季節は、春。暖かい日差しの下、若々しい新芽が顔を出し、その周りでは、色とりどりに彩られた花達が芳しい香りを放っている。
そんな、何処か穏やかな気分にさせる朗らか春のある日、のどかな外の雰囲気とは裏腹に、ここシュヴァルツ帝国宮殿の廊下を、青筋を立てたとある青年が鬱憤を放ちそうな勢いで進んでいた。
数分後、大きな扉の前で立ち止まった青年は、一度息を吐きノックもせずに勢いよく開けた。
「陛下っ……!!これは、一体どういうことでしょうか!?」
「おぉ、遅かったな?イリシス。
というか、ノックはちゃんとしろよな。お前、俺の立場分かってる?」
肘をつき、ニヤニヤとした笑みを向ける金髪蒼眼の青年に、青年は眉を寄せながら右手に掴んでいた書類を目の前の青年に突き付けた。
「…これは、一体どういうことでしょうか?陛下。
私には幻覚が見えるのですが?」
「それは幻覚ではないぞ、事実だ」
青年の晴々とした笑みに、プツンッという何かが切れた音が響いた。
「へ・い・か?」
ダンッ…!!
「どうして、“私の妹”が“陛下の側妃”に上がることになっているのですか…!?」
もはや苛立ちを隠さずに声を荒げる青年に、金髪蒼眼の青年はニヤリと笑みを浮かべた。
「理由は至極単純だ」
目を細め、怒りに燃える青年に目を向けた。
そして、スッと右手の人差し指を上に伸ばす。
「一つ、地方とはいえ、素晴らしいとの評判で名高いルーヴェンツェル家領主の娘であり、優秀なお前の妹であること」
「っそれは……!」
「二つ」
反論する青年の言葉を遮り、さらに中指を上に伸ばして口を開いた。
「何より……、この俺が気に入ったからだ」
ニヤリと、今までで一番苛立つ笑みで宣言され、青年の額に太い青筋がピキリと立てられた。
「…前は、あんなに……!」
「何か言ったか?」
「……いいえ、何もございません。
陛下の言い分はよく分かりました。……しかし、陛下には正妃様がいらっしゃるではありませんか。そんなことをお考えになられる前に、正妃様をお探しになされるほうが先なのでは?」
皮肉気味に、最大限の嫌みを吐き出した青年に、陛下と呼ばれた青年は眉を寄せ目を落とした。
「それは…分かっておる。だが…いや、これもいい機会かも知れん。
そもそも、正妃を異世界から喚ぶなどというくだらん掟があるから、あの小娘が逃げ出すなどという事態に陥ったのだ。
次代に強い子孫を残すためというのは分かるが……。
まあ、いずれにせよあの小娘は必ず見つけ出す。強い子供を作るための大事な身体だからな。…まぁ、何も知らない子供がこの世界で生き残れているかも怪しいが……。
――とまぁ、あの小娘のことは今はどうでもよい。
お前の妹――イリシアのことは、お前が心配せずとも大事にする。
だから、何も問題はないだろう?」
全く悪気も見せずに青年は笑みを浮かべてそう零した。
そこまでおとなしく聞いていた青年――イリシスは、人を射殺せそうな冷たい目を青年に向けた。
「…最低、ですね。そんなことを平気でおっしゃられるようでしたら、ますます妹を嫁がせる訳にはいかなくなりました。
ということで、諦めて下さい」
そう言い、ニコリと笑うイリシスに、青年は「ハッ…」と鼻で笑った。
「お前は馬鹿か?そもそも、そちらに拒否権など存在しない。これはお願いではなく、命令だ」
「そんな態度だと嫌われますよ?」
「それこそありえんな。何処に皇帝の妻という地位を捨てるやつがいるんだ?」
「正妃様がいらっしゃいます」
「…あれは唯一の例外だ。まぁあいつももう少し物事を考えれるようになれば、戻ってくるだろうがな」
「…では、賭けますか?」
「…何?」
ふと落とされた言葉に青年は訝しげにイリシスを見遣った。
窺うような視線を確認し、イリシスは意味ありげな笑みを浮かべた。
「そこまでおっしゃられるのならば、一つ、私と賭けを致しませんか?
――もし、陛下のおっしゃる通りにイリシアが陛下を気に入れば、陛下の命令に従い、イリシアを側妃として上がらせましょう。しかし、私の言う通りにイリシアが陛下のことを嫌悪し、嫁ぎたくないと申しましたら、このお話は白紙に戻して頂きます。
期限は……、そうですね、陛下が納得するまででかまいません。
――そのかわり、陛下が無理だと確信した際にはきっぱりと諦めて下さいね?」
ニコリという音が聞こえそうなくらい清々しい笑顔で問われた青年は、眉を寄せ何とも言えないような表情でイリシスに目を向ける。
「…随分と自信があるようだな?」
「ええ。自信というよりは、確信ですが」
「………いいだろう。お前がそこまで言うのなら、賭けに乗ろうじゃないか。
……というか、“イリシスはシスコン”という噂は本当だったんだな?何でも、屋敷からほとんど出さず、その姿を見たことがある者も数えるほどしかいないそうじゃないか。
――いつまでもそんな事をしていると、お前のほうがイリシアに嫌われるんじゃないのか?」
ニヤニヤとした目を向けられ、イリシスは青筋を立たせて青年に鋭い目を向けた。
「断じて、私はシスコンではありません。それに、私がイリシアに嫌われることは決してありません。これは自惚れではなく事実です。
――では、私の用は以上ですので、失礼致します」
書類を持ち直し、イリシスは扉の方へと足を動かす。
「あぁ、そういえば」
…が、扉に手を掛けかけた時に青年の声がかかり、動きを止める。そして一拍経てから再び青年の方を見遣った。
「…何ですか?」
「いやなぁ…、お前ちゃんと飯食ってるか?
料理長からお前がいつも人より少なめにしか食べないと聞いていてな。腕も細いし……、お前は宰相補佐だが、俺の護衛でもあるんだ。もっと力をつけてもらわないとな。
その体つきだと、イリシアに間違えられるぞ?」
「――余計なお世話です。では、失礼致します」
バタンッと勢いよく閉められた扉の音に、青年は苦笑を漏らした。
* * *
ムカつく、ムカつく、ムカつく―――!!!
何なの、あいつ!?何様のつもり!?……あ、皇帝様か。
――ってそんなこと関係あるかあぁぁ!!
「ああ、もうムカつくっ!!」
「お帰りなさいませ、イリシス様」
「ああただいま、アリア。…あと、何度も言ってるけど、屋敷では“依璃亜”って呼んでよね?」
「はい、そうでしたね、イリア様。
ところで、どうでしたか?例の件は」
何気なく問いた言葉に、イリシスはピシリと動きを止め再び怒りを燃え上がらせた。
「そうなのよっ!聞いてよ、アリア!!
あいつさぁ、何て言ったと思う!?
『俺が気に入ったからだ』だって!!何、ふざけてんの!?ねぇ!?
喚ばれて会った時は『こんな子供』って馬鹿にしてたくせに~~!!」
皇帝の態度を思い出してさらにイライラが募り、地団駄を踏むイリシスにアリアは苦笑しながら呟く。
「正妃様もイリシア様もイリシス様も――どれも“イリア様”ですのにねぇ……」
「……あぁ、本当イライラする!!」
自室に戻ってからも散々悪態をついた後、イリシスは一息ついてそっと目を閉じた。
そして次に目を開けた時には、銀髪から黒髪へ、紫眼から黒眼へと―――“イリシス”の姿から“依璃亜”の姿へと変貌を遂げた。
「…ふぅ。やっぱり元の姿の方が落ち着くなぁ。
やっぱり純日本人顔の私には黒がしっくりくるよ」
鏡で自分の顔を眺める。
こちらの世界に喚ばれてから、約三年が経つ。肩に付かない程度のボブだった髪の毛も、腰の下くらいまで伸びた。
あと少しで十八歳になるし、顔つきも何処か大人びたように感じる。
…でも、顔はほとんど変わってないよな…。
「…あいつ、何で気づかないんだろう…?」
いくら色を変え、男として違和感を感じないような魔法をかけているとはいえ、元の顔は変わらないのだから、よく見れば何かしら気づくはずだ。
イリシアの姿をしている時は尚更だ。
「…それって結局、どの姿の時も私のことちゃんと見てないってことだよね…?」
……何か考え出したら腹が立ってきた。
――てか。
「私は『イリシアに間違えられる』んじゃなくて、その“イリシア本人”だっつーのっ!!」
ハーハーっと息を乱しながら、依璃亜は叫ぶ。そしてしばらく経つと、次は口角を上げてニヤリと不気味な笑みを浮かべる。
「フフフ……。あいつってイリシアの姿の私を気に入ってるんだよね…?」
黒髪の間から、細めた目を光らせる。
あいつはイリシアを気に入っている…。――だけど、イリシアは私。私は、あいつ――皇帝のことを嫌っている。しかも心底から。
だから、私が――イリシアが皇帝を好きになることはない。
そう、だから皇帝があの賭けに勝つことは、絶対にありえない。
「馬鹿ね……。よりにもよって、自分が嫌悪した人間を気に入るなんて」
クシャッと右手に掴んでいた書類を握りしめる。
「この私に目をつけたことを……―死ぬまで後悔させてやる…!!」
今日も依璃亜の部屋からは、皇帝への罵詈雑言の叫びと笑い声が響いていた。