夜明け前(前編)
なんとも胡散臭い立ち回りを見せる疵面の剣士から装備を返却され、いつもの騎士服姿を取り戻したアンナ。
愛用の二振りの内、片方が無いのは少しばかり落ち着かないが、それでもさっきまでの下着姿よりマシ、程度の格好と比べれば雲泥の差だ。
装備が整った事で更に手早く、あっさりと襲い来る連中を蹴散らす事が可能になった訳だが……肝心の脱出に関しては難航中であると言わざるを得ない。
代り映えのしない石造りの通路を進んだ先にも、やはり同じ光景が広がっている事に少女の顔がうんざりとしたものになる。
「……入り組み過ぎ。迷宮か」
定期的に湧いて出て来ては襲い掛かって来る人攫い共が床に転がっているので、来た道すら分からなくなる、という事は流石に無いが……いい加減に何かしら別の目印になるものが欲しい処だ。
行き止まりにすらぶつからないこの状況だと、出口に近づいているのか、遠ざかっているのかすら分からない。正直言って気が滅入る。
次に来た奴は多少手間でも丁寧に無力化して道案内させようかと、本気で考えてしまう。
望む道へと素直に案内するとも思えない。寧ろ道案内のフリをして罠に掛けて来る可能性の方が高そうなのだが……それを加味しても一人で闇雲に進むよりはマシな気がしてきた。
が、タイミングが良いというべきかなんというか。
「お、あれって扉? しかもちょっと立派ね」
薄暗い道を進んだ先、薄っすらと見えてきたものを見てアンナの表情が明るくなった。
ようやっと見飽きた単調な道に変化が起きた事に、足取りまで軽くして扉の前に歩み寄る。
手を伸ばし、重厚な金属製の表面に触れようとした瞬間――背を向けた方角から膨れ上がった爆発的な魔力に気付いて動きを止めた。
距離的には少々離れているが、こんな強力な攻性魔力を勘違いする筈も無い。
「……あの馬鹿、案の定首を突っ込んできたか」
口調こそ呆れが滲んでいたが、アンナは何処となく機嫌の良くなった様子で背後を振り向く。
間違いない、魔力の主は彼女の友人である青年――正確にはその武装たる魔鎧のものだ。
後方から魔力を感知したということは、単純に考えれば正しい脱出への方向は逆だったという事だろう。
「うーん……露骨に立派な大扉だし、気にはなるけど……」
背を向けた扉を横目に、少しだけ悩む――が、結論は直ぐにでた。
先ずは魔力の発生した方向へと向かい、青年と合流する。
そうと決めたアンナは、早速魔力の発生源の方向へと駆けだす。
幸い、彼女の方は殆ど消耗してない。精々があのスカシ野郎に気絶させられたときに打たれた胴部分がちょっと打ち身になった程度だ。
一方で此処まで魔力が届くと言う事は、青年は中々派手に暴れているという事。
状況によっては合流してそのまま手を貸してやろう。互いに余力がある様なら改めて此処に戻ってきてこの扉の向こうを調査――もっといえばこの拠点を制圧してしまってもよい。
(……尤も、あの馬鹿が本気で殴り込みに来てるなら、もう大体の敵は片付いてそうだけど)
駄犬の飼い主であるレティシア達程では無いが、伊達にアンナも付き合いが長い訳では無い。
青年の着火点やスイッチが入った時の行動は大雑把にではあるが、想像出来た。
おそらく、彼の侵入経路は相当に血生臭い事になっているだろう。敵の壊滅・殲滅が求められる仕事ではアテになる男だが、制圧となると途端に殺り過ぎ注意になる。
調書や重要な証言の為に必要な者まで真っ二つにしてない事を祈るのみだ。何せ、この場所に攫われた当人であるアンナも報告書や始末書の類はガッツリ書く事が確定しているので。
とはいえ正直な処、何と戦っているのかという疑問はある。
人攫い共の戦力を見る限りでは、青年が本腰を入れて戦う相手などあの剣士――ジャックくらいしか思い浮かばないのだが……。
多分、あの男はもうこの拠点には居ないだろう。先刻の僅かなやり取りから、アンナはそう確信していた。
駆け足のまま、先程自分が選んだ分かれ道を再び曲がろうとして、角の奥から聞こえてきた足音に舌打ちしそうになる。
(ったく、もう新手が来たって? しつこいっての!)
止まる事無く飛び出し、取り戻した愛剣の片割れを振るう。
出会い頭に繰り出したショートソードの一撃は、角から走って来た相手の肩を打つ軌道で銀光を閃かせ――その途中に差し込まれた剣によって受け止められた。
(――! コイツ、結構やる……!)
石牢を出てからというもの、何れも手加減した一撃で終わる相手ばかりであったが、此処に来て意外な実力者とカチあった。
多少驚きはしたが、それで怯むアンナでは無い。咄嗟に剣の柄を両手で握って鍔迫り合いに持ち込もうとして――。
「待った待った! 副長、自分ッスよ!」
薄暗い通路の中、慌てた様子で制止の声を上げた相手が、自分の部下である事に気が付いた。
「……なんでアンタまで此処にいるのトニー?」
「なんでって、そりゃ当然、今回の作戦に参加したからッスけど……って、なんで鍔競り合い続けるッスか!? あ、ちょっ、ジリジリ押し込んでくるのやめて!?」
「私の記憶が確かなら、アンタ重症で碌に動けない筈だった思うんだけど」
「……………………あっ」
あっ、じゃねぇ。
思い出した様に小さく声を上げ、顔を引きつらせるトニーを見て、そのままその額に頭突きを叩き込みたくなる。流石に怪我人相手なので自重したが。
「いい加減、あんな劇物擬きを飲むの止めろって言ったでしょうが」
「あ、いや……今回はやむにやまれぬと言うか、流石に部隊総動員の状況でベッドの上はちょっと心情的に無理だったというか……」
「その辺りの釈明は後で聞くわ。シャマ辺りも誘って一緒に」
「オッフ……」
鍔迫り合いの距離で半眼の上司に後の説教を約束され、白目を剥くトニー。
本人の手前、きっちりと釘を刺しも兼ねた対応をしたが……実はアンナ自身はそこまで怒っている訳でも無い。
というか、元はといえば負けてとっ捕まった自分の責任である、と認識していたので怒るに怒れないというのが正直な処か。
無茶をした部下への怒りや己の不甲斐無さ、諸々によって湧き上がって来た苦い思いを吐き出す様に。
少女は噛み合わせていた剣を離して、軽く溜息を一つ漏らした。
「――取り敢えず、外はどういう状況になってるのか説明して。手短にね」
説明自体はアンナの要望通り、極短いもので終った。
彼女が攫われた事が切欠となり、日没と同時に人攫い連中――その背後にある犯罪組織の施設・拠点へと一斉強襲作戦が開始。
本来は時間や《大豊穣祭》に割く人員などの兼ね合い、王城内の内通者など諸々の問題もあったのだが、大体駄犬のせいで解決。問題無く作戦決行と相成った。
「というか、戦力過剰過ぎるわ。《魔王》陛下まで顎で使うとか自重を忘れすぎでしょアイツ」
「そんだけ旦那もガチだったって事ッスよ。実際、副長が此処で暴れ出すときまで滅茶苦茶不機嫌でしたからね」
言動はそこまで大きく変わらないのだが、態度はフラットのまま敵対者への殺意だけが高くて肝が冷えたと、トニーが半笑いで続ける。
頭痛を感じたかの様に、掌を額に押し当てたままアンナは天を仰いだ。
(だからさぁ……そーいうのはレティシア達か隊長相手にやれってのあの駄犬は……)
なんだかんだといって、身内や親しい者判定を出した相手にはゲロ甘な男だ。
少なくとも、アンナが悪党に攫われると本気で怒って即行動に移る程度には判定内らしい。
正直に言えば、悪い気は……まぁ、しない。
しないのだが、他にもっとソレを向ける相手がいるだろうが、と思う次第である。
一方、現在の状況やそこに至るまでの経緯を上手い事まとめて語り終えたトニーだったが、ついでに何かを思い出したのか、両の手をポンと打ち合わせて口を開いた。
「そうだ、危うく忘れる処だったッスよ――副長、これ、旦那から預かったお届け物です」
そう言って手を後ろに廻し、腰のベルトに挟んでいた物を抜き取る。
眼の前に突き出されたのは丁寧に布が巻かれ、刀身が保護された短剣――てっきり今回のゴタゴタで紛失したと思っていたアンナの愛剣の片割れである。
「…………」
部下の差し出した己が得物を、無言で受け取る上司。
巻かれていた布切れを外し、腰に下がった空の鞘に短剣を収めると、トニーに背を向けて少女は再び天を仰ぐ。
「……変なとこでマメなやつね、ホンッと」
何処となく疲労感すら感じさせる声色で呟かれる声。だが、その背から感じられる雰囲気は決して不機嫌なものでは無い。
(あ、頬が緩んでるッス)
持ち前の観察力で暗がりの中でもいらん事に気付くトニーであったが、決して口にも態度にも出さない。寡黙であることが必ずしも良い事であるとは限らないが、少なくともこの場においては沈黙は金であると確信があった。というか指摘したら絶対不機嫌になる。
敵地のど真ん中でありながら、なんとなく穏やかというか温いというか……何とも言えない空気になった、そのときだ。
二人の背後――少しばかり離れた場所から、再び強大な魔力の波動。
激しい戦闘によって放出されたのであろうソレに、二人の表情も場に相応しく真剣なものへと戻る。
「どうするッスか副長。このまま旦那と合流して此処を離脱ってのもアリだと思いますが」
部下の言葉に少女は顎先に指を這わせて俯き、数秒考え込む。
元よりそう熟考が必要な判断でも無い。伏せた顔は直ぐに上げられた。
「……アイツが戦ってるのは遺跡の防衛機構、って言ったわね?」
「ですね。情けない話ですが、体調を気遣われて先に行けと言われた形ッス」
「なら、このままこの施設の制圧に移るよ――《守護人形》程度ならあの馬鹿はどうやっても負けない。こっちはこっちで他の戦力を片付けましょう」
普段から馬鹿だ駄犬だと扱き下ろす機会の多い青年だが――戦友としては最上位の信用・信頼を寄せるに不足無い。調子に乗られるのもムカつくので絶対本人には言わないが。
奴がこの拠点内の最大戦力を引き受けるというのなら、その間に自分達もやるべき事をやる。
負けてみっともなく攫われた身ではあるが、自分は《刃衆》の副隊長だ。
部下が各地で奮闘してるというのに、五体満足で十分に戦える身でありながらお姫様よろしく救出されるだけ。
そんな情けない真似は、アンナの騎士としての矜持が許さなかった。
上司の言葉はある程度予想していたものだったのか、部下の青年は特に驚く事も気負う事も無く、軽く敬礼して見せる。
「了解ッス――しかし、そうなると副長を此処に連れてきた……ついでに言うなら自分を散々に刻んでくれた男の動向が気になる処ッスね」
「……多分、もう此処にはいないわ。ってか、居たとしても敵対するかも怪しいと思う」
怪訝そうに首を傾げるトニーへと向け、アンナは脱出後に遭遇した転移者の剣士の行動についてざっくりと語った。
当然、聞かされた側もその行動原理というか、底にある真意を理解する事は出来ない。
意図の読めないジャックの行動に、二人揃って困惑を抱える事となった。
「マジッスか……一体何が目的なんスかねぇ……」
「そんなの私が知りたいわよ――まぁ、それはそれとして色んな意味で借りは返したいけど」
会話を続けながら、アンナが駆け戻って来た通路――先の大扉がある場所まで歩みを進める。
二人が遭遇した場所からそう距離も無い場所だ、時間も掛からずに直ぐに辿り着いた。
扉を眺め回し、各所をチェックしながらトニーが頷く。
「確かに如何にも何かある、って感じッスね。《守護人形》のあった部屋の入口もそうでしたけど、あっちは旦那が上階ごと天井を崩落させたんでそもそも通ってねーし」
「地下に作られた遺跡で何やってんのよアイツは」
「待ち伏せの回避って点では効率的だったんスけどね……っと、取り敢えず、罠の類は無いようで」
確認を終え、ドアノブの類の無い大扉を掌で押すと僅かに動く感触があった。
「……鍵も掛かってないみたいッス」
「好都合ね。待ち伏せだけは警戒して進むよ」
扉の向こうから一斉攻撃がある場合に備え、アンナはトニーを下がらせる。
部下が壁に張り付いたのを確認すると一旦収めた二刀を再び鞘から抜き、彼女はそのまま足を振り上げ、大扉へと靴底を叩きつけた。
分厚く、重量ある金属製の扉が、酒場の小さな押扉の様な速度で豪快に開け放たれる。急激に掛かる荷重に蝶番が軋んで悲鳴を上げた。
警戒した待ち伏せによる攻撃は無い。
――が、《守護人形》が配置されていた部屋と同じような広く殺風景な空間の中心には、アンナ達を待っていたかの様に一人、剣を片手に立ち尽くす者の姿があった。
魔装処理の施された片刃の曲剣に、身体にフィットした暗色の軽装鎧。
色白の肌と、やや色味の薄いショートカットの亜麻色の髪。
アンナと同じ碧眼は、今は両方とも閉じられた瞼の下に隠されている。
待ち受けていたのは闘技大会で一度剣を交え、数時間前にアンナを姉と呼んだ少女――ファルシオンであった。
『ふ、ふん、やっと来たか。帝国のさ、最精鋭を謳う割にはぞ、存外にもたついたものだ』
目を閉じた儘の亜麻色の髪の乙女は黙して動かず、代わりに室内に設置された伝声管が震えて滑舌のよろしくない男の声を吐き出す。
『ば、馬鹿な真似をしたな"片刃"。お、大人しく検体としてのや、役目を果たせば"曲剣"のよ、予備程度の扱いは――』
「誰ッスか? この舌回らないのに語りが好きそうな声」
「博士、だっけ? ここで研究してる連中の中で上役にいるっぽい奴よ。ジャックに私を連れて来るように指示したのもコイツ。ある意味今夜の作戦の切欠になった男ね」
「敵サンにとっちゃ大戦犯じゃないスか。普通に殺されそうなもんスけど何で生きてるんスか」
『う、煩いぞ貴様ら!!』
小指で耳でもほじりだしそうな態度の《刃衆》二名の会話に、伝声管から伝わる声が癇癪を滲ませて一段高くなる。
ファルシオンが微動だにしない分、伝わって来る声――博士のヒステリー染みた甲高い声が対比で酷く喧しく感じるのだが、当の博士は取り繕えていると思っているらしい。直ぐに無理矢理抑揚を押さえた様な奇妙なトーンで勝ち誇った声色となった。
『の、のこのことやってきた侵入者は、に、二名。ひ、一人を捨て駒にして此処まで来たようだが……あ、あの部屋には防衛機構のほ、他にも組織でも最大の魔装化獣を、は、配備させた』
散々に施設で大暴れした者達への意趣返しのつもりか、脱走者と侵入者へと向けられる言葉は癇癪の代わりに嗜虐性が滲みでている。
『ちょ、超人に匹敵する戦力でも無い限り、しょ、少数であの二体に勝つのはふ、不可能だ。お、お前達の同僚は、とうに潰されている。お、同じく、お前達も脱出は不可能なのだよ』
「「あっ」」(察し
『……な、なんだその反応は』
「「いえ、別に」」
博士からすれば、侵入してきた者達の中に帝国内で最大に警戒せねばならない《刃衆》の長と顧問、騎士団のトップたる将軍……三名の人外級の姿が確認出来なかったが故の勝利宣言にも似た宣告だったのだが……驚愕に打ちのめされる筈の二人が上げた気の抜けた声に、逆に怪訝な反応となる。
「……他の場所も一斉にやべー面子にカチコミされてるって知らないんスかね?」
「聞かされてないんじゃない? アンタの言う通り戦犯だし、言動のせいで人望とは無縁そうなタイプだし」
特に声を潜める事も無くやりとりするアンナとトニーだが、戯言だと判断したのか、ただのハッタリだと決めつけているのか、伝声管からは鼻で笑う様な音が伝わるのみだ。
実際、拠点同士での情報の伝達がお粗末である事を除けば組織の――博士の判断はそう的外れなものではなかった。
動いたのが帝都の騎士団のみであるならば、その日の内に動かせる戦力では《門》全域を強襲など出来る筈も無く、人員を強引に搔き集めれば王城内の協力者から組織へと直ぐに密告が為される。
万が一、帝国にその存在を気取られたとしても、本格的に捜査の手が伸びる前に十分な人員、研究成果や資料を確保して帝国外に脱出できるだけの手段は整えてあったのだ。
暴力方面での人材こそ質が低かったが、組織の規模の大きさに相応しく、事前の仕込みや保険は十分だった。
彼らの致命的な失態はただ一点。
国家の枠などガン無視して"奪われた友人を取り戻す"その為に、多数の人外級に協力を仰いでジェノサイドパーティーを開催する猟犬の存在。
それを他国の者である、という対外的な縛りが利くと判断して勘定に入れなかった事である。
『ふん、ま、まぁ良い。失敗作であった筈が、こ、後天的に性能を開花させた片刃シリーズの生き残り……貴重な検体ではあるが、す、既に体組織の情報は採取した。い、いちいち逃げ出すような検体を時間を掛けて躾ける程、わ、私は暇ではない』
己の属する組織が大炎上を通り越して燃えカスになりかけている事に気付く事も無く、研究班の総主任は自らの手掛けた最新鋭の検体へと命を下す。
『"曲剣"、ちょ、調整後の性能試験代わり、だ。そいつらを処分しろ』
「……了解しました」
命令に応え、広い部屋の中心に立ち尽くした儘であった少女の双眸が開かれる。
「この様な事になってしまったのは残念です、お姉様」
「え、マジッスか。副長、妹さんいたんで?」
「ンな訳あるか。ファルシオン、アンタもお姉様呼びはやめなさいって言ったでしょうが」
博士の台詞から上司の出自に関して色々と推察できる事は多かったが、些末事として気にしない事にしたトニー。
それよりに何より亜麻色の髪の乙女が口にした言葉の方に気を取られた彼に、当のアンナから裏拳でビシッとツッコミが入る。
何処か哀しそうな、沈痛な雰囲気すら感じらせるファルシオンに対し、悲壮感とは無縁の軽い調子でやり取りする《刃衆》二人と、中々に温度差がある状態で彼女達は対峙する。
軽口こそ叩いていたが、騎士二人は油断していた訳では無い。
10メートル程の距離を置いて向かい合う少女の一挙手一投足、身に纏う魔力の動きにもしっかりと注意を払っていた。
それだけに瞬きの間に眼前より消え、一瞬で背後に移動したファルシオンに驚愕を覚える事となる。
「トニーッ!」
「――ッ、とぉ!?」
背後で突きの体勢を取った『超人兵計画』の実験体の少女に、アンナが瞬時に反応して部下との間に身を割り込ませ。
自身が狙われている事に気付いたトニーが、振り向く間も惜しいとばかりに前方へと身を投げ出して床の上を転がって距離を取る。
空を裂いて捻じ込まれる曲剣の切っ先と、迎え撃つ二刀が鋼の打ち合う音と共に火花を散らす。
魔力を通した魔装の刃同士が放電にも似た余波を散らす中、鍔迫り合いの距離で少女達の碧眼が睨み合う。
「初見でこれに反応するのは流石です、お姉様」
「影渡り……吸血鬼の能力を人間のアンタが使うとはね……!」
影を扱う能力全般は、吸血鬼の種族特性に依るものだ。
魔法で似たような真似が出来ない訳では無いが、影を渡るような高位の技術は純血か、最低でも半吸血鬼程の"種族としての血の濃さ"が必要になる。
見た目や魔力の波長からして通常の人間種であろうファルシオンが扱うには、余りにも異質な力だ。
アンナの眼に怒りに近い感情が灯った理由は、嘗て戦場を共にした戦友達の同胞までもが非道な実験に巻き込まれていた事に対してか。
或いは種族としての肉体規格からはみ出た、負担も大きいであろう能力を十代も半ばの少女に植え付けた博士に対してか。
『と、闘技大会では使用可能な機能にせ、制限をかけていた。お、お前の血液から採取出来たちょ、超人の魔力因子も加えた今、"曲剣"がお前をう、う、上回ったのは明白だ』
「トニー! 室内にある入口以外の扉を探せ! ペラペラ煩い外道の舌を引っこ抜いてこい!」
伝声管より垂れ流される喜悦を含んだ声を断ち切る様、アンナが叫ぶ。
魔力迸る鍔迫り合いを続ける上司の声に込められた本気の怒りを感じ取り、助勢しようと剣を構えたトニーは静かに切っ先を下ろした。
「……この場はお任せしても良いんで?」
「誰にモノ言ってる! 良いから行きなさい!」
「――了解、御武運を」
踵を返して室内の壁面へと向かう騎士の青年の背を、ファルシオンが一瞬目で追い――直ぐに視線は眼前の銀髪の少女へと引き戻される。
その視線の意味を正確に察したアンナが、ニヤリと口角を吊り上げた。
「やっぱり短距離限定ね――部下に手を出したいなら先に私を捻じ伏せてみなさい、ファルシオン」
「……ジャック様が仰っていた通り、怖い方ですねお姉様は」
影を操ると一口に言っても、適性自体が存在しない種族で使用する能力だ。何某かの能力的な劣化や制限があると踏んだアンナの予測は的中していた。
鍔迫り合いをしていたファルシオンの足元が己が影に沈み込み、一瞬で全身まで消える。
競り合っていた相手が消えた瞬間、アンナは短剣を手の中で回転させ、逆手に持ち替えると背後へと突き立てた。
背後に伸びた騎士の少女の影から腕が伸び、掌が翳され。
同時に飛び出して来た黒刃――魔力操作によって生み出された影の刃が、魔装の刃によって串刺しにされて空中で縫い留められる。
「――ふんッ!」
下っ腹に力を入れたアンナが、気合と共に貫いた影を強引に引っ張った。
大魚の一本釣りよろしく、影と同化して沈み込んでいた亜麻色の髪の乙女が表へと引きずり出される。
空中へと放り出されたその勢いを利用し、優美な弧を描いた刃が振るわれ、それをショートソードが迎撃。
再び魔力を散らして噛み合った得物越しに、少女達は油断なく視線を交わし合う。
「影を貫くまでは分かりますが、釣り上げられるのは予想外でした。理不尽です」
「知り合いの司祭様は影を素手で掴んで振り回して空に高々と放り投げる位はやるっての。この程度で理不尽とか甘えるな」
調整とやらの成果か、試合で戦ったときよりもファルシオンの基礎的な身体能力は更に上昇していた。
どんな技術や理論を用いたのかなど知りたくも無いが、試合から一日と掛けずにこれ程の上り幅だ。絶対にまともな方法では無い。
単純な魔力強化込みの膂力のみならば、自身に近い領域まで無理矢理押し上げられた少女の身体を憂う様に、アンナの眉根が下がった。
だが、今は戦闘の最中。ましてや憐憫にも近い情を向ける少女はその戦いの相手だ。己の足を引く要因となる感情は一瞬で押し殺し、剣を振るう。
二刀が閃き、曲剣と影が銀光と黒のコントラストを生み出して踊り。
昼間の試合であれば確実に前者が押し切っていた筈の打ち合いを、後者の連携は退くことなく真っ向から凌ぎ切る。
連続する剣戟、加速する鋼の激突音。
そんな中、未だ傷を負っていない筈の亜麻色の髪の少女――その鼻腔から、赤い滴が滴ったのを見止めたアンナが舌打ちと共に唇を噛みしめた。
「……投降しなさい! 今の状態が身の丈に合ってないってのは分かってるでしょう、このまま続ければぶっ壊れるわよアンタ!」
「……? 博士から投降や戦闘停止の命令は出ていません」
「素直か!? 純粋培養にしても度を越してるでしょうが!」
自立する様に主と合わせた動きを見せていた影の槍が、枝分かれして無数の鞭となり、高速で振るわれる。
視界一杯に拡がるソレを、神速で奔る二閃が悉く打ち落し、切り刻む。
やはり無理のある能力行使なのだろう。蹴散らされた影鞭の群れの向こうから横薙ぎの一撃を見舞うファルシオン顔は、痛みを堪えるように歪んでいた。
「試合のときも言ったでしょう、アンタの技は怖さが足りない――!」
限界までその身の性能を押し上げられ、その上で持ちうる全ての能力を駆使した少女の連撃。
闘技大会の本戦出場者達でも、対応できる者は何人もいないであろうソレは……それでも《刃衆》の次席たる騎士には届かない。
乾坤の一刃は余裕をもって弾かれ、体を崩して無防備となった少女の腹に蹴りが叩き込まれる。
「ぐ、ぁ……はっ……!?」
魔装の鎧越しでも腹腔を貫く衝撃に、呻きと共に肺の空気が残らず絞り出された。
石床を靴底で抉りながら後退し、かろうじて吹き飛ぶのを堪えたファルシオン。
口から血混じりの唾液を滴らせ、整った面差しに苦悶の表情を浮かべて――それでも剣を手放さない。
『こ、こ、この鈍間が! 何を遊んでいる! こ、これだけ専用の調整を受けて最初期の検体相手に手間取るだと!? な、何のために自分が存在していると、お、思っている!』
「――――ッ!」
伝声管から伝わる罵声を受け、実験体の少女が歯を喰いしばる。
苦痛に加えて何かに追い立てられる様に更に表情が歪み、鼻腔だけでは無く双眸からも赤い筋が溢れ、頬を伝い。
赤く染まったその瞳が、気迫の炎を灯して見開かれた。
直後、アンナの足元に伸びる影が膨れ上がり、無数の鋭い棘となって彼女を強襲する。
それは以前、アンナが教国圏の小さな村で戦った爵位級吸血鬼の使った技に酷似していた。
違うのは規模と威力は劣る事、代わりに影への魔力干渉からの発生速度が速い事――何より。
(私の影に直接干渉して攻撃を発生させたっ……!?)
跳躍して距離を取ったが、自身の影から飛び出た棘であるが故に、ピタリと発生源が追尾してきた事である。
石床を穿ちながら天へと突き上がった棘は、茨の檻の如く捕らえた少女の黒い外套を引き裂いた。
「――!? 副長……!」
壁面に隠し扉――というより隔壁らしき継ぎ目の様なものを見つけたトニーだったが、亜麻色の髪の少女から膨れ上がった魔力に振り向けば、足元より飛び出た無数の棘に呑まれ、上司の姿が見えなくなった瞬間だった。
心臓が跳ね、血の気が腹より下に引っ張られる様な感覚を覚えたのは数瞬の事だ。
棘に無数の斬線が走り、斬り裂かれて本来の完全なる平面へと戻る。
微塵に分割された棘の檻から飛び出て来たのは、隊服である外套を脱ぎ捨てたアンナだった。
棘によって抉られ、貫かれた穴だらけの外套が、持ち主の高速の斬撃によって生じた風圧にあおられたのか、ヒラヒラと宙を舞う。
影の攻撃範囲から逃れる事が難しいと瞬時に気付いたアンナは、咄嗟に隊服を自身の足元に放り捨て、石床より遥かに魔力的干渉の困難な魔装処理のされた外套の上に自身の影を映した。
結果として影から発生した棘の本数と威力は減衰。あとは速さにものを言わせて直撃コースの棘だけを斬り払ったのである。
言うは易し、というやつだ。少なくともトニーは負傷があろうが無かろうが、同じ真似をやったら何処かでトチって死ぬ確信しか無い。
流石に無傷、とはいかなかったのか、外套の下にあった騎士服は何カ所か裂け、赤い色が滲んでいた。
だがいずれも軽傷――かすり傷だ、戦闘に支障の出る負傷は一切ない。
大技を行使した反動か、動きの鈍いファルシオンへと向け、銀の髪を靡かせながら騎士が疾走する。
「――ッ!」
「遅い」
影を操ろうとして、だがそれが間に合わず。
ファルシオンは手にした剣を正面から突っ込んでくるアンナに振り下ろすが、加速の勢いを乗せて×の軌道で振り上げられた二振りの刃は、容易く曲剣を弾いてそれを握った腕を高々と跳ね上げさせる。
「…………あっ……」
万歳する様な体勢で、呆然と眼前の騎士を見つめる亜麻色の髪の少女。
銀髪の少女は振り切った両の手にある剣を、くるりと廻して逆手に持ち替え。
「――歯ァ食いしばりなさい」
昼間の試合の焼き直しの如き、その台詞と共に。
二刀の柄が同時に叩き込まれ、ファルシオンの胴鎧を容赦なく抉った。
『な、な、なぁぁっ!? ば、馬鹿な! 何故だ!?』
伝声管から垂れ流される動揺と驚愕が駄々洩れの悲鳴に、隔壁の傍で少女二人の戦いの行く末を見届けたトニーが肩を竦める。
「勝負アリ、っスね。御自慢の検体のお嬢サンは沈んだし、降参したらどうッスか?」
『う、う、煩い! そんな筈があるか! アレ自身の性能に加え、"片刃"の超人因子までう、埋め込んだんだぞ!? さ、最初期の廃棄品に劣るなどありえない!』
裏返った声でヒステリックに喚き続ける声に、狐を思わせる面差しを珍しく嘲笑の形に歪めた青年は鼻で嗤った。
「こりゃ駄目だ、典型的な実地意見を聞かない研究者様ッスね――一応教えておいてやるが、《刃衆》の副長殿は努力家なんだよ」
因子とやらがどういったモノなのか、トニーが詳細を知る筈も無いが……結局の処、アンナの力は"鍛え上げた騎士の戦武"であり、"後天的に目覚めた兵器としての性能"では無いというだけだ。
或いは、その超人因子とやらも持って生まれた才能の土台、それを高める一要素とはなっているのかもしれない。
だがそれを育て、伸ばし、花開かせたのは紛れも無く本人の努力と、努力に費やした時間だ。
同種の種だけを取り出し、埋めた処で既に高々と伸びた大輪の花と同じ《《高さ》》になる筈も無い。
育てる気が無ければ、埋めた器の嵩増し以上の意味はなさないだろう。
そういった本来当たり前の前提を、ある程度引っ繰り返せてしまうのが創造神の与える加護だったりするのだが……それとて磨く努力をせねば真の意味で力を発揮する事は無い。
神の与える加護でさえそうなのだ、ましてやそれが人の手に依るものであれば、結論は言う迄も無かった。
途切れない甲高い喚き声は無視し、トニーは壁に偽装した隔壁をどうにかこじ開けようと周囲を探る。
壁面に隠された開閉の為の装置の類が無いかを調べていたのだが……それを見つける前に重々しい音を立てて隔壁が上がった。
今も喚き散らす博士の手によるものだろう――だが、当然諦めて投降する為、といった理由では無い。
「……この期に及んで改造魔獣の増援ッスか。見苦しさ此処に極まれり、って感じッスねぇ」
開け放たれた壁の向こうから現れたのは、これまでにも相手をした身体を弄られた魔獣が数匹。
それらと相対したトニーはチラリと背後に視線をやると、地に倒れ伏した……だが立ち上がろうとするファルシオンと、それを見下ろすアンナを視界の端に収める。
「ま、あっちはお任せした分、自分の仕事くらいはするとしますか――後ろには行かせねぇッスよ」
彼は剣を握り直すと、突っ込んでくる魔獣の群れに向けて自身も踏み込んだのだった。
無理な能力行使に加えて凄まじい痛打を喰らった事で、亜麻色の髪の少女は文字通り血反吐を吐き散らして地に伏せる。
眼、鼻腔、口と、流血の痕を残し、額に脂汗を浮かべながらもそれでも立ち上がろうとする少女に、アンナは表情こそ厳しいままであったが、疑問と憐憫に揺れる瞳で問い掛けた。
「……まだ立つか……なんでそこまで必死になるのか、って聞いても良い?」
「……私は勝てと、命令されています。昼の試合では既に一度、命に反しているのです」
だから、二度目は無い。
言葉を続ける事無くとも、裏に込められたものを察するには余りあった。
脅されている――或いは、不要と判断されれば此処の連中のいう処の"廃棄"の扱いになってしまう。
そんな恐怖を元にした感情によって突き動かされているのかとも思ったが……おそらくは違う。
怯えや助けを求める思いがあれば、その眼にはどうしたって縋る色が浮かぶものだ。
ファルシオンには、それが無い。希薄と思われた感情を確りと燃え上がらせ、剣を床に突きたてて立ち上がろうとする様には、自らの価値を証明せんとする必死の意思だけがあった。
「……貴女がそこまで必死になってアピールするだけの価値なんて、あの博士とか言う男には無い。"閣下"とやらにもね」
「……"あの方"や博士が、善い人では無い、事は、分かっています――そして、それに従う私も」
途切れ途切れになりながらも零される言葉には、少なからず苦渋の感情が混ざっている。
震える手足を叱咤して二本の足で立ったファルシオンは、ひどく重そうに曲剣を持ち上げ、切っ先をアンナへと向けた。
「――それでも、《《私》》を私にしてくれたのはあの方達でした。下水に打ち捨てられ、何の意味も価値も無く終わるだけだった名無しの孤児に、名と価値を与えてくれたのは、あの悪い人達だったのです」
その独白は少女の抱えた恩義、感謝、苦悩、罪悪感――全てをひっくるめた思いの吐露であり。
同時に、アンナ達……国の側に立つ者達にとっての罪の証であった。
最前線の戦場であれ、戦禍の齎す傷によって荒れ果てる後方であれ、どうやっても救えぬ者は出て来る。
大戦後期、聖女姉妹とその守護者たる《聖女の猟犬》の台頭を切欠に、段々と好転していった戦況に併せて戦災による死傷者は確かに減っていったが……それ以前、アンナが幼かった頃はここ帝都であっても、少なくない悪所やそこに住まう戦争被害者達がそこかしこに見られた。
そして、おそらく……いや、間違いなく。
彼女――ファルシオンの名を与えられた少女もその最たる者の一人であり、本来は国が……アンナ達騎士が真っ先に救わねばならぬ罪なき弱者であり、だが取りこぼした者。
違法な実験の検体という形であれ、それを救いあげたのが今夜消滅するであろう犯罪組織であったのは、皮肉と言う他無い。
勿論、ファルシオンの様な"救われた"形で組織に属した者は極少数だろう。
大半は無理矢理に拐かされた者であり、彼女の様に貴重な検体として丁寧に扱われる事も無く、無惨に使い潰された者とて多い筈だ。
だが、それでも。
誰にも省みられることなく、知られる事すら無く、ただ街の悪所の片隅に転がる骸になる筈だった少女に。
自身の生に意味があると、価値があると告げてくれたのは、光さす場所の善き人々ではなく、影に蠢ぐ許し難い罪に濡れた外道であったのだ。
「……私には、此処しか無い。価値を示すことで、認めてくれるのは――褒めてくれるのはあの方達だけなのです」
ゆっくりと語る合間に、呼気を整える意味もあったのだろう。
手足の震えは止まり、幾分かはマシな顔色になったファルシオンが、それでも消耗激しいであろう身体を叱咤して剣を構え、腰を落とす。
(……しくったわ。聞くんじゃなかった)
アンナにとってはやり辛い、などというレベルでは無かった。話を聞いたことを後悔する程に。
目の前の少女は、子供だ。
年の頃や肉体的な成長の話では無い。
何も持ちえず、何も成し得ず、ただ終わるだけであった生に、降って湧いた様に与えられた意味に、時間に、価値に。
必死に縋りついて、それを与えてくれた者達の期待に応えたくて、褒めてもらいたくて。
その為に重ねられる罪に眼を瞑り、実験体としてやがて辿るであろう自身の行く末にすら眼を逸らし、ときたま与えられる肯定や賞賛の言葉を渇望して求め続ける。
そんな愚かな――けれども、どうしようもなく暖かな情に飢えた、子供なのだ。
それだけにこの亜麻色の髪の少女が一層哀れで――彼女を利用する者達に怒りが募る。
最新の検体扱いする程の貴重な実験体が必死に成果を出そうとし、協力を惜しまない状況は、研究を行う連中にとってさぞかし都合の良いものだっただろう。
始めから少女の思考を今の状態に誘導する意図があったのか、ただの偶然であったのか迄は定かでは無いが……どの道、彼女の抱く情を利用して良い様に実験とやらを進めていた事は容易に想像出来た。
先程までと比べ、見る影もなくなってしまった速度の曲剣が振り下ろされる。
回避は容易だ――そして、反撃も。
(……ベソかいて必死に向かって来るお子様を、これ以上痛めつけろって? 冗談、騎士である事を捨てる予定は無いっての……!)
だがアンナは身を躱すに留め、剣に振り回されて上体を泳がせるファルシオンへの説得を試みる。
「一応聞くけど、実験体なんて真っ黒な職にはサヨナラして国仕えに転職する気は無いわけ? 経緯はどうあれ、その腕前なら引く手数多なんだけど」
答える声は無く、持ち上げた切っ先が寝かされて横殴りに叩きつけられた。
やはり格段に速度の落ちているソレを、軽く身を傾げて回避する。
(聞く耳持たず……当然か)
国や行政は、彼女にとっては自分を存在する事にすら気付かずに切り捨てた、無慈悲で巨大な存在だ。
恨みなどが無いとしても、畏れや拒絶感はあっても不思議では無い。
横薙ぎを躱されて傾いた身体を強引に旋回させ、回転斬りが放たれる。
ともすればよろけて転びそうな頼りない脚運びから繰り出された斬撃を、アンナは半ば支える様にして剣で受け止めた。
眼前の少女は限界だ、無力化自体は容易――だが、その前にその胸中を幾らかでも心変わりさせたいというのが本音である。
組織の首魁や幹部、それに近い立場の研究者などは間違いなく極刑だ。というか、捕縛すらされずに即斬り捨てられる者が殆どだろう。
彼らに執着にも近い感情を向けるファルシオンは、下手をすればその後を追いかねない。
自分が、国側の人間がその命に価値を認めると言った処で彼女に届きはしないだろう。その《《前提》》――今の自分を作ったのが"閣下"や博士である、と認識しているのだから。
(八方塞がりにも程があるでしょ……! 説法は騎士の分野じゃないってのに!)
それでも、声を届ける事を諦める訳にはいかなかった。
アンナは騎士だ。外敵を打ち払う国家の剣であり、力無き民を護る盾だ。
その翳した盾より零れ落ちた果て、堕ちた底で罪という汚泥にどっぷり浸かる羽目になった迷子の少女。
彼女を引っぱり上げ、今度こそ掲げた盾の庇へと迎え入れる。
その為にも、向けるべきは剣では無い。言葉なのだ。
競り合っていた刃に更に身を寄せ、より近くで言い募る。
「……貴女を実験体――"曲剣"としてじゃなく、"人間"として見た奴はいなかったの? 性能だの、能力だの、とってつけたものじゃなくて、貴女自身を見た誰かは?」
口にしたアンナ自身が望み薄だと思ってしまう、安い言葉だ。
ファルシオンの周囲にいたのは実験体としての価値こそを求める者達であり、反吐が出る様な違法な人体実験を繰り返した連中だ。同情であれ、真に少女が望む言葉を掛ける者がいるとは思えなかった。
戦い始めて幾度目かの鍔迫り合いの中、騎士の少女が問うた言葉は――正直に言えば苦し紛れのものであり、同時にせめてそうであって欲しい、という願望でしかない。
――その筈、だった。
「その様な人はいません……居ない、筈です……」
即座に否定した筈のファルシオンの言葉が詰まり、荒げていた息が閊えて止まった様に見えた。
痛みや疲労すら忘れたかの様な呆然とした表情は、まるで気付かなかった事実を、指摘を受けて初めて自覚した様な――。
その反応に、アンナは活路を見出し。
一方で、ファルシオンは戦いすら忘れた様子で立ち尽くし。
――しかし二人の少女が胸に湧いた感情を言葉に変える前に、最悪の横やりが入る。
『も、もういい! き、期待外れの出来損ないめ! 最後の命令だ、私が脱出するまでそ、そ、そこで侵入者共の相手をしていろ!』
そんな、癇癪を爆発させた金切り声と共に。
実験体の少女は自らの身体の中で何かが弾け飛ぶ音を聞いた。
《森精》の一種と思われる改造された魔獣の剛腕を回避し、トニーは咆哮を上げたその口へと剣を突き込む。
《邪精》の近親種の持つ再生力の前には、半端な攻撃は意味が無い。口内を貫いて後頭部へと抜けた切っ先を捻り、横薙ぎに一閃させる。
「四つ目」
額から上を半分斬り飛ばされ、文字通り脳無しとなっても旺盛な生命力によって即死するは事無く。
狂った様に暴れる巨躯は放置し、騎士は背後に忍び寄っていた《飛眼》へと振り向き様に剣を投擲した。
何某かの魔眼を発動させようとした一つ目の巨眼蝙蝠の眼球に、投槍の如く一直線に飛んだ長剣が突き刺さる。
「五――これで最後」
地に落ちて痙攣する巨大な蝙蝠擬きを足蹴にして刀身半ばまで埋まった剣を引き抜くと、開いた隔壁――その向こうに続く通路へと視線を向けた。
「さて、この先にあの研究者サンが居ると良いんスけどね」
転倒して起き上がる事も出来ず、出鱈目に床を殴りつけて陥没させている《森精》を迂回し、開けた新たな路へと足を踏み出しそうとした、そのときであった。
『も、もういい! き、期待外れだ出来損ないめ! 最後の命令だ、私が脱出するまでそ、そ、そこで侵入者共の相手をしていろ!』
「――あ、ぐ……ギ、ぁづ、ぁぁああああああぁ!?」
不快な金切り声と、獣の断末魔にも似た悲鳴が上がると同時、背後――二人の少女が戦っていた地点で急速に魔力の波動が膨れ上がり、爆発する。
それと同時、解放された隔壁が再びゆっくりと下がり始めた。
「ちっ、忙しない……!」
舌打ち一つ漏らしながら、先ずは明らかな異常が発生したであろう背後へと素早く振り返る。
次の瞬間、トニーの瞳に映ったのは此方の壁面に向かって吹っ飛んでくるアンナの姿だった。
緩やかに閉ざされつつある隔壁と、二秒後には壁に叩きつけられる上司。
見比べる事すら無く、トニーはアンナを受け止めんと隔壁とは反対方向へ飛び出した。
騎士の青年が壁と少女の間に割って入った瞬間、宙を舞う少女の体躯が身を捻って勢いを殺す。
身体の軸を斜めに傾けて回転したアンナは、その身を受け止めようとしたトニーの頭上を飛び越えて壁面へと見事に着地した。
それでも、その勢いは宛ら砲弾の如くだ。爪先を着けたブーツは足首まで壁にめり込み、着地点には大きなクレーターが穿たれる。
「副長、御無事で!?」
駆け寄って来る部下の言葉に反応する事も無く、壁に半ばめり込んだ騎士の少女は口元の血を乱暴に拭う。
そのまま拭った手を握り込み、壁面に拳を叩きつけ、吠えた。
「……あンの腐れ外道がぁっ!!」
眦をつり上げ、浮かべるのは紛れも無い憤怒の表情。
碧眼に嚇怒を燃やしながら見据える先には、雑な腕の一振りで自分を叩き飛ばした亜麻色の髪の少女の姿がある。
「う"……あ"……あ"ぇ、ァ"……」
焦点の定まらない虚ろな表情のまま、フラフラと身を揺らす実験体の少女の姿は、眼を背けたくなる様な変化が起こっていた。
全身の血流が加速しているのか、肌の見える場所からは皮膚を押し上げて浮き出た血管が脈打ち、眼球や鼻腔、指先からは先程の出血など比較にならない量の血がボタボタと嫌な音を立てて垂れ流されている。
それすら比較にならない出血を齎すのは、全身に走った亀裂にも似た傷――その原因は血に染まった白い肌から覗く、魔装の輝きだった。
凄惨、そうとしか表せない状態とは裏腹に、歪に膨れ上がった魔力が全身から溢れ出し、只ならぬ圧を発している。
ここまでの道中、そして今しがたも相手をした改造魔獣に酷似した姿に、トニーが呻き声を漏らした。
「……あんなメチャクチャな改造を人間の女の子相手にやったんスか……!」
クソが、と吐き捨てて歯軋りする部下に、沸々と滾る激怒を抑えつけたアンナはクレーターの縁に手を掛けながら問いかける。
「トニー、アイツはあぁなった魔獣をどうやって止めてた?」
「……推測ですが、心臓回りにあの状態の鍵になる処置が施されてるみたいッス――旦那はそこから頭へと巡る魔力を断って《《介錯》》してました」
「ッ、そう……」
一縷の望みをかけた問いも、やはり帰って来た答えは無情であり。
唇を噛みしめ。騎士の少女は目を伏せる。
口元を真一文字に引き結び、眼を閉じた時間は数秒と無かった。
短い、だが静かなその時間は、或いは摂るべき選択の為の思考では無く。
引っ張り上げる事の出来なかった、届かなかった少女へ捧げた祈りだったのだろうか。
どうであれ、顔を上げ、前を向いたアンナの表情に、迷いは無い。
「降りた壁、五分で抉じ開けなさい。魔獣を片付けた途端に下ろしたって事は、先に続く路が正解の可能性は高い」
「了解。三分でやります――副長は?」
「あの娘を止める」
それ以上の言葉は不要であった。
アンナは壁にめり込んだ両の脚の力を撓め、一気に蹴り出す。
壁面が破砕され、爆発的な加速を生み出して彼女の身体は前方へと射出された。
急接近する魔力に反応したのか、血で汚れた亜麻色の髪の隙間から覗く瞳が、突っ込んでくる騎士の少女の姿を捉えて焦点を結ぶ。
踵を返して隔壁の下へと向かったトニーを遥か後方に置き去りに、吹き飛ばされた際の数倍の速度でアンナは暴走するファルシオンと激突した。
着弾音、次いで、衝撃。
高出力の魔力同士の衝突に、紫電が飛び散り、宙で弾け。
二刀と曲剣、歪な影の刃が其々に噛み合わされ、火花と共に鋼の擦れる音が殺風景な室内に響き渡る。
「ヒ、ぐ……ギ……ァ、オ、ネェ……さ……」
「……もう、眠りなさい。疲れたでしょう?」
喉から溢れる血泡のせいか、ゴボゴボと水音混じる不明瞭な声で呻き声を漏らすファルシオン。
先程までの激昂が嘘のように、静かな、いっそ優し気な声でアンナが語り掛ける。
或いは、その声を彼女達以外に聞く者がいれば。
まだ眠くないと、起きていられると、駄々をこねる小さな亜麻色の髪の少女と。
それを嗜め、優しく寝かしつけようとする銀髪の少女。
そんな何処にでもある、姉妹の団欒ような、有り得る筈も無かった光景を思い浮かべたのかもしれない。
少女達の足元――その影が、破裂したかの様に弾け飛ぶ。
まともな攻撃の形状すら取れずに広がった影は、単純な速度を凶器へと変えて周囲から押し潰す様にアンナを襲った。
曲剣と打ち合う剣を短剣へと一瞬でスイッチ。ショートソードが無数の銀光を走らせ、津波の如き影の範囲攻撃に穴を穿つ。
僅かに出来た安全地帯へと身を滑り込ませるアンナ。そこに振るわれる魔力導線走る血濡れの腕。
「…………ぐっ……!」
実験体の魔獣とは比べ物にならない程の高密度で魔装化したファルシオンの全身は、今や疑似的な魔鎧にも等しい。
技も何も無い振り回されただけの細腕は、だが圧倒的な暴力を生み出して叩きつけられ、咄嗟に腕を掲げて受けたアンナの魔力防御を突破し、骨身を軋ませる。
乱雑に手足と影を振り回す少女の動きには、嘗て見せた様々な技術を吸収した技の冴えは無い。
しかし、文字通り身を削り潰す程の強化状態にある彼女は、単純な基礎能力のゴリ押しでこれまで届く事の無かった騎士を上回ろうとしていた。
明確にアンナが不利と言える状況の中、凄まじい暴威の中心で剣戟が連続して鳴り響く。
音は止まる事無く、それどころか加速し。
やがて押されていた筈の二刀が、暴威を押し退けんと苛烈さを増してゆく。
一切怯まず、一歩も退かず。
捌き損ねた連撃が、躱し切れなかった影がその身を少しずつ削る中、アンナは不敵に笑って見せる。
「何度も言った筈よ――怖さが足りないってね……!」
そう嘯いて、暴風の如き暴力と戦武のぶつかり合いの中、押されている筈の騎士は一歩、歩を進め。
その逆に、押している筈の暴威を振るう理性無き少女は、気圧された様に一歩下がる。
「――! ぅ、ギ、ぃ、ァアァグ、ぁッァァ!!」
悲鳴と叫びが入り混じった声に込められていたのは、只々苦痛か、それとも眼前の騎士への畏れか。
何れにしろ、再び二人の足元の影が膨れ上がる。
再び膨張し、弾けようとしたソレに――アンナは横薙ぎの一撃を身を屈めて回避すると同時、逆手に握った短剣を叩き込んだ。
高密度の攻性魔力に縫い留められ、風船が萎む様に影は平面へと沈み込む。
大技をスカされ、だが暴走同然であるが故、動揺や遅延無くファルシオンが曲剣を振り上げた。
影を縫い留めた短剣はそのままに、アンナは両の手でショートソードを握りしめ、振り下ろされる力任せの一撃を掬い上げるような軌道の斬撃で迎え撃つ。
捻り、撓め、伸び上がる様に振るった剣は、足裏から膝へ、更に腰から胴、肩、肘へと余す事無く力を伝え、握った剣へとその威力を集約させた。
鋼と鋼の激突。
互いの刃に込められた魔力が、衝突の衝撃で爆風の如く周囲に放出され、荒れ狂う。
膂力、破壊力という点では明確に上回った筈であった暴走した少女の力は、練り上げた技によって並ばれ、再び凌駕される。
強化された握力すら上回る負荷に、握った剣の柄がもぎ取られ、二人の少女の手から武器が弾け飛んだ。
だが、亜麻色の髪の少女は体幹乱れ、姿勢を崩し。
対して、銀の髪の少女は無手となった腕を引き絞り、腰溜めに次の一手を打つ構えへと移行している。
「――――ァ」
全身を連動させて打突の動作に移るアンナを見つめる、赤く濁った碧眼には、僅かにだが理性の光が灯っており――そこには理解と敬意の色が垣間見え。
渾身の掌底が、過たずファルシオンの胸を打ち抜いた。
全身を駆け巡る激痛。
視界は真っ赤で、耳に聞こえるのは恐ろしい程に大きく、早く脈打つ自身の鼓動。
混濁した意識の中で、最後に聞こえた命令に引き摺られる繰り人形の様に動いていた肉体が、糸が切れた様に自由を取り戻す。
だが、糸が断たれた人形が迎える結末は一つだ。
博士が遠隔で発動した、意図的な暴走状態から解放されたファルシオンは、喉奥からせり上がって来た血塊を吐き出しながら膝からくずれ落ちる。
「……ッ、ゲホッ! ゲェッ! ハァ、ハ……」
薄暗く、そしてひどく赤い視界の中、膝と手を着いた彼女は赤黒い色の混じった血を口から溢れさせ、かろうじて動く首をあげて相対する"姉"の姿を瞳に映す。
掌底を突き出した姿勢のまま、肩で息をして此方を見下ろす銀の髪の少女は、傷だらけでありがら何処までも力強く……そして美しかった。
なんとなく、腑に落ちる。
数値化した能力値、という視点だけではどうやっても導き出す事の出来ない、"人"としての武力。
ファルシオンが相対していたのは、そんな力だった。多分、闘技大会の最初の試合から、ずっと。
実験体として――ひいては兵器としての性能を重視した実験では、取り込める筈もない力だったのだと、今なら理解できる。
検体としての自分の価値に固執しながら、その価値を以て"人"としての情を向けられる事を求めた矛盾。
それを、嘗ては自分と同じ検体だった身でありながら、人として此処まで強くなった少女に、力いっぱい突きつけられた気分だった。
実験体としての自分は全ての底を見せ――その上で完膚なきまでに敗れた。
兵器としての価値を与えてくれた博士は、もう自分を必要ないと、失敗作だと、そう、言った。
"曲剣"はその価値を失い、ここで終わる。この場の二人――それ以外にもいたであろう、多くの兄弟姉妹達と同じように。
だから、最期に一つだけ。
検体としての価値を失った自分に、また、誰でも無くなってしまった自分に、まだ残ったものを。
それを気付く切欠をくれた彼女に――"人"として強くなった"姉"に、知っておいてもらいたかった。
多量の出血と、肉体の魔装化の影響で痙攣する手足を叱咤し、少女は立ち上がる。
それだけで視界が明滅し、チカチカと星が瞬く。
身体の方は言う迄も無い。まるで泥沼に首まで浸かっている様だ。
踏み出す一歩は重く、引き摺る脚は鈍く、一歩進めるだけで息が上がって鉄の味が強く口内に籠る。
「――っ、貴女、まだ……!」
酔っ払いの千鳥足の方がまだマシであろう歩みで、それでも取り落とした剣へと手を伸ばす少女に、アンナが驚きの声を上げる。
戦いの勝者であるというのに、ひどく苦し気な表情で自分を見つめて来る騎士に、"曲剣"であった少女は申し訳なさすら覚えた。
おそらく、アンナは自分が力尽きるその瞬間まで博士の命を実行しようとしていると、そう思ったのだろう。
でも、命令を果たす為に、剣に手を伸ばした訳では無いのだ。
そこだけは知っておいて欲しくて、罅割れた掠れ声を絞り出す。
「……ごめん、なさい。ど、しても……おねえさまに、見せたい……ものが……」
表情を変えるのは苦手だ――特に笑顔は難しい。
それでも、苦笑に近いものではあったが少女はぎこちなく笑って、震える手で床に突き立った剣の柄を握る。
「…………」
べったりと顔に張り付いた血、その下にある肌……顔色は既に土気色に近い少女の言葉に、思う処があったのか。
アンナは同じ様に手から離れた剣へと歩み寄り、床に刺さったそれを引き抜く。
短剣はそのまま腰に収めると、ショートソードを片手に構え、彼女は少女へと向き直った。
「……見せてみなさい」
口をへの字にして、ぶっきらぼうな言葉で。
けれどひどく優しい眼で真っ直ぐに見つめて来る"姉"に、今度こそ少女は小さく微笑む。
この時間は、本来アンナにとってひどく無意味なものだろう。騎士としての責務があるだろうに、付き合ってくれる事に感謝しかない。
息をする度に傷む全身に喝を入れ、少女は確りと両手に握った剣をどうにか持ち上げ――正眼に構える。
呼気は深く、強く。吸う事より吐き出す事を意識して。
以前に教わった――博士には無意味だからやめろ、と叱られてしまった――振り方を、思い返す。
(……握るのは、柄尻。雑巾を絞る様に)
手の震えを押し殺し、相手の顔の位置に合わせて切っ先の置き場を変える。
(蹴り出しは静かに、低きにつけ、水面を滑る様に)
静かな、少々ぎこちなさの残る踏み込みと共に、剣を構えて待ち受けるアンナ姿がグン、と一気に近くなった。
魔力強化すら切れた完全に素の状態でありながら、滑らかに詰められた間合いに、彼女の眼が少しばかり見開かれる。
(振り上げは肘と手首で。握りで一瞬、梃子を作る)
一手一足の間合いに入ると同時、切っ先が跳ね上がって天を差す。
(最後の一歩は力強く、踏み込んだ勢いと重さを――剣に乗せて……打つ!)
振り下ろされる一撃は、無骨にして愚直。
だが、確かな術理に裏打ちされた流れるような上段の打ち下ろしであった。
これまで室内に響いていた轟音にも近い剣戟とは違う、澄んだ音を立てて鋼同士が打ち合わされる。
見事な打ち込みだったが、あくまで魔力による強化無しにしては、という前提だ。実際、少女の最後の一撃を受け止めたアンナは、小動もしていなかった。
一度の剣戟、その反響だけが微かに響く中、少女が荒れる息を押し殺して静かに問う。
「……どう、でした、か?」
「――四十点。それなりの回数振ったんでしょうけど、根本的な練りが甘いわ」
容赦の無い辛口採点に、もう一度苦笑しそうになった。
でも、仕方ない。モノにしたければ最低でも一日三百は振れ、と言われたが、検体としての役目を重視して、その半分もこなせなかったのは確かなのだから。
一抹の寂しさと共に、そんな風に納得しようとして。
「……でも、貴女の技の中で一番怖かった。全く、こんな打ち込みが出来るなら、最初から使えっての」
眼を見開く少女に向けて、肩を竦めて見せる|"姉"《アンナ》の言葉は軽い調子で――けれど、やっぱり柔らかな優しさに溢れていた。
「ちゃんと、あったみたいだね。"曲剣"じゃない、貴女だけの意味」
最後に少女が見せた剣技。
そこには確かに積み上げられた時間――兵器では無い、"人”としての彼女の意思と技が宿っていた。
彼女自身にこそ伝えられたものがあったのだと、貴女だからこそ、伝えた者がいるのだと、そう、断言する言葉を受け。
欲しかった言葉を貰った幼子の様に、少女は血の気を失った顔に無邪気な微笑みを浮かべた。
「……はい。そうで、あったら……」
どんなに良いだろう。そうであってくれたら、きっと、自分は――。
そんな風に、淡い希望を抱いて。
出会ってから、二年。ただの一度も自分を"曲剣"と呼ばなかった男性の顔を思い浮かべ、少女は今度こそ静かにくずれ落ちた。
「――っし、これで……」
鈍い音を立てて停止し、だが大人が身を伏せれば潜れる程度の隙間を空けた隔壁を前に、トニーが柏手を打つ。
時間は無い。この奥に伝声管で喚き散らしていた男がいるのならば、自分達が来たものとは別のルートで逃亡に移っている可能性がある――最悪、《門》の魔導具を用いてとっくにケツをまくってる可能性すらあった。
身を屈めて隔壁の下を潜る前に、背後を振り帰る。
上司の勝利を信じて只の一度も振り向かなかったトニーであるが、彼の部隊の副長はその信頼に応えてきっちり勝ってみせた様だ。
――だが、少女二人の戦いに、果たして勝ち負けはあったのだろうか。
そもそもあの亜麻色の髪の少女は、『敵』と言える相手だったのか?
力無く四肢を投げ出し、全身を血に染めて床に転がる少女。
その頭を膝に乗せ、ゆっくりと髪を手で梳いてやっているアンナを見ると、そんな思いが湧いてくる。
何処となく何時もより小さく見える上司の背に、声を掛けるのは躊躇われた。
「……元から副長も救出対象だったし、残りの仕事はこっちでやれば良いだけッスね」
そう一人ごちる騎士の青年も、大概上司二人に対して甘い。
部隊の隊長、副隊長両名は、尊敬する上官であり、格上の戦士であり――だが年下の少女である。
普段彼女達が背負っている看板や責務の重さを考えれば、ついつい身内贔屓になってしまうのは無理からぬ事なのかもしれない。
あと数分もしない内に女神の御許へ召されるであろう、亜麻色の髪の少女へと数秒、祈りを捧げると、トニーは抉じ開けた隔壁を前に身を屈め――。
――ダイナミックエ〇トリィィィッ!!(二度目
そんな叫びと共に、隔壁の直ぐ隣の壁がぶち破られた衝撃で吹っ飛んだ。
「ふぅぉぉぉぉぉぉおおぉぉっ!?」
ゴロンゴロンとでんぐり返しの逆回転みたいな体勢で転がり、間抜けな悲鳴を上げて上下逆さまの体勢で壁にべちんと激突するトニー。
馬鹿みたいに分厚い遺跡の壁を、雑に作った雪のかまくらを砕くようなノリでぶち抜いて来たのは、深紅の魔力導線奔る漆黒の全身鎧。
先程《守護人形》の配置された部屋で別れた青年であった。
――おぉー。こっちに繋がるの感じなのか……必須じゃないボス部屋攻略したら最奥へ特殊ショトカ開通ってのはまぁ、偶にあるパターンだよな。
どうやら《守護人形》を倒した後にトニーが通った扉とは別の路を見つけたらしい。
強力な戦力に守らせている、という事は、本来はこの拠点の上役が使う様な通路だったのかもしれない。
キョロキョロと広い室内を見回しながら足を踏み入れた青年の手には、人の足らしきものが握られている。
「う……ぁ……い、痛ぃぃ……も、もう、や、や、やめ……」
足首を引っ掴んだまま走ってきたのか、全身を壁や床に擦られ、打ち付けられ、打撲塗れでぼろ雑巾の様になったその人物は、ゴミを放り捨てる様に部屋の中へと投げ入れられた。
「ひぎぃ!? う、あ……な、何故だ。ど、ど、どうして《報復》が此処に……」
顔面がボコボコに腫れあがり、打撲痕で青黒くなっている痩せぎすの研究者風の男が、ブツブツと現実逃避する様に床を見て独り言を零す。
聞いていて気分良いとは言えないその甲高い声に、トニーは聞き覚えがあった。
というか、さっきまで伝声管から嫌という程垂れ流されていた声だ。十中八九、博士とかいう研究者はあの男なのだろう。
静かになったので逃亡準備に移ったのかと思っていたが、あの最後の罵声の後、直ぐに青年と鉢合わせた様だった。
――さて、なんか物騒な魔力を感じて急遽こっちに来た訳だが……。
青年の派手な登場には気付いているだろうに、反応せずに背を向けたまま、瀕死の少女を膝枕しているアンナへと眼を向ける。
暫しそれを眺めた後、彼はトニーの方へと首を向けた。
――あの娘は……確か闘技会で見た様な……どういった立ち位置なんや? ってかなんででんぐり返しの体勢で転がってんのトニー君。
「いや、アンタのせいッスよ旦那」
トニーが半眼でツッコミを入れたのは仕方ない事だろう。誰だってそーする。
溜息を噛み殺して立ち上がると、彼は立ち上がって外套についた埃を払う。
「一応、組織の関係者ではあったようで……同時に被害者でもあったみたいッスけど」
元々細目である眼を更に細め、憂いの情を乗せた視線を上司に向けるトニーに、青年は口の中でふむ、と呟いて頷く。
――ちなみに、あの娘があんなにボロボロな原因は? いや、倒したのは副官ちゃんだってのは分かるんだけど。
「旦那が引き摺って来たそこの襤褸雑巾の仕業ッスね。捨て駒扱いで暴走させたッス」
――よし、何本か折っとくか。
即決した青年が、速足で博士の下へと引き返す。
直ぐに塘蒿を捩じり折るような音と共に汚い悲鳴が上がった。
声がうるさかったのか、青年は普通に頬を張って黙らせる。魔鎧によるビンタなので博士の首は捥げそうな程軋み、歯が吹っ飛んでバラバラと床に落ちたが。
ヒィヒィと半泣きになりながらその場に蹲った研究者という名の狂人をその場に放り捨て、青年は二人の少女のもとへと向かった。
――副官ちゃん。
「……相変わらず騒がしい奴ね、アンタは」
呼びかけには応じるものの、苦笑いするアンナの表情には、どこか力が無い。
か細い擦過音の様な浅い呼吸を繰り返す少女の髪を撫で続けたまま、言葉が続けられる。
「悪いけど、少しの間だけ静かにして……最期くらい、安らかに眠って欲しいの」
二人にどういう関りがあり、どういう繋がりが生まれたのか、青年は知らない。ついでにいうならそこまで重要視もしていない。
ただ、目の前のボロボロの女の子がこのまま逝けば、多少なりともアンナの傷になる。それだけは理解した。
ならば、彼のやる事は一つである。
青年は同じく此方に歩みを進めてきたトニーへ振り向き、掌を上に向けて突き出した。
――トニー君、予備の霊薬ちょーだい。
「……まさか、彼女の治療に使う気ッスか? この状態じゃ薬効の前にショック症状が出るだけッスよ」
苦しませるだけだ、と主張する戦友の言葉に、キメ顔で大丈夫だ、問題無い。と力強く断言する。フルフェイスなので気付く者は居なかったが。
目の前でそんな会話をされれば、アンナも気になる――を通り越して不審な気分になろうというものだ。半眼になって青年を見つめ、庇う様に膝上の少女の頭を抱え込む。
「静かにしろって言ってんでしょうが。何するつもりよ駄犬」
――何て。そら勿論――どんでん返しよ。
魔鎧の頭部装甲越しでも、ニヤリとした悪い笑顔を浮かべるのが透けて見えるような、そんな声。
トニーから霊薬を受け取った青年は少女達の傍へと跪き、満身創痍で意識の無い娘の罅割れた唇へと、霊薬の入った小瓶の口を押し込んだ。
当然、少女に口内の液体を嚥下できる体力など残っていない。だが、彼女の喉元へと親指が押し当てられ、水道の蛇口を開ける様な動作でぐりんっと捻りが加えられる。
ごっきゅごっきゅと強制的に喉に流し込まれる霊薬。
仮にも瀕死の人間にやるにはあまりにも無茶な所業に、アンナとトニーが揃って抗議の声をあげようとした、そのときだった。
――――。
青年が、小さく、何事かを呟く。
そして次の瞬間――膨大な魔力と共に白く、眩い光が彼を包んだ。
強い光量を前に、翳した腕で眼を庇いながら、アンナは絶句する。
「……アンタ、それ……」
かろうじて漏れた声には応える事無く、光に包まれた青年は傷ついた少女へと手を伸ばした。
両の手が触れるのは、額と左胸。
暫しの間、攻性を伴わない魔力が少女の身体に染み入り、ゆっくりと循環する。
次に触れるのは喉と腹下――丹田のあたりだ。こちらも同様の処置を行う。
やがて光が収まる頃、そこには魔鎧を解除した青年の姿が残り。
アンナの膝の上には、全身の外傷こそ癒えていないものの、明らかに安定した呼吸となった少女の姿があった。
流した血も戻る訳では無いので蒼白ではあったが……少なくとも顔色の方も先程迄の死人同然のソレでは無い。
――おし、内部の負傷は霊薬を調整してある程度カバーできたし、肝心のズッタズタになった気脈も最低限処置出来た……いやー、なんとかなるもんですねぇ!
唖然とした顔で自分を見つめる騎士二人に、成し遂げたぜ! とかほざいて実に良い笑顔で親指を立てグッジョブする犬。
腹立つ程見事なドヤ顔だ。普段のアンナなら、感謝しつつ皮肉の一つも飛ばしていただろう。
……でも、今回だけは……そう、今回だけは、ちょっと色々重なり過ぎて、我慢できそうになかった。
膝を着いたまま、何が嬉しいのかニコニコ笑顔でアンナと少女を見比べているアホ犬の胸倉に手を伸ばし、掴んで引き寄せる。
色々と溢れそうな感情のままに、意外とがっしりしてるその身体を抱き寄せた。
――ファッ!?
眼を白黒させて素っ頓狂な叫び声を上げる友人の耳元へと、諸々万感の思いを込めて囁く。
「……ありがと」
五秒か、十秒か。
暫しの間、足元に伸びる重なった影はそのままで。
「お、おぉ……す、素晴らしい! なんだ今の能力は!? そ、そ、それも《報復》の機能か!? 一体どういった――」
右の手足の関節が三つほど増えているというのに、眼を血走らせて興奮した様子で詰め寄ってくる博士の声を切欠に、電光石火の勢いで影は離れた。
「や、や、やはり肉体の魔装化などより、ま、魔鎧の研究こそが計画のテーマに迫る事が、か、可能なのだ! "曲剣"の様な失敗作ではなく、次わぎぇ!!?」
喚き続ける博士の顔面へとアンナのグーがめり込み、鞘に収まった儘のトニーの剣が鳩尾を抉り、とどめに青年が股間を蹴り上げる。
鼻血と泡を吹いてぶっ倒れるマッドサイエンティストを見下ろし、青年が殺っちまったら駄目なんかコレ……と冷えた目付きで呟いた。
「研究者の中では相当な上役っぽいッスからね。取れる情報も多いし、出来れば生かして捕らえたいッスよ――まぁ、司法取引無しで確実に極刑ッスけど」
拷問して情報を搾れるだけ搾り切ったらそのまま獄中死コースが濃厚、という事だ。因果応報の度合いが重いか軽いか、判断の別れる処ではある。
「ま、これで本拠地らしきこの場所も制圧完了、って事ッスかね。後は――」
台詞の途中であったトニーの頭が、背後からぐわしっとばかりに鷲掴みにされた。
其処にいたのは、一命を取り留めた少女を青年に預け、仁王立ちとなったアンナである。
青年に背を向け、会話の内容を気取られ無い位置で彼女の口がパクパクと形だけ開かれた。
(さっき見たのは忘れろ。誰かに言ったらコロス)
(……イエス・マム! 墓まで持っていくと誓います!)
冗談の一切ない真顔でおそろしい脅しをかけてくる上司に対し、光の速さで屈してその場で渾身の敬礼を決める部下。
「――よし。それじゃ、残敵はどうなってるか分かる?」
めぼしいのはほぼ全部狩り終えたと思うでー、と手を挙げて応える青年の声に、アンナは一つ頷いた。
「なら、入口を簡単に封鎖だけして脱出しましょう。その娘の治療も急いだほうが良いし」
亜麻色の髪の少女は青年の手によって安定した状態にこそなったが、重症には違いない。
出血量も相当なものだったので、出来ればレティシアかアリアに診てもらうべきだった。
「幸いといって良いのか、そろそろ夜明けも近いッスからね。聖女様方の儀式も終わりが近いでしょうし、どの道、時間的にも作戦終了間近ッス」
「決まりね。急ぐよ」
善は急げとばかりに駆けだそうとするアンナに向け、青年がビシッと挙手して元気よく宣言する。
――アンナ先生! さっきの反動があるので鎧ちゃんの再展開にちょっと時間掛かります! ぶっちゃけ先生の超ハイペースマラソンについて行ける気がしません!
「堂々と情けない宣言するな駄犬。ったく、しょうがない」
青年から再び少女の身を預かると、アンナは自分のより上背のあるその身体を確りと背負い直す。
――副官ちゃんもちょこちょこ怪我しとるけど、おんぶして大丈夫なん?
「普段の訓練で担いでる岩と比べれば軽いモンよ――なんならアンタも運んであげましょうか? お姫様だっこで」
――羞恥心で死ぬのでやめて下さいお願いします! ぼく頑張ってはしりゅ!
そんな、何時もの空気の会話を交わし、彼と彼女は少しだけ笑い合って。
「さて、凱旋、なんて言える程格好は付かないけど……帰りましょう、帝都に!」
銀髪の少女の明るい声と共に、凸凹トリオは足取り軽く帰路への道を走りだしたのだった。