第5話 「この宿では、誰も拒まない」
派手な赤い着物。結い上げた髪。豊かな体つき。色白の肌。
だが、その表情は——寂しげだった。
彼女は一歩、宿に近づこうとして、立ち止まる。
迷う。
また一歩。
また、立ち止まる。
何度かそれを繰り返した後、彼女は踵を返し、通りの角に消えていった。
「……?」
ガルドは首を傾げたが、すぐに中へ戻った。
客が待っている。
♢ ♢ ♢
「ありがとさん、また来るよ!」
夕暮れ。
最後の客が満足そうに帰っていった。
ガルドは玄関で、深々と頭を下げた。
「ありがとうございました」
客の姿が見えなくなるまで、頭を下げ続けた。
玄関に、営業終了の札を掛ける。
全身に疲労が溜まっている。肩が重い。足が痛い。
「……やり遂げた」
初日。
自分の店の、初日。
三百年生きて、初めての。
その時——
「あ、あの……」
か細い声がした。
振り返ると、昼間見かけた若い女性が立っていた。
夕闇の中、彼女は不安そうに立っている。
「お、温泉に……入れてもらえませんか?」
ガルドは営業終了の札を見た。
「……すまない。今日の営業はもう終わってしまって——」
女性の顔が、曇った。
「そう、ですか……」
彼女は小さく頭を下げ、去ろうとした。
背中が、小さく見えた。
ガルドは一瞬、迷った。
だが——
「待ってくれ」
女性が振り返る。
「女性用の風呂は、まだ掃除していない。三十分だけなら、入れるが」
女性の目が、見開かれた。
「……本当に、いいんですか?」
「ああ」
ガルドは頷いた。
「ただし、ゆっくり浸かってくれ。急ぐ必要はない」
女性の目が、潤んだ。
「ありがとう、ございます……!」
彼女は深々と頭を下げ、浴場へ向かった。
♢ ♢ ♢
三十分後。
女性が浴場から出てきた。
顔は紅潮し、表情は穏やかだった。
先ほどまでの緊張が消え、柔らかな笑みを浮かべている。
「ありがとうございました……」
彼女は何度も頭を下げた。
「気をつけて帰ってくれ」
「はい……」
女性は名残惜しそうに振り返り、それから夜の闇へ消えていった。
ガルドが後片付けをしていると、ゲンゾウが戻ってきた。
「リオか」
「リオ?」
「さっきの娘さんだよ」
ゲンゾウは腕を組んだ。
「親の借金を背負って、夜の店で働いてる。街の連中は、あまりいい顔をしない」
ガルドは手を止めた。
「お前さんは人がいい。だが、商いってのは楽じゃねえぞ。客を選ばないと、他の客が来なくなることもある」
「……それが、どうした」
ガルドは静かに言った。
ゲンゾウは肩をすくめた。
「まあ、俺は気にしないけどな。ただ、知っておいた方がいいと思って」
彼は笑った。
「お前さんらしいよ。そういうの、嫌いじゃない」
ゲンゾウが帰った後、ガルドは一人、夜空を見上げた。
親の借金で、夜の店で働く。
周囲から冷たい目で見られる。
ガルドは自分の顔を撫でた。
自分は魔族だ。
三百年間、人間たちから恐れられ、蔑まれてきた。
この街に来てからも——修繕中、何度も遠巻きに見られた。警戒された。囁かれた。
それでも、少しずつ、受け入れられた。
ゲンゾウたちが、手を差し伸べてくれた。
「……同じだ」
ガルドは呟いた。
あの女性、リオ。
彼女も、居場所を探している。
温かい場所を、求めている。
ガルドは空を見上げた。
星が、無数に瞬いている。
「この宿では、誰も拒まない」
静かに、決意した。
人間も、魔族も、獣人も。
どんな境遇の者も、分け隔てなく迎え入れる。
疲れた者が休める場所。
傷ついた者が癒される場所。
それが、雲泉楼だ。
それが、ガルドの宿だ。
夜風が、静かに吹き抜けていった。
初日が終わった。
第二の人生は、静かに、確かに、動き出していた。




