気がした。

 毎日美味しい晩御飯を作って旦那の帰りを待つ、良い奥さんになりそうなのんびりした雰囲気の彼女が、脂と血の匂いを漂わせて、なんの企みもなく、近づいてくる。

「・・・・・・。」

 艶っぽかった。

 怖かった。

 中学生の伊都子が、その瞬間のむわっとした色気に、ぞっとした。

「・・・あ。」

 動揺が顔に現れていないかと再び頬に手を伸ばして、やっと気づいた。

 勤務中はいつも身につけていたはずの顔の下半分を覆うマスクを、着け忘れていた。

 よりによって、売り場でクラスメイトと鉢合わせしてしまったこんな日に。

 血の気が引く。

「・・・ま、大丈夫か。」

 顔を晒してしまったとはいえ、顔以外の部位は作業帽と白無地の作業着で全て覆われている。売り場にも作業場にも荒れ狂う戦士の集うスーパーという職場で、まさか丸腰の女子中学生が働いているなどとは、たとえ無駄に勘の鋭い幸田雪乃といえども、夢にも思わないだろう。

 あの男狂いの目が、連れていた男にしか目が向いてなかったことを、この時ばかりは心の底から願った。


 アルバイトを終えて搬入口から外に出ると、苑子が待っていた。

「お疲れさま。」

 土曜日の仕事帰りは苑子の家で志茂田の揚げた唐揚げをご馳走になってから三人で、日曜日は苑子とふたりで、連れ立って歩いて駅まで送ってもらうのが習慣になっていた。

「・・・お疲れ様。」

 柔らかい笑顔で労ってくれた苑子に、伊都子は素っ気なく返す。

「なぁに?やっぱりなんか、いやなことでもあったの?」

 主任をやっているだけあって、苑子は人の変化に敏感だ。

「・・・べつにぃ。」

 いつでも温厚な苑子といる時に、裏表の激しい幸田雪乃のことなど、いちいち思い出したくない。

「・・・そう。」

 それ以上問い詰めるでもなく、苑子は前を向いた。

「私ね、・・・好きな人がいるの。」

 突然、始まった。毎度のことだ。

 苑子は口下手なため、間を持たせるための他愛のない世間話ですら、今世紀最大の重大発表の前ぶりのように話し出してしまう。

「・・・誰?」

 わかってはいるものの、出だしの唐突さに、上手な聞き出し方を思いつかず、いつもこんな返しにとどまる。

「いっぱい、いっぱいね・・・いるの。」

「・・・・・・。」

 その『好き』は、恋愛ではなく、家族とか、友人だとかに向けられる感情だろうか。

「あなたのおかげでね、そのことにね・・・気づいたの。」

「・・・どういうこと?」

 伊都子は訳が分からず、となりに並んで歩く背の低い苑子を見下ろして表情を伺うが、彼女はいつもとなんら変わらぬ笑みを浮かべている。

「だから、最近ね、私も変えてみたの。」

「・・・何を?」

 そう長くはない人生で聞いたことのない、身の毛のよだつ答えが返ってくるのではなかろうかと、心拍数をあげながら、伊都子は尋ねた。

「唐揚げに使ってもらう油を、高いのに、変えてみたの。」

「・・・・・・。」

「志茂田はやっぱりしもだだけどね、二回目からのは、最初に食べた唐揚げより、ちょっとだけ、美味しかったでしょう?」

「・・・・・・。」

 確かに美味しかったけどさ。

 実は今までの油は毒物でしたとか、その油を使った料理を出す店をやりたいとか、想像力をフルに稼働させて次の答えの予測をしてしばらく待ってみたが、ただただ二分間の沈黙が流れた。苑子の話はそれで終わりのようだった。

「・・・苑子さん。」

「なぁに?」

 伊都子は苑子の正面に立ち、まっすぐに苑子の黒目がちな細い目を見た。

「バーカ!」

 そう言うと、くるりと踵を返し、伊都子は駆け出した。

「え?ひどい!」

 苑子が後ろから追いかけてくるかと思ったが、反論するだけで、追うつもりはないようだった。

 駅が近い。伊都子は後ろを振り返って手を振った。

「苑子さん!また来週!」

 苑子も、手を振っていた。



 翌週の土曜日、伊都子は苑子に会えなかった。

 土曜日の授業を終えて教室を飛び出したところで、伊都子は担任教師堂嶋茂樹から呼び止められた。クラスでは堂島及び友人からも優等生として通っているため、なにか特別授業の準備の手伝いでもさせられるのだろうかと気乗りしないままついていくと、彼は職員室の扉を通り過ぎ、多目的室も通り過ぎ、果ては生徒指導室の戸に手をかけた。さては不登校の子の指導でも任されるのか、などと都合良く考えていたが、部屋に入ると生活指導の柏崎恒彦と今にも泣き出しそうな顔をした伊都子の母親が向かい合って座っていた。

「お宅の学校の女子生徒、スーパーのお惣菜売り場でバイトしてるみたいですよ。」

 学校に匿名の通報があったそうだ。

 頭が真っ白になった。なにが匿名だ。幸田雪乃に決まっている。

 「申し訳ありません。本当にうちの子が」と繰り返す母に「お母さんごめんね」と声をかけておく。バイトをした理由については必死に優等生らしい理由を考えた挙句「受験勉強に必要な最新式の電子辞書を買」まで答えたところで柏崎に「嘘を付け!」と否定された。そう簡単に決め付けて大声を上げるなもし本当だったら子どもの勉強意欲根こそぎ奪い取ってるところだぞクソ野郎と鮮魚部の(はた)主任に教わった厳しい口調で反論したいところであったが、嘘であるのは事実なので控える。「他に共犯者はいないか。」「いません(共犯ってまるで犯罪者みたいに)。」「自分が何をしたかわかっているのか。」「はい、わかってます(ちょっとアルバイトをしただけです)。」「もう二度としないな。」「はい、反省してます、二度としません。」

 度々喉まで出掛かった数々の反抗の言葉達を食道がねじ曲がるのではないかと心配になるくらいに力いっぱい押し込み飲み込んで、なんとか屈辱の一時間をやり過ごすことができた。

 これなら反省文くらいで済むかな。

 涙をぽろぽろ零す母をなだめながら、心の内では処分が軽くなることを期待していた。職員室に去った堂嶋と柏崎が十分後に戻ってきて、伊都子と母に告げた処遇内容は、来週月曜日から水曜日までの計三日間の停学処分と原稿用紙十枚分の反省文の提出課題だった。



 帰宅してすぐに、学校から呼出しを受けたとの連絡を受けて普段より早めに帰宅していた父親に再び殴られた。今度の力は、立っていられないほどのものであった。

「今度こそ、本当に、しんでやるウッ」

 二ヶ月前の金曜日と同じ台詞を叫び、伊都子は再び着の身着のまま家を飛び出した。

「苑子さんの家に泊めてもらおう。」

 後方で扉の閉まる音を聞くのと同時にその考えに至ると、踏み出したその勢いのままバス停に走り、ちょうど停車したバスに飛び乗った。

 スマートフォンを取り出し、メッセージアプリで苑子に連絡を取ろうとするが、彼女は携帯電話を所持していなかったことを今更になって思い出した。スーパーは戦場である。職場に直接電話するのは、いくら優しい苑子さんとはいえ、迷惑だろう。

 椅子に座って顔を伏せた。

 拳で殴打された右頬をさするとまだヒリヒリと痛み、涙が滲んだ。

「・・・会いたい。」

 あの優しい笑顔が見られるのなら、なんでもよかった。



 スーパーの最寄り駅についた時、時刻は午後五時五十分を回っていた。

 苑子の家に電話を入れてみたが、保留音が数回鳴って留守番電話の自動音声につながるだけであった。まだ勤務中かもしれないと思い、二ヶ月勤務してすっかり顔なじみになったスーパーの精肉部の作業場を覗いてみたが、苑子さんは昨日から体調不良で休みを取っているというパート従業員の声が返ってきた。

「それより伊都子ちゃん、あなた、中学生だった」

 今は気持ちに余裕がない。

 心の中で謝りつつ、逃げるようにスーパーを後にした。

 ただ会いたい。

 間延びして、時々鋭い、あの喋りが聞きたい。

 あの黒い瞳が細められるのを、間近で見たい。

 安心したい。

 苑子の住む集合住宅に急いだ。



 最後にしよう。

 新渡戸伊都子は、背が高い。

 だから、伊都子には、見えてしまった。

 呼び鈴を押しても出なかったから、変だなと思いながら、試しにドアノブに手をかけ、手前に引いてみた。

 ドアチェーンのかかったところまで開いた。

 そのわずかな隙間から、伊都子は見た。

 入って正面の奥の突き当たったところに置いてある、邪魔でしかなかったブラウン管の分厚いTVの上に、白くて細い膝が並び、そのふたつの間に、裸の男性が頭を押し付けていた。

 勢いよくドアを閉めた。

 音で気づかれてしまったかもしれないと身震いしたが、身体に力が入らず、ドアを背に、腰を落とした。

 去年九月の放課後に、誰もいないはずの更衣室で見た、幸田雪乃と同じことを、苑子はしていた。

 伊都子は背が高かったから、行為に及んでいる苑子の生気のない黒目も、ばっちり見てしまった。

 震えた。

 悲しくて、騙されていたような気持ちになった。

 しばらく、動けなかった。

「・・・・・・。」

 だが幸か不幸か、伊都子には耐性がついていた。

 そのため、十分くらいすると全身の震えは収まり、冷静になって物事を整理できるまでに回復した。

 感情で動いて迷惑をかけてはいけない。

 苑子さんは大人で、私は子ども。

 苑子さんには苑子さんの事情がある。

 自発的に思い出したくはないが、どうしても目に焼き付いた映像は消せない。

 あの色の黒い小さな背中は、志茂田のものでも、館林のものでも、今まで苑子が出会った男性の誰のものでもなかった。

 きっと、あれが、苑子の大好きな人なのだろう。

「・・・うん。」

 わかった。

 今日は一旦家に帰り、屈辱的ではあるが素行不良を両親に謝る。

 停学処分が明けたらまた日を改めてスーパーに謝罪をしに行く。

 苑子には、落ち着いたらまた会いに来よう。

 その時は、きっと、また笑って出迎えてもらえる。

 志茂田の作ったちょっと高い油で揚げた普通の唐揚げを、苑子の特製フルーツジュースとともに楽しくいただこうではないか。

「・・・よし。」

 大人になろう。

 すぐにはなれなくとも、早くなれるよう、努めよう。

 再び扉に向き直り、ノックしてこのまま帰宅する旨を伝えようとしたが、苑子さんの恋路を不躾な音と声で邪魔してはいけないと思い至る。振り上げかけた拳を学生鞄に差し入れ、引っ掻き回す。手がスマートフォンにたどり着き、引き抜く。苑子の家の固定電話に電話をかけ、帰宅する旨を留守番電話に入れておこうと、画面を見ながら階段のある方向に一歩踏み出した。

 ごん。

 右足が、何かに当たった。

 見ると、それはバケツだった。青いプラスチック製のどこの家庭もひとつは所持しているであろう、一般的なバケツだった。

 苑子の隣の部屋に住む老人が、雨の日に屋根を伝って流れ落ちてくる雨水を貯めるためのバケツを置いているのを見たことはあったが、彼女の部屋の前にそのようなバケツが置いてあるのを見たのは初めてだった。

 へー、苑子さんもこういうのするんだ。

 なんの疑いもなく、中を覗きこんだ。

 覚悟もなく、見た。

 そこに貯められていたのは、雨水ではなかった。

 赤黒い、液体だった。

 赤黒い液体の中心に、気泡が浮かんだ。

 鼻をつく匂いも手伝って、最初は、汚水の中に苔塗れの亀でもいるのかと思った。

 違った。

 異臭に顔をしかめながらも、何も考えずに、目を凝らしてその気泡の発生元を見た。

 しっかりと閉じられていたので、目は合わなかった。

 その一点は、伊都子のその後の人生において、本当に、不幸中の幸いであったのかもしれない。

 丸く、大きく開かれた薄い唇が、真っ黒な水面に浮かんでいた。

 バケツの中には、胎児がいた。


   *



「伊都子ちゃん。」

 地面に座り込んだまま、呼ばれた方を向く。

 地に着いたスマートフォンから、苑子の声が聞こえる。

「伊都子ちゃん。」

 感情のこもらない、いつもの声。

 手の震えで度々取り落としそうになりながらも、なんとか耳元へ持っていく。



   *



 バケツの中身が羊水と経血とへその緒のついた胎児であることを理解した伊都子は、短く小さな悲鳴を上げ、後ずさりした。

 全身が震えだした。悪寒が止まらない。

 その時、扉が開いて、人が出てくるのが見えた。

 伊都子は走り出した。

 大きく踏み出したその足が、バケツに当たり、さほど大きくない音を立てて横に倒れた。流れ出した液体を踏み付けてしまい、飛沫が足に付着したが不快感に構っている余裕はない。走り抜ける。転げ落ちるように階段を下り降り、駆け抜ける。

 どこへ向かって走っていたのかわからない。

 ただ、家から出てきた男か、苑子か、あるいはそれらのどれでもない何かが追いかけてきそうな気がして、ただひたすらに全力で走った。

 恐怖のあまりすべての力を下半身に込めて、走った。

 準備運動もしないままに目茶苦茶に投げ出した足はすぐにガクガクと悲鳴を上げ、十分も走らないうちに立っていることさえままならなくなった。

 薄暗くなった町中で、見覚えのある光に向かってよろよろと歩み寄り、ガラスの壁の前で膝からくずおれた。

 そこは、二ヶ月前に勢いに任せて家を飛び出してカラオケ店で一夜を明かした後に立ち寄ったハンバーガー店の前だった。

「ひ、ひとっごっ」

 人殺し。

 通報しなきゃ。

 でなきゃ、

「死ぬ。」

 一、タ、ヒが、初めてひとかたまりで脳内に鮮明に浮かび、迫った。

「ころされる。」

 握り締めたスマートフォンの数字を指が辿るが、震えが止まらず思うように押せない。1、1、0、通話ボタン。

たったそれだけなのに、人差し指が違う方向へ滑る。

 パニックのあまり1の次に何を押すかわからなくなり、時間切れのプーップーッという音が鳴る。始めからやり直しになる。

二回目の1の次に違うボタンを押してしまう。

地面に座り込んだまま同じことを何度も何度も繰り返した。

 七、八度目くらいの通話ボタンを押したところでようやく電話は警察に繋がった。震える顎を左手で抑えて、支離滅裂な口調で「人殺し」という単語と苑子の居住する集合住宅の最寄りのバス停名を連呼する。詳しい説明を求める電話口の声に応じようと、さらに言葉を絞り出そうと頭を稼働させた瞬間、伊都子は突如嘔吐した。

 昼食で食べたソーセージパンと明太子おにぎりの混ざりきらない色が灰色の地面に撒かれる。ところどころのピンクと赤が先ほど目にしたバケツの中身を彷彿とさせ、さらに吐き気をもよおす。

 喉がヒリヒリする。

 痛い。

 涙が滲む。

 吐気はなかなか収まらない。

 胃の中の未消化のものが大方排出されて視界が鮮明になり、脳内で暴漢が鈍器を振り回して踊り狂っているような激痛を感じだした頃、バイブ音が聞こえた。握り締めた携帯電話の画面を見ると、苑子からの着信を告げていた。確認した瞬間電源ボタンに指がのびたが思い直し、恐る恐る通話ボタンを押した。



「伊都子ちゃん、バケツの中身、見たよね。」

 いつもと変わらない、間延びした苑子の声。

「赤ちゃん、見たよね。」

 質問ではない。

 確認だ。

「ふふふ。」

 全身の毛が逆立つ。

「なっ・・・」

 なにがおかしいの。

「私のお母さんがね、最後に、焼肉行きたい叙叙苑行きたい!って叫んだ瞬間ツルって産まれたのが私っていう話、したよね。」

 しました。

 なんて安直な頭悪そうなネーミングって思いました。

 ごめんなさい。

 許してください。

 やけに冴えた頭の中でそう返すが、声は出ない。

「私がね、ツルって産まれたあと、お母さん、そのままコロっと死んじゃったのよね。」

 それは初めて聞きました。

「でね。さいごのさいごの瞬間にね、焼肉食べたいとか叫ぶような・・・ね、明るくって、面白くって、とっても気立ての良いお母さんのことがね、とっても、とっても、大好きだった、私の優しいお父さんはね、とってもとっても、悲しんだのよね。」

 電話を切りたい。

「大好きな大好きなお母さんが、命と引き換えに産んだ、大切な一人娘を、お父さんひとりでも、大切に大切に育てようって、お父さん、神様仏様に誓ったのよね。」

 でも、切ってはいけない。

「ふふふ。」

 たった今気づいた。

 笑い声のように聞こえるこれは、笑っているのではない。

 いつも、四六時中、笑っていたわけではなかったのだ。

 苑子さんにとっての、深呼吸だ。

「娘が大きくなってね、小学校五年生の秋頃かな。学校から帰ってきた娘が、珍しく大泣きして帰ってきて、お父さんびっくりして、誰にいじめられたんだ、言えって怒鳴り散らしてね。娘は、違うの。これ見てって。真っ赤になったパンツを見せてね、私病気なのかなって。もうすぐ死んじゃうのかなって。」

 聞きたくない。

「お父さん、大笑いして、頭をぐしゃぐしゃに撫でて、そのまますっ飛んでいってまたすぐ帰ってきて。見たら・・・嬉しそうに、にやにやしてね、赤飯持ってるの。閉まる寸前だった和菓子屋さんに、無理言って、買ってきたって。おめでたいって。」

 聞かなきゃいけない。

「赤飯って、好きじゃなかったんだけどね。どうせならオムライスとか、カレーとか、そんなのが良かったなって思ったんだけど。・・・お父さん、本当に美味しそうに食べてたの。だから、その日だけは、大嫌いな赤いお豆も、頑張って残さずに全部食べたわ。」

 本当に聞きたくない。

「・・・嬉しかった。」

 やっぱり聞きたくない。

「大切な人がね、美味しそうにね、食べてるの、見たら・・・嬉しくなるじゃない。」

 でも、聞かなきゃいけない。

「ふふふ。」

 沈黙が流れ、再び口が開かれる際に動く唾液の音がした。

「私が、伊都子ちゃんくらいの年に、なった時かな。」

「い」

 声が出た。

 だが苑子は構わず続ける。

「仕事でめちゃくちゃに怒られて、疲れて帰ってきて、お酒を飲みながら、私の寝顔を見た時に、お父さん・・・気づいちゃったんだって。」

「ひ」

「自分の娘の顔が、大好きな大好きなあの人に、とってもとっても似ていることに。」

「や」

「特に、口元なんかが、そっくりだって。」

「えて」

「いっぱいチューしていっぱい身体を舐め回してくれた、あの唇がそっくりそのままそこにあったんだって。」

「やだやだ」

「もう会えないと思ってたその人に、会えたって、思っちゃったんだって。嬉しかったんだって。で、その夜」

「やめて!!」

 悲鳴だった。

 苑子の声はかき消されたが、気にとめず話は続けられた。

「その後も何回か、そういうことがあって・・・十九歳の時かな、それまでも私ね、食あたりで吐くことはよくあったんだけどね、一日に何回も何回も気持ち悪くなってね、それが何日も何日も続くもんだから、これはなんかおかしいなって言って、お父さんが調べたら、できてるって言って、バケツを買ってきて」

「苑子さん」

「それからすっごく痛いのが十分くらいずーっと続いたんだけど、目が覚めて時計見たら一時間くらい経ってて、」

「苑子さん」

「終わってた。」

「苑子さん」

「私から引きずり出したそれ、私もちょっとだけ持ってみて観察してみたんだけど、きつい匂いがするし血とかでべたべたするしわらわら動いてて気持ち悪って思ったんだけど、何分かしたら動かなくなって、お父さんがね、もういいなって言って、ミキサーに」

 気づけばスマートフォンを投げていた。

 少しして平静さを取り戻し、再びスマートフォンに手を伸ばし、耳に当てる。

 気持ちの切り替えは終わったのだろうか。すぐに話は再開された。

「あの日もね、シフト表を見間違っちゃってて、家に帰っても暇だなーどうしようかなーってなんにも考えずに海をぼーっと見てたのよね。」

 いつもと比べて、少し早口になっていた。

「海ってほんと好き。なぁーんにも、ないんだもの。」

「・・・・・・。」

「見てたらね、なんか声が聞こえるーと思って。見たら、背の高い女の子が重そうなもの引きずりながらきゃあきゃあ喚いてるじゃない。」

「・・・・・・。」

「私、目も耳もすっごくいいのよ。犬に生まれてたらね、鼻も良くって、もしかしたら世界征服とか、できちゃってたかもね。」

「・・・おもしろくないよ。」

 やっと声が出た。

「そうお?」

 茶目っ気を見せて首をかしげる苑子さんが、受話器の向こうにいる。

 ふふふ、と笑う。

「なんか言ってるのを耳を澄まして聞いてみたら、しんでやるーって。その子が。」

「・・・・・・。」

「荷物いっぱい抱えて、自分の身体よりすごく大きなボートを全力で押しながら、全部の力を振り絞りながら、しんでやるーって、叫んでたの。」

「・・・・・・。」

「気になったから、思い切って、話しかけてみたの。」

「・・・・・・。」

「そしたら、さ、伊都子ちゃん、自殺の方法とか、言うでしょ?」

「・・・・・・。」

「迷惑のかからない、痛くない、自殺の方法とか。」

「・・・・・・。」

「迷惑とか、痛くないとかって、自分の将来が嫌なものにならないように考えるものでしょう。輝ける未来があることを前提にして、語ることでしょう。これからも私の素敵な素敵な人生はながくながく続いていくんです。だから、あんたたち邪魔しないでって、そういうことでしょう。」

「・・・・・・」

「あなたがね、しんでやるって、叫んでた口を見て、自分が今から死ぬっていう方法を、世紀の大発明をしたみたいに、嬉しそうに話す伊都子ちゃんの口を見て、」

「・・・・・・」

「死にたいって声には出しながらも、全身で生きたいって叫んでるような、生命力で満ち溢れたあなたを見て、思い出したの。」

「苑子さん」

「あの子の、口を。私が抱き上げた瞬間、大きく開いた、その口を。」

「苑子さん」

「似てたの。」

「苑子さん」

「死にたいって全生命力を持って叫ぶあなたの口と、その子の大きくあいた口がね、そっくりだったの。」

「苑子さん」

「たまに夢で見ることがあって、目が覚める度に、鮮魚売り場の死んだ魚とかってあんな大口あけてるわよねーとか思って笑ってたんだけどね、違ったの。」

「苑子さん。」

「魚じゃなかったの。」

「苑子さん。」


「その子のくちは、生きたいって、私に、言ってたの。」



 電話が切られた音が聞こえた。全身の力が抜けた。眼前に自分の吐いたものが近づいてくるのが見えて、「汚」と漏らしたが方向転換はかなわず、そのまま吐瀉物の中に倒れ込んだ。

 その前後の記憶は、曖昧になっている。



 翌朝、伊都子は病院で目を覚ました。

 昨夕にハンバーガー店の前で吐瀉物に塗れた状態で気を失って倒れているところを店員に発見され、救急車で病院に運ばれたそうだった。経緯を聞かされて、仕事というものの大変さを思い知っていた伊都子は、母にハンバーガー店に謝りたい意向を伝えたが、ただただ泣かれるばかりで願いが叶えられることはなかった。



「よっ」

 退院した後、三回目の任意の事情聴取を受けた帰り道のバス停で、志茂田に声をかけられた。一回目、二回目は母親が署まで同行したものの、本人よりも親のほうが気が動転している様子で目も当てられず、三回目からは一人で行かせてもらうように伊都子が頼んだのだ。

「ちょっと、そこのファミレスで話さねえ?奢るよ。」

 伊都子は黙って頷き、志茂田に促されるままについて行った。

 通された席で、志茂田はドリンクバーを頼み、伊都子はみぞれのかき氷を注文した。

「渋いねえー。」

 事件以来、果物がまったく食べられなくなっていた。フルーツジュースは、自販機に並ぶパッケージを目にしただけでも吐き気を催す。食欲もなかったので、かろうじて口に入れられそうなのが無色透明なそれだった。

 ドリンクバーからアイスコーヒーを手に戻ってきた志茂田は、切り出した。

「・・・うちに葉書きが届いたんだけどな。」

 伊都子は上目遣いに志茂田を見て、続きを待つ。

「ジュース作るのに使ってたミキサーは新しく買い換えたやつだから安心してって伝えってって。」

「遅いわ!」

「仕方ねぇだろつい昨日届いたんだよその葉書き!」

「・・・・・・」

「・・・・・・」

 ふたりともほぼ同じタイミングで、深くため息をつく。

 切り返された声には張りがあったが、正面に座る志茂田は以前とは別人かと思うほどにやつれていた。分厚い唇は相変わらず微笑を形作っているが、目の下には濃い隈ができ、見覚えのある明るさががない。最後に会った日より五歳は老けて見える。

 伊都子の前にかき氷が運ばれてきた。店員が去り、伊都子が申し訳程度に長いスプーンで氷をすくうと、志茂田は、話しだした。

「・・・来てくれてありがとうね、伊都子ちゃん。」

 らしくない謝辞に何と返していいか分からず、伊都子は真面目にかき氷と向き合うことにした。

「誰かわかる人と、話したかったんだ。」

 私も。

 破顔しかけたが、相手はやつれてもやっぱりしもだであるので、弱みを見せたくない。言葉で気持ちを分かち合う代わりに、黙って恩義をありがたくいただく。冷たさが歯にしみるが、黙々と氷の山を掘り進める。

「俺ね。あの日、」

 どの日?

「苑子さんと・・・初めて手をつないだんだ。」

 あんたいくつだよ、とは口に出して言えなかった。


  *



 合鍵はくれたが、自分は恋人ではない。

 重々承知していた。

 初めて家に上がった時に、感じたものだった。

 ここには、男の匂いがある。

 事件当日の午後三時前、苑子は仕事に出かけていると思った上で、苑子のくれた合鍵を使って、扉を開けた。

 しかし、予想外なことに、苑子は在宅していた。

 ちゃぶ台に力なく突っ伏していた。

「だ、大丈夫ですか!?」

 初めて見る苑子の弱った姿に気が動転し、大声を出して駆け寄った。

「・・・うるさい・・・。」

 苑子は、気だるげに身を起こした。

「すすすすいません!」

「やっぱり・・・しもだだね。」

 こちらを見て、力なく笑った。顔色が悪く、汗で下着が透けて見えている。

「お医者さん行きますか!?タクシー呼びますか!?なんなら俺、おぶって行きます!」

「・・・だいじょうぶ。」

「全然大丈夫じゃないでしょう!」

「人が来るから。」

「じゃあ、その人が来るまで俺ここにいます!」

「かえれっ!」

「ええっ!?」

 初めて聞く、荒れた声だった。

「・・・帰りません。」

 だが、志茂田は従わなかった。足を折り曲げて、その場に正しく座す。

「苑子さんの具合が良くなるか、お医者さんに行ってくれるかするまで、俺、帰りません。」

 君は笑顔が張り付いてて気持ち悪いねえと、学校の先生から上司から散々言われ続けた志茂田であったが、この時ばかりは笑顔ではいられなかった。

「・・・そう。」

 苑子は、口を閉ざした。顎をちゃぶ台に付け、TVを点けた。しばらくの間、ふたりして無言で、ドラマの再放送を眺めていた。

 『道』とつく文化の心得がなく、正座慣れしていない志茂田の足は案の定、すぐに悲鳴を上げ始めた。

「・・・崩していいですか。」

「今すぐ帰るって約束するなら。」

「・・・頑張ります。」

 前方に丸まった背中を改めて正す。苑子は画面から目を離さない。

「・・・俺、苑子さんが好きです。」

 苦し紛れに、告げた。

 足の全神経が死滅するという緊急事態のアナウンスが、太腿を伝わって腹、胸、喉元まで伝わっている。足の爪先から脳の髄までの全てが緊張している。ついでに少し漏らしている。あと三十秒もあれば天に召されてしまうのではないかと疑ってしまうほどの激痛のせいで、秘めていたわけではないが、言っても言っても言い足りない言葉を、無意識に吐き出してしまっていた。

「・・・そう。」

 苑子は、特別反応を見せない。

「愛してます。」

「そう。」

「エッチしたいです。」

「そう。」

「苑子さん、」

「なぁに?」

「俺にください。」

「は?」

 この日、初めて苑子が志茂田の顔をまっすぐに見た。

 笑っていなかった。

 ただ目を見開いていた。

「なにを?」

「なにを・・・」

 自分でもわからなかった。

 痺れから、めちゃめちゃに出てしまった言葉だった。

「・・・愛を!」

 両手を苑子の方に突き出した。

 君をとか人生をとかもっと他にあっただろと、差し出された手のひらを虚ろな目で眺めている苑子の様子を伺いながら後悔したが、もう自棄だった。

 今、目をそらすわけにはいかない。

「・・・ふふふ。」

 笑った。

 ゆっくりと、右手を上げた。

 差し出された志茂田の上に、握った拳を載せた。

「・・・はい。」

 困惑して黙り込む志茂田に、答えた。

「愛だよ。」

 志茂田は、どう反応したらいいかわからなかった。

 初めて触れる大好きな女性の皮膚の感触に、自分の体温が急上昇してしまい、彼女の異常なまでの温度の高さに、気づくことができなかった。

「さ、あげたから、帰って。」

「・・・苑子さん。」

 我に返って、やられた、と思った。

「帰って。」

「・・・後で来るっていう人が、ちゃんと看病してくれるんですね?」

「うん。」

 後になって、『病院に連れて行ってくれるんですね?』と訊くべきだったと悔やんだ。

「・・・・・・わかりました。」

 その時は、力なく、立ち上がった。

「・・・志茂田。」

 不意に呼ばれて、振り返った。

「返しに・・・来てね。」

 志茂田も、頭がいい方ではなかった。

「・・・何をですか?」

 それが何なのか、自分はどうして言われただけで理解できないんだと、心の中で歯がゆい思いをしながら尋ねた。

「・・・愛。」

 汗だくで、伏して左頬を台につけたままこちらを見て微笑む彼女の瞳は、今までで見たどの彼女のそれよりも、強く、輝いていた。



  *



「・・・俺、どうすればよかったのかなあ・・・。」

 宙を仰いでいる志茂田を置いて、苑子はトイレに立った。

 個室で吐きそうで吐けない胃のむかつきが収まるのを待ってから出て、正面の洗面台で手を洗う。

 そのまま苑子さん担いで病院に走ればよかったんだよばか。

 言えなかった。

 鏡に映る、自分の目をまっすぐに見る。

「・・・・・・。」

 なんで最初に助けてって言ってくれなかったの。

 なんでお店の人は誰も気づかなかったの。

 なんで苑子さんのお母さんは死んじゃったの。

 なんで私はあんなところでしのうとしたの。

 なんでしもだはやっぱりしもだなの。

 なんで苑子さんのお父さんはそんなこと思ったの。

 なんで幸田雪乃は私を裏切ったの。

 なんでパパもママも先生も運転士も店員もみんな馬鹿なの。

 なんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんで

「なんでみんなそんなに頭悪いのよ!」

 しゃがみこみ、嗚咽した。

 初めて、ちゃんと泣くことができた。

「そのこさん・・・。」

 私はなんて、頭が悪いのだろう。

  


 その後も二回、事情聴取を受けた。そのうちの一回は警察署で、井倉苑子の人間関係に関して掘り下げて訊かれたが「わかりません」としか答えられず、もう一回は自宅で、わざわざ足を運んできた労働基準監督官に、未成年者でありながら働かされた会社に対する怨恨などを聞かれて「ありません」「お店の人は悪くないです」と繰り返すばかりであった。たまたま居合わせて巻き込まれた平凡な子どもに聞けることは何もなさそうだと判断した両者から呼出しを受けることはなくなったが、地元の一般市民を恐怖に陥れた凄惨な事件の容疑者と接点を持っていた背の高い女子中学生の噂は瞬く間に地域中に広まってしまい、県外への引越しと転校を余儀なくされた。普通にいけば高校卒業まではエスカレーター式で進級できたはずであったのに惜しいという思いが全くないわけではなかったが、心の底から嫌悪している幸田雪乃から離れられるのだから、まあそれも悪いことばかりではなさそうだと、高校受験に向けて気持ちを切り替えた。

 苑子のことは、記憶から追いやるように努め、勉強に励んだ。



 二十年あまりの月日が過ぎた。

 中学校を移ってからもしばらくは家の前で柄の悪そうな報道関係者に声をかけられることがしばしばあったが、大物俳優同士の不倫話が世間を賑わせるようになると、途端に待ち伏せは無くなった。それから伊都子は中学、高校生活を平和かつ平凡に送り、そこそこの偏差値の短大に入って卒業後、就職先で出会った二歳上の営業マンと結婚して退職した。現在は専業主婦をしている。ちなみに事件直後は二度と唐揚げは食べたくないと思っていたが、就職してすぐの社員研修で出された昼食を完食した後に、同僚からよくそんなに細い体でこのボリュームを一人で食べられたねなどと指を指して笑われて、たった今おいしく召し上がったのが唐揚げ弁当DXであったことに初めて気づき、そんなトラウマめいたものを抱えていたこと思い出した。トイレに立った後、鏡の前で、人生そんなものかなどとひとりで納得した。ついでにトイレから戻る順路に設置された自販機で買ってみたミックスジュースはやっぱり駄目だった。



「おふくろー」

 息子の勇太が呼ぶ。もう小学三年生になる勇太は早くも反抗期に入っており、家では月々のお小遣いを渡す時以外全く声を発しないが、デパートの物産展など、食に関する催事に連れて行った時だけは、あれが食べたいこれが食べたいと積極的に発言する。

「こら。お母さんて呼びなさい。」

「これ晩飯に食いたい。」

 母の注意を気に止めず、要求する。指で示した先には、『大分からあげ』とかかれたプラカードがあった。

「奥さん!今夜のおかずにいかがですか?」

 『げ』の字を読み終わるより早く、女性が明るく声をかけてきた。振り向くと、小柄な若い女性が一口サイズにカットした唐揚げを爪楊枝に刺して、それを伊都子の方に差し出していた。

「めちゃくちゃうまいんだぜこのからあげ!」

 そう言いながら、勇太は女性の隣の机に置いてあった爪楊枝を手に取り、トレーに置いてあるまだカットしていない唐揚げに刺す。

「勇太!みっともない!」

「いえいえお気になさらず。それより奥さん、試食だけでもどうぞ。」

「どうも。」

 毎日欠かさず家計簿を付けている伊都子にしてみれば、原価にかなりの利益分を上乗せした出来合いの惣菜を買うなど、馬鹿げている。ましてや肉の中でも最も安価な食材であるである鶏肉だ。最初から買うつもりはなかったが、勇太の非礼を詫びる気持ちで、試食用のカットされた唐揚げが刺さった爪楊枝を受け取り、口に運ぶ。

 口に入れた瞬間、ツンとくる風味に、思い当たるところがあった。

 そこらじゅうにいる、頭の良くないただの中学生のひとりであった自分が遭遇した、とある事件の、彼女の記憶が呼び起こされる。



     *



「あなたが、海辺で叫んでたその姿を見て、賭けてみようと思ったの。」

 ドンドンドン、と硬いものが何かで叩かれる音。

「私の大好きな人はね、弱いの。」

 嘘のように、静かになる。

「私は、その人よりも、きっと、もっと、弱いの。」

 取り繕われた静寂。

「その人のすることに、何もできないの。」

 ずず。多分、鼻をすすっている。

「あなたはね、・・・強い。」

 ひっく、と聞いたことのない声が聞こえる。

「多分、志茂田も、強い。」

 ひっく、ひっく。

「頭は良くないけど、強い。」

 余計だよ。

「生きたいって、内側から、何度も、何度も、蹴ってた、この子を、あなたに、託してみたいって、思ったの。」

 ガチャガチャという金属音。

「・・・合ってるわよね?」

 おそらく、鍵の音だ。

「私は、合ってたわよね?」

 ・・・カチャン。

 ほとんど同時に、乱暴な足音と罵声が耳に押し入ってくる。

「その子は、しあわせに、なれるわよね?」

 聞こえないふりをしていたが、裏でしているのは、サイレンの音だ。

 頭がいいとか悪いとか、この際もうどうでもよかった。

 苑子さんは、私を認めてくれていた。

 スマートフォンのスピーカーから、膨大な情報量を含んだ音が止めどなく排出されている。

 声の出し方をなんとか思い出して、伊都子は叫んだ。

「・・・なれる!」

 音は、乱雑に途切れた。

 


    *



 意識が混乱するさなか、警察に通報しようとするも手の震えが収まらず、何度もボタンを押し間違えた。その都度様々なところに電話がかかって、なんとか『すいません』の音を絞り出して切ったり、無言で切ったりした。

 ようやくそれらしい受け答えをする相手が電話口に出て、『人殺し』とバス停名を繰り返し連呼したが、警察ではないことがわかった途端、落胆して切ってしまった後にかけた電話が、やっと警察につながったのだ。

 あの時は、1と9と0のボタンがなぜこんなにも近くに配置されているのかと、憤慨したものだった。

 

    *



「・・・お姉さん、このレシピ、誰かに習いました?」

 伊都子は尋ねた。

「気に入ってくれました?私のオリジナルなんですよー」

 にこにこ笑って言う。

「小麦粉と、醤油とみりんとお酒以外に、なにか使ってるわよね?」

 重ねて問う。

「えへへー。企業秘密です!」

 まつげの長い、黒目がちな瞳を細めて、いたずらっぽく笑った。

「なんだよそれー、お姉さんそんなんじゃ、一生上田になれないぜ?」

 勇太の文句を聞いて、伊都子は店員の左胸に付けられた名札を見る。

「ふふふ。」

 店員はただ笑っているだけだ。相手は子どもであるとはいえども、客だ。どんな意見にも言い返すことのないようにという、伊都子の記憶にもうっすらと残っている理不尽な社員教育を受けているのかもしれない。

 ピンクの口紅がべたべたに塗られたその薄い唇に、見覚えがあった。

「・・・お姉さん、四百グラムお願い。」

「わあ!毎度有りい!」

 嬉しそうに言い、手早くトングでからあげをパックに詰め、ラベルを貼って伊都子に手渡す。

 隣で、勇太が睨んでいるのが伝わる。

「なによ勇太、面白い顔して。」

「面白かねえよ。母さんなんか変なんだもん。」

 この頃はいつもツンケンして乱暴な口調なのに油断すると、『だもん』などと幼さがにじみ出されてしまう。可愛い我が子だ。

「さては。」

「さては・・・なによ。」

 勇太は目を細めて、口の右端をつり上げた。最近流行っているアニメの敵役の浮かべる、意地の悪い笑みを真似ているつもりだろうが、間抜けさが際立っているだけである。

「あのお姉さん・・・母さんの隠し子?」

 伊都子は噴き出す。ついでに勇太の頭を軽く小突く。

「なにすんだよクソババア!」

「クソババアじゃないわよ!まったく、どこでそんな言葉覚えたの!」

 口では勇太の口の悪さを窘めながらも、勇太の頭をぐしゃぐしゃと撫で回した。

「きっしょくわりー。さわんな!」

 母の手を振り払って悪態をつき、今度は北海道物産コーナーへ駆けていく。

 遠ざかっていく、その小さな背中を、伊都子は記憶にとどめるようにしばらく眺めた後、買い物かごに入れた商品の精算をするため、ゆったりとレジの方へ歩いて行った。

一次選考落ちでした。

うーん。

・・・が多いよね。

肯定否定問わず意見をいただけると嬉しいです。

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