僕は、自分の意志で婚約を破棄する
「公爵令嬢との婚約を破棄する」
麗しい、第三王子の凛とした声に周囲の喧騒が止んだ。
場所は王家主催の園遊会会場。
王と王妃は隣国との外交中で欠席しており、代理として第三王子が初めて主催する会だ。
「殿下、何を……」
第三王子の婚約者である公爵令嬢が思わずといった風情で呟く。
この会場の中の誰よりも美しいと、完璧な令嬢だと謳われる女性。
「何を仰っていらっしゃるか、お分かりですか?」
第三王子の声に答えたのは当の公爵令嬢の父、公爵その人だった。
貴族達の、声を潜めた騒めきがあちこちから聞こえる。
王の居ない隙を突くような第三王子の宣言による反発の声が多数だ。
「無論、理解している」
第三王子の声は揺らぐことがない。
騒めきは大きくなる。優秀と言われている王子の心うちが分からず、戸惑う声も混じる。
「私はそなたの娘との婚約を破棄する」
再度の宣言に、渦中の公爵の表情に険が顕れる。
「そして、市井に降る」
「ん?」とも「は?」ともつかぬ声がそこかしこから零れる。
それでも第三王子は揺らぐことなく堂々と立っていた。
***
貴族は皆美しい。
もちろん王族も美しい。
第三王子は幼い頃に決められた婚約者を大切にしたいと思っていた。
愛だの恋だのまだ分からない頃に決められた婚約だが、誠実でいたいとも思っていた。
彼女も幼い頃から美しかった。
直接会うのは年に一度の園遊会のみだが、時節の手紙や誕生日の贈り物など、婚約者として適切な交流を計っていたと思う。
それは彼女も同じだっただろう。
だが、年に一度の園遊会で会うたびに、何か言い知れない気持ちが募っていった。
好意ではない。どちらかというと嫌悪に近い。
何故だか自分でも分からない。
理由が分からぬまま数年を経て、ある日、第三王子は悟った。
そうだ。彼女は自分の祖母に似ている。
不在がちの王と王妃に代わり、いつも食事を共にする、近しい間柄の王太后が若ければ、きっと彼女と瓜二つであっただろう。
慌ててこの国の貴族の分厚い家系図を探し出した。
そこで分かったことは婚約者の彼女と自分が叔父と姪の関係であること。
ぶわっと冷や汗が出た。
貴族の家系図を隅から隅まで調べて分かったことは、貴族間の婚姻が多すぎ、どの貴族家を辿っても五代以内には王家にたどり着く事。
この国の貴族は皆美しい。
金髪碧眼。似たような表情、似たような仕草。
それは貴族教育の賜物ではなく、血が近しいからだとしたら。
言い知れぬ不快感に苛まれる。近しい身内とばかりの婚姻を、受け入れられない自分がいた。吐きそうだった。
こちらを心配そうに見やる家臣の目は、父王にそっくりだった。
***
第三王子は乱心のためとして、王家から籍を抜かれた。
彼が望んだ「市井に降る」、つまり平民になるという事は、帝王学を修めていたため実現せず、男爵領とは名ばかりの荒野しかない領地と爵位を賜った。幽閉とも言い替えられる。
「貴族のボンボンだとは思ってたけど、まさか王子サマだったなんてね」
第三王子は転生者だった。
記憶はうっすらとしか残っていないが、一夫一妻制の自由恋愛が許される世界で暮らしていた。
「今はしがない貧乏男爵だよ」
王子教育の一環として、王都の警邏隊に放り込まれた。
王子という身分に忖度してか、ろくな仕事も与えられない。
何の危険もない。仕事もない。何のための警邏かと、只の視察と何が違うというのか。
暇に飽かせて王都中の路地を制覇しようと考えた。
そんな時に、王都の裏路地で出会ったのが彼女だ。
花売り娘だった。
違法な春売りかと思い詰所に連行しようとして引っ叩かれた。
「私は! 純粋に花だけを売っているのよ!!」
彼女の怒りに驚いた。この人生で怒りを向けられたのは初めてだった。
誰も彼もが適切な態度で、適切な振る舞いで第三王子と向かい合う。
笑顔が能面のような人々に取り囲まれる生活。
市井もそうだった。
この国の雁字搦めの厳格な階級制度と職業別制度は人々の向上心を奪っていた。
誰もが諦めたような笑顔を浮かべ、達観した目をし、死んでいるかのように日々を過ごしている。
そんな中で彼女の怒りは生々しい生を彷彿とさせた。
暇しかないので彼女を構い倒した。
ちゃんと花代は払ったが、花一つに銀貨を指定する彼女に首をかしげたら「相手によって金額が変わるなんて当たり前でしょ」と鼻で笑われた。
それもそうかと値切りもせず払っていたが、次第にボンボンの遊びには付き合えない。忙しいんだ、早く帰れ!!
と、散々に言われだした。
それでも何度目かの邂逅で、彼女を口説いた。
「どうせ婚約者の一人や二人いるんでしょ! 不誠実だとは思わないわけ!?」
至極まっとうな事を言われた。
そうだ。自分は不誠実だ。婚約者がいるにも拘らず他の女性を口説いている。
婚約者は美しい。所作もその能力も何の問題もないと言われている。
けれども結婚はできない。自分が受け入れられない。受け付けない。
***
園遊会での騒動が終わり、軟禁を解かれた少しの間に彼女に会いに行った。
「何言ってんの? アナタサマに婚約者がいないのと私が誰を好きになるかは別問題でしょ!」
ファニーフェイスの彼女が、売り物の花籠ごとこちらの顔面に投げつけ宣う。
花籠を払いのけながら彼女に近寄り、物を投げるために伸ばされた手を握りしめた。
「君、本当は花売りじゃなくて情報屋でしょ?」
目を眇めた彼女の反応は速かった。繋がれた手を振り払うべく、戸惑いなく捻り上げてくる。
逆らう事なく、タイミングを合わせてダンスの様にクルっと回り、彼女の後ろに立ち位置を変える。
まるで彼女を後ろから抱きしめているかのような構図に置き換わった。
「触れられるのは、嫌?」
「拘束されるのは嫌いよ!」
「嫌悪感がなければ、好きになれるかもしれないよ?」
「それは私が決めることよ!!」
耳が赤くなって可愛いなと思いながら拘束を解く。
「近々王都に一斉捜査が入る。地下組織を末端まで壊滅する手筈になっている」
彼女が不審な目でこちらを見遣る。
「ところで僕は荒野に領地を賜ってね。二日後に王都から出るんだが、優秀な情報屋や様々な伝手を欲しているんだ」
眉間に皺を寄せ睨みつけてくる彼女にひらひらと手を振って、路地を出た。
***
幌馬車に乗り王都を抜ける。
出来たばかりの男爵家、ましてや放逐されて荒野に追いやられた元王子に付いてこようとする物好きなんているはずもない。
自分で御者台に乗り、馬をてくてくと歩かせる。
与えられたのはこの一台の幌馬車に乗るだけの荷物。
王都から荒野までは一直線の道でしか繋がっていないためか、警衛も騎士も護送役も居ない、本当の一人旅。
舗装も碌にされていないので馬車が揺れる揺れる。
制御に苦心している隙に、御者台に飛び乗ってきた少年がいた。
「無料奉仕はしてないんだ。乗るなら運び賃を貰うよ」
少年には目も向けずに手綱を捌く。車輪が取られそうな穴があちこちにあって気が抜けない。
「オウジサマのくせにケチなのね」
驚いて顔を横に向けてしまった。途端に跳ねる幌馬車。
「好きか嫌いかは置いておいて、私を雇ってくれるなら付いて行ってあげてもいいわ」
お金が続く限りはねとニヤリと笑う彼女を見て自然と笑みが零れた。
好きか嫌いか置いておかれるのは癪だけど、今はそれでいい。
彼女が近くにいてくれるなら、この人生も捨てたものじゃないと思える程には熱を上げている自覚があった。
自分の意志で婚約を破棄し、自分の意志をもって与えられた残りの人生。
彼女が側にいてくれるなら。
「言いそびれていたね。僕の名前は……」