第1章 夜の迷走 3
乾いた枝を何本かくべると、勢いをなくした炎は再び新たな生命を注ぎ込まれたように燃え始める。
周囲は深い森である。何も無いが、枯れ枝だけは売る程ある。
四人は炎を見詰めて眠りもせずに、じっと座り込んでいた。眠らないというより、むしろ眠れないという方が正しい表現かも知れない。
十月の山王峠は体の芯まで凍えるほど寒かった。たまたまシュウのポケットの中に百円ライターが入っていたから火をおこせ、こうして暖をとることが出来たものの、そうでなければ全員凍え死んでいたかもしれない。
「悪いな……」
ケンジがぼそりと言った。
「俺の運転のせいでさ……」
「ケンジのせいじゃないよ。やっぱ、俺が遅刻したのが悪いんだよ。遅刻したせいで、渋滞にも巻き込まれちまったしさ。こんな時間じゃなけりゃ、あんなバカみたいなローリング族も走ってないだろうし……」
シュウが焚き火に枯れ枝をくべる。
「違うわ……私のせいだと思う。みんな、ごめん私……」
「ま、反省会はまたの機会にしてさ……」
ハヤトはアマネの話を遮り、
「これからのことを考えなくちゃ。ヘタしたら、俺たち死ぬぜ」
ハヤトの言葉にアマネは小さく頷いた。
「とりあえず、警察に連絡だな。ケータイでもあればいいんだが……」
「俺、持ってるぜ」
ケンジはポケットから携帯電話を取り出しながら、
「でも、残念ながら圏外だ。さっきから何度も試してみたが、ダメだ」
「じゃあ、連絡の取りようがないってこと? でもさ、あれだけ派手に車が燃えたんだし、そのうち家族も何か気付いてくれるだろうし、ここでこうして待ってれば、捜索隊とか来るんじゃないの?」
シュウの言葉に皆が押し黙ったのは、それがいかに難しいかを、事態を口に出す事によって逆に改めて思い知らされたからだった。
旅行は四泊五日の予定だったが、予約した宿は何か連絡してくるだろうか。宿の手配はハヤトの担当で、連絡先は携帯電話にしてある。だが、今それは黒焦げになったランドクルーザーの残骸の中にあり、たとえ使えたにしても圏外ではどうにもならない。
ハヤトは妻の鈴々亜と、今年三歳になる長女の風花の顔を思い浮かべた。夫婦仲はいい方だが、共働きということもあって、互いの生活にはあまり干渉しない暗黙のルールが出来ている。行方不明になっていることに気付くのは帰宅の予定日を過ぎてからだろう。アマネの事情はわからないが、アパート暮しのケンジや親と同居しているシュウにしても、同じような状況だろう。実際に警察が動いてくれるまで、へたをしたら一週間ぐらいかかるかも知れない。
この事故に気付いてくれた者がいただろうか? たとえばたまたま山王峠を走っていた車が、遠くの炎を見つけてくれるとか……。だが、峠に入ってからすれ違ったのは事故を起こしたバイク一台だけである。おまけにつづら折りになった峠道は、鬱蒼とした自然に包まれ、民家の一軒も見当たらない上、見通しもひどく悪い。
とりあえず朝まで待ってから、人のいる場所まで移動するしかないだろう……とハヤトは考えた。
「お前、足の方はどうだ、少しは歩けるか?」
ケンジも同じ事を考えていたらしく、ハヤトに訊いた。
「ああ、おそらく大丈夫だ。道さえ良ければ問題ないんだが……」
ケンジが一瞬険しい顔をしたのは、車がどこをどう転げ落ちたかは不明だが、転落経路を逆に登攀するようなことを考えているからだろう。ハヤトもこの足で険しい山道を登れる自信はなかった。皆には内緒にしているが、シートに挟まれた右の足首がズボンの中でパンパンに腫れあがっていた。
「シュウ君は大丈夫なの?」
アマネが訊くと、ケンジは一旦シュウの頭を小突いてから、前髪を乱暴にかきあげてみせた。額に五センチ程の浅い切り傷がある。
「こいつはオーバーなんだよ。いつものことだけどな。それよりお前は?」
「うん、車から落ちた時、ちょっと腕を痛めたみたい。捻るとちょっと傷むけど、骨には異常がなさそうだから、大丈夫よ」
「そうか……」
ケンジは腕を組んでしばらくの間、眼をつむっていたが、
「とりあえず、この暗闇で動き回っても意味がないし、少し寝ようや。体力温存のためにね。火の番は男三人で交代にやろう。少しでも寝ておかないと、明日もたないぞ」
「じゃあ、俺、ちょっと……」
ハヤトが立ち上がろうとするのを制して、
「ん? どこに行くんだ?」
「だって、もっと枯れ枝が必要だろ」
「それもそうだな。でも、ハヤトは足痛めてるから、少しそこで休んでろよ。シュウ、代わりに行ってくれるか」
「ああ、いいよ。何なりと言ってチョーダイ!」
「俺は最初の火の番をやってる。あんまり遠く行くなよ──」
ケンジの声を背中に聞きながらシュウは小走りに駆け出した。灯りの一つもない深夜の森をこうして走っている自分の姿が何だか妙に感じた。
退屈でゴミゴミとした東京の生活。そんな生活から一時でも解放されたいと期待して参加した旅行が、途中でこんなことになるなんて……。そう考えると人生でうまくいったことなんか、一度もなかった……そんな風にさえ思えてくる。
足許でメキメキと木が裂ける音がする。そうそう、枝を集めてくるんだった。暗闇に包まれてあたりはよく見えなかったが、枯れ枝を探すのは簡単だった。大袈裟に言えば、枯れ枝の絨毯の上を歩いているようなものだ。
確かに事態は最悪だが、考え用によってはさほどひどいわけじゃない。何よりあのひどい事故にもかかわらず、大怪我を負った者がいなかった。それに、信頼できる仲間がいる。誰よりも頼りになるケンジがいるし、頭の切れるハヤトもいる。アマネは皆に癒しを与えるナイチンゲールのような存在だ。
──仲間さえいれば。
そう考えた時、シュウは急に不安に襲われた。何も考えずに闇雲に枝を拾い集めていたが、皆のいるところから随分遠くに来てしまったような気がした。帰り道がわかるだろうか……。
慌てて振向くと、たき火を囲む三人の姿が見えた。思ったよりずっと近い位置で、三人の表情さえわかる。
ほっとして再び前方に眼を向けた時、何か黒い人影のようなものが前方の木々の間をよぎったような気がした。
──まさか。
ごしごしとメガネをこすり、眼を凝らしたが、そこには唯闇が広がっているだけだった。
どこからか寂し気なフクロウの啼き声が聞こえた。