第6話 脆くか弱いこのセカイ④
◆5月26日(日)
窓の外は生憎の曇り空。窓に張り付いた水滴が、ついさっきまで降り注いでいた雨を想起させる。どこか心地の良い雨音には集中力を高めさせてくれる効果があるように常々思う。
勉強合宿は佳境で、最終日となる3日目を迎えていた。
昨日は本当に勉強一色で、起きている間ずっと文字を見るか書くかしていたような気がする。肝心のテキストも昼食に差し掛かるころには終わり、グループの中で一番遅くはあったけど午後からはしたかったこの前のテストの復習や次回以降の授業の予習に移ることができていた。
ということで僕は遠慮なく月夜さんに助力を申し出て、彼女も快く受け入れてくれていた。特に彼女のノートは芸術作品のごとき美しさで、THE・かしこい人のノートといった感じだった。中学の頃、似たようなものを見せてもらったことがあるけど、それに負けないくらいの美しさ。その時は教育実習生の人から見せてもらったのだが、初めてノートを見て感動したのを覚えている。
「これ、写してもいいかな?」
「どうぞ。…ふふっ、この学校で初めてお願いされた気がします」
この学園のレベルが高いのか、それとも彼女が近づき難いからなのか。彼女のその言葉には少しだけ、寂しさがこもっているような気がした。
ゆっくりで大丈夫です、と続ける彼女に頷きながらも、内心は荒れ狂っていた僕。
その時間が終わらないように、と願いながらも、いつまでも彼女のノートを借りているわけにはいかない、と相反する願いを内心で抱えつつ僕はそのノートを書き写した。早すぎず、遅すぎないスピードを意識していたこのひと時は、これまでのどの瞬間よりも集中していたのではないか。
勉強まみれで大変だったはずのその一日は、幸福に満ちたひと時一つでそうでもないと思えた。
そんなこんなで2日目という勉強地獄(というか楽園というか)を終えた僕たちは、ラストスパートとなる最終日に臨んでいる。といっても、3日目は消化作業のような日というのが大方の生徒の認識であり、一日目とくらべるとがやがやと室内がざわめいていた。
朝8時からわずか2時間という間だけの最後の勉強時間。ただ、先生も多少は目を瞑ってくれているようで、合宿所出発前の実質的な自由時間なのかもしれない。実際、昨日までAホール内に居なかった生徒もやってきていたり、逆にAホールに居たはずの生徒がどこか別の場所に行っているとわかるくらいにはホール内のメンバーが変わってるように見えた。
献一と播磨さんも息抜きと称して出て行ってしまっているし、合宿の中で最も緩い時間帯なのは間違いないだろう。
「失礼、ちょっといいか」
ふと、ここ最近特に聞き馴染みの深い人物の声が聞こえた。扉付近のテーブルの傍に居た生徒をどけるように、その人物はこちらにやってきた。
Bホールで勉強時間を過ごしていたはずのそいつがなぜかこっちに来ていることは、少し衝撃だった。案外、真面目過ぎる、ってわけでもないんだな。
「稗田、どうしたの」
「ああ伯川か。ちょうどよかった。実は月夜に用があってだな」
僕と月夜さんがペアになっていることは一昨日の夜に寝室での雑談の際に伝えていた。なので僕を見つけて月夜さんが居ると判断するのは間違ってないのだが。
「稗田君、今は自由時間ではないはずですが」
「そういうな月夜。用があるのは俺じゃない」
言伝を頼まれてな、と続ける稗田。
同じA組なだけあって、2人の関係性はそれなりに良好らしい。さすが学年の2トップといった感じだ。
ていうか、言伝?。誰だか知らないけど自分で伝えに来ればいいのに。
そう思ったけどあえて口は挟まなかった。
「どなたから、どのような内容でしょうか」
「C組の神崎という男子生徒を知っているか」
「いえ」
彼女は否定したが、僕は同じクラスなのでもちろん知っている。たしか自己紹介で小学校からバスケを続けている、と言っていた男子だ。なんでも、ミニバス時代は全国に行ったとか。進学を考えて神楽を選んだけど、実際は強豪校へのスカウト入学も提案されてたっていう噂もながれてたっけ。バスケが好きなやつ、という印象だ。
ちなみにめっちゃさわやかなイケメン。甘いマスクというやつである。入学式の時なんて女子生徒がみんなして寄ってたような。
言うまでもないが、僕より成績も上なのだからたまらない。運動もできて勉強もできる上にかっこいいなんて、天は二物どころか三物も与えている。ぶっちゃけ嫉妬してしまうのが自然だとすら思える。
と、まあ男の嫉妬は見苦しいし聞き苦しいのでここまでにしてだ。
なんで稗田が神崎の伝言を預かってるんだろ。
「この合宿所の中庭に、小さいが噴水がある。その前に来てほしい、とのことだ」
「理解できませんね。先ほども言った通り、今は自由時間ではありません。申し訳ありませんが、行けないとお伝えください」
「はあ…まったく。こうなると思っていた」
稗田がやれやれ、といった感じでごちる。
まあ、そうだよな。僕の知る稗田は、好き勝手にルールを無視する人間じゃない。ルールがなくても勝手に自分でルールを作って生活してるんじゃないかと思ってるくらいだし僕。
そしておそらく、月夜さんも根っこから真面目なのは間違いない。あの時は授業をさぼってしまったけど、どうもさぼったことになってるのは僕だけっぽかったし。何らかの理由で彼女自身はあの時間の授業を欠席することを容認されていたんだと思う。
そんな彼女が、勉強をする時間と仮にも定められた時間を別のことに使うことは良しとしないということを稗田は知っていたのだと思う。
間違いない。彼女と過ごした時間が短い僕ですら、同じような印象を覚えてしまっているのだから。
とはいえ、使いになっている稗田がかわいそうなので助け舟を出すことにした。
なんで稗田が伝言役なのかは後で聞かせてもらうとしよう。
「月夜さん、よかったら僕らもいったん休憩しない?」
「…わかりました。伯川くんがそういうなら…」
彼女は渋々、といった感じで手に持っていたペンを机の上に置いてふぅと息を吐いた。
僕はちょいちょい、と稗田に向かってこっちにこいとハンドサインを送る。それに気づいた稗田はこちらに寄ってきた。
「稗田、もしかしなくても神崎の用事ってさ…」
「ああ…やはり気づくか、お前は。多分当たっているぞ」
「告白、ね…」
自分で来てほしい旨を伝えに来ない時点で大方の予想はついていた。
きっともうスタンバってるんだろうな。
おおかた、稗田なら月夜さんとも話を付けられると確信しているのだろう。同学年の男子で最も月夜さんと対等だといえる男子は稗田だという共通認識が1年生の間にはある。それは学力の面でも、人間性の面でも同じことが言える。
ただまあもし、この認識でいるんなら、だ。告白なんて百パー成功しないって理解できるはずだとは思うんだけど。
月夜さん自身はどう認識しているか知らないけれど、彼女は紛れもなく学年の顔のような存在だ。
学年主席の女子生徒。どこか儚さを感じるお姫様然とした雰囲気。
さらに僕が言うのも気恥ずかしいけど、100人が見たら100人が美人だというくらいには容姿端麗ときた。彼女に告白して玉砕した、という噂が流れたこと自体少なくはなかった。僕が知る限り、同学年の女子でそんな噂が流れたのは彼女だけだし。
入学からまだ1か月ちょいしか経ってないのにね。
「こんな隔離施設みたいな場所でよくやるなあ」
「もともと今日決行すると決めていたらしい」
その勇気には感心する。
やっぱりこう、運動部所属のやつらはハートの大きさが違うなと思う。
告白自体かなり勇気がいると思うけど、わざわざ勉強合宿の場を選ぶなんて筋金入りの鋼鉄でできた心臓をお持ちなのだろう。
とはいえ、勇気を出そうとしている人の邪魔をするのは趣味じゃない。
たとえその結末が予想できるものだとしても、僕がなんやかんやするのは筋違いだろう。
ただ、告白のシチュエーション設定を伝言でやろうとすんなよな。
そうはやっぱり思ってしまう。
「でもなんで稗田が伝言を?なんか神崎に弱みでも握られてるの?」
「そんなわけがなかろう。善意だ善意。誰であろうとあれだけ必死で頼まれれば頷くしかあるまい」
まともな良識ある人間であればな、と稗田が続ける。
どんだけ必死に頼んだんだ神崎…。
月夜さんが頷くはずがないと分かっていて頼みを引き受けるあたり、苦労人だなと思う。
やっぱり人間出来すぎ、稗田。
「無論無理にとは言わないぞ。俺の顔を立てようなどとも思う必要もない。神崎からは月夜を連れてきてくれとは言われておらんし。……ただ、伝えはしたからな」
月夜さんの方に向きなおってから稗田が言った。
てか絶対嘘だろ、連れてきてくれって言われてないって。
最後ちょっと間があったし。
ただ神崎には再三、断られるだろう、と告げているんだろう。
「邪魔したな月夜、伯川」
そう言って稗田はホールを去っていった。
……なんだろう、この気まずい感じは。
とりあえず、何か喋ろうかを思案していた時だった。
最初に口を開いたのは彼女の方だった。
「はあ…これじゃ、まるで私が悪者じゃないですか」
「いや、稗田はそんな風には毛ほども思ってないはずだよ。月夜さんが応じるとは思ってないってのが言葉の節々から感じられたし」
言った後で軽く後悔の念がよぎる。
あれ、あまりフォローになってなくないか…?
困った。ちょっと焦ってる。
顔は平静を装いながら、次の言葉をウンウン唸るように探す僕。もちろん実際に声には出してない。はずだ。
「まだ最中なのにごめんなさい、伯川君。私、行ってこようと思います」
「え?い、いや、それは全然かまわないけど…」
思うところがあったのか、告白の場(仮)に自ら赴くという彼女。
この合宿の期間。椅子を引く所作でさえいちいち美しさを感じさせる彼女だが、この時ばかりは少々焦り気味に見えた。
それはまるで、こういった状況に慣れていないかの如く。
そのちょっとした違和感の正体にたどり着けない。
だけど気づいた時にはもう僕は、彼女の背を追っていた。
中庭はそう遠くなかった。
中庭への入口となる扉はいわゆる透明なガラス製ではなく、頑丈な上に向こう側が見えないもの。つまり、開けないと中が見えない。
稗田が去ってからすぐに向かった彼女は既に神崎と相対しているだろう。
扉をそっと開けた時だった。
「ごめんなさい。あなたのこと知りませんし、今は誰とも―――」
神崎の後ろ姿と、こちらを向いている月夜さんと目が合ってしまった。
目を見開いた表情から察するに、僕が来ると思っていなかったのだろう。
彼女は驚いているようだった。
けど、絶妙な距離のせいで声がよく聞こえない。
「そ、そりゃそうだよね。ごめん、いきなりこんなとこに呼び出して」
「いえ。それでは私、戻らないといけませんので」
どうやら、告白自体はもう終わっていたようだ。
彼女は振り切るようにこちらへ向かおうとしていた。
もしかしなくても彼女は断っている、のか。
そのことにやっぱりな、と思う自分ともう1つ、別の感情を抱く自分が居た。
「ちょっと待ってほしい。一つだけ、聞かせてほしいことがあるんだ」
「なんでしょうか?」
彼女は神崎の背を通り過ぎてすぐ、後ろに振り向いた。
神崎がこちらを向くことはなかった。
今この場に居る三人が全員同じ方向を向いているのは、少し奇妙な図に思えた。
「付き合ってる人がいるっていうのは本当?」
相変わらずはっきりとした言葉は聞こえない。
ただ、声を発していることはなんとなくわかった。
男の声色が音として伝わった、そんな感じ。
「根も葉もない噂です。ただ――――」
「ごめんなさい、さっきは嘘をつきました。…気になっている人ならいます」
二人のやり取りは終わったのか、月夜さんは再びこちらへ向きなおすと歩みを進める。
どうやら杞憂に終わったらしい。
これまでに流れた彼女に関する噂の数からして、こういう状況には慣れっこだと思っていた。
そう、数だけなら10は下らない。およそ2か月でその数なのだ。
事実だとすれば単純に週に2、3回は告白される日々をおくっていたことになる。
だが、さっきの彼女の様子はまたかと呆れるようなものではなかった。
むしろその逆。どこか緊張しているような――――――。
「伯川くん」
「はぃっ!?」
思わず声をあげてしまった僕。
気づけば彼女はすぐそばまで戻ってきていた。そして当然、神崎もとっくにこちらを向いている。
彼に対してはこれまで以上にきまずくなっちゃうな、とは思いつつ。
僕は彼女に向き直る。
彼女は疑問の一つも僕にぶつけずに、微笑みながら言い放った。
「戻りましょうか」
それは、これまでに見たことのない優しい素顔だったように思う。
ホールに戻ったころにはもう、献一たちも戻ってきているのだった。
◆5月28日(火)
勉強合宿はその後、特に何が起こるでもなく無事に終了した。
昨日はその振替休日ということで丸一日休みだったわけで、僕は家でぐーたらするだけの時間を過ごしてしまった。
全く外に出なかったので人と会うどころか、話すことさえなかった。
我ながら灰色の学生生活である。
でも、今日はいつも通り登校しなくちゃいけない。
そのことに拒否感を抱く自分がいるが、月曜日を迎えるのを嫌がる人の心理と同じである。
他意はない。
多分おそらくきっと、間違いない。
「あれ、なんかちょっと雰囲気かわった…?」
通学路の途中で、乙伎神社に立ち寄ると言葉ではうまく言い表せない違いを感じた。
いつもなら帰り道で立ち寄るが、合宿で通えなかった分今日は朝の時間で寄ることにしたのだ。
この雰囲気というか、形容し難い何かの違和感を感じるという事態は僕にとってはそう珍しいことじゃない。
それこそ、物心ついたときから慣れ親しんだものだ。
いや、親しんではないかもしれないな。
「まあ、よくあることだしな……」
記憶と現在が違っていることなんて、無数にある。
今は更新され続けるのだから当然だ。
神社に感じた違和感も、鳥居が少し汚れたとか、ゴミが拾われているとか、そんな些細な現在の更新によるものだろう。
だから僕は、よくあることだと深く考えずにその場を去るのだった。
特に遅刻もせず、普通に学園に着いた僕は教室で時間割を確認していた。
途中、神崎が教室に入ってくる際にばっちり目が合ったものの、特に気にする様子はなく彼はいつも通りクラスメイトと駄弁り始めるのだった。
やっぱり、ハートが大きいやつだなと思う。
想いを伝える、というその行為には素直に尊敬するほかない。
稗田頼りだったことだけ、ちょっとアレではあるけど。
と、彼を見てあることを思い出していた折。
「はよーっす」
続いて入ってきた献一の挨拶に、僕もおはようと返す。
ちなみに時間は結構ギリギリ。もうあと5分も遅れていれば遅刻だった時間だ。
「いやぁ、土日使った合宿のあとの休みが1日だけとかあり得ないわー」
「同感だけど、ほぼ自由時間だったしな。あの合宿」
『勉強』にしか使うことのできない自由時間、ではあったけど。
つらいっちゃつらかったけど、基本的に課題をクリアできるかできないかは自己責任だったわけで、それに費やす時間の使い方が生徒たちの裁量にゆだねられていたことは、結構やりやすかったように思う。
僕としては月夜さんのおかげで、かなり効率の良い進め方を教わることができたわけだし。
「ただ、残念だったよな」
「うん?なにが?」
はて、合宿で何かあったんだろうか。
僕には思い当たることなんてないけど……。
あ、もしかして神崎の告白の件もう広まって―――――。
「月夜さん、合宿病欠で不参加だったじゃん」
「――――――――は?」
こいつの言葉が上手く咀嚼できない。
何の気なしに放たれた言葉の意味が、よく分からない。
悪ふざけで言っているようにはとても見えなかった。
「病欠?月夜さんが?」
「あれ?お前が一番残念そうにしてたじゃん、合宿の時」
悲しすぎて記憶消しちゃったかー、とちゃかす献一。
普段ならきっと、怒りの言葉を一つや二つぶつけるのだけど、とてもそんな気分じゃなかった。
おかしい。
なんで彼女が合宿に居なかったことになっているんだ?
「いやいやいや、居たって月夜さん。彼女のおかげで課題終わらせることができたようなもんなんだから」
「……本当に大丈夫か、露音?」
ガチ目のトーンに変わる献一に、思わずたじろいでしまう。
間違いなく、こいつは本気で言っている。
本気で、月夜さんが合宿に参加していなかったと認識している。
「具合悪いなら無理すんなよ。なんなら、先生には言っとくから保健室いってこい」
「―――あ、ああ。悪いけど、そうさせてもらおう、かな…」
あまりにも、不気味。
僕を見る献一の表情に、嘘はなく純粋に心配してくれているであろうことが見て取れた。
夢でも見ているのだろうか。
「一体、何が起きてるんだ……?」
教室を出た僕は、どこもおかしくないはずの身体で保健室へ向かうのだった。
次回、第7話 おとぎ話①に続きます。
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