宰相様がやって来た
研究都市で経営学の研究をしていたエレクトラが何故下僕…ではなく、親交のある貴族の息子と契約結婚をしなければならなかったのかというと幾つかの理由があった。
まず、年頃の娘が片付かないのは貴族としては恥ずかしいことだということ。
エレクトラや弟はそんなことどうでも良いが、母の死後、恋人一人作らなかった父のイビリの口実にされるのは嫌だった。
真面目だけが取り柄の父には、エレクトラに相応しい縁談を用意することはできなかった。
学歴のある、職を持つ男爵令嬢を敢えて妻にし大事にする、という貴族男性がそうそう転がっているはずもなく。
男爵家という貴族の末席ではあるものの、跡取りたる弟の憂いになりそうだったこと。
理系の学問が好きな弟の学費が少々心許なかったこと。
などなど、数え上げたらキリがなかった。
親交のある貴族たちに内密に相談してみれば、喜び勇んで縁談を持ってきてくれた。
思ったより多かったので、条件を付けてみた。
エレクトラに一切の興味を持たないこと。
嫌われても好かれても迷惑である。
結婚中は、エレクトラの専門知識を生かして資産運用するので財産を分与すること。
弟が好きな学問は、とにかく儲からないので資金は多ければ多いほどいい。
離婚はエレクトラの意思で行うこと。
この三つは譲れないポイントだったが、皆、快諾してくれた。縁談の相手ではなく親が。
その中で、くじ引きで決まったのがクレクティス侯爵家の跡取りの子爵であった。
実際、彼は厚いレンズの眼鏡を付けたエレクトラには微塵も興味を持たなかった。
恋人がいたからである。
従妹のヴァネッサは幼馴染で、母親の侯爵の妹が婚家から放り出されてからずっと付き合っていたという。
勿論、侯爵は認めていない。
ヴァネッサ自体が不義の子ではないかと婚家から認知を取り消されていることと、母親の素行が悪いためである。
ただでさえ、おつむの悪い跡取りにあばずれ女の娘を娶せるなど下手すれば王家の勘気を買いかねない。古くから王家と縁深い由緒正しい家柄である。
実際に娼婦を妻にした某公爵は爵位を返上したし、隣国の歌姫と恋仲になった某大公家の公子は駆け落ちをした。
御曹司自身は侯爵に直々に諭されたらしく、ちょっかいもかけず社交にはヴァネッサを帯同し、生活費も与えず、ずっとヴァネッサを囲っている館に住んでいた。
問題はヴァネッサで、「ごあいさつ」と言い、三日おきにやってくる。
エレクトラが居れば、数時間は居座り、よくわからない話をする。ビミョーな自慢と嫌みを織り交ぜながら。
社交をしないエレクトラからすれば偶に面白い情報をくれたりするので無碍にはしないが鬱陶しい。
所用で不在の時など、かなり騒ぐらしく、執事たちが無表情ながら消耗している。
夫より夫の父親の方が足繁く通う子爵邸はいつしかある紳士倶楽部の拠点の一つになった。
エレクトラがいるからである。
エレクトラの専門である経営学の講座を開く、という趣旨で始まった集まりはいつしか、「エレクトラに侍る会」に変貌した。
勿論、最新の学説やその解説、情報の交換も行うが、なぜかエレクトラの周りに嬉しげに紳士たちが侍るのだ。
初めの内は気味悪がった。すぐに慣れたが。報酬は良いし、割り切った。
エレクトラが所属する研究室にも気前よく寄付してくれるので、サービスの一環だと思えば、そこまで辛くはない。
エレクトラが眉を顰める姿に喜び、手や足にすがる姿は、ドン引きする。
男爵の娘に、王宮でも権力を持つ重鎮たちが跪く。
猫を思わせる、大きな瞳とつり上がり気味の眦を称え。
ペン胼胝ができた不格好な左手に頬ずりし。
自分の親より遥かに上位の貴族たちの奇行に硬直するしかなかったエレクトラを「我が女王」と賛美する。
その中に、あの「変態」がいた。
その「変態」は真っ先にエレクトラを「女王様」扱いし始めた元凶である。
大公家の嫡子でありながら気さくで優秀で美形。
交友範囲も広く、自分の父親世代が中心である紳士倶楽部の最年少である。
出来すぎた貴公子は、「優良物件」として注目されているはずである。エレクトラは殆ど、全く社交をしないのでわからないが。
問題は、「変態」だということである。
エレクトラが貰う贈り物は大体、花や菓子、流行の小物が多い。偶に湖とか島とかあるが謹んで辞退する。
「変態」はのっけから下着を送りつけた。
それも、錬金都市の花街で流行中の下着である。
下着と言うことすら、エレクトラも侍女たちも解らなかった。
見事な純白の精密なレースだったので。
たまたま居合わせた客人が興奮気味に教えてくれた。
値段を聞き、驚いた。
弟の「学院」の学費半年分である。
用途を聞き、また驚いた。
下着であるという。どう見ても紐状にしか見えない。
しかも上ではなく、下だと言う。
上は上で、すけすけのひらんひらんで、普通に着たら臍が丸見え、胸に着けるらしきものも、三角状にレースが組み合わさっているだけで、肝心の中央は空隙であった。どういう意図なのか理解に苦しむ。
こんなに繊細で緻密なレースを、汚れやすい部位につけろと?
侍女と顔を見合わせた。
客人は微笑みながら「大人の嗜みですわ」と言ったが、ドン引きである。
突っ返そうとしたが、「主に責められる」と使者は受け取ってはくれなかった。「返却するなら一度身にお着けてなってください」と言う。冗談ではない。
その上、「返事をいただくまで帰ってくるなと言われている」とほざいた。
「変態」の危険性をまだ甘く見ていたエレクトラはやんわりと礼とたしなめの言葉を綴り、門前払いにするように指示を出した。
どうなったか。
本人が押し掛けてきた。
男爵家に足繁く通う大公家の公子。
外聞が悪いにもほどがある。
仕方がないので研究都市に逃げ戻ったが、紳士倶楽部に招聘されれば行かざるを得ない。お金は大事である。
そこには当然「変態」がいる。
そして、分別が付いているはずの面々も毒された。
皆、初めは面白がっていたのだろう笑みが浮かんでいたが途中から奇妙に甘たるしい視線を向けるようになった。
意味がわからない。
普段人を傅かせている反動だろうか。
人を巻き込まないでいただきたいが、いかんせん、相手は高位貴族である。
いざとなったら父親を引きずって研究都市に籠れば良いのだが、それは最終手段だろう。
そうこうしているうちに「変態」は仕事が忙しくなったらしく顔を見せなくなった。
安心して忘れていたら、弟が爆弾発言をした。
ままならないものである。
文官を養成する「アカデメイア」への進学を勧められたと言い出した時に勘ぐってみるべきだったのだ。あの「変態」がおとなしくしているわけはなかった。
エレクトラの父にさえ、「おとうさん」と呼び、あまりの恐れ多さに父親がのけぞったりしていたのだから。
そして。
目の前でその大公家の公子で、この国の宰相様が優雅に茶を飲んでいる。
「すばらしい。このまろやかな甘みの中の苦み。見事な若草色。とても美味しいです」
「……はあ」
邸の主である父親は領地に呼び出され不在である。
ちらり、と客人の後ろに控える弟を見れば、手を合わせ、頭を下げている。
謝っているつもりだろうか。
先触れが門番に説明している時に馬車で乗り込むという荒業で押し掛けてきた宰相様は何をしても優雅である。変態であるが。
エレクトラがにっこり微笑めば、口元を見つめ。
庭に案内すれば、指先や肘を凝視する。
気持悪い。優雅で優美な視線なのだが、気持悪い。
今だって、微笑みながら二の腕を見ている。やめろ、たぷたぷなんだから。
「何の御用でしょうか?」
「今回は非公式の勅使として参りました」
非公式でも先触れはちゃんとしろよ、と心の中でツッコミを入れる。
「来年度より、王太子殿下の教育係として王宮に出仕なさいませ」
手渡された羊皮紙の文書には、仰々しく王家と政府の紋章が刻まれており、偽造ではない事を証明している。
王太子殿下の教育係として出仕するように、と簡潔に書かれている。
国王、王妃、宰相の署名が揃っていて恐れ多いことである。
拒否することはできないのはわかっている。臣民であるし、一応貴族だ。
王太子殿下は現在七歳、可愛らしく才気煥発で性格も良いともっぱらの評判であるからして不安も少ない。光栄の極みである。
――できれば、研究都市にひきこもりたいのだが。
「要望は、聞いていただけないでしょうか」
「出来得る限りは」
「まず、私が出仕する場所を後宮にしていただきたいです」
「勿論です」
「次に、私の視界に宰相様が侵入なさいませんよう、」
「なぜそのようなことを!」
手を握られかけ、間一髪で逃げおおせる。
「職務に支障をきたしますので」
「誓ってお邪魔はいたしません!」
「存在が邪魔です」
にべもなく言い捨てるのだが…嬉しげに悶えている。
いやもうどうしよう、この人……
「そもそも、何故、私なのでしょう?優秀な学者様なら幾らでもいらっしゃるのに」
「御謙遜を。貴女ほど、素晴らしい経営学の師を存じません」
「ハミルトン公爵様やウェズリー伯爵様なら、私などより素晴らしい教育ができると思います」
「彼らはもう少し大きくなってからと判断されました。推薦したのは私だけでなく、『倶楽部』の者全員です」
眩暈がする。
どうしてくれようか……大抵の報復は御褒美だしなあ…
「――光栄ですわ。ご期待に添えますよう、努力いたします」
「ありがとうざいます」
イヤな予感がするので腰を浮かせていてよかった。
いつの間にか向かいに座っていたはずの宰相様が、至近距離で跪いていた。
認識した瞬間、飛びのいた。
「ルーグ殿は許されたのに、私はダメなのですか?」
優美な眉を垂れる姿は婦女子の紅涙を誘うことだろう、とうんざりと思う。中身は変態だが。いや、彼を恋うる婦女子ならどんとこいだろう。
エレクトラはまっぴらごめんだが。
「クレクティス侯は、義父ですもの」
「義父……魅惑的な響きですね…」
うっとりと何か、いかがわしいことを妄想しているんだろうなあ、という表情をする。
弟に目を向ければ、そっぽを向いていた。
『おそらきれい』とか呟いていそうな虚ろな目をして空を見上げていた。