第1話 僕の日々
◆5月20日(月)◆
覚悟はしていたつもりだった。
きっと駄目だろう、と至らない自分への悔しさを噛み締めて。
同時にほんのひと握りの希望も持っていた。
あれだけ頑張ったんだから、と自分しか知らない過程に思いを馳せて。
だからこそ僕、伯川露音は戦慄していた。
1人、クラスメイトたちの居なくなった教室の中で、夕陽に照らされながら。
「きっついな…」
手には採点済みの答案用紙が握られている。
今回の定期テストは僕ら1年生にとって、一番最初の実力調査だった。そして少なくとも、僕にとっては気合いを入れる必要のあったテストだったのだ。
空回りしたというか、実力不足というか、テストの結果は散々なもので、
日頃の勉強習慣を捨て去りたいと思うくらいだった。
「やっぱり無理なのかなぁ」
神楽学園。それが現在、僕が通っている学校の名だ。
この町きっての名門校で、町内一どころか県内一だと僕は勝手に思っている。
はっきり言って僕の実力じゃこの学園で過ごすことは無理だ。不可能といってもいい。入学してからこの2ヶ月間、毎日のように勉強し続けてきたから分かる。
なんとか授業について行くのがやっとで、他のクラスメイトとは違って置いてけぼりをくらっていると勝手に感じてしまっているのが現状だ。
そんな僕がテスト前だけ頑張るだとか、一夜漬けだとか、
そういうデキる人間のやることをしたところで上手くいくわけがないのだ。だから頑張った。頑張ったつもりだった。
現実は非情だ。これで地獄の補習は確定だし、勉強まみれで付き合う友達も少ない。なんでこの学校に来たんだと心から思う。
合格決まったときはあんなに嬉しかったのに。
「そういえば、あと4日も経てば勉強合宿だっけ」
テスト期間に入る前のHRでのお知らせが第一報。
そして今日の帰りのHRでも追って説明があった筈だ。
普段ならいざ知らず、今日のその時間の僕は答案に魂を吸われていたので、定かではないのだが。
テストの直後に勉強合宿を行い、その後に再び定期テストが待ち構えているという、
悲鳴を上げたくなるようなシーズン。相変わらず笑えない。
と、1人黄昏ていると教室のドアが静かに開けられた。
「あれ、伯川くん1人?」
入ってきたのはこのクラスの委員長、霍澤詩愛さんだった。
僕が軽く頷くと、スタスタと彼女は自分の荷物を置いてある机の傍に向かっていく。
再び窓の向こうの夕陽に何を思うわけでもなく目をやると、隣に霍澤さんが来ていた。
「もうすぐ合宿だけど、ちゃんと準備してる?」
「…霍澤さんは楽しみなの?勉強合宿」
「合宿は楽しみだけど、勉強はぜんぜん」
首を横に振りながら、彼女は言う。
この学校、奇妙なことに入学時のクラス分けの時から委員長が決められていたのだ。
なんでも、噂では入試成績トップの人たちが選ばれたとか。
噂を信じるなら、彼女は今回のテストもきっと、良い結果だっただろう。思い返すと、授業中の挙手率も高いし。
って、何気持ち悪いこと思い返してるんだ僕は。
目の前、隣に本人がいるのに。
噂では成績で委員長に選ばれたって言われているけど、個人的には容姿だって考慮してるだろ、と突っ込みたくなる。A組の月夜さんとか、B組の鬼柳くんとか。このクラス、C組だって同じだ。面と向かっては言えないが、霍澤さんはすごく綺麗な人だ。
ふと、前触れなく彼女が呟いた。
「なんだか伯川くん、すごく辛そう」
実際辛いよ、と言いかけて口を噤む。
会って2ヶ月の、それも女の子に弱音なんて吐けない。
たった2ヶ月、されど2ヶ月だ。彼女の優しさは、同じクラスである以上人との付き合いが悪い僕だって知っている。
まだ話したこともなかったクラスメイトのために、ノートをとっておいてあげたり、孤立しがちな僕にも話しかけてくれる。
彼女が人気になるのも、当然の話というものだ。
「全然大丈夫。辛くないよ」
「本当?私でよかったら話きくよ?」
「ありがとう。でも本当に大丈夫なんだ」
「そっか」と彼女は少しだけ残念そうに言葉を返す。
そんな彼女を見たからなのか。それとも、僕自身思っていた以上に心へのダメージが大きかったからなのか。
答えはわからないけれど、口が勝手に動いてしまっていた。
「けどさ」
「え?」
「本当に駄目になりそうだったら、その時はお願いしてもいいかな、霍澤さん」
一時の間、教室内を静寂が包んでいた。
僕は恥ずかしくなってしまっていて、逆に彼女の目を見つめたまま、目が離せなくなっていた。
鳩が豆鉄砲を食らったような顔をしていた彼女は、その事に気づいたのか一瞬だけ俯くと、
直ぐに僕の方を向いて言い放ったのだった。
「もちろん!」
今日一番の元気な声。
それを聞いて、なんだか少しだけ気分が楽になった僕は、ようやく教室を離れることの出来そうな気分になるのだった。
「実はちょっと先生から用事を任されてるんだ」
「戸締りは私がしておくから、じゃあね伯川くん」
そう言って、霍澤さんは自分の席に着くといそいそと何かを書き始めたので、邪魔しないように
僕は挨拶をしてから教室を出ていた。
いつもなら図書室で復習&予習を繰り返すのだが、今日は到底そんな気分にはなれそうになかった。
急ぎ足で校門を飛び出して、帰り道を進みながら気づいた。
「そういえば、こんな時間に帰るのは久しぶりだな」
夕方というよりは夜を迎えてから帰るような毎日だったため、新鮮な感覚だった。
学校から少し歩いて、自宅まであと半分といったところで差し掛かったのは、ある神社だった。
いつもは暗くて不気味なので、早歩きか走ってここは通り過ぎるのだけど、まだ明るい今はマシな雰囲気だった。
神社の名前は乙伎神社。参拝者どころか神主も居ない。もちろん巫女さんも。壊すに壊せない神社といったかんじで、
だから僕は夜のこの神社の前を通るのが嫌なのだ。明かり一つ社内にはないから。
「本当、人の気配ないなぁここ」
じっくり見てみると、鳥居はそれなりに大きい。ほんの20年前までは観光、
参拝などで人がたくさん居たとも親から聞いたことがあるし、立派な神社だったのだろう。
今じゃ、マニアの間とか近所の住民しか近寄らないスポットと化している。
社内に入ると整備がされているようで、綺麗めの印象が強かった。賽銭箱もあるし、参拝できないことはなさそう。
「これも何かの縁だし」
僕は財布から5円玉を取り出すと、それを賽銭箱に投げて参拝の動作を行った。
無論、これからの学校生活を過ごし抜くために。赤点を回避するために。
神頼みくらい良いだろう。少なくとも、同じクラスの女の子に頼むよりは情けなくないはずだ。
…どっちも同じか。
用が済んだので、さっさと退散しようとしたその時だった。
ポキリと、音が鳴ったのは。僕がたてた音ではない。恐らくは枝を踏んだ音だろうけど、人は1人もいないし、
気配も感じない。誰かに見られている、という感覚もない。
怖くなってきた僕は鳥居をくぐると、自宅までの残りの道のりを走っていくのだった。
家に着くと、いつもの温もりが僕を迎えてくれた。
神楽学園へ通うことになってから僕は、両親の元を離れて、
歩いて通うことの出来るおばあちゃんの家で暮らすようになっていた。
そのため、今はこの家で婆ちゃんと二人暮らし。といっても、婆ちゃんはすこぶる元気で、
数年前に亡くなった爺ちゃんとはすごく対照的だ。
「おかえり、つゆちゃん」
「ただいま婆ちゃん」
僕が勉強に集中できているのはこの家で暮らしているおかげとも言える。ここには、娯楽への誘惑が限りなく少ないからだ。
ゲームや漫画は両親の元に置いてあるし、この家の部屋には少しばかりの小説とテレビだけしか置いていない。
パソコンも必要な時以外起動しないし、何よりこれは居間に置いてあるため、
婆ちゃんが席を外している時しか使わないようにしている。
「試験、どうだったの?」
座布団の上に腰を下ろした僕は、目の前の夕食を見下ろしながら、黙って首を横に振った。
悔しさが込み上げてきて、情けなくも顔を上げることができなかった。
「そう…。ほら、夕飯冷えちゃうから、早くお食べ」
「うん…」
言葉に甘えるように、夢中でご飯を口に運ぶ。
今日一番の幸せな時間だった。テレビの音も耳を流れていく。
今この瞬間のこの部屋は、忘れちゃいけないことでも、忘れられないことでも、忘れさせてくれるような空間と化していた。
「ご馳走様でした」
婆ちゃんは僕のその言葉を聞くと、ただ静かに微笑みながら頷いていた。
僕が食器を台所に持っていこうとした時だった。婆ちゃんがそんな僕を手で制止して、黙って食器を運んでいく。
「ありがとう、婆ちゃん」
後ろ姿を見送りながら、僕は一人届くか届かないか分からないような声で、呟くのだった。
◆5月21日(火)◆
翌日、朝のHRで勉強合宿の班構成が発表された。
なんでも、1年生全体での合宿となるため、せっかくだから、とクラスの垣根を超えた構成にしているらしく、かくいう僕も例外ではなかった。
「Aクラス、月夜望心……?」
真っ先に目に入ったのが、その名前だった。
月夜望心。Aクラスの委員長にして、その称号が指す通り、入試成績は高い。
それどころか、1年生首席合格の人物だ。
班はAからFまでのクラスを前半と後半で分けた上で、各クラス2人ずつを他クラスと合わせて一つの班とするため、合計で6人となる。
と、そこで担任から一言情報が付け加えられた。
「委員長が居る班には、今回の中間試験を経て、決して良いとは言えない成績の生徒を組んである。これを機に、できるやつを真似るように」
なるほど。だから僕がいる班に。
……学年トップの人と組まされるってことは、どれだけ下なんだ僕の成績。
なんか、見つめたくない現実を無理やり見つめさせられた気分だ。
班構成は、A組からは月夜望心と
B組からは播磨・・・?知らない人だ。多分僕と同じ、成績下位の人だろう。
C組からは僕と中川献一が選ばれていた。
「良かった。ひとまずは安心だ」
安堵したのは、中川献一が一緒だったからだ。
このクラスで僕が、仲が良いといえる唯一の男子生徒だ。
こいつとは中学の時からの付き合いだ。
同じクラスになったことは中学1年の頃の一度だけだったけど、進級して以降も付き合い自体は途切れることなく続いていた。
「安心どころか最高じゃないか?」
「うわっ!」
ちなみに隣の席であるため、こういう風に急に声をかけてくることが多い。
献一の成績は学年内でもなかなかのもので、僕とは違い、中学時代には貼りだされた試験結果で1位の生徒として名前を見ることも少なくはなかった。
なんというか、世間的に見ても「なんでもこなせる」の代名詞みたいなやつだ。
実際、今回のテストは多分そんなに勉強してないんだろうし。
「だって、あの月夜と一緒だぞ?」
「割と僕はそれでショックを受けているんだけど」
彼女と組まされる=C組の僕の成績が最下位近くであることの証明だ。
最下位近くじゃなくて、最下位かもしれない。
「昨日も言ったけどあまり気にするもんじゃないぞ。今回は一番最初のテストだし」
「一番最初だからこそ、だろ」
こっちは出鼻をくじかれた感じでいっぱいだ。良いスタートを切れなかった、そんな感じが。
と言っても、スタート地点が平等じゃなかったなんて思ってはいない。
実際、僕が日々勉強を続けていたのは少しでも足並みを揃えるためだったんだから。
ここを否定したら、自分で自分の努力を否定することと同じになってしまう。
「月夜も同じこと言うと思うけどな」
友人のそんな言葉を受けて、そうかもしれないな、と軽く返す。
確かに、僕の学校生活はまだ始まったばかりなんだ。
テストだって、これからも毎日勉強を続けていけば難なく乗り越えられるようになれるかもしれない。
「月夜望心、か…」
授業の始まりを告げる予鈴が鳴る中、僕はひとり小さく呟くのだった。
昼休み。婆ちゃん特製の弁当を食べたあと、教室を出て僕が赴いたのは図書室だった。というのも、
今日の授業をちゃんとまとめきれてなかったのだ。
まだ昼食をとっているクラスメイトもいるし、何より今日ひとりでノートまとめをするならもってこい場所なのが図書室だったりする。
人が少ないからテーブルはまず確実に空いているし、図書室で騒がしくするような輩はこの学校にはいないからだ。
「なんで水曜だけ文系理系どっちもあるのか…」
毎週水曜は決まって図書室に来ている気がする。僕の頭は文系理系どっちも器用にこなせる程ハイブリッドではないのだ。
課題も多いし、学校でできる分はやっておきたい。
……まず終わらないけど。
愚痴をこぼすだけこぼしたなら手を動かす。昔っから婆ちゃんが言い聞かせてくれたことだ。
と、課題を進めている最中だった。何やら図書室がざわざわと人の声に満たされてきたのだ。
集中出来そうになかったので、その原因であろう受付の方を遠目で伺う。
「何だ何だ……えっ!?」
そこに居たのは件の女子生徒、月夜望心だった。
図書室で姿を見たのは初めてだった。
だからこそ、今こうして図書室内がざわついていたのだろう。
驚いている僕とは裏腹に、彼女はとても涼しい顔をしていた。周りに目もくれず、その場で一番注目を浴びているのにも関わらず、まるで実はそこに居ないんじゃないか。
そんな、矛盾を孕んだ思いを抱くほどに。
でもそれはきっと、間違っていない。
僕にとっては綺羅星のような彼女でも、彼女からすれば僕は有象無象の中の一つ。くれる目なんてないのだ。
だとすればきっと。
彼女にとってこの図書室は、およそ予想だにしなかった雑音まみれの空間だろう。
見かけただけでざわつき、ヒソヒソと会話が成される。そんな、ノイズ混じりの偽りの静寂。
彼女からすれば、耳を塞ぐのも馬鹿らしくなるほど有り触れたものなのかもしれない。
この学校でも起こるものなんだな―――
そんなことを僕は思っていた。が。
そんな喧騒もいつの間にか去り、いつの間にやら2時間も時は過ぎていた。
時計の針は14時半を指し示している。
自分の集中力の高さに惚れ惚れしたいところだが、事態のどうしようもなさに気づく方が早かった。
「やば━━━━━━━」
昼休み、とっくに終わってるじゃないか!!
そんなことにも気づかないほど集中してたのか。
ていうか誰か声掛けてくれても良くないか、とか。
そんな思いにふけていたときだった。
綺羅星と、ふいに目が合った。
「あ…」
なんで居るのか、とか。
なんでこっちを見てたのか、とか。
凝視するのはまずくないか、とか。
色んな思いが頭をよぎるのに、僕は目を離せなかった。
彼女と僕の距離は、遠くなかったのだ。
まさに、テーブル1つ越し。
向かい合って、座っていたことに今更僕は気づいたというのだ。
「集中、してましたね」
正面の微笑みから繰り出された音は、どこまでも透き通っていた。
初めてちゃんと、声を聞いたかもしれない。
「……あの、授業は、」
何だこの状況。なんで彼女が?
何で彼女も勉強をここで?
まず何から聞けば良いのやら。
戸惑いを隠せないまま、あたふたする僕に彼女は言った。
「良かった。やっと気づいてくれましたか」
「えっと、どういう…」
訳の分からない状況に、訳の分からない会話をしてしまう。
なんとなく、彼女は全部わかっているような…
「ほんとは、声をかけるつもりだったんですよ?授業始まりますよって。でも、あんなに集中してたら、声かけられなくて。なんだか、目が離せなかったんです」
「初めてです。授業、サボったの」
言葉の意味は理解出来た。
なんとなくとも。要するに僕が悪い。
他に司書さんを除いて誰もいない図書室の中で。
彼女は、何故か分からないけど、僕の目の前でずっと勉強していたのだ。
「ごご、ごめんなさい。今になって気づいた、というか。僕の集中力もたまには役に立つんだなというか。ていうかあの、初対面、ですよね…?」
「はい、そうですね。はじめまして、1年A組の月夜望心です。よろしくお願いしますね」
「ど、どうも。1年C組の伯川露音と申します。よろしくお願いいたします」
よく分からないが始まる自己紹介。
でも、初対面なら当然のことですよね。
柔らかな笑みを崩さない彼女を前に、少しずつ緊張は溶けていった。
「ちょっと、整理させて欲しいんですけど。もう、5時限目終わってますよね?」
「はい、もう6限目に入っちゃってます。その様子…やっぱり、ちゃんと声をかけておくべきでしたね。ごめんなさい、邪魔しちゃうかと思って」
「あ、いや!えっと…そりゃあ、授業をサボるなんて僕的には絶対にやっちゃいけないことではありますけど、月夜さんが気にすることじゃないですよ。悪いのは時間のケジメもつけられない自分です。こんなこと、滅多にないのに…」
そう、滅多にないことだ。
昼休み終わりのチャイムにすら気づかず、そのまま図書室に滞留なんてどうかしてる。
勉強はそれなりに進んだけど、どれもこれも復習の範疇だ。予習にまででは回っていない。
「それでもやっぱり、ごめんなさい。声をかけないと、貴方が授業をサボっちゃうって分かっていたような気がするんです。お詫び、じゃないですけど、私も付き合っちゃいました」
果たしてこの学園の何人が、現在の月夜望心を見たことがあるのだろうか。
僕は自分のことで手一杯で、あまり他の生徒のことには詳しくないけれど、今目の前にある光景だけは、そうそう見れるものではないことくらい理解できていた。
プライスレス。
美少女の笑顔に価値は付けられない。
そういうことであろう。
「と、とにかく、今からでも授業に戻った方が…成績のそぐわない僕ならともかく、月夜さんは━━━━━━」
「大丈夫です。今日の範囲なら完璧なのです」
彼女は何ら気にする素振りを見せずに、悠然と言い放った。
少し照れくさそうに、サボっちゃうのは少しやりすぎな気もしますが、と付け加える。
マジか。予習も完璧、と。
学年一の才女は、授業の必要なんてないんじゃないのか、と思ってしまうくらいに自信満々なのがみてとれた。
「それより、伯川君の方が気になります。たしか、一緒の班でしたよね?合宿」
「えと、はい、そうですね」
ちょっとだけ光栄に思ってしまう。
今なら献一の言っていたことも分からんでもない。
「じゃあきっと、私たちはペアになるでしょう」
「それってどういう…」
「話はいずれ。きっと、明日にでも分かります。だから、」
今は各々の勉強を進めましょう、と彼女が言うものだから。
僕は何も返せなくなってしまった。
そこからはただ、ひたすらに時計の針だけが音を伝えていた。
さっきほどの集中力はないにしろ、頭の回転はいつもより幾分マシで、家で課題に費やす時間を大幅カットできそうだった。
うん。これなら、今日出れなかった授業の部分にも手が回りそうだ。
きっと、いつものように授業に出ていても、追うのが精一杯で、何一つ頭に入らない、課題のことしか頭にない、負のスパイラルに巻き込まれていただろう。
久しぶりに、自分のペースで勉強ができた。
ふいに、目の前の彼女にお礼を言いたくなった。
「ありがとう、月夜さん。君のおかげで、凄く良い時間が過ごせたよ」
彼女は謙遜するでもなく、ただ無言のまま微笑むだけだったが、それで僕は十分だった。
彼女が僕を放っておいてくれたから、この時間が生まれたのだ。
全くもって不思議だが、滅多に訪れないあの集中力に感謝の念は尽きなかった。
「それじゃあ、失礼します」
僕と彼女はお互いにほとんど同じタイミングで席を立ったものの、挨拶程度の会話しか起きず、普通に別々の帰路についていた。
まあ、帰り道真逆だし。
そもそも、初対面だし。
これで精一杯。
僕からすればこんなのおとぎ話みたいなもの。
だってそうでしょ?
住む世界が違う人と、不具合が生じたとしか思えない出会いを果たしてしまったのだから。
「合宿、楽しみ…だな」
ふと、呟いた表情は果たしてどんなものか。
夕陽が沈みきるまで、胸の鼓動が鳴り止むことはなかった。
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