第4話 「俺たちゃ、三十年ぶりに雲泉楼が湯煙を上げるのを見たいだけだ」
夜明け前。
ガルドは目を覚ました。
眠りは浅かった。いや、正確には眠れなかった。今日は雲泉楼の営業初日。三百年の人生で、初めて自分の店を開く日だ。
屋根を直した。窓を直した。風呂も直した。昨日までに、内装だって仕上げた。
全て、自分の手で。
「……やるか」
ガルドは静かに立ち上がり、着替えた。手が、僅かに震えている。
緊張だ。三百年生きて、戦場も経験して、それでも今、緊張している。
不思議と、嫌な気分ではなかった。
♢ ♢ ♢
窓の外はまだ暗い。それでも、体は勝手に動く。
ガルドは白い息を吐きながら浴場に向かう。
栓を開けると、透明な湯が音を立てて流れ込んでいく。
湯気が立ち上る。硫黄の香りが鼻腔をくすぐる。
ガルドは浴槽の縁に手を置き、湯に指を浸した。
温度、完璧。
脱衣所へ移動する。清潔なタオルを丁寧に積み上げる。一枚一枚、几帳面に畳んだ。石鹸、手ぬぐい、風呂上がりのミルク。
全てを確認する。抜かりはない。
休憩室には茶と茶菓子を用意し、座布団を一つ一つ並べていく。ずれがないように、等間隔に。
副官の癖は、三百年では抜けないものだと小さく笑った。
厨房に入る。金属製のフライヤーに油を注ぎ、火をつける。青い炎が揺れる。
客に出す料理も、自分で作る。
外注できれば楽だが、初日の客数なんて読めない。しばらくは全て一人でやる。
それでいい。
自分の手で、最初から最後まで。
♢ ♢ ♢
東の空が白み始めた頃。
「おう、ガルド! 朝から気合入ってんな!」
修繕を手伝ってくれた大工のゲンゾウが、仲間を引き連れてやってきた。
ガルドは驚いて振り返る。
「……悪いが、まだ開店してない」
「分かってるよ。手伝いに来たんだ」
「今朝獲れた魚、持ってきました! 刺身にしてやってください」
「野菜もありますよ。煮物にでも使ってください」
ガルドは言葉を失った。
「いや……そんな、頼んでもいないのに……」
軽い調子で、ゲンゾウが肩を叩いた。
「一緒に汗を流した仲だろ? 番台と配膳と厨房を一人でこなすつもりか? お前さんの身体は幾つあるんだ」
「だが……」
「気にすんな」
ゲンゾウは笑った。
「俺たちゃ、三十年ぶりに雲泉楼が湯煙を上げるのを見たいだけだ」
ガルドの胸が、熱くなった。
こういう時、何を言えばいいのか。
魔族の副官は命令は得意でも、感謝が苦手だった。自分の気持ちをどう伝えればいいのか分からなかった。
「……頼む」
ガルドはただ、頭を下げた。
♢ ♢ ♢
トン。
ガルドは建物の前に、のぼり旗を立てた。
『雲泉楼 商い中』
湯煙をまとって、旗が風に揺れる。
ガルドは旗を見上げた。
今日から、自分のために働く。
「ガルド! 来てやったぜ!」
土を踏む足音。楽しそうな声。
最初の客が来た。
村の漁師たちだ。潮の匂い。
「朝風呂だ、朝風呂! 体中汗まみれでよォ!」
ガルドは深く一礼した。
「いらっしゃいませ」
自分の口から出た言葉に、少しだけ驚く。
命令ではない。報告でもない。
ただの、歓迎の言葉。
漁師たちを案内し、入浴料を受け取る。帳簿に丁寧に記入する。
その時——
「温泉入りに来たわよ!」
「楽しみだわ!」
「料理もあるんですって?」
次の客が入ってきた。
そこから先は、怒涛だった。
♢ ♢ ♢
脱衣所へ走る。タオルを補充する。
浴場へ向かう。湯加減を確認する。客に声をかける。
休憩室へ戻る。茶を淹れ直す。茶菓子を補充する。
厨房ではゲンゾウと肩を並べて料理を作る。
魚を三枚におろす。包丁の感触が、心地いい。
天ぷらを揚げる。油の音が、リズムを刻む。
味噌汁を仕立てる。出汁の香りが、厨房に広がる。
「料理、できたぞ!」
「はい、運びます!」
仲間が食堂へ運ぶ。
客たちの歓声が聞こえた。
「うまそう!」
「これで銀貨一枚!? 安いな!」
ガルドは食堂の入口から、その光景を見た。
湯上がりの客たちが、笑顔で料理を囲んでいる。
温泉に浸かって、美味い飯を食って、笑い合っている。
ああ、と思った。
これが、宿なんだ。
これが、自分が目指していたものなんだ。
「すみません、お酒はありますか?」
「あの、箸がもう一膳欲しいんですが」
「休憩室、座布団もう少しあるといいな」
ガルドは忙しく動き回りながら、小さな手帳にメモを取り続けた。
【要改善:酒の用意】
【要改善:箸の追加購入】
【要改善:座布団の数】
【要改善:脱衣所の籠を増やす】
【料理の仕込みは前日からすべきだった】
息つく暇もない。
三百年間、感じたことのない充実感が、全身を満たしていた。
♢ ♢ ♢
昼過ぎ。
ガルドが玄関先で客を見送っていると、視線を感じた。
通りの向こう側。
見知らぬ若い女性が、雲泉楼をじっと見ていた。




