11. カード
ありがとう、と言われて俺は固まった。
思わずナツから目をそらした。
俺が言うべきだった。俺の方こそ勇気づけられたのだから。
視線を戻すとナツもあらぬ方向を向いている。なんとなく顔が赤いような気がするのは、多分四本目のビールの酔いがようやく回ってきたからだろうか。
ふと、思いついたようにナツが言った。
「そういえばいつだったか、なんで研究者なのに事業開発しているのか、と尋ねたことがあったな」
今いる店から100m位離れた位置にあるバルで飲んだ時に尋ねたことだ。俺は頷く。
「ああ」
「もう、その答えはわかったかい?」
ナツは、彼女を信じていた、とその時言っていた。それは、今は信じられないから、という裏返しだ。今は彼女を信じられないから、研究者なのに別のことをしている。
そして彼女、とは真崎明日香のことだろう。俺はナツの問いに再び頷く。
「ああ、わかったよ」
わずかに間が空いた後、ナツは目を伏せた。
「私、研究者に戻るよ」
「そうか」
「うん、もう多分大丈夫だから」
そう言ったナツの表情には翳りがあった。万感の想いがその言葉にはあるのだろう。
そうかと思ったら勝気な笑顔でこう言った。
「別に就職先には困らないしな。私、優秀だから」
「感じ悪いぞ」
俺はわざと眉根を寄せた。ナツはくすくす笑っている。もしかしたら空元気かもしれない。だが、こうしているナツを見ると今はこれでもいいのかもしれないとも思える。
「ユキはどうする?」
「今までと変わらんと思うが」
俺は思ったことをそのまま答えて、少し考えた。
今までと同じか。ほんの一ヶ月とちょっと前だ。
俺はナツが座っている向こう側、路地の出口の方を見た。観光客の波を抜けて少し歩いていけば、そこには俺の事務所がある。
元の事務所で同じ仕事。俺は今までと変わらない。だがそこにはマキタがいない。
「君の友達は……」
ナツがおずおずと話し出して、取りやめる。
「いや、すまない。無神経だった」
「大丈夫だ。何かあったか?」
「……この事件に関わったことで君の友達の弔いになっただろうか、と言おうとしたんだ。でも」
「ああ、あいつも事件に関わった張本人で、加害者でもあった」
「誰が良くて、悪くて、恨んだらいいか、わからないな。本田君は君の友人を殺した。でも彼は赤坂さんを手にかけた犯人だ……」
目を地面の空き缶に向けてナツは足を組んだ。
「彼を、赦していいのかもわからない」
俺はことさらに気楽な声を出そう努めた。
「まあ、いいじゃねえか。許しながら、恨んだらいい。マキタだって、俺の仕事の顧客データを抜いてたんだ。絶対に許さんが、それでも偲ぶさ」
ふふ、とナツが笑った。無邪気な子供を見守るような笑顔だ。俺は言った。
「なんだよ」
「空元気も元気のうちかな、って」
俺が思っていたことをナツに返されて少し恥ずかしくなる。まあ、いいさ。
路地には暗い影と青空が覗く。ボロボロの天板には、いつから置かれていたのかわからないような調味料と割り箸。それにビール瓶とグラス。
路地の出口には沢山の人の波が見える。外国からの観光客も一際多い。ふらりと足を踏み入れたなら、自分が異国の繁華街に迷い込んだのかと錯覚するような、それでもどこか懐かしい街。
正面に座っているナツは、いつの間にかグラスを置いていた。リラックスしたような、そして同時に、まっすぐな瞳を俺に向けて、口を開いた。
「次のカード、なんだと思う?」
風が吹いた。晴天の青空模様に似つかわしくない、少し冷たい、澄んだ風だった。
ふと、こう口にしそうになった。
『きっと、ハートの印だ』
だが、俺は自分らしくない気障な言葉を飲み込んで、代わりにこう言った。
「誰にもわかんないんだろ?」




