第1章 夜の迷走 2
ケンジは眼を覚ました。
初めに脳裏に浮かんだのは、眼前に迫って来る幹や梢である。
──あれからどのくらいの時間が過ぎたのか。
周囲には油臭い白い煙がたちこめ、未だに道路を疾走していると言わんばかりにどこからかカラカラと何かが勢い良く回転する音が聞こえてくる。……とすると、気を失っていたのはほんの数秒の間か。
ケンジの位置からは白く光る小さな物がたくさん見えていたが、やがてそれが星だと言うことに気付いた。視界は再び白い煙に覆われ、強烈なガソリンの臭いが漂ってくる。
──ヤバいぜ。
周囲の状況はわからないが、車は激しく回転した後、ケンジのいる運転席が真上にくるような位置で止まっているらしい。手探りで助手席をさぐると華奢なシュウの肩のあたりに触れる。その上にすでに頭は乗ってないのではないか……一瞬そんな恐ろしい考えが浮かんだが、手探りで顔を探りあてた。
その頬を手の甲で思いきりひっぱたく。
「ひっ」そんな声がして、シュウが気付いた。と同時に後部座席からも「う〜ん」という声が聞こえてくる。
「ハヤト──大丈夫か?」
「ああ、とりあえず生きてるらしい──アマネ!」
「私も大丈夫!……でも、何、このすごい煙」
「オイルだろう。ガソリンも漏れてるらしい」
ケンジはガチャガチャとシートベルトを外しながら、
「このままだとヤバいぞ。アマネ! おまえの位置が一番下だ! ドアが開くか調べてくれ」
「うん、わかった」
「どうか、できそうか、皆シートベルト外しとけよ。誰か怪我してないか」
「ダメ! あっ、でもちょっと待って、少し開いてるみたい、体勢変えて足で蹴ってみる」
「うわーっ。血が出てる──」
「シュウか。どうした。ひどいのか」
「顔がヌルヌルすると思ったら血まみれだよ。俺、死ぬかも」
「バカっ。人間そんなに簡単に死ぬかよ──」
ガンという音が響き、下の方から新鮮な空気が車内に流れ込んで来る。
「やった、開いた」
「アマネ、どうなっている、何かわかるか」
「うん、外が見えた。大きな木に斜めに引っ掛かっている。でも、地面まではたった一メートルぐらいだから大丈夫」
「じゃあ、順番にそこから外に出るぞ」
がさがさとアマネが車内で体勢を整え、やがて地面に飛びおりる音がする。
「次はハヤト行け──」
「おう! と言いたいが、ちょっと俺は訳ありで動けない」
「何だぁ──こんな時にふざけてんじゃねえぞ」
「ふざけちゃいない。実は落ちたショックでシュウの座席の下に足を突っ込んで、挟まれちまったらしい」
「じゃあ、とりあえず、シュウ先に行け」
「俺も動けないよ。頭は痛いし、体も動かないよ」
「どこか痛いのか」
「手足は動くけど、体が思うように動かせないんだよ」
シュウの声は震えている。ケンジは下から入ってきた空気のおかげで、うっすらと見えるようになった視界の中、手探りでシュウの体の周囲を探った。
「この、バカ! シートベルトしたままじゃねえか。外しとけって言ったろう」
「えっ。あ、ホントだ。動ける」
「早く行け」
シュウが脱出した後、ケンジはその座席の下に手をつっこんだ。生暖かい棒状のものに触れる。ハヤトの足だ。だが、シャシが変型しているらしく、シートとボディの間にがっしりと喰わえ込まれている。
「感覚はあるのか?」
「今触ったろ。だけど、動かすのはとても無理そうだ」
「ああ、こいつはシートを外すしか手がなさそうだ」
ケンジの頭の中に、実習で何度も繰りかえし行った車体の解体光景が浮かぶ。だが、視界の悪さと体勢の悪さは想像以上に作業にを困難なものにしていた。
「糞っ。バールでもなきゃとても動かねえぜ」
その時、車外から救いの声が聞こえて来た。
「二人とも、大丈夫。何か手伝えることある?」
「アマネか? 後ろはどうなっている。工具入れからバールか何か持って来て欲しいんだが……」
「後ろは滅茶苦茶に潰れてて、荷物も何もかもグチャグチャだわ」
「大きな青い工具箱なんだが……」
「わかった、とにかく探してみる」
アマネの声がそう答えてからすぐに、ボンネットの方からパチパチという妙な音がし始めた。
「何だ、あれは?」
「電装関係の音だ、いずれにしてもいい音じゃない。早くここを出なくちゃまずいって合図だ」
ハヤトの質問にケンジが答える。ほどなくアマネの声が聞こえる。
「青い箱あったよ。五メートルぐらい向こうに飛ばされてた。バールってこの鉄の棒みたいな奴でしょ。今、持ってくから待ってて」
アマネが木を足場にして車体に足をかけた途端、ボンネットのあたりでボンと大きな音がして、車が大きく動いた。不安定な体勢だったアマネは外に弾き飛ばされ、ケンジも車の天井に嫌というほど頭を強打する。
「アマネ、大丈夫か──」
「うん、大丈夫。今、行く」
ハヤトの質問に遠くからアマネの元気な声が聞こえて来る。
「わかった。但し、バールだけ置いてけ。幸い上半身は動けるから、俺がケンジに手渡しする」
アマネは言われた通り、木に足をかけ、体をいっぱいに伸ばしてバールをハヤトに手渡しする。足を固定されたままの不自由な状態で、上半身を捻りそれをケンジに渡そうとした時、ハヤトの眼に飛び込んで来たのは猛り狂う炎だった。ボンネットあたりから吹き出した炎を背に、険しい顔をしたケンジの姿はあたかも不動明王のようである。
「ケンジ、やばいぞ! 火が回り始めた。俺はいいからすぐ逃げろ。二人とも焼け死ぬぞ」
「バカタレ! 車のことは専門家にまかせんかい。まだまだ、エンジンルーム。下に回るまで、まだ少し余裕がある」
そう言いながらバールを引ったくり、シートの下の乱暴に押し込む。ケンジが力を入れると、シートはメリメリと持ち上がり、ハヤトの足の拘束は嘘のように解かれた。
「抜けたぞ!」「飛び下りろ!」
グチャグチャになった車内からどう外に出たものか。気付いた時は二人で折り重なるように、地面に転がり、そのまま頭を低くして全力で駆け出した途端、車はゴウという音と共に炎に包まれた。
黒煙は高々と舞い上がり、やがて漆黒の夜空に吸い込まれていった。