第1話 「最後の命令だ。お前自身のために生きろ」
魔王城が崩れ落ちる音は、思っていたよりも静かだった。
副官ガルドは三キロ離れた丘の上から、三百年間働いた城が崩壊する様を眺めていた。灰色がかった髪、深い皺の刻まれた顔。見た目は四十代だが、実際には三百二十七歳になる魔族の男だ。
勇者に魔王が倒された。三百年続いた魔王軍は、今日解散した。
昨日、魔王ザルゴスに個室へ呼ばれた時のことを思い出す。
『ガルド、お前には随分と苦労をかけたな』
魔王は疲れた笑みを浮かべながら、古びた羊皮紙の束を差し出した。
『辺境の温泉地、「湯煙の里」の土地権利書だ。お前が好きに使え』
『魔王様、まだ戦えます!』
『お前は三百年、私のために働き続けた。休暇も取らず、文句も言わず、そつなく仕事をこなしてくれた。だが、お前は自分のために生きたことがあるか?』
ガルドは言葉に詰まった。
『これからは、お前自身のために生きろ。温泉にでも浸かって、のんびり暮らせ。それが、私からお前への最後の命令だ』
魔王は優しく微笑み、その後、勇者に斬られた。
♢ ♢ ♢
軍解散から十日余り。ガルドは山道を一人で歩き、地図に示された温泉郷へ辿り着いた。
谷間に広がる小さな温泉街。白い湯気があちこちから立ち上っているが、建物は古びており、人通りも少ない。かつては栄えた保養地だったのだろうが、今は明らかに衰退していた。
街の入口で区長らしき老人に権利書を見せると、驚いた様子で言われた。
「これは……旧市街の権利書じゃないですか! この印は本物だ!」
「雲泉楼?」
「三十年前に廃業した、かつてこの街で一番大きな宿ですよ。今は誰も住んでいませんが……」
区長に案内されて辿り着いた雲泉楼は、想像以上に荒れていた。
三階建ての木造建築。屋根は一部崩れ、壁には蔦が絡まり、窓ガラスは半分以上割れている。正面玄関の扉は傾き、看板は地面に落ちていた。
「三十年も放置されていましたからね。取り壊すにも費用がかかるもので……」
区長が申し訳なさそうに言った。
ガルドは黙って建物の周りを歩いた。副官として、魔王城の増築を何度も監督した経験がある。建物の良し悪しは、一目で分かった。
外観は酷いが、基礎はしっかりしている。柱も太く、構造に問題はない。
正面玄関の錆びた扉を開けると、埃が舞い上がった。
広いロビー。立派な帳場の跡。奥には大きな食堂があり、さらに奥はモルタルとタイルの剥がれた広い浴槽。
二階、三階にも上がってみた。客室が全部で十室。狭くはない。窓からの眺めも悪くない。
裏手に回ると、露天風呂の跡があった。湯はなく、どこから源泉を引いていたのか、これじゃわからない。
「……ふむ」
ガルドは建物全体を見渡した。
廃墟だ。間違いない。
しかし、ガルドの目には別のものが見えていた。
(まずは屋根と窓だな。腐った茅葺を入れ替えて、割れたガラスを差し替える。とりあえず風雨はしのげるだろう……)
魔王軍の副官をなめるな。予算管理、人員配置、設備の保守。全てを完璧にこなしてきた。
この程度の再建、できないはずがない。
「区長殿」
ガルドは振り返った。
「この宿を買い取りたい。いくらだ?」
「本気ですか」
区長は驚いた顔をした後、ゆっくりと笑った。
「あなた、面白い方だ。では、銀貨百枚でどうです? 正直、誰も買い手がいなかったので、格安ですよ」
「契約しよう」
ガルドは即答した。
こうして、元魔王軍副官ガルドは、廃業した温泉宿の主人となった。
♢ ♢ ♢
夕暮れの中、ガルドは一人、ボロボロの宿の前に立っていた。
「さて、まずは修理だな」
袖をまくり上げる。
三百年ぶりの、自分のための大仕事が始まる。




