宰相様は乗り込んだ
「すぐに仲良くなったのですね」
端整な顔立ちに笑みを絶やさず、宰相は言った。
柔らかな口調で穏やかな表情で。
対して、エレクトラはできるだけ離れた場所で縮こまっている。
コルセットのせいで膝を抱えることなどできないが、手すりを握りしめ、精神の安定をはかっている。
「共通の話題をお話させていただいただけです…」
「…ルマティカ男爵令嬢」
「は、はい」
「私のことが嫌いですか?」
宰相の馬車に案内され、エレクトラは固辞した。
いくらなんでも、男性と二人、男性の馬車に乗るなどエレクトラであっても醜聞である。
たとえバツイチでも。
王宮に来た時には、王室のご立派な馬車が迎えに来たので帰りも送ってくれないかなーとは思っていた。
駄目でも裏門から出て、ちょっと歩いたあたりで辻馬車に乗ればいいかと軽く思っていた。
「送る」というのが「馬車で護送する」という意味だとは思わなかった。
思わなかった、と言うか思いたくなかった。
大公家の紋章が光り輝くバカでかい馬車に連行されるだなんて、一生の不覚である。
いきなり横抱きされて中に連れ込まれたのだ。拉致に近い。うっとりと見守る女官さん助けて、と叫ぶ前に口を塞がれた。
うん、サイアク。アレはキスでもファーストキスでもない。ファーストキスは三歳の時に弟としたから。
あまりの驚きに硬直し、現実逃避している間に馬車に乗りこまれ。
優雅に膝の上に乗せられた。
文官のくせに凄い膂力である。服の上からでも筋肉がわかってしまう。
拘束が弛んだのは、馬車が動き出してからだった。極悪。
どんなにエレクトラが暴れたってびくともしなかった。運動不足とは言え屈辱だった。無駄なお肉はこんな時でも役には立たなかった。
他にエレクトラが行使できるのは泣き落し位だが、できるかどうか自信がない。
どういう反応をすれば、穏便にいくかなんてわからない。
切れ者だと有名な宰相に、好きだの嫌いだのと問われるとは思わなかった。
お貴族様の、タチの悪いおふざけだと思っていた。
今の、表情を見るまでは。
近くはないが、遠くもない距離で見える宰相の榛色の瞳が不安に揺れている。
「――嫌いじゃ、ないです…」
嫌いだけど!言えないじゃないか!と、内心で叫ぶが、言えない。
宰相が、笑った。
寒気が緩んだ風に誘われて咲く花のように。
本当に、嬉しげに。
邪気もなく、毒気もない、初めて見る笑顔。
前の宰相を笑いながら口にも出せないエグイやり方で痛めつけたと噂の宰相が。
貴族のお坊ちゃんらしく、高貴でキラキラしていて、それでいて抜け目のない、王族からさえ一目置かれている実力者が。
「――なんでそんな顔するんですか…」
呻くように呟くエレクトラの頬を、優美な掌で包み込む。
「そんなに、崩れていますか?」
至近距離で見る宰相の瞳は、二色だった。
瞳孔の周りは薄茶色なのに、その外側は薄緑だった。不思議な色だ。
不思議で、美しくて、目が離せない。
「嫌われていると思っていました」
反射的に、ぎくりと身体が強張る。
気付かれないはずは、なかった。
「エレクトラ嬢?」
甘く、それでいて、身の危険を感じさせる声に、身震いする。
「嫌い、ってわけではないんですよ、ええ、宰相様は婦女子の憧れですしね!」
「――エレクトラ嬢?」
ひょい、と膝の上に乗せられる。幼子のように。
上目遣いの不思議な輝きの双眸に、彼が自分より年下だとやっと思い出す。
「何でしょうか」
「貴女の、気持ちを知りたい」
言えるわけないだろう!と叫ぶ前に、上目遣いの美形の小悪魔的な可愛らしさに鼻血の心配をする。
何の手管か知らないが、あざと過ぎる。
初めての「贈り物」の一件だけではない非常識な行いでどれだけエレクトラが迷惑を蒙ったか、貴婦人たちが憧れるその胸に手を当てて考えてほしい。
言えない。言いたいけど、言えない。
強張るエレクトラの顔を物憂げに見上げ。
「無理強いをしたいわけではないのです。ただ――限界かなって」
思わず、飛びのいた。
「火事場の馬鹿力」レベルの力が出たらしく、手を振りほどき、馬車の隅っこに座りこむ。
標準のものより大きいとはいえ、密閉空間である、馬車の中。そんなに遠くはない。
遠くはなくても、できるだけ遠くへ、できるだけ、離れたい。
「エレクトラ嬢?」
近付く、美形ではあるが確実に成年男性の影にエレクトラは怯える。
「ああ――怖いんですね?」
カクカクと、ぎこちなく、それでも高速でエレクトラは頷く。
何をしでかすか、わからない。
これは、怖い。
世の中と構成する人間の動きを分析し、予測するのは、エレクトラの仕事の基本である。
初対面の人間でも、大体のところはわかる。
一廉の人間になると難しいが、それでも、目の前の宰相様の行動は理解しがたい。
色恋かと思ったこともあったが、想い人にする仕打ちとも思えない事をされる。良くてセクハラ。
好かれる筋合いは、ない。
嫁き遅れの、目つきの悪い、見栄えも良くない年増に懸想する物好きなど、いない。まあ、「金の卵を産む鵞鳥」としてなら需要はあるだろうが、何もかもに恵まれた大公家の公子様には無用の長物だろう。
玩具扱いかとも思ったが、このやりとりではそうとも言いにくい。
何かの賭けかと思ったが、エレクトラの情報網には引っかかってこない。「倶楽部」の会員にきいてもそうではないという。
途方に暮れてしまう。
研究都市にも、学園都市にも、錬金都市にも、彼のような男性はいなかった。
色仕掛けで単位を取ろうとした教え子や、纏わりついて研究を盗もうとした同僚の行動にも、似ていない。
「では、仕切り直しをさせてください」
両膝をついて、エレクトラの顔を覗き込む。
「仕切り、直し?」
「ええ。お友達から、お願いします」
真摯な表情に、エレクトラは眼鏡の奥の目を忙しく瞬かせた。
「貴女は、けっこうおしゃべりだと思うんですよ」
少し砕けた物言いに、エレクトラの強張りが少し解ける。
「おしゃべり…?」
「貴女のおしゃべりを聞いてみたいです。あとは、まあ、追い追いと。貴女の講義は面白い。きっと、私的な話も興味深いと」
言っている意味はわかるが、意図がわからない。
「怖がらせてしまったことは、謝罪します。申し訳ありませんでした」
殆ど土下座の勢いで頭を下げられ、エレクトラはドン引きする。
そんなことされても、困る。
身分が、違う。
本来なら、「不敬な態度」としてエレクトラの方が処罰されるべき場面である。理不尽だが。
とりあえず、馬車が動いている間に収拾しないと、エレクトラだけでなく父親にまで累が及ぶ。
エレクトラは涙目で考えた。
赦す、とは、言いたくない。
「おともだち、ですね…?」
勢いよく上げられた顔が、驚きに煌めく。
どんな表情も、美形は美形だった。
「いいのですか?」
「おともだち、なら。不埒な真似は御遠慮下さるなら」
「そうです、おともだち、だから、身分は関係ないですよ!」
「ありますよ…」
なんとなく、げんなりして窓を見れば、見覚えのある建物が見える。
「ああ、ここらへんで降ろしてください」
「おうちまで、送ります」
「大丈夫です。ここまできたら、歩いて帰れますから」
愕然とした表情にエレクトラは眉をひそめる。
「宰相様?」
「……いつも徒歩で?」
「遠出なら、馬車ですけど。うちは一台しかないので」
「――危ないですよ」
真剣に言い募る表情にエレクトラは苦笑する。
「大丈夫ですよ?男爵の、嫁き遅れの娘がどんな目に?それに、護身術くらい嗜んでおりますよ?」
「今までが幸運だったのですよ!貴女は御自分の可愛らしさに無頓着すぎる!」
悲鳴に近い叫びに、驚き、内容を理解し、エレクトラは顔が熱くなるのを感じる。
熱を振り払うように頭を振り、首を傾げる。
「そんなことを仰って下さる方は宰相様位です。それに、この馬車が当家に入ると少々外聞が…」
「お友達、でしょう?」
がっしりと両手を握られる。
「貴女の安全のためにも、貴女専用の馬車を派遣させてください」
エレクトラの頬が引きつった。
「勿論、紋章は外します。貴女が心配で仕事にも手が付きません」
「――ええと、その、そんなに、出歩かないし…身分不相応ですし…」
「これから出かける機会は多くなります。『王太子殿下の教師』ですから」
「……今からでも、辞退は、できませんか――無理ですか……」
「貴女のフォローは私がしましょう」
「でも、宰相様」
「アウレリウスと、お呼びください」
「でも、」
「お友達、でしょう?私も、エル、と呼んでいいですか?」
「……ご自由に、どうぞ…」
なんだか、怒涛の濁流に押し流されている気分だった。
そして、慌てて出迎えてくれたエレクトラの父は卒倒せんばかりに仰け反り、真っ白な顔で宰相とエレクトラを引き離してくれた。