part 2
第二章
一
僕らが通う清臨大学の号館は全てで一五ある。その中で五号館と六号館は共同で使われている。五号館は法学部と外国語学部が、六号館は文芸部と外国語学部が一緒くたにされている。理由はこの三つの学部の定員がどの学部よりも多いことと、この学部専用で機材を揃える必要が少ないからだ。外国語学部は千人、文芸部が九百人、法学部八百人ほど存在し、各学部の専門塔を作る談になっても一番先に削減されるのはこの学部たちだった。
僕を含め、約五〇人の生徒たちは一〇号館の大教室で次の授業を今かと待っている。一〇号館は動画再生の可能な機材が置いている部屋が完備されているので、この号館に行けば映像媒体を使った授業が行われる確率が高い。
「ねえ」
「どうした?」
「今日って課題あった?」
「もちろん。いつものことだろ?」
この前振りの本当の意味を僕は知っている。夕美はこと運動に関しては僕の遥か上を行くのだが、勉学になるとその勢いは嘘のように尻すぼみになる。
「光。あのさ、今日の課題なんだけど」
「ちなみに。課題を忘れたからってまる写しはさせないからな。写したら写した人間はもちろん、写させた人間も単位なしになるから」
「そんな! 幼馴染がこんなに頼んでるのに!」
まだ何も頼まれていないのだが。
「そもそも私たち就活は始まってるんだよ。就活生の気持ちくらい酌んでくれるかも」
「ここの教授にそんな言い訳するだけ無駄だ。あの人、自分の授業に対する責任感のかけかたが尋常じゃないし」
昨年になるが、今の夕美のように就活生だからと甘い考えで教授に提出物遅延の許しを請おうとした生徒が、ビンタを喰らって単位ももらえなかったという悲劇があったそうだ。その生徒はどうしても教授の授業で単位が欲しかったが、どんなに拝み倒してもダメだったらしい。
そのことを懇切丁寧に夕美に言ったらいつの間にか顔面蒼白になっていた。
「授業開始の時にも言ってただろ? 私は君たちに対して真摯に授業を展開していくので、それ相応の態度で授業を受けてくれって」
「ちなみにその人、どうなったの?」
「さあ? でもその授業で単位を取っていたら、何の憂いもなくここを卒業できただろうって教授は言ってたよ」
俯き加減で何事かを考える夕美。そして、
「……コピー」
「はい?」
「コピーならまだなんとかなる! 光のノートをコピーして、授業に参加すれば写したかどうかなんて分かんないでしょ!」
「まあ、コピーは良いらしいけど」
時計を見ると時間は一〇時五二分。授業開始は一一時ちょうどなのであと八分。さらにこの教室から最短距離のコピー機がある談話室に行くにはどんなに早くても往復で二分はかかる。つまりコピーに要する時間は五分が望ましい。
「嫌なら書き写させてくれても良いのよ?」
「さっきまでなんの話題で話してた。それに今から昨日の課題分写すとなると相当のページだけど」
ノートを見ると枚数にして二枚。しかも裏表空白なく使っている。
「じゃあやっぱりコピーじゃない。無駄足踏ませて単位落としたら光のせいだよ」
「課題してこないこと自体悪いと思うんだけど」
「うっさい!」と捨て台詞を残して夕美は突風のごとき早さで教室を出た。あの足なら二分は切るだろう。
仕方のない幼馴染を見送って授業の準備に取り掛かっていると、前の席に座っている生徒が鞄を広げて何やら慌てている。
「……どうしよう」
聞き覚えのある声だった。もっというならその後ろ姿は何度も見たことがある。
「あれ、ちゃんと持ってきたはずなのに、どこに……」
鞄の中身を全部出しても失せ物が見つからないのを知って、前の女子も忘れ物をしたことは明らかだった。本当なら気付いた直後に助けてあげれば良かったのだが、前の人物が自分を嫌っていると知っていることもあって、手を差し伸べるべきなのかどうか迷ってしまった。
「早川」
しかし、僕は彼女の名前を口にする。呼ばれた少女は恐る恐る後ろを振り返る。そこには今日も変わらない早川奈月の端整な顔があった。
「……何かご用ですか?」
「忘れ物でもした?」
ただ、その端整な顔は僕の顔を見るなり曇らせてしまったが。
「盗み聞きだなんて趣味が悪いんじゃない? それともいつも自分を言い負かす相手が困っている姿を見て笑っていたのかしら」
よくもまあ同じゼミの人間をここまで貶されるもんだと感心さえしていた。昨日は結構心の距離を縮まらせた気がしたのだが、やはり世の中そんなに簡単にできてはいなかった。
そんな意味のない思考は無意識のうちに溜め息へと還元されていた。
「溜め息を吐きたいのはこっちよ。朝から自分の失態を見られただけでなく、しかも見られた相手があなただなんて最悪」
「はい」
早川の悪口マシンガンを遮って、僕は授業に必要な冊子を差し出した。
「え、何これ」
「ここの授業、僕は二回目なんだ。受けてるのは友だちの付き添いでね」
これは本当の話で、夕美がこの授業を受けようと誘ってきたのだ。けどここの授業は二回生の時にすでに取得していて、最初は夕美の誘いも断ったのだが、我が幼馴染様はそんな僕の言い分を無視して、履修申請を勝手に進めて、今に至るという訳だ。要するに、僕は暇を潰すためにここにいるのだ。
「でも、さっき別の女の子があなたのノートを持って」
「さっき持って行ったのは一冊目。これは新しく書いた二冊目。ここの授業、教授もそうなんだけど、内容も面白いから二冊目を書いちゃってね。これはその二冊目」
「そんなこと」
「あるわけないって? そう思うのは勝手だけど、冊子がないと授業は受けられないし、もし教授に見つかったら単位なしになる。だろ?」
向こうとしては喉から手が出るほど欲しいはずだが、僕から借りるというところが気になるそうだ。さっきから差し出された冊子に手を伸ばそうかどうか悩んでいる。
「早くしないと、教授来るけど」
「ううっ」
「冊子が無駄になるけど」
「分かったわよ!」
早川は怒声を上げて、荒々しく冊子を取り上げる。
「これで貸しただなんて思わないでね」
「ご安心を。僕も君に貸しただなんてこれっぽっちも思わないから。それより準備まだじゃなかったっけ?」
「ふんっ」
早川は最後までご立腹だったが、気にすることなく僕は自分の席につきなおす。
「あれ、その本」
失せ物を探すために並べられた本の中に見覚えのあるものが視界に入った。文庫本サイズのそれは男の子と女の子が手をつないでいる表紙が印象的だった。
「櫻井桜の『トワに』よ。あなたも聞いたことくらいあるでしょ? 映画にもなったことあるし」
彼女の言う通り、櫻井桜の作品は多くのメディアに取り上げられ、ドラマや映画にもなったことがある。
少し声を上ずらせて語る早川を見て、本当にこの作品が好きなんだと思ったが、僕は彼女と一切目線を合わせることができなかった。僕の視線は彼女の持つ本、櫻井桜の作品に釘づけになっていたから。
「ちょうど私が中学生の頃に出てきた人でね、この人の作風を一言で言うと『暗い』ってところかしら。でもその暗さがまた良くてね」
そう。彼の作品は暗い。人生は苦しみと悲しみで彩られていて、そんな世界にいるのは自分一人だと思わせるとても居心地の悪くなる本。
「この人の作品に登場する主人公は、幸福に満ちた世界にいたのに、不幸の連続に遭って、最後には」
「死ぬ」
僕の声は信じられないくらいに擦れていて、自分でも言葉にできたか疑わしいほどだった。それもそのはず。僕の喉は一瞬でからからになっていたのだから。
「なんだ。あなたも読んだことがあるのね。それと馬鹿言わないで。死ぬわけじゃない。確かに死んだような描写をしているけど、直接的に『死んだ』とは言ってないでしょ」
「いや、彼はそう書きたかったんだ」
ゆっくりと、静かに、僕はそう返答した。そんな僕を不思議そうに早川は眺める。
「あなた、なんで」
「いやぁ、ぎりぎりセーフ。ありがとね。こ、う?」
そこにコピー作業を終えて帰って来た夕美が合流する。
「えっと、光? その子って?」
「知ってるだろ。あの早川だよ」
「嘘……。なんで光が演劇部の早川さんと知り合いなのよ?」
夕美にとって僕と早川のセットは意外だったみたいだ。でもそれも仕方ないことだと思う。だってまともな友だちがいないのに、学内の有名人と話しているんだから。
「待って、話を止めないで。さっきの言い方なんなの? あなたはあの人の何を知っているの?」
「ちょっと光。どうしたの。早川さん大興奮してるんだけど」
早川と僕の話に夕美が待ったをかけた。
「そもそも、二人はどういう関係なの! しかもよりにもよって早川さんって、どうしてよ、光! それと今の話、恋バナよね? もしかして、早川さん誰かと付き合うの!」
「そんなわけないだろ! 何言ってんだ夕美! お前も興奮してどうする!」
「え、でも」と反論しようとする夕美を、冷静な声で話し始めたのは早川だった。
「安心して。私は誰とも付き合うつもりはないし、今は私の疑問を守原君に投げかけて、彼の回答を待っていただけだから」
夕美が勝手に盛り上がっている間に、早川は落ち着きを取り戻し、事実だけを述べる。そこに嘘偽りはない。ただそれに伴って早川の表情が貼り付けたような笑顔になった。今見せているのは初対面用の仮面なのだろう。
「でもその答えも聞けたからご心配なく、笹高夕美さん」
その言葉を最後とし、早川は前を向きなおす。追求を諦めて授業の準備をしなおす彼女を見て、僕は内心安堵していた。理由は決まっている。あの時、夕美が僕らの話の輪に入ったせいで聞けずじまいになってしまった話のことが曖昧に終わったから。夕美が割って来なかったとしても僕は何も言わなかっただろう話題。
「ところで」
「なんだよ」
「光はいつ彼女とお近づきになったの?」
「え、それは」
「授業の後に教えてね」
最高の笑顔を見せつける夕美だったが、それが本心からの笑みでまったくなく、怒りを隠す仮面であることは分かっていたので、後の説明がより困難を極めることを考えるだけで今度は安堵ではなく、疲労からくる溜め息を吐いたのは言うまでもなかった。
二
今日の昼食は大学の隅っこにある休憩スペースで取ることにした。外は寒いし、移動するのも面倒だと思う人が多いので常に人通りも少ない。大学に限らず、賑やかな場所を好まない僕としては最高の環境で、暇な時間ができれば昼休みでなくてもここにいる。しかも今日は貴久も夕美もいない。久しぶりの一人きりの時間を楽しもうと意気揚々とここまで来たのだ。
「先輩、聞いてますか?」
「え、ああ」
「じゃあ何の話をしていたか覚えていますか?」
「……戦争はなぜ起こるのか?」
なのに、今日は先客がいる。
「そんなこと一言も話していませんよ。しっかりして下さい。私は、時代はスマートフォンだというのに、何故先輩が未だにがらけーを使っているのかということです」
休憩スペースと言われてはいるが、狭いし自販機はないしあるとすればベンチ一つだけ。だからわざわざなんの利便性もないこの場所に来るのは僕くらいだと思っていたのが甘かった。
そのベンチに座っているのは僕一人ではないから。
「どうしたんですか、さっきから何か考え事されているようですけど?」
先ほどから僕の顔を伺う彼女の名は磯村明海。黒髪ショートボブに全体的に小柄な彼女は学内の上級生から「可愛い後輩」のカテゴリに入っている。そのカテゴリに入れられる要因となったのは他学年との合同授業。授業内容は就活に関するもので対象が三回生だというのに一年の磯村がいたのだ。そこで見せた彼女の真剣さは、正直そこにいた大半の三回生よりも高かった。さらに有名な文化系クラブにも所属していてそこでの活躍も度々聞いているので、何事にも全力で取り組む姿が逆に可愛く見えて「可愛い後輩」となったのだ。
「いや、なんで磯村がいるんだっけって思って」
「何気に酷いこと言われたんですけど……」
酷いとは思わない。というか学年が二つも離れている上にクラブも、授業も接点がないのに、一緒に昼休みを過ごしているのはむしろおかしいのではないだろうか。
「先輩ってお友だち少ないでしょう? 学内で見かけた時も一人でしたし」
「待て、磯村って学部が違うのになんで」
「話を変えないで下さい」
学部が違えば使う施設も違ってくる。僕は文学部だから同じ文系だとしても、そんなに頻繁に僕の姿を見ることはないと思うんだが。ちなみ彼女は法学部だ。
「友人がいないことがそんなに目立ってるのかな? 貴久にも前に同じことを言われたんだけど」
「先輩は困っている人をほっとけない、超が付くほどのお節介焼きなのに、自分のことになると極端に疎くなりますよね」
「なんか話が突然変わった気が」
「私の時もあれほどいいですって言ったのに、結局私の面倒を最後まで見て何も言わず私からのお礼も受け取らないで去って行ったじゃないですか」
自分勝手に話を進める彼女の言う通り、僕は彼女を助けたことがある。ただ「助けた」なんて言ったら大げさに聞こえるからあまり好きじゃない。
「あのことまだ気にしていたのか」
「あのこと、で済ませて良いはずがありません。今の私があるのは先輩のおかげでもあるんですから」
磯村が恩義に思ってくれるのはありがたいが、僕自身そんな大したことをしたと思っていない。だって僕が彼女にしたのはただの道案内なのだから。
僕と磯村が初めて出会ったのは僕が二回生で彼女が高校三年生の時。季節は二月でその日はうちの大学の一般入試当日だった。教授の頼みで試験中の雑務を手伝うことになり、朝一で大学に向かっている時に磯村に会ったのだ。彼女は地方から出てきたこともあって、都会慣れしておらず、大学の行き方も完全に把握していなかった。バス停で立ち往生している彼女を見て、僕は道案内を申し出たという訳だ。彼女と会ったのはそれっきりで、大学に連れて来たあとはすぐにその場で別れた。「受験頑張ってね」という労いの言葉を残して。
「私、すごく嬉しくて、この恩は大学に入学してから改めて返そうと、そう考えたら絶対に落とせなくなって」
「そりゃあ、どうも」
「なのに! 大学に入学してそれ以降全然会えないってどういうことですか!」
そんなこと俺に言われても。
「しかも先輩。私のこと忘れていたみたいですし」
「それについては前にも謝っただろ? それにあの時受験した生徒の数、磯村だって知ってるよね?」
僕の反論に磯村は言葉を詰まらせる。
それもそのはず。あの時この大学を受けた生徒の数は二〇〇〇を超えていた。その中からどれだけふるいにかけたとしても、合格する人数は一〇〇人程。その中でもし磯村が落ちていたら、捜索は不可能。磯村のことは印象的だったけど、同じ学部だったとしてもどこの誰が受かって、どの教室にいるのかなんて知る由もなかった。
「でもあの時だけの繋がりだったのに、こうして僕を見つけられたんだから、磯村は失せ物探しが得意なんだよ。僕なら諦めてる」
「探すのが得意というわけではありませんけど、あの時受験のお手伝いに参加していた先輩を当たっていけば良いだけですから」
「それってかなりの数がいるってこと知ってた?」
各学部で手伝いは必要だったから、少なくとも全員で五十人くらいはいたと思う。
「知ってはいましたが、各学部から数人だっていうのはなんとなく予想ついてましたし、私の学部を手伝っていた中に先輩いませんでした。これだけで大きな情報になってます。そこからは試験当日に手伝いをしていた先輩たちのリストを見せてもらって、一人一人コンタクトを取れば良いだけです」
「ちょ、ちょっと待って。一人一人って手伝いに参加した生徒全員に会ったの?」
「全員って訳じゃないですけど、先輩に辿りつくまでに全体の七割はいきましたね。いくらリストがあるとはいっても一回生ですから、各学部の場所とか探すのに苦労しました」
お礼がしたい。たったそれだけの理由で少ない手掛かりを元に学内をかけずり回って、二個上の先輩に会いに来たと聞けば誰でも驚愕するだろう。なにより試験中にそんなこと考えながらここに入れるんだから磯村はかなり頭が良いに違いない。
「やっぱり磯村はすごいよ」
「私なんてまだまだですよ。それにかなり時間もかかってますし」
「それでもだ。ただ、その力のベクトルが間違った方向に行くと大変なことになりそうだけど」
「間違った、ですか?」
手がかりもない状態で彼女の方から僕に会いに来たのは驚きの一言だった。そして思った。この子は本当にすごい子だと。やると決めたらとことんまでのめり込み、一切手を抜かない性格。
「悪く言うと頑固かな」
「が、頑固?」
「だってそうじゃないか。一度しか会ったことがない先輩を探すために、いろんな学部に顔を出して、僕かどうか確認するんだろ? 僕の顔なんて特に目立った印象もなかったろうに。普通なら日ごとに顔とか忘れて」
「忘れません!」
ここで磯村の怒号が飛んできた。
「それだけは絶対に忘れません!」
「い、磯村?」
「私が、恩を忘れるなんてありえません……」
烈火に近い感情の爆発。僕は磯村と深い仲という訳ではないから、ここまで彼女が自分を出したのは初めて見た。
熱い思いを吐きだしたところで、数秒の沈黙が流れた。お互いに同じ話題で会話を続行することが不可能だと判断した結果だった。僕は違う話題を磯村に振ってみた。
「でだ。その前に」
「はい?」
「今日、磯村はなんで僕に会いに来たんだ? そのためにここで待ち伏せしてたんだろ?」
ああ、と今思い出したかのような素振りを見せる磯村。まさか本当に忘れたわけじゃないよな?
「先輩は私が何の部活に入っているのか知っていますよね?」
「まあ、有名だし」
「それで、今日その練習を見てほしいなって思うんですけど」
どうやら磯村は自分の練習風景を僕に見てほしいそうだ。
「そういうのって部活の先輩に見せた方が良いんじゃないか?」
僕の質問に磯村は苦笑いを浮かべる。
「えっと部の先輩は、良くも悪くも的確に指摘してくれるので」
「つまり、正しい評価がお望みじゃないってことか」
僕の言い分に困りながらも頷く磯村。
「友だちはどうなんだ?」
「それだと悪乗りしちゃうんで。先輩は私を良くも悪くも見ないですから」
「それ、褒められてる気がしないぞ」
「実際に褒めてませんから」
素直な意見に心が少しだけ傷つきそうになりながらも、僕は首を縦に振る。
「少しだけなら」
了承すると、磯村は子供のように喜んでくれた。
三
大学の中心には広々とした人工芝グラウンドがある。そこでは毎日陸上競技、サッカーなどの部活動が技を磨くために心血を注いでいる。そしてその隣に位置する建物は総合体育館。もちろんここでも体育会系のクラブが使っているのだが、そのほかにもう一つあるクラブが使っている時がある。むしろ、そっちの方が占有している時間は多いイメージがある。
「先輩は私たちのクラブを見学に来たことは?」
「一度もない。大学中で話題になっているのに、知ってるのはたくさん賞を取ってるってことだけ」
この大学は全国レベルで通用するクラブが存在する。日本でも名のある大会で優勝しており、知らない者はいないというほど。しかも体育会系ではなく、文化系クラブだというのだからなおのこと。
「すみません。来てくださいって私から頼んだのに、今は次の大会の練習のために少ししか見せられないだなんて」
「気にしないで。少しだけって言ったのは僕だし」
「ありがとうございます、先輩」
体育館の重々しい扉が開け放たれ、僕の視界に入って来たのは暗がりの館内に、壇上だけライトが当てられた風景。見た限りでは磯村の言う通り演技の練習中のようだ。僕たちが館内に入ったことで、周りにいた部員らしき学生はもちろんのこと、一番離れている舞台にいた五人の学生たちも僕らに視線を向ける。暗がりなので何人いるのかは分かりにくかったが、館内にいるのは少なくとも一〇人程。
「磯村。今日は全体ミーティングがあると伝えたはずだぞ。何故来なかった?」
壇上から大声で叫ぶ部員に、磯村は委縮しつつ頭を下げる。ライトの下ということもあり、後輩を叱責する彼の端正で綺麗な顔がよく見えた。
「……すみません。授業終了時間を過ぎても教授が終わらなかったので、遅くなりました。部長と副部長に連絡は入れたんですが」
磯村を呼んだ部員は自身の携帯を取り出し、操作していると溜め息一つしてポケットにしまった。どうやら彼がその副部長のようだ。
「だがお前の欠席は全員が共有すべき情報だ。今後はこういうことのないようにな」
「すみませんでした」と深くお辞儀する磯村。しかし、僕と会うことまで見越してここまでの準備していたのかと思うと、彼女が少し怖く思えた。実際のところ彼女の授業は定時通りに終わり、僕と合流していられるほど時間に余裕はあったのだから。
そう考えると、遅れた原因は僕にある訳だが、そこは言わない方が吉だと思い、伏せておいた。
「それと、そこにいる男子。お前はなんなんだ?」
見たこともないやつがいるのだからもっともの意見だったが、初対面の扱いとしてはあまりにも雑だった。それでも僕はなんとも思わないようにしてこっちは礼儀としてお辞儀しておく、
「四回の守原です」
「四回生? 四回の先輩がこんなところに何のご用ですか?」
壇上にいる彼の発言から、僕はその彼よりは年が上のようだ。
「先輩。こっちは話しているんですよ。黙ってないで何か言ったらどうなんです!」
向こうの口調がだんだん苛立ちを帯び始めていたので、僕は本題に入ることにした。
「彼女、磯村の練習を見学させてほしいと頼んだから、少し立ち寄っただけだ」
告げた途端、周りの部員たちがざわめき始めた。
「……うちの部員の。しかも磯村?」
壇上の男子は傲岸不遜な態度で尋ねる。彼女の所有権は自分にあるように。
「以前に彼女の演技を見たことがあってね。気になったからまた見せてもらえないかと頼んだら了解してもらえたから来たまでだ。それが終われば帰る」
「残念ですがそんな理由なら今すぐ帰ってください! 素人の先輩には分からないでしょうが、今日は次の発表会にしなければならない劇の練習をしています。部外者が勝手に入って見学なんてされたら他の部員の士気にも関わってくる。それに磯村はあなたみたいな素人に構っているほど暇でもない!」
さすがに演劇に携わっているだけあって、感情むき出しの言葉は真に迫っていた。しかし初めて会った人間にここまで言えるのは、不作法を通り越してもはや賞賛になる。
こっちの言い分を無視して、せっかくの美形を歪ませてまで、何がここまで彼を突き動かすのだろう。僕の興味はそっちに移っていた。
「守原先輩。どうか押さえて下さい。あの人は熱が入ると口が悪くなるんですが、根は良い人で」
一方、隣の磯村は一生懸命壇上の彼を擁護しつつ、僕のことを気にかけている。僕自身特に彼に対して何かを感じてはいないのだが、彼女の思いやりは受け取っておこうと思う。
「磯村。僕は怒ってない」
「え、でも」
「それに磯村の先輩が言ってることも一理ある。ここの人たちの邪魔をしているのなら、確かに僕はお呼びでないんだろうさ」
「先輩、だからって」
「守原先輩! うちの部員を誑かすようなまねはしないでください! 磯村もいつまでそんな男の隣にいる!」
怒りのポイントが変わったような気がするが、僕の行為は彼の怒りの炎に油を注いでいるだけのようだ。
「分かったよ。もう出て行く。磯村また機会があったら誘ってくれ」
「まだ言いますか。あなた程度の人間が」
「止めなさい!」
そこへ館内が響くほどの、だがあからさまな大声でなく、透き通った澄んだ声が響く。それと同時に館内の照明も全て光り出し、全員の姿がはっきりと視認できた。そして僕と副部長のちょうど真ん中の位置で腕組みしているのは僕もよく知る人物。
「は、早川部長」
さっきまでの威勢の良い口調が一変して、ひっくり返った声で彼女に返す。それに毅然とした態度迎えるのは同じゼミで散々僕のことを貶していた早川奈月。
「なんでこんなことになったのか、説明してくれますか?」
早川の質問に副部長の彼は僕を睨みながら答える。
「あの先輩が俺たちの練習の邪魔をしてきたんです。大会が近いから見学も止めて下さいって言ったのにです」
嘘ではないが、なんとなく言い方に違いがあるのは気のせいではない。ただこっちがうるさく反論すればただの言い合いになるのは明白なので、早川の言い分に脚色があれば訂正程度に返そうと思った。
「本当ですか、副部長?」
「本当です。先輩は俺の願いを聞き入れてはくれず、自分勝手にこの場に残って」
「そうですか、それは困りましたね」
早川は手を顎に添え、考え込む。
「ならあなたがこの体育館から出て行っていただくことになりますね」
早川が投げかけた言葉はさっき僕が言われたものそのままだった。もちろん言われたのは壇上で顔面蒼白にしている副部長だ。
「ぶ、ぶちょ、なんで」
「あなたの行動の一部始終を見せてもらったうえで、どう言ってくるか気になったんです。だから少し意地悪な聞き方であなたの答えを待ってみたのだけど、さすがにその答えは嘘を盛り込みすぎね」
時期は冬だが、館内は冷暖房が完備されていて今も暖房は利いている。だが副部長は歯をガチガチ言わせて堪え切れない寒さにさらされているように見えた。
「さて、自分で言った嘘なんだから、ケジメくらい自分でつけられますよね?」
「……俺は、部長のお手を煩わせないように」
「私のことを思ってくれるのはありがたいけど、だからって別の先輩を蔑にして良い理由にはならないんじゃない」
歯軋りが聞こえるほど歯を思いっきり噛み、鋭い眼光を僕に向ける副部長。顔が物語っている。『こんな奴のために謝りたくない』と。
「もう良いよ、早川」
「守原君?」
「彼に非はない。僕が勝手に上がり込んで、彼を怒らせたんだから」
無理して謝られてもお互いに(一方的なものだと思うけど)禍根が残るだけだと察した僕は、間を取って今回のことをなかったことにしようと考えた。
そんな僕の甘い代案を早川は冷静に、そして無慈悲に切り捨てる。
「なら、この騒ぎを起こしたのは君だということになって、君を館内出入り禁止にすることになるんだけど」
予想外の展開だった。いくら彼女でもここで僕を蹴落とそうとはしないと思って高をくくっていた。
「ちょっと待って下さい! なんで守原先輩が悪いことになるんですか?」
またしても擁護に入ったのは磯村だった。
「守原君がここに来たことで練習が中断したことは事実です。こちら側の対応があまりにも粗雑だったのは確かですが、そのことを守原君自身が不問にするなら残るのは彼がここに来たことで止まってしまった私たちの練習時間だけ。みんなもそう思うわよね?」
同意を求める早川に副部長はもちろんのこと、そして周りの部員たちも遅ればせながら首を縦に振る。その中で否定に回ったのは磯村だけ。
「だからって、守原先輩のせいにするなんて間違ってます」
「彼が言ったことを、私はそのままの解釈で飲み込んだだけです。あなたこそ私たちが悪いような言い方をしないで下さい。それともあなたは部員であるはずの私たちではなく、全く関係のない部外者の肩を持つんですか?」
「部長! その言い方はあまりにも」
「僕が出て行けばいいんだろ!」
これ以上はだめだ。このままではこの部活での磯村の立場が危うくなりかねない。最悪彼女もここに来ないと言いだしそうだった。
「僕が二度と来なければ良いんだろ。ならそれで良いじゃないか。お互いに何も失うこともない」
「……あなたがそれで良いのなら」
見下し、蔑む眼差し。そこにあったのは普段ゼミで見せる彼女の目だった。
昨日見せた、あの柔らかな素顔はどこにもない。
「先輩……」
だって、僕の前で僕以上に傷付いて泣きそうになっている後輩を見てしまったから。
「ごめんな、磯村」
その言葉を後輩に残して僕は体育館を後にした。
四
放課後。僕は食堂で自販機のコーヒーを飲んでいたのだが、そこに貴久と夕美がやって来た。時間で言うと五時半でこの時間には二人とも家にいる時間なのだが、どちらにしてもあまり良い話をしに来たのではないことは一目瞭然だった。
「光、ちょっと話があるんだけど」
般若が質問しに来たのではないかと勘違いするくらいに彼女の顔が怒りで歪んでいたから。
「なんでそんな顔をしているのか知らないけど、何かあったのか?」
「それはこっちの台詞だ。な、夕美?」
笑顔を引きつらせて話を振る貴久だったが、夕美の般若顔はぴくりとも動かない。
「光。今日演劇部に行ったってホント?」
どこからその情報を入手したのか分からないが、そんな質問をしてくるということはその後の顛末も知っていると思って良いと判断した。
「いや、その時間僕は昼ご飯食べてたから」
「どこで?」
「どこだって良いだろ? そこまで言わなきゃ」
「どこで食べたの? はっきり言いなさい」
ここでどれだけ話を引っ張っても意味はなさそうだ。溜め息を一つ吐き「裏庭」と答える。
「誰と?」
一人で、と答えても良かったが無意味に嘘を吐いて上げ足を取られることも考慮して「磯村と」と話しておいた。ちなみに貴久が以前紹介したこともあって、夕美も磯村のことは知っている。
「なんで明海ちゃんとご飯食べてたの?」
「誰と食べても良いだろ? その時は磯村から一緒に食べようって誘われたんだ」
半分本当、半分嘘を繰り返す僕に夕美もなかなか僕の尻尾を掴めないでいる。我が幼馴染は僕の今日の一日を聞きだしたいんだとこれではっきりした。正確に言うなら今日の僕の昼休みのことだろうけど。
「じゃあさ、光は明海ちゃんとご飯終わった後、何してた?」
今度は貴久の番だった。感情的に話す夕美と違ってこっちは僕の足元見ながら話すので注意が必要だ。
「裏庭で分かれて、僕はそのままそこにいたよ。別に何もすることなかったし」
これは真っ赤な嘘。ただ証言できるだけの材料がないので、向こうも嘘だとは見抜けないはず。
「へえ、裏庭にずっといたんだ」
そこで、夕美は憎たらしいくらいにいやらしい笑みを浮かべた。隣を見ると貴久は呆れ顔になっている。
「悪いな光。お前が本当に裏庭にいたなら俺たちは合流してるはずなんだ」
貴久の言葉に僕はしまったと内心後悔する。
「そうよ、別の子からあんたを裏庭で見かけたって聞いたから二人で行ったのよ。でも裏庭には誰もいなかったわ」
タイミングが悪すぎた。さらに言うならこの二人の僕を気にかける度合いを誤ったのだ。
「で、いろんな奴らに片っ端から当たって行ったら、お前が体育館に来たって言ってくれた連中がいてさ」
貴久がそこまで言って、僕も理解できた。
「その連中が、演劇部か」
「正解」と貴久が答える。しかし、拍手はおろか夕美からは鋭い眼差し、貴久からは溜め息が返ってくる。
「光。あんたあんなことされて何も言わずに帰って来たの?」
「さすがにあの話を聞いた時はなんにも言えなかったぞ」
夕美の怒りも貴久の心配も僕のためのものだった。感情をうまく出せない僕のために、二人はわざわざ気遣ってくれていた。
「知ってるなら、もうこの話は終わりにしてくれ。いつも二人が怒ってくれるから僕はそれで満足だ」
「光」
貴久は寂しそうな顔を見せる。普段はふざけたりおどけたりする友人なのに、僕に何か会った時だけ真面目な表情を表に出す。そういうのを見るとこっちも対応に困るから、止めてくれて言っているのだが本人は止めるつもりはないらしい。
「私、そんなこと聞きたくてここにいるんじゃない」
「夕美……」
女性は感情的になりやすいと言われているが、夕美のそれは特に強く出ていると思う。普通なら他人のことなんて気にしないと突っぱねてもいいはずなのに、夕美にとって今回僕が受けた仕打ちは許せなかったようだ。
「私たちがここに来なかったら、ずっと言わないままにしようとしてたでしょ?」
夕美の質問に僕は「ああ」とだけ答える。
「何も悪くないのに、それでも相手の言い分に従って、その澄まし顔をさらして帰って来たって、そういうことなの?」
「澄まし顔かどうかは鏡見ないと分からないけど、概ねそんな感じだ」
貴久は俺たちの会話に入ってこようとしない。僕たちの口喧嘩に貴久は入らない。そんなことを自分で決めているんだと前に言っていた気がする。自分が入っても何の解決にもならないからって。
「分かった。光が自分で言わないなら私が言ってくる」
夕美は身を翻して悠然と歩きだす。その顔には先ほどの怒りは宿っていなかったが、どこかすっきりした顔でここを去ろうとしていた。
「待て! 夕美」
「待たない。こんなんじゃ私の気が収まらない」
僕の行動は正しかったが、僕の声じゃ夕美は止まらなかった。回り込んで夕美の進行を防ぐ。
「僕はそんなこと望んじゃ」
「私は違う!」
夕方になったとはいえ、食堂内は無人じゃない。大声を上げた夕美に他の生徒たちが一斉に僕たちに視線を送る。
「光が、自分を押し殺してこんなところにいるって知った時、絶対に許さないって決めてた。ここに来る前から私は早川奈月に一発入れるつもりだった!」
「物騒なこと言うな。それに他の生徒もいるんだぞ」
「光はそれで良いって言った。今も昔も多分これからも。でもそんなんじゃ光はいつまで経っても幸せになれないじゃない」
「僕は!」
「はい、そこまで」
僕と夕美の言い合いに口を挟んだのは貴久だった。
「夕美の言い分は、何もできなかった光の代わりに自分がなんとかしようってことだが、そんなことすれば殴り合いの喧嘩に発展するからなし」
貴久の決定に夕美は「待って!」と叫ぶがスルーし、今度は僕に顔を向ける。
「で、光の提案だがそれも却下」
「は? なんでお前が勝手に決め」
るんだ、の言葉は出なかった。というか出せなかった。
何故なら、貴久の拳が僕の腹に命中していたからだ。
「た、たかひ」
「どうだ? 少しは目が覚めたか?」
突然の攻撃と予想以上の痛みにその場で蹲る。周りからも小さい悲鳴がちらほら聞こえた。
「貴久、何やって」
「見てるのは同じ学生だけ。大人には見られてないから安心しろ」
夕美はふらつきながらも、貴久に近づき正面に立って胸倉を掴む。
「ふざけんじゃないわよ! なんで光を!」
「言っとくが俺は謝るつもりないからな。それは光が一番よく理解できてるだろ?」
夕美をどかし、再度僕の目の前に立つ貴久。痛みを押し殺しながら見上げると、そこには侮蔑を込めた眼差しが見据えている。
馬鹿だった。貴久に言われるまで本気で気付かなかったんだから。
よく見ると夕美の目元が赤く腫れぼったくなっている。多分僕のことを聞いて泣いたのだ。それも眼を腫らすほどに。
「俺はさ。光がしたことにとやかく言うつもりはない。光が納得したことならそれで良いと思うし。言うだけ野暮だからな」
淡々と話す貴久からは表情が全く読み取れない。
「ここに来る途中、夕美は『光はもっと周りの心配を受け取るべきだ』って言ってた。でもそんなことも俺にはどうでも良いんだ。さっきも言ったけど、光のやりたいようにやって、そこから責任だの謝罪だのはすれば良いんだから」
ただな、と貴久は続ける。
「それで夕美を泣かせるようなことがあれば話は別だ」
自分の愚かさに反吐が出そうになる。怒っていたのは夕美だけじゃなかった。むしろ怒りの質で言えば貴久の方が重く濃い。そして貴久は理解したんだ。夕美を泣かせたのは早川ではなく。
「お前、俺の彼女泣かした責任どう取ってくれるんだ?」
今ならはっきり分かる。貴久は僕を殴るために来たんだと。
「歯くいしばれ」
蹲った僕を無理やり立たせた後は一瞬だった。もう一度、腹部に強烈な一撃を喰らって今度は床を転がる。僕は痛みに耐えかねてうめき声を上げた。
「顔は勘弁してやった。明日バイトだろ?」
「貴久!」
「言ったはずだ。俺は謝らないし、このことを教授連中に言って退学になっても俺は構わない」
むしろこれで済んだのはラッキーだったろう。ちょっと前の貴久ならこんなものじゃ済まないから。
「光。俺はお前が面白い奴だと思って友だちになった。この意味分かるか?」
まだ痛むお腹を押さえながら僕は答える。
「気に食わないことがあれば、すぐに縁を切るってことか?」
「夕美も一緒に連れてな」
「何よそれ! 私そんなこと一度も」
夕美の介入を貴久は片手で制止させる。「手を出すな」そんなことを言っているかのように。
「まぁ、今後夕美を泣かせるようなことしなけりゃそれで良いさ。でも今回は見逃せなかった。それだけだ」
歯を見せて笑う貴久。その笑みはまさにイケメンにふさわしいものだった。これがさっき腹に二撃喰らわせた奴の見せる笑顔かと疑ってしまう。
「今はしっかり頭冷やせ、光」
それを最後に貴久は食堂を後にした。僕と夕美を置いて。
「大丈夫?」
「ああ、かなり痛いけど」
蹲っていた状態から立ち上がり、痛みを抱えたお腹をさする。夕美は痛そうにする僕を心配そうに見つめる。
夕美のこんな顔はこれまでに何度も見たことがある。内心こんな顔をさせる僕のことなんて見たくもないと思っても良いはずなのに、夕美はそうじゃなかった。彼女は彼女自身の意思で面倒な僕のそばにいることを望んでいる節もある。何度考えてもその理由は分からなかったが、その度僕の心は絞めつけられるように痛む。構ってほしいなんて言ったことはないし、むしろ突き離したことだってあった。でもどれだけ僕が距離を置いてもその差を埋めてくる。
夕美の優しさに救われるとともに、そんな善意に甘えていた僕に貴久は怒った。
そんな彼女に僕からできるのは言葉を交わすことだけ。
「ごめんな、夕美」
「え?」
「また、泣かせちゃったな。それに気付かなくって、ごめん」
僕の言葉に夕美は気恥しそうにはにかむ。
「なんか悔しくってさ。光はあんなことされるような人間じゃないって知ってるから余計に、ね」
我が幼馴染はどこまでもお節介で優しい性格をしている。そんな性格に何度となく助けられたっていうのに、僕は未だに恩を返せていない。
「僕は、もっと夕美に笑ってほしい」
「光?」
「多分この性格は変わらないし、これからも夕美を泣かせるかもしれない」
「い、嫌だよそんなの。そんなことなったら」
「だから僕が夕美を思いっきり笑わせたい。もう僕のことを心配しないで良いように」
「光……」
それがきっと恩返しに繋がると思うから。僕はもう大丈夫だって言えるから。
「そうだな。じゃあまずはここで先生たちに謝るところから始めようか?」
「へ?」
後ろからかけられた声に僕と夕美は体を強張らせる。正直後ろを振り向きたくない。
「みんなが使う食堂で何を騒いでるんだ、守原そして笹高?」
貴久がさっさと出て行ったことの意味をようやく知った時には、僕と夕美の頭に雷が落とされた後だった。
五
日も傾き、夜になろうとしているところ、僕は五号館一階の談話室にいた。僕と夕美は食堂での一件後は騒ぎを聞きつけた学生課の先生と周りの生徒たちに謝罪してからそそくさと出て行った。その後すぐに夕美と分かれたのだが帰り際に「何かあったら連絡してよ」と言ってから去って行った。
「こんなことしてたら、またあの二人にどやされるかもな」
自嘲気味につぶやくと、座っていたベンチから立ち上がる。息を切らして僕を見定める人がいたことに気づいたからだ。
「遅れてすみません先輩! 部活が長引いてしまってって、ど、どうしたんですか先輩、その恰好」
磯村に指摘され、我が身を見ると体中埃まみれになっていた。貴久に殴られたときにのたうち回って、その後も身だしなみに気を付けなかったのがいけなかった。
「磯村。悪いな。忙しいのに来てもらって」
「私の驚きをスルーしないでください。一体誰に? もしかして演劇部の!」
「落ち着け、磯村!」
僕に呼ばれた後輩少女、磯村は荒々しくなっていた息を整えながら、僕の隣に腰を下ろす。
「すみません、取り乱してしまいました……」
「心配してくれたことは嬉しいよ。これからはそのテンションを操れるようにできればなお良いと思う。でもどうしたんだ? 約束の時間まで三〇分もあるのに」
念のために、彼女の部活時間終了まで見越して時間を決めたのに。何か不味かったのだろうか。
「それは、えっと。ほら! 私方向音痴ですし。何分も前に到着しておかないと」
「利用者が僕と用務員の人くらいしかいない裏庭の場所が分かる人間が方向音痴ねぇ」
「それはともかく! 何故私をここに?」
話を切られてしまった。どうやらこの話題は振られたくないようだ。僕もこの話を続ける意味をないので本題に入ることにした。
「単刀直入に聞く。早川あの後どうだった?」
僕の質問に苦虫を噛み潰したような表情を浮かべる。
「どう、というのは?」
「そのままの意味だよ。あの後滞りなく練習はできたのかなって。こっちは電話番号も家もどこにあるか分からないから聞きようがないんだ」
そう返すと、磯村は急に僕の額を触り始めた。
「ええと、これは何?」
「いえ、先輩はもしかしたら熱があるのかもと思いまして」
「いやいや、平熱だよ」
「じゃあ頭が」
「今君はかなり失礼な発言をしているってそろそろ気づかない!」
ここまで同じ部活の人間に下に見られると、演劇部の人間は人を小馬鹿にする才を持つ者が多いのだろうかと本気で考えてしまう。
「こんなこと言うとまたおかしいと思うかもしれないけど、あの場で一悶着あった後でみんなの中でなんのわだかまりもなかったのか知りたいんだ。何もなかったのならそれで良い」
「だから、私に?」
「君しか聞けないからね」
笑って誤魔化すが自分で言ってて情けないとは思う。あの場にいた人間から情報を聞くために、自分ではなく誰かを頼っているのだから。
「確認なんですけど、先輩は早川先輩のことを許したんですか?」
「いや」
僕の否定に磯村は困惑する。
「そんなに簡単に許せる訳ないよ。人をあんな形で蔑にするんだ。僕だって人間だしあそこまでされたら近づきたいとも思わない。ここ数日は顔を見たくないって」
「じゃあなんでそんなこと聞くんですか? 会いたくもない人のことを聞いてどうするんですか?」
「友だちに怒られたんだ。これ以上、大切な人を悲しませるなって」
僕は夕美と貴久とのことを話した。ただ貴久は僕を励ましたりはしなかったし、夕美も実際泣かせている。そういった込み入った話は省いたが、大事なところだけ磯村に伝えた。
「自分がどれだけその人を悲しませてきたか、十分理解してたはずなのに、また同じ繰り返しをしていたんだ。だから友人に叱られた」
「で、その後に殴られたんですね」
まあね、と僕は返す。
「内心どうしようか悩んだんだ。早川の望み通り、僕は彼女の前から消えた方が良いのかもって。そうすれば友たちにも悲しい思いをさせる必要もなくなるし。でもやっぱり無理だった」
「理由、聞いても良いですか」
「結構恥ずかしい話なんだけど」
「なら尚更聞かせてください」
「……容赦ないね」
「先輩のことですし」
かなり前のめりになって聞こうとする磯村。人の過去はそんなに面白いものなのだろうか。はぐらかしてもまた聞かれそうなので話を続ける。
「彼女、どこか他人と自分の間に壁を作ってるように見えるんだ。『これ以上近づくな』って言ってるみたいに」
今の彼女は誰からの好意も信じられず、敵ばかり作って周りを拒絶していたあの日の僕にそっくりだったから。
「簡単に言うと、今の早川は昔の僕に似てたんだ」
「つまり昔の先輩は、今の早川先輩がしたようなことをしていたってことですか?」
「そこまで乱暴じゃなかったよ」
「人をイジメて笑ってたんですね。それでも人間ですか」
「人の話を、ってその言い分だと全部君の部長さんに返って行くんだけど」
このままでは僕も彼女も勝手なレッテルを張られそうなので、話を戻す意味でも「とにかく」と言い直す。
「昔の僕は自分に向かってくる好意を鬱陶しく思ってたってこと。見返りを求めない人間は特にね」
「先輩にもそんなやさぐれていた時期があったんですね」
「今となっては恥ずかしい話だよ」
自分の昔の話をしたのはこれで三回目。最初は誰にも言わないままずっと秘密にしようと思っていたけど、一人目に話したらもうそこからはどうでも良くなって、今はこうやって笑いながら話せる。磯村も最初は体が強張るほど緊張していたが、楽しそうに話を聞いてくれている。
「そうですね。確かにそういう意味では早川先輩が壁を作っているというのは事実です」
「というと?」
「早川先輩いつもは笑顔なんです」
磯村の言葉に僕は言葉を失う。当然のこととはいえ、自分の時と他人の時との温度差があるという事実が僕決意を曇らせる。
「どんな人でも、どんな状況でも。早川奈月という人はいつも笑顔だったんです」
「良いじゃないか。僕の時は笑顔なんて見たことないっていうのに」
「でも逆に言えば、私たちは早川先輩の笑顔しか見たことがなかった」
「笑顔しか」と復唱すると磯村は、はいと肯定する。
「行き詰った時、辛い時、泣きたい時、少なくとも守原先輩より私たちの方が早川先輩といた時間は長いので、そういう場面にも多く立ち会って来ました。でもどんな時でも早川先輩は笑顔を向けてくれた」
早川と磯村たち演劇部にどんな過去があったかは知らないが、部活動を本気で取り組めば涙し、挫折しかけたこともあっただろう。それは磯村も席を置く演劇部全員が感じた経験であって感情であって、そんなものはどこにでもある話だ。
でもそんな中、彼女だけは。
「演劇のことでよく怒ったりするのは副部長で、早川先輩はそんな私たちを励ましたり、アドバイスをくれたりしていつも元気をくれて、だから次はもっと頑張ろうと思えたんですけど、今になって思えば早川先輩だって何かに躓いて泣きたかったこともあったし、弱音だって吐きたかったと思うんです」
「でも、そうしなかったっていうのか」
無言の頷きだけが返ってくる。
「だからこそ、先輩が体育館で守原先輩に言った言葉にみんなびっくりしたんです。先輩が出て行った後もその話題で持ちきりでしたし」
普段怒らない人間が本気で怒れば驚きも一入だろう。僕は常に敵意を向けられていたから気にしなかったが、比喩や例え話でもなく本当に早川の黒い部分を見たことがない人間からすれば話は大いに変わる。
「弱音も涙も流さず、笑顔しか見せない早川先輩が、先輩に限っては理不尽な物言いをしていた。それにあの時、早川先輩の言い分が酷いと思ったのは私だけでなくほとんどの部員がそう思ってました」
「やっぱり理不尽だったんだ」と声に出して安堵する僕に対して、磯村は怒りを再燃させる。
「どう考えても先輩は悪くありません。早川先輩は理不尽を先輩に押し付けて、肯定させた。とてもじゃないけど、いつもの先輩ではありえない行動だったんです」
でもそれならなおのこと分からない。早川は何故僕にここまでの理不尽を押し付けるのか。
「やっぱり知らず知らずのうちに、僕は彼女に何かしたのかな」
「でも私は先輩方の間に何があっても、体育館での理不尽を許せないです。そもそも、私は先輩に誑かせれてなんかいないのに、あんなこと言って周りの人間に先輩のことを誤解されたらどう責任取るつもりなのか……」
考えていると、磯村がまた勝手にハイテンションになりかけていた。
「この責任はやはり命を持って!」
「まてまて! 確かに言われてなんとも思わなかったっていたら嘘だけど、命まで持ち出すんじゃない!」
テンションが上がった磯村の発言は先輩とか目上の人間とか関係なくなるようだ。少しだけ怖くなった。
「でも私、納得できません」
「磯村にそこまで思われてたら、それだけで嬉しいよ」
「せ、先輩! 想われてるだなんて。それって告白……」
「告白?」
どうやら壮大に勘違いしている。絶対に〝おもわれている〟の意味を違った解釈している。
「いそむ」
「わた、私は先輩のこと、想っているなんて、こと。そりゃ、先輩は大事、ですし、でも、それは!」
「磯村明海!」
「ひゃい!」
「僕のことを考えてくれるのはありがたいから、現実に戻ってきなさい」
「は、はい」
可愛い後輩を現実世界に連れ戻したところで、話題を元に戻す。
「でも何にしてもはっきりさせないといけないな」
「先輩に問題があるのか、それとも早川先輩に問題があるのか、ですか?」
僕は首を横にする。
「僕は無関心に彼女と接して来た。でもそんなことしたって問題を増やすだけで僕たちの関係が良好になる訳じゃない。自分を守ることでいっぱいになって、他人のことを思いやることを忘れてた」
体育館の出来事はそれなりに傷付くことだった。本音を言えば逃げたいし、もう彼女に関わりたくない。
「何考えてたんだろうな、ほんと」
でもこんなのはただの良い訳。自分だけを守る僕にとって許されない行為。
だから、僕はそんな言い訳を投げ捨てるために行動を起こす。
「ありがとう、磯村。君のおかげで何をやるべきなのか分かった気がするよ」
「先輩……」
なんの迷いもなく、なんて言わないし言う勇気もない。今だって明確な答えが出ている訳じゃない。でも立ち止まるのは止めた。
「守原先輩。最後に聞かせて下さい」
磯村は今まで以上に真剣な眼差しで僕を見据える。
「先輩は、何故、そこまで早川先輩に近づこうと思うんですか? 今度は先輩の過去の事ではない、先輩ご本人の気持ちで聞かせて下さい」
その質問に僕は優しい笑顔で静かに答えた。
「それは」