「一輪の白い花」
砂浜にそよぐ風を、体前面に受けながら、ゆっくりと海原へと歩いていく。
波際で立ち止まった私は、思い出のこの場所で目を閉じた。
「ねぇ、俊。私がもし死んだら、この場所で、私のこと思い出してくれる・・・」
砂浜に座り、ただ遠くを見る僕の目は、彼女を直視出来ずにいた。
彼女は僕の隣に座り、頭を僕の肩に乗せ、声を出すこと無く、泣いていた。
風の音と共に、場面が次々に浮かんでくる。
「執刀は、僕がすることになったよ。心配しなくていい。俺が必ず治してみせるから」
深夜、病室を訪れ、明日の手術の執刀医が、私であることを告げると、優しく微笑み、
「お願いします」と小さく頭を下げ。痩せた手で僕の頬に触れ、彼女はもう一度、小さく
微笑んだ。
不安な気持ちを少しでも静めてあげようと、僕は彼女を抱きしめ、そしてキスをした・・・。
そう最後のキスを。
「メス・・・」
発した言葉が、まるで自分の言葉ではないように感じ、メスを受け取った。
刃先が皮膚に触れる感触、今まで、何百とこなしてきた執刀であるはずが、まるで最初にメスを握った時の様に、心拍数が上がっている。
1時間が経ち、2時間が経ち、時間が経つにつれ、治すと発した言葉の重荷を感じていた。
癌細胞の広がりが推測よりも大きく、各内臓の動脈と静脈の間まで入り込んでおり、私は神経を張り巡らせつつ、メスを走らせていた。
「あと少し」そう思った途端の出来事だった。
刃先が動脈に1mm程触れ、勢い良く鮮血が飛び散った。
私は目を開けた。
あの時と同じ季節、同じ風・・・。何も変わらない光景・・・。
しかし、彼女だけがここには居ない。
あれから三度季節が変わり、私は、あれ以来、メスを握ることをやめた。
思考をふと、止め、花束を、思い出の海へと投げ入れたが、風の悪戯により一輪の花だけが私の頭上を越え、後ろへと、静かに舞っていった。
無意識に花を目で追い、後ろを振り返る形となる。
そして、そこには、いるはずのない彼女が立っており、花を拾い上げ、私に小さく微笑みかけた。
私は、とっさに一歩を踏み出したが、
「あ・り・が・と・う」ゆっくりと口を動かし、一瞬で彼女は静かに風と共に消えていった。
今のは、私が作り出した幻想なのかもしれない・・・・・。
しかし、潮風に舞った一輪の白い花はどこにも無かった。