CHAPTER 7
「じゃあここを……えー……那倉」
「! はい……!」
古典の教師が陽太の名を呼んだ。彼は起立して黒板の指示された箇所を現代語訳する。その解答が終わると教師は出来に満足したのか、解説を始めた。それを見て陽太は腰を下ろす。
「そう。つまりこの一文は筆者が直接その目で見たという事じゃなくて、誰かから聞いたという事を表してる訳で……」
ルナと出会ってから数日。陽太は日常へと戻っていた。
CHAPTER 7:「だってそうなったら。」
「ただいま」
「あ、お帰り陽太」
陽太が自宅に帰るとルナが居間でテレビを見てくつろぎながら待っていた。テーブルの上には湯呑みに入ったお茶をぴちゃぴちゃと口にするガルダもいる。
「あ、また遊びに来たの?」
「よっ、ルナちゃん」
「……」
ここしばらく続けざまに学校帰りに剣と珠希が彼の家に遊びに来ていた。今日で三日目だ。ルナに対して剣はいつもの様に軽くあいさつをし、珠希もまたいつも通りに無言の返事をした。
ルナとガルダは那倉家に住み付く事になった。陽太は彼女らについての詳しい経緯を母に話していないが、何かただならぬ事情があると感じたのか、彼女は特に追及してはこなかった。彼は母のそういう所が好きだ。彼女は踏み込んでいい領域という物を本能的に理解している。それは彼女が息子含め他人を信用しているからでもあった。
兵器である事が嫌だ。あの日少女の悲痛な叫びを聞いた少年は、共に暮らしていく事で彼女に人というものを理解して欲しかった。人の中で人と同じ生活を送る事で人として生きられるようになってくれたら。それが陽太の願いだった。ルナは兵器としてあり続けるのではなく、人として生きていく事を選んだのだから。
「そういえば、陽太から聞いたんだけど、ルナちゃんは最近料理を勉強してるって?」
「うん。まだまだ陽太のお母さんに習い始めたばかりだけど……」
剣の質問に恥ずかしそうに彼女は答える。居候の条件が家事を手伝う事だった。
「じゃあさ、古川にも教えてもらいなよ」
「えっ!?」
突然自分の名前が挙げられたのを予想外に思い、珠希は驚いて彼の方を見る。
「ちょっ、ちょっと! 何で私が出てくる訳?」
「古川も家でたまに作ってるんだろ? 弟に振る舞ってるとか。なあ陽太」
「え? あ、ああ。結構聞くな、それ」
話を振られて陽太も相槌を打つ。
「ちょ、ちょっと陽君まで! ……まあそれは確かにそうだけど……けどそれはあいつが何も作れないからで……!」
両親の帰宅が仕事で夜遅くになる事がある珠希は、母の代わりに夕食を作る事がしばしばあるため、料理の腕は自然と上達していた。陽太はたまに小学六年生の彼女の弟と道端で会うのだが、彼女の料理をべた褒めするのを度々聞いている。
「今日も作る訳?」
剣のルナへの質問は続く。
「うん。陽太のお母さんが帰って来てからだけど」
「何を作るのかは決めてるの?」
「ううん。献立はいっつも陽太のお母さんが決めてるから」
「そっか……じゃあさ、たまには陽太のリクエストを聞くのもいいんじゃない?」
「え?」
「え」
ルナと陽太が声を合わせて返事をした。
「陽太、何を食べたいよ」
強引に話を先に進める剣。こういう時は決まって、何事かを企んでいる時だ。
「え? そんなの急に言われても……」
「よし、じゃあ今からふらっとスーパーにでも行くか。何か浮かんだら適当に材料なり何なり買ってくればいい」
「ええ? ……あ、ああ、そうだな、そうするか……」
とりあえず、彼の話に合わせて陽太は立ち上がる。
「いきなり何言い出すのよ、ふたり共!」
それを見て不審がる珠希。
「じゃあ、ちょっくら俺達は出掛けてくるから、古川とルナちゃんは留守番頼むな」
「は? 何それ……!」
「お前も来い、ガルダ」
「ア? メンドクセーヨ。何デ俺モ」
陽太の呼び掛けにガルダはぶっきら棒に答えた。
「煎餅買ってやるから」
「ッタクシャーネーナア」
しかし好物に釣られ、態度を一変させて彼はパタパタパタと飛び陽太の肩の上にちょこんと降り立つ。
「サッサト行クゾオラ」
「わ、私も行くよ!」
「駄目だ古川。これは男同士の買い物だから……な、陽太」
「あ、ああ」
「何よそれ!」
付いて来ようとする珠希を剣は適当な理由で拒んだ。
「じゃ、ちょっと行ってくるから」
「あ、う、うん」
陽太もルナに一言残し、ふたりと一羽は外へと出て行った。
「で、何なんだよ突然」
芝居はもういいか、と言う様に陽太は剣に尋ねる。
「お前もわかってるだろ? 古川とルナちゃん、まだぎくしゃくしてるじゃん」
「まあ、それは……」
「だから、ここはいっそ女の子だけにしてみようって事」
「大丈夫かなあ。珠希の奴、またルナに冷たく……」
「ん~、なるのもしょうがないんだけどねえ」
「?」
そして、ルナと珠希、ふたりきりになってしまった那倉家では。
「……」
「……」
気まずい雰囲気が流れ、お互い共無言になっているのだった。
「……っ……! ……」
何なのよ、あのふたり。そう口に出そうとしたが、これでは不満を聞いて欲しいみたいだ、と咄嗟に珠希は噤んだ。
そうして、あえて関心が無い様に見せるため、彼女は意図的にルナに目を向けなかった。まるで今この部屋には彼女ひとりしかいない、そう自分に、いやルナに言い聞かせる様に。
「……私の事、やっぱり嫌い?」
沈黙に耐え切れなくなり、ルナは口を開く。
「…………嫌いよ」
無視してやろうかとも思ったが、それはあまりにも幼稚だと思い珠希は彼女の問いかけに答えた。
「そう……やっぱり、私が兵器だから?」
「…………ええ、そうよ」
言いながら、自分のこの言葉が少し引っ掛かる。
「……そっか……」
ルナは軽く息をついた。
「じゃあ、私が人になれたら、私の事、好きになって……くれるの?」
「え?」
「だって、私が兵器だから嫌いなんでしょ? だったら私が兵器じゃなくなったら、嫌いじゃなくなってくれる?」
「……そ……」
ぽつりと言って、一旦珠希は口を閉ざした。私は何を言おうとしているのだろう。どこともわからない所からやって来た、この異星の少女……いや、兵器に。
「……そしたら、もっと嫌いになるよ、あなたの事」
「? どうして? だってその時は、きっと私はもう兵器なんかじゃ……」
「だってその時はもう兵器なんかじゃなくなってるもん! たっ! ただの可愛い女の子だもん!」
「……? それが嫌なの?」
「嫌だよ! だってそうなったら、そうなったら陽君は……!」
ああ、何を言ってるんだろう私。こんな兵器に……何を声を震わせてるんだろう。
「陽太が……何?」
「あっ! あのね!? わかんないの!? 私が何であなたに冷たく当たるのか!」
「……? ごめん、わからない……兵器の私にはわからないのかな。人になれたらわかるのかな」
そう言うルナは寂しそうだ。どこか空っぽな機械の様な表情……やっぱり兵器だからだ、やっぱり……やっぱり、そんな人間らしい表情……どこからどう見ても、すっごく可愛い女の子だ……!
「私はね……あなたに嫉妬してるの!」
「嫉妬……? どうして?」
彼女は意外そうな目で聞いてくる。本当に、人形の様に可愛らしい。
「だって、珠希は私が持ってない、欲しい物をきっとたくさん持ってるんだよ。どうして珠希が私に嫉妬するの?」
「あなたが私が持ってない物を持ってるから!」
「?」
「だって陽君、あなたの事好きじゃん!」
「……好き……?」
「そうだよ! どっからどう見たってそうじゃん! だから嫉妬してるの!」
「陽太が私を好きなら珠希が嫉妬するの?」
「そうだよ! それも全部言わないといけないの!?」
何だか顔がぼろぼろに崩れてきた様な気がする……今私、どんな表情をしているのだろう、と珠希は思った。
「……ううん、無理に言わなくていいよ。私兵器だから、きっとわかんないよ。いつかわかる様になったら自分で考えるから」
微笑むルナの声からは確かな優しさが伝わってきた。彼女はこんなにも温かな笑顔が出来るのだ。
「わっ、私は好きなの! 陽君の事!」
つい核心を吐露してしまう。珠希はやっと、今まで逃げてきた物と向き合っていた。
「……そうなんだ……珠希は陽太の事、好きなんだ」
「そう! だから嫉妬してるの! いきなりそばに現れたあなたに!」
「そっか……そうだったんだ……ごめんね、気付いてあげられなくて」
「え……?」
「私、その好きとかいう気持ちわかんないんだ。プログラミングされてないみたいで」
「……そうなの……?」
「うん。でもそのせいで珠希を悲しませてるんだったら、ごめんね」
「べっ……別にあなたが謝る事じゃ……」
胸の内を全て明かすと、珠希は少しはすっきりした。結局はそういう事だったのだ。私が彼女を恐ろしく感じていたのは、大量殺戮を繰り返してきた兵器だからではなく、陽太の言う通り、どこにでもいる女の子にしか見えないからなのだ。
何か私、自分の事ばっかりだ、と珠希はがっかりする。目の前の少女は私の事を気遣ってくれているのに、一方で私はずっと自分の事しか考えてきていなかった。この時初めて珠希はルナの立場になって考えてみた。もしも自分が、望まぬ形で生まれてきたらどう思うのだろう。兵器になどなりたくなかったのに、人を殺したくなどなかったのに、そうなる事を望まれて生まれてきたなら……心を持っているがゆえに、彼女はたくさん悩んで、葛藤してきたのかもしれない。
「……ルナ……」
そして、珠希は同じく初めて彼女の名前を呼んだ。
「ごめんね。謝るのは私の方だよ」
「? どうして?」
「私、自分が嫌だから、ずっとあなたを拒絶してきた。でもあなたは今もずっと私の事を考えてくれてるんだね……こんなんじゃ、どっちが人かわかんないよ」
「珠希は人でしょ?」
「うん、そう……私は人、だよ。ルナも……ルナもそうだよ」
「え? 私、もう人?」
ルナは驚く素振りを見せる。何の意図も無い、純粋な反応だ。
「……いや、誰かを好きになる気持ちがわかんないんなら、まだまだかな」
それを見て珠希はわざと、いたずらっぽい態度を取った。そうだ、この娘は何よりも、誰よりも純粋なのだ。
「じゃあ、好きって気持ちがわかれば人になったって事?」
「んー……それは、ルナ次第じゃないのかな」
そうなっちゃったら私、困っちゃいそうだけどな……と心配しつつも、いつの日か彼女がその気持ちを理解する日が来る事を珠希は望みつつあった。複雑だが、今はルナの事を、好きになれそうな気がする。外見だけではなく、内面の美しさも、珠希には今見えている。
蟠りがとけつつあった。
陽太達が帰って来ると、女の子ふたりは仲良くトランプをして遊んでいた。家を出る前には考えられもしなかった光景だ。
「あっ! 陽君遅い! 何か買って来たの?」
「あ、ああ……」
「お帰り陽太」
「ああ、ただいま……」
「よし。さて、おばさんを煩わせる前に私がお料理のお手本を見せてあげようかな。ルナ、台所に行くわよ」
「うん」
珠希に連れられルナは隣の台所へと歩いて行く。がらりと変わったふたりの雰囲気に、何が何だか陽太はわからなかった。
「上手くいったみたいだな」
剣が涼しく笑った。