ある石の冒険
子供が石を蹴りました。時折、狂ったように跳ねて、それは20メートルも先の女の子の脚にぶつかりました。その子は、虫でも当たったと思ったか、石には気付かず、蹴った子供の方も見ず、すぐに興味を無くしました。しかし、傍らに佇む父親と思しき男は、怖い顔で犯人の方を睨みつけました。子供は怖くなりましたが、無関係を装っていればよいと子供心に解決し、ふらふらとその場で無意味に彷徨いました。時折、あの鬼のような顔をした男の方をちらちらと盗み見て。
ところで、蹴られた石は、女の子の脚にぶつかってから、どうしたでしょうか。敷き詰められた無数の仲間たちに迎合し、何食わぬ顔で新たな居住地にふんぞり返っていました。隣の小さな石が、横目で長い間新入りを気に食わなげに見据えていましたが、遂に口を開きました。おいてめぇ、どっから来た。ここに居座るつもりなら、わかってんだろうな。払え。と、そう言ったのです。新入りは、つまらなそうな目を小石に向け、見下し、黙れと静かに制しました。小石は怯むことなく、払えねぇなら働けとすごみました。どっちも殺意を丸出しであります。周りで静観していた石たちも、じょじょに緊張を孕み始めました。そのときです、人間の大勢が、彼らを無遠慮に踏みしだきぞろぞろと移動したのです。いてぇ、いてぇ、と所々で僅かな呻きが上がります。石は固いのですが、中にはすり減る者もあり、そのとき、痛みを感じているようなのです。定かではありません。
さて、あのむっつり怒りん坊の小石が、この行脚の為に一人の老人の靴の中に入ってしまいました。老人は、お、と言って立ち止まり、しかしもう少し足場の良いところでやろうと思い直し、もう五歩程歩き人工の平らな石板の上に立つと、しゃがみこんで靴を脱ぎました。どてっと尻もちをついて、それから靴の中の小石を石板の上に放ると、摘まんで、あぁなんということでしょうか、この老人は普通の人間とは少しばかり違う趣向の持ち主でして、食べてしまったのです。
それから――。
23時間が経過しまして、小石は摩訶不思議阿鼻叫喚の地獄を彷徨い果てて、かの老人の肛門から娑婆に舞い戻りました。すっかり生気を失い朦朧としていた小石ですが、眩いばかりの陽の光に目を細め、うっすらと、ここが下水道の中でないらしいことに、僅かな混乱を覚えずにはいられないのでした。何故だ、人という奴は、排泄物を豪勢にも水を使って処理する生き物ではなかったか。いや、つまり、あの爺、そうか、野糞、しやがったな……。
都合よく雨が降るようなこともなく、小石は、そこにただじっとしていました。ちらと目をやると、爺が肛門を拭くのに使ったらしき哀れな葉っぱと、小石とは別の丸っこい滑らかな石が、淀んだ瞳でこちらの方を見ていました。沈黙が流れました。何時間も経過しました。直に、白い髭と黒い髭の混じった老人が彼らの傍で立ち止まり、ほぉ、と呟きましたことには、恐らく人糞が歩道の植え込みにあることに驚いたのでありましょう。小石と、哀れな滑らか石と葉っぱにもジロジロと目を遣りました。ほぉうとまた言って、老人は被ったくすみの酷い帽子を片手で直し、それから口の端を僅かに上げました。彼はそのすぐそばに座り込み、歩道に向けて体の前を向け、背負っていたリュックからノートとペンを取り出しました。そして、歌い始めました。人の糞がどうの、という最低な歌でありました。行き交う人々は遠くから一瞥して、近くを過ぎるときは全く目を逸らし、まるで関係したくない態度をとって歩きます。
小石は、どうにもできない無力感を覚えておりました。今まで色々あったけど、こんなにへこたれたのは初めてのことでした。
とにかく小石が考え縋ることには、物事は好転せねばならないという一種の宗教的観念でありました。人も石も何もかも、辛いと、こうなってしまうのですね。
蠅が、たかってきました。
蠅は、笑っていました。パラダイスだぜ、と仲間うちで盛り上がっておいでです。小石はというと、もうすっかり精神的にすり減っていましたから、だんまり、ぐったりでしたが、先ほどからの物事の好転という、全く根拠のない信念に多少は救われ、優しさにも似た落ち着きを、その周囲の者たちに感じさせるのでした。その様が蠅の気に障ったようです。生意気な奴め、苦しくなったら今度は悟りを開いたか。同情ではなく、あがめられたいんだな。ケッ。もっと不幸になりやがれ……。ニタニタして、蠅はブンブンと容赦なく小石の周りを、まるで極悪人のように飛び回るのでした。小石は、目を瞑り、静かに、静かに、嵐の過ぎ去るのを待つばかりです。