第1章 夜の迷走 1
秋の山王峠はキンと張り詰めた冷たい空気で満たされていた。
界隈は紅葉の最盛期を迎え、色鮮やかな暖色系で彩られているはずだった。だが、すでに時刻は七時を回っており、眼を凝らしても見えるのはヘッドライトに照らされた僅かな範囲だけである。
「おめえのせいだぞ……」
運転手のケンジがいまいましそうに毒づいた。当初の予定では関東ではまず見られない美しい東北の紅葉を眺めながらドライブする予定だった。
「えっ、俺? 俺かよ。そりゃあ、遅刻したのは悪かったけどさ。こっちにだって、いろいろ事情があるわけで……それに、別に俺だけのせいってわけじゃあ……」
ぼそぼそとそこまで言ってシュウは口をつぐんだ。
責任はシュウだけにあるのではない。むしろ、途中で車酔いしたと言って、サービスエリアに車を一時間も足留めさせたアマネの責任も大きい。
今回の旅行は大学時代の遊び仲間、深山疾風、合原憲侍、綿貫修、葛西洋太郎、葛西雨音の五人で行く予定だった。アマネと洋太郎は大学時代からの恋人同士で、卒業後すぐに結婚して今では夫婦になっている。
だが、待ち合わせ場所のケンジの父親が経営する自動車修理工場にやってきたオレンジ色のビートルにはアマネ一人しか乗っていなかった。
「洋太郎、なんか急用が入ったみたいでダメになっちゃったの。ほら、仕事柄、接待とかいろいろあるでしょ。でも私は大丈夫。何しろ『三食昼寝付』だから、時間だけはたっぷりあるわけ」
「今時『三食昼寝付』はねーだろ。死語だよ死語──」
「家の方、大丈夫か?」
シュウが茶化した後、ハヤトが訊いた言葉に深い意味があったわけではない。
だが、ケンジの自慢のランドクルーザーにそれぞれ荷物を積み込み、出発してからすぐにアマネの様子が普通ではないことに皆気付いていた。
東北自動車道に入ったあたりから、アマネはしきりに気分が悪いと言い始めた。仕方なく佐野サービスエリアに寄り、皆はお茶を飲んだり、買うつもりのない土産物を見たりして時間を潰していたが、アマネはトイレに行くと言ったきり、一向に戻ってこない。ようやく小走りに現れたのは一時間近く過ぎてからだった。
「ゴメ〜ン……奥でちょっと休ませてもらってたの。でも、おかげで元気回復」
手を合わせながらやってきたアマネは、一見明るそうに振る舞っていたが、顔色は冴えなかった。
実はアマネのいない間、三人は何か洋太郎と揉めて今頃電話でもしているんじゃないかと噂していたのである。実際、アマネの眼は心無しか赤く腫れているようにも見えたが、あえてその話題は誰も切り出さなかった。
その後、日光街道で観光目的の車の渋滞にも巻き込まれ、なんやかやですでに予定時刻を三時間近くも遅れていた。
「今頃はよ……山菜の珍味なんかに舌鼓打ちながら、キュッと地酒を引っ掛けていたはずなのによ」
「だから……さ……ま、いいけど。俺のせいでも……」
口を尖らせているシュウにハヤトが、
「ケンジはからかってるだけだよ。ま、それでも民宿で良かったよ。ホテルならまず飯抜きだな」
「連絡は?」
「ああ、サービスエリアから入れといた。八時までに着けば大丈夫らしい。ま、楽勝だろう。急ぐ旅じゃなし、今夜はゆっくり飯喰って、ゆっくり風呂入って、のんびりしようや」
「くーっ。それを思うと腹の虫が黙っちゃいねえぜ」
夜の峠道でランドクルーザーがガウンと吠える。ヘッドライトに切り取られた黄色や赤が、右に左に飛ぶように流れていく。
「張り切るのはいいけど、運転、気を付けてよ」
おう! と答えて、一瞬ケンジがアマネを振り返ったのと同時に、視界にいきなり黒い物体が飛び込んで来た。
助手席にいたシュウが逸早く気付いて、声にならない叫び声をあげ、腰を浮かす。
黒い物体は急カーブをセンターラインをはみ出して暴走して来たバイクだった。すでに転倒し、赤い火花を吐き出しながら地を這う黒い龍のごとく真直ぐ向かって来る。
「うわっ、このバカ──」
ケンジはとっさにハンドルを切って、衝突を回避しようとする。ランドクルーザーもギャンギャンと悲鳴に似た叫びをあげる。だが、かろうじてコントロールを保っている車体は、さらに横滑りしつつ迫って来る龍の牙からついに逃れられなかった。それは斜めからの軽度な接触だった。だが、バランスを失いつつある車に最後の一撃を与えるには充分だった。
ランドクルーザーはクルクルと回転しながら、ガードレールを飛び越え、漆黒の闇に呑み込まれていった。