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終章 「私とお前が一緒になれば、沢山の人を救える!」

 雲泉楼の営業が始まって、ひと月が経った。


 朝は漁師たちが訪れ、昼は近隣の村人が、夜は旅人が温泉に浸かっていく。リオも週に二度ほど訪れるようになった。最初は遠慮がちだったが、今では「ただいま」と言って入ってくる。


 ガルドは帳場で帳簿を眺めながら、小さく微笑んだ。


 収支はトントン。少しだけ黒字だ。


 三百年間、他人のために数字を管理してきた。今は違う。自分の宿の、自分の帳簿だ。


「悪くない」


 呟いた、その時


 ——玄関の戸が勢いよく開いた。


「頼もう! 一泊お願いしたい!」


 振り返ると、一人の男が立っていた。


 立派な体格。短く刈り込んだ黒髪。腰には剣。背中には大きな荷物。旅の騎士、といった風貌だ。その目は——鋭い。


 ガルドの心臓が、一瞬止まった。


 この気配。この殺気。戦場で何百と相対してきた、研ぎ澄まされた戦士の気配。間違いない。




 男は宿帳に名前を書いた。


『ダリウス』


 その文字を見た瞬間、ガルドの背筋に氷が走った。


 ダリウス。勇者パーティーの騎士。魔王ザルゴスを討伐した、あの——。


 過去が、追いついてきた。



 ♢ ♢ ♢



 ゲンゾウが入ってきた。


「おう、どうしたんだい青い顔して——おや、お客さんか?」


 ゲンゾウは陽気にダリウスに声をかけた。


「遠くから来たのかい? 疲れただろう。この宿の温泉は最高だぜ!」



 ガルドは帳場の陰で、拳を握りしめていた。体が震えている。三百年生きて、魔王城で数々の修羅場を潜り抜けてきた。それでも、止まらない。


 ゲンゾウは、その様子に気づいた。


 いつも落ち着いているガルドが、明らかに怯えている。顔は青ざめ、額に冷や汗が滲んでいる。


「……ガルド?」


 ガルドは何も答えられなかった。


 ゲンゾウの目が、鋭くなった。理由は分からない。この騎士が何者かも知らない。ガルドが怯えている。それだけで、十分だった。


「なあ、旅の騎士さん」

 ゲンゾウは、ダリウスの前に立った。


「悪いんだが、今日は満室でな。他の宿を当たってくれないか」


「満室?」

 ダリウスは眉をひそめた。


「さっき、空室があると——」


「間違いだった。すまねぇ」


 ゲンゾウの声は、いつになく低かった。大工の腕を組んだ姿は、壁のように見えた。


「この宿は、静かに過ごしたい客しか取らないんだ。騒ぎを起こしそうな客は、お断りなんでね」


「……騒ぎを起こす?」


 ダリウスの目が、冷たくなった。空気が張り詰める。


 ダリウスは、じっとゲンゾウを見つめた。それから、視線をガルドに向けた。


「……そうか」

 ダリウスは、小さく笑った。


「——この宿は、魔王軍の残党をかくまっているのか」


 彼は剣の柄に手をかけた。次の瞬間——床を蹴り、前へ踏み込む。抜き放たれた刃が、光を纏ってゲンゾウへ向かう。


 その瞬間——ガルドの目が、光った。



 ♢ ♢ ♢



「うおぉおおお!」


 咆哮ほうこうが、宿を震わせた。


 ガルドの体が変化する。筋肉が膨れ上がり、身長が一回り大きくなる。魔族の戦闘形態。三百年、副官として磨き上げた力。封印していた力が、溢れ出す。


「やはり……!」

 ダリウスの目が、鋭く光った。刃の軌道が変わる。標的は、ガルドだ。


 一閃。速い。


 ガルドの目には、その軌道が見えていた。

 避けられる。反撃も容易。


 ——その時。


「やめてください!」

 女性の声が響いた。


 聞き覚えのある、優しい声。赤い着物。結い上げた髪。リオだった。


 彼女が、二人の間に飛び込んできた。


「ガルドは、悪い人じゃないんです!」


 リオは両手を広げ、ガルドを庇った。華奢な体が、大きな騎士の前に立つ。


「枯れた村を、温泉郷を生き返らせてくれたんです!」


「そうだ!」

 ゲンゾウが叫んだ。


「ガルドは、俺たちの仲間だ!」


 騒ぎを聞きつけて、村人が次々と駆けつけてくる。


「ガルドさんは、いい人だ!」

「この宿があるから、村が賑わってるんだ!」

「魔族だからって、何だっていうんだ!」




 ——そうだ。


 自分は、もう——魔王軍の副官ガルドではない。温泉宿のガルド。全ての人を受け入れる、宿の主人だ。





「ダリウス殿」


 ガルドは戦闘形態を解き、体を元に戻した。膨れ上がった筋肉が、元の姿に戻っていく。


 身を低く屈めた。


 ダリウスは身構えた。低姿勢からの必殺技か。彼は横に飛び、回避の構えを取る。


 ガルドは、そのまま床に手をついた。額を、冷たい床に押し付けた。


「あっしは、しがない温泉宿を経営する、ただの魔族のおっさんです」


 静かな声。


 ダリウスの目が、驚きに見開かれた。剣を収める。


「……魔王軍の幹部が、こうも易々と頭を下げるとは」


 彼は、複雑な表情を浮かべた。かつての敵が、無防備に頭を下げている。今、この首をねることだって、できるのに。



 ♢ ♢ ♢



 ダリウスは、しばらく黙っていた。ガルドを見下ろし、その姿を見つめる。村人たちも、固唾を飲んで見守っている。


 やがて——


「温泉に入らせてくれ」

 ダリウスは、静かに言った。


「湯加減を知れば、お前のこころざしの何たるかが明らかになろう」


 ガルドは顔を上げた。


「はい!」

 心からの笑顔で、返事をした。





 ダリウスが温泉から上がってきた。その表情は——穏やかだった。険しかった顔から、緊張が消えている。


「……不思議だ」

 ダリウスは、呟いた。


「魔王との戦いで負った傷が、どんな治癒魔法でも癒えなかったのに」


 彼は自分の肩に手を当てた。そこには、古い傷痕があった。


「この温泉に入ったら、痛みが消えた」


 ガルドは息を呑んだ。


 その時——ダリウスが床を蹴った。大股で、ガルドに向かって歩み寄る。


「ガルド!」

 低く、強い声。


 ガルドの体が、びくんと震えた。


 やっぱり……! 結局、斬られる……!


 彼は目を閉じた。覚悟を決めた。


 ダリウスは、ガルドの両手を掴んだ。力強く。温かく。

「ガルド!」


 その目が、輝いている。


「頼む! 私を、この温泉宿で働かせてくれないか!」


「え……?」

 ガルドは、ぽかんとした。


「仲間たちを連れて来たい。湯治を乞う者たちが山ほどいるんだ!」


 ダリウスは熱を込めて言った。


「この湯は最高だ! どの温泉よりも素晴らしい! 私が橋渡し役になれば、たくさんの人を救える!」

 真剣な目。迷いのない目。


 かつて魔王を討った騎士の目ではなく——ただ、人を救いたいと願う、一人の人間の目だった。


 ガルドは、その手を振りほどこうとした。


「……いや、俺とお前は犬猿の仲。そんな簡単には……」




 ・・・この宿では、誰も拒まない。

 人間も、魔族も、獣人も。

 どんな境遇の者も、分け隔てなく迎え入れる。

 傷ついた者が癒される場所。

 それが、雲泉楼だ。

 それが、ガルドの宿だ・・・




 ガルドは、ゆっくりと息を吐いた。


「ダリウス」

 彼は、ダリウスの目を見た。


「たくさんの人を救えるって話、詳しく聞かせてくれ」



 ♢ ♢ ♢



 その夜。


 ガルドは一人、布団に入りながら天井を見つめていた。


 魔王軍の副官と、勇者パーティーの騎士。かつては敵だった二人が、明日から同じ宿で働く。


「……人生とは、かくも面白いものだな」

 ガルドは呟いた。


 窓の外では、雲泉楼の湯煙が夜空に溶けていく。


 明日も忙しそうだ。


 ガルドは、小さく笑った。


 彼は目を閉じた。


 ガルドに、深い安らかな眠りが訪れた。





 おしまい

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