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闘技大会/不穏の胎動



 空には頻繁に花火が打ち上がり、国の認可を受けた大規模なものから商会や個人といった大小様々な規模の催しがそこかしこで開かれ。

 帝都の住人も、やってきた観光客も、大戦以降初と言って良い大規模な祝祭と訪れた平和を改めて噛みしめ、満喫していた。

 日が落ちても夜を徹して開かれる店も多く、開催期間中、帝都は比喩抜きで眠らない街と化している。


 かくいう俺やシア達も、昨日は初日って事でとにかくあちこち駆け回って祭りの空気ってやつを味わった。

 プランも予定も無く、屋台で馬鹿みたいに買い込んだ懐かしいお祭り定番の品々を抱え、興味を惹かれた催しや店なんかに突撃する。

 リアも大概はしゃいでいたが、シアが思ってたよりずっとテンション高かったな。ちょっとびっくりする位に。

 まー、祭りなんて俺としても何年ぶりだよって感じだし、楽しいのは当然なんだが……シアの場合は『繰り返し』の主観時間も含めるとほんっとうに久しぶりの平和な大イベントだ。

 そういった感慨も含めれば、歓びも一入だろう。お顔も魂も非常に輝いていらっしゃるので、傍で見ている俺的には初日からクライマックスなくらいに満足感が高い。


 こっちの世界じゃ、何事もない日は割と早めの就寝が基本だったんだが……昨日は夜にやってる催しとか店も見て回った御蔭でちょいと寝不足だ。シアとリアも少し眠そうだった。

 そんな感じで、夜明けまで一日中遊び倒して。仮眠をとってまた街に繰り出し、今度は綺麗に飾られた街の名所や、花火が映えるスポットなんかを見て廻って、開催期間の序盤で寝不足ダウンも勿体ないので、日が落ちるとちょっとだけ早めに就寝して。


 ――で、三日目の今日。


 現在俺は、《大豊穣祭》開催式の際に尖塔の上に立ってたときの様に、帝国の旗が翻るポールの上で待機していた。

 見晴らしの良い高所特有の、やや冷たさを伴った強い風が吹き抜ける。

 いや、別に高い処で腕組強者ムーヴするのが気に入ったって訳じゃ無いのよ、別に。

 ナントカと煙じゃあるまいし、特段高所が好きって訳でも無い。あれよ、お仕事の一環ってやつだ。


 眼下に見下ろすは人、人、人の群れ。

《大豊穣祭》最大の催し物である、闘技大会を見に来た人達だ。

 喧嘩と花火は祭りの華、なんて言葉もあるくらいだし、やはりこの手のイベントの人気度は高い。

 大会規定として殺しは御法度だというのも見る側からして安心できる要素だろうしね。

 それを『温い』とか言う奴もいそうなもんだが、今の処は聞かないな。というか、つい二年前まで殺伐とした戦争を大陸全土でやってた訳だし、皆そういうのはお腹いっぱいなんだろう。


 こうやってある程度の高所から入場客を見下ろしているのは、普通に依頼主側――帝国からの指示だ。

 俺が依頼されたのは会場の警備だし、てっきり闘技場(コロッセオ)内で見回りでもするのかと思ってたんだけど……お行儀の悪い連中に、《猟犬》が見張ってますよーという事を分かり易く周知させる為にこんな場所で待機する事になっている。

 実際、入場客の中には大分出来上がって赤ら顔で騒いでる連中とかもいるので、有効ではあった。


 ……っと、言ってる側から酔っ払い集団が順番待ちの行列に割り込もうとして、騒ぎになっとるな。


 警備の兵の一人が駆け寄って険悪な雰囲気になってる割り込んだ側と割り込まれた側の間に割って入ってるが……酔っ払い連中の方は酒と人数のせいで気が大きくなってるのか、注意もまともに聞こうとしない。

 赤ら顔の集団の一人が唾を飛ばしながら警備の兵隊さんに詰めより、瓶を振り上げた――はい、アウトー。

 微量の魔力、そこに鎧ちゃんの魔鎧としての威圧を込める形で集団に向けて飛ばす。所謂気当たり……闘技会の予選代わりに行ったガン飛ばしのアレだ。

 流石にあの場で行った威嚇より大分控え目ではあるものの、相手はただの酔っ払いだ。瞬時に顔色が悪くなってへたり込むか、その場にバタバタとぶっ倒れて気絶する。

 応援に駆け付けた他の警備兵や巡回の騎士が、動けなくなった酔客達をふん捕まえて回収していく。 

 皆さん最後に一斉にポールの上の俺に敬礼をして、速やかに酔っ払いを運んで行った。こっちも仕事だから気にしなくて良いのよ?

 先程から何度か同じ事をしたせいか、闘技場(コロッセオ)の入口へと並ぶ人々は実にお行儀よく整理券を受け取り、綺麗に列を作って警備の人の誘導通りに進んでいる。

 まぁ、ゆうても見に来てる人間の数が数だ。暫くすると後からやってきた奴がトラブルを起こして、度が過ぎたら俺がガン飛ばして……さっきから基本、これの繰り返しである。


 幸いなことに、今日は一番バタバタしている最初の入場客ラッシュが終われば捌けて良いらしいので、大会の開会式と選手紹介は見る事が出来そうだ。

 あと一時間とちょいって処か。それまで真面目にお仕事しますかね。


 こっちを指さして「すげぇ」だの「本物だ」だの、ツチノコ見た様な反応してる大勢の観光客は努めてスルーして。

 開会式までに屋台に寄る時間があるといいなーとか頭の端で考えつつも、眼下の人波にしっかりと眼を光らせるのだった。







◆◆◆



 時刻は昼前、予想以上に観客の入りが多かったのか、闘技大会の開会式は予定より少々遅れた時間帯に始まった。

 元いた世界の下手なドーム球場なんかより収容人数の多そうな闘技場(コロッセオ)だが、席はとうに埋まり尽くし、階段状の観客エリアは立ち見客でごった返している。

 オレ達は最前列に頑丈な仕切りを作られた来賓用の特別席でゆったりと寛いでいるので、少々申し訳なく感じてしまうな。


『さぁさ、やって参りましたー! 《大豊穣祭》最大の催しにして我が国的に一番金掛けたんだから一番の収益を期待したい闘技大会!』

『はっはっはっは! これは歯に衣着せぬ御意見! 率直が過ぎて皇帝陛下に叱られてしまいそうですが、拙僧の杞憂ですかな?』


 座席を超過して人で溢れ返った闘技場(コロッセオ)

 快晴の空が仰げる会場の下、出場者がその武を奮う舞台に最も近い、此方と同じ最前列の観客席――そこに誂えられた実況席で、知り合い二人が並んで拡声の魔道具を使って声を張り上げている。


『初の試みって事で色々と規約や制限もあるけど、本戦出場者は皆腕利きだからねー、期待してもいいと思うし――あ、本日の実況解説は、可愛いあたしちゃんことシャマダハル=パタとー』

『聖教会にて司祭の位を頂いております、ガンテス=グラッブスと申します! いやはや、かくいう拙僧もこの催しを楽しみとしていた身でありまして。出場者たる皆々様の戦武に眼を惹かれ、お役目たる試合運びの語りが疎かにならぬよう心掛けたい処であります!』

『この二名でお送りしまーす――ちなみにあたしは絶賛彼氏募集中だゾ☆ 我こそはと思う腕っぷしと甲斐性に自信のあるイケメン、声を掛けてねー!』


 お道化たシャマダハル――シャマの声が拡声されて闘技場(コロッセオ)に響くと、笑いと共に歓声の混じった声がそこかしこから上がる。

 相変わらずだな、あいつも……しかし、彼氏募集という発言に食い付いてる男性諸君には気の毒だが、シャマは《刃衆(エッジス)》所属だ。

 彼女の言う腕っぷしと甲斐性とは、世間一般の基準とは著しく乖離していると思われる。

 派手系ではあるが美人だし、本人も付き合う相手が欲しいと口にしてるのを何度か聞いたこともあるからな。難易度を知っても挑む気概がある奴が現れる事を祈っておこう。


「帝国側の解説の人ってシャマダハルさんだったのかぁ……なんというか、相変わらずギャルっぽい感じの人だね」

「褐色肌で金髪な上、あの言動だからな。どっからあの手の喋りを知ったんだろうなぁ……」


 隣に座ったアリアと顔を寄せ合って首を傾げる。

 まさかあのトークが天然由来という事はあるまい。初めて会った段階で既にあんな感じだったし、平成の渋谷あたりから転移してきた女性でも知り合いに居るんだろうか?

 この間、ちょっとゴタゴタが起こった北区の工房にて、久しぶりに顔を合わせた知人の来歴について(おとうと)と語り合っていると、同じく来賓用の特別席……その左右から声が上がった。


「うわ……凄い人数……これだけの人達の前できちんとガンテス様の御手伝いとか出来るんでしょうか……い、今から緊張が……」

「おい、《不死身》。この出場者一覧のコイツ、魔族領(ウチ)のやつか? 流石に名前だけじゃ分からん」

「え、どれですか頭領(ボス)……あー、確か《万器》さんの処の新入りの子だった様な……ちょっと前に見なくなったと思ったんですが、帝国に来てたのか」


 オレ達の左側に腹の辺りを手で撫でさすっている妙齢のエルフの御婦人と、その御付きの同じくエルフの若者。

 右側には鳶色の髪と眼をした魔族と、その背後に控える年若い魔族。

 言う迄もなく、どちらとも知り合いである。エルフと魔族、それぞれの代表と言って良い立場にある連中だ。


 オレとアリアを挟んだ席に座った両者、右端に座る魔族の方――《魔王》が席から身を乗り出して、左端の席を覗き込む。


「エルフの最長老さんよ。腹痛いなら開会式が始まる前に厠に行ってきたらどうだ? 単に調子が悪いってんなら隣の聖女に回復魔法の一つでも掛けてもらえよ」

「い、いえ、大丈夫ですよ《魔王》陛下。お気遣い感謝します」


 特に含むものも無く掛けられる気遣いの言葉に、エルフ――サルビアがひどく恐縮した様子で応じる。

 まぁ、現在の関係とこれまでの両種族の確執……というかエルフが魔族を一方的に毛嫌いしていた歴史的背景を顧みれば、サルビアの反応の方が普通だよな。

 この場で顔合わせとしたときから、普通に挨拶して席に座った《魔王》がおかしいんだよ。


 とはいえ、何となく理由は予想は出来る。

 このバグキャラからすれば、人外級――自身の遊び相手になれる実力者すらいない今のエルフ達は、良くも悪くも界樹の一件が起こるまでは眼中にすら無かったんだろう。

 あの件で送られてきたエルフ保守派からの怪文書で「舐められたから潰しとくか」位の認識になっただけで、その問題も片付いた現在、当人からすれば再びエルフへの扱いはフラットに戻ったという事か。


「そう硬くなるなって。魔族領(ウチ)としてはそっちが友好的な態度に切り替えるってんなら過去の事は蒸し返さない、って方針に決まってるからな」

「……そう言って頂けると、正直こちらとしても助かります――こうしてお会いしてつくづく思いましたが、なんで貴殿相手に喧嘩売ってどうにか出来ると思ったんでしょうね聖地(こっち)の老人達は……」


 軽い調子で肩を竦める《魔王》を、改めてじっくりと見つめ、サルビアが深々と溜息を吐き出した。

 多くの非戦闘員・一般人が周囲にいる環境なので、地元である魔族領に居るときより数段丁寧に全身の魔力を制御しているが……魔法に秀でた者や優れた探知能力を有する者なら、その身に押し込めたふざけた魔力量を察する事は容易だ。

 完全に制御されて尚、煮え立つ溶岩を想起させるそれは、言ってしまえば本人の意思一つで鎮火も大噴火も可能な、霊峰級の活火山である。これが敵意を持って向かって来るなど悪夢以外の何物でも無いだろう。

 そうでもなければ、大戦時に邪神からあの龍の御姫様と並んで最警戒対象としてマークされ続けるはずも無い。


 そういえば、サルビアは無事、グラッブス司祭に付き添って実況解説に参加する事にはなった。皆であれこれと根回ししたりして骨を折った甲斐があったな、うん。

 で、決まりはしたが、まともに外界に出てきていきなり難易度の高い仕事ではある、と言う事で初日はその仕事ぶりをこの席から観察する事になったみたいだ。

 何にせよ、ある意味ではオレ達よりよほど困難な人物に懸想している最長老殿には是非とも頑張ってもらいたい処である。


「少なくとも、アンタが頭にいる間は仲良くやる予定だから安心しろよ――なんせ姫の御身内だからな! あの御顔が曇るなんて想像したくもねぇぜ!」

「は、はぁ……姫、ですか……?」

「すいません、ウチの頭領(ボス)性癖(持病)のせいで偶に気持ち悪い妄言を吐き出す生物なんです。本当にすいません、聞き流してください」

「え、舎弟(ぶか)が辛辣……ひどくね?」


 ひどくねーよ、残当だよロリ〇ン野郎。


「あー……そっか、リリィが丁度"刺さっちゃう"のか……シグジリアさん達が苦労しそうだなぁ……」

「おいアリア、反応しなくていいぞ。《不死身》の奴が言う通り、戦いが絡む事以外は《魔王(この男)》の発言は九割妄言だと思って聞き流しとけ」


 小声でのやり取りだったのだが席が隣合った距離でこの男が聞き逃す筈もなく、サルビアに向けられていた視線が俺達に転じられてしまった。シッシッ、こっち見んな。


「おい聖女姉。お前もさぁ……もう三年以上は前か? 猟犬と結託してやたらと妹と接触させない様にしてたが……何でそんな酷いことするの? あの頃に出会ってれば俺の中のランキングに変動が起こってたのは確実だったのに」


 頑張って手に入れた若返りの薬は捨てちまうしよぉ。と、嘆きやらなんやらを込めた双眸でアリアを見つめる変態野郎の視線を遮る様に手を翳す。何のランキングだってんだよ全く。


「アンタがそんなんだからアリアと会わせなかったんだろうが。リリィの事もそうだが、あんまりにも目に余るようなら《亡霊》の奴にチクるからな」

「なんとかもう一回……今度は二人分手に入れるからよ、やっぱちょっと若返ってみねぇ?」

「話聞けや、変態」


 くそ、割と本気で威嚇しても平然としてやがる。なんて性質の悪いロ〇コンだ。

 変態ではあるが、ドン引きはしても嫌悪感なんかは不思議と感じないのがまた厄介なのだ。

 伊達に魔族領のトップじゃないって事だろう……折角の人誑しの才、カリスマと言い替えても良いであろうその身に纏う空気を、性癖の絡む言動でほぼ相殺してる事に関しては既に指摘する気すら起きない。


 こっちに向けて身を乗り出して尚も言い募ろうとする《魔王》だったが、背後から唐突に伸ばされた掌に頭を鷲掴みにされる。


 ――はいはーい、リアの教育に悪いので半径二キロ以内ではお口にチャックして呼吸も止めましょうねー、クソ焼き鳥様ー。


 ごぎゅり、という鈍い音を立てて魔族の長の首を180度半回転させたのは相棒である。


「おかえり、警備の仕事はもう良いのか?」


 ――おう、ただいま。無事に終わったぞい。ついでにダッシュで屋台街に行って色々と買うてきたで。やっぱ焼きそばは無かったけど。


「お疲れ様にぃちゃん。中華麺だもんねぇ……あったらラーメンにも転用出来そうだったのにね」


 依頼されていた仕事終えた相棒をアリアと二人で労っていると、首が真後ろに向いて背後の相棒と顔面が向かい合わせとなった《魔王》が半眼になって文句を飛ばしてきた。


「おいコラ、人様の頸椎外して捻っておいて和気藹々と会話を始めんなよお前ら。一応俺は魔族領のアタマなんだが?」


 ――魔族領の性癖オワコン鳥アタマが何かほざいていらっしゃるんですが、その辺どうなんですかねぇ《不死身》サン?


 相棒の問いかけに、《魔王》の背後に控えた青年――《不死身》が厳かに、真顔で一つ頷く。


「もう一回捻って一回転させると静かになると思います」

舎弟(ぶか)戦友(ダチ)が揃って辛辣ってレベルじゃねぇ」


 ぶちぶちと愚痴らしきものを零しながらボキゴキと無造作に自身の首を逆方向に捻って元に戻す変態に、相棒は買い込んで来た屋台の品を一つ、押し付けた。


 ――ホレ、たこ焼きあげるから大人しく開会式を見てなさいってば《魔王》様。次、シアとリアにおたくの趣味の絡んだ発言したら、半径二キロ以内では鼓動も止めてもらうからな。


「流石に心臓止めるのはしんどいんだが?」


 忠告に対して嫌そうに顔を顰める《魔王》だったが、たこ焼き自体は普通に受け取ってさっさと食い始める。というかしんどいで済むのかよ。本当に生身の生き物かアンタは。

 ちなみに暫く無言なサルビアだが、あんまりにも出鱈目な《魔王》の生態に、従者の若者ともどもドン引きしていた。

 気持ちは理解できる。オレも初めてみたときは意味分からなくて困惑したし。


 この場にいる全員分、飯や飲み物を買って来た相棒が適当に品を配り終えてオレ達の背後の席に座ると、丁度選手一同の入場が始まったみたいだ。


『いよいよ始まる闘技大会! 今回は初回って事で捻りも無いネーミングだけど、将来的にはきちんとした名称を決めるらしいからねー! そこら辺は次回以降に乞うご期待!』

『うむ、一般の方から名称を募るという案も伺っております。次の大祭ともなれば必然、年を跨ぐ故、じっくりと吟味する事も可能でしょう。大陸中の皆様の見識溢るる御意見、帝国と教国の共同でお待ちしておりますれば!』


 シャマのぶっちゃけが過ぎるトークと真面目で筋肉なグラッブス司祭では、相性的にどうなるのかと思ったりもしたが、意外と息が合ってるな。

 というか、これは司祭が相槌の形で合わせてる感じか。この辺は人生の先輩の年季って奴を感じるなぁ、何気にコミュ力も高いのは流石である。


『それでは先ずは予選突破した強者共の紹介からいってみよー! ……選手、入場ぉーっ!!』


 楽士隊によるドラムロールが打ち鳴らされ、勇壮な音楽が鳴り響く。

 竜と獅子の彫刻が鎮座する東西の入口から交互に選手が入場してくると、会場内に詰めかけた犇めく観客達から、津波の如き歓声があがる。


『さぁ、最初に現れたのはブラウィン=リヴハム! 帝国では名の知れた冒険者パーティーの剣士だー! 今回はチームを代表して個人戦の一番得意な彼が参加、見事に予選を勝ち残ってきた感じ!』

『熟練の冒険者は手札の多彩さが強みですからな。単なる剣士だと油断出来ぬ札があるかと――拙僧の古くからの友人もそういった"怖さ"を有する御仁でしたぞ!』


 魔装の鎧を着こんだ戦士――ブラウィンが観客の歓声に応えて手を振りながら、武舞台の中心に立つ。

 次いで、既に反対の方角から出て来ていた軽装の女剣士が紹介された。


『お次は北方からの刺客! ヘザー=バーコイド! こっちも冒険者だけどソロメインで活動してる事で結構有名! 本人曰く「本選に残れば後の仕事の実入りが良くなる」だって! ちょー実利的だけどあたし的にはそのクールさ、嫌いじゃないしー!』

『個人で活動する冒険者は独りで多種多様な難事をこなさねばならぬ故、様々な魔道具で取れぬ選択肢を補う場合が多いと聞き及んでおります。中には消耗品の類も少なくは無いでしょう、実利も省みるなれば、一戦ごとにどこまで魔道具の消費を抑えられるかが肝となるかと』


 その後も、次々と予選を勝ち残った選手が紹介されてゆく。

 今回の大会規定として、各国のトップクラスは参加不可となってはいるが……それでも本選の面子は十分に一流処と言っても良い。直接の面識は無いけど、名前は聞いた事のある選手も多かった。


『次! 聖教国中枢は大聖殿からやってきた! チェルシー=ミンスタ! 聖職者の若きエリートがこんな喧嘩大会に参加して良いのかシスター! ……ちなみに司祭様と面識は?』

『ありますな。いやはや、この手の催しにチェルシー殿が参加なさるとは予想外でありました』

『選手コメントは「すいませんなんか成り行きでこうなりました、出来心ですらありません許してください」だそうです! ちょー切実感に溢れてるぅー!』


 物凄い勢いでペコペコと頭を下げながら身を縮こまらせて進み出て来た年若いシスターは、確かに聖殿で見た覚えがある。

 オレと彼女……シスター・ミンスタとは偶に挨拶を交わす程度の間柄だが、その記憶を振り返っても確かにこういった衆目を集めるイベントに自分から参加するタイプには思えないな。どういう流れで大会に出場する事になったんだか。

 少しばかり気の毒そうな笑いの混じる声援を受けつつ、シスターが本戦参加者の列へと並ぶと、次に獅子の方角より進み出て来た選手の姿に一際大きな歓声が上がる。


『さぁー、やってきた! あたしちゃんの可愛い後輩! 我が国が誇る最精鋭、《刃衆(エッジス)》の新たなメンバー! 鉄拳御嬢様ことローレッタ=カッツバルゲルゥ!』

『おぉ、かの御令嬢も今大会の本戦出場者でありましたか! しかも《刃衆(エッジス)》の隊員とは! 私事となりますが、この場で祝いの言葉を述べさせて頂きたく!』

『ちなみに滅茶苦茶美人だけど既に将来有望な年上彼氏持ちだー! 黄色い悲鳴上げた奴らは陛下(へーか)に直で声掛けされるレベルになってから出直せー!』


 喜色に溢れた解説二人の言葉と、闘技場(コロッセオ)から降り注ぐ歓声に応える様に魔装の甲拳(ナックルダスター)に包まれた両拳を打ち合わせたのは、こっちの世界でも中々見ないレベルの見事な金髪縦ロールのお嬢様だった。

 観客のボルテージが一段高い。舞台に向けられる声援がビリビリと空気を震わせているのを感じる。

刃衆(エッジス)》は大戦終盤に創設されたにも関わらず、その数年で数えきれない程の武功を打ち立てた帝国騎士の"顔"とも呼べる連中だ。

 帝国の民からすれば、分かり易い自国の英雄達だもんな。そりゃ人気も出る。


「あ、ローレッタさんだ! 見てみて、にぃちゃん、ローレッタさんやっぱり《刃衆(エッジス)》の隊服も似合ってるねっ」


 眼を輝かせたアリアが、相棒と一緒になってぶんぶんと手を振っている。

 オレが彼女を見かけたのは、北区の工房で他の《刃衆(エッジス)》隊員と一緒に行動してるときだったんだが……そうか、あのときのお嬢さんが例の味噌と醤油を作ってる学者さんの関係者だったのか。

 何分、特徴的な髪型なので早々忘れる事も無いと思うが、一応彼女の顔をじーっと見てよく覚えておく。

 日本の二大調味料の再現を可能とした例の学者さんは、転移・転生者にとってかなりの重要人物だ。相棒とアリアが既に十分な友好関係を築いてはいるが、出来ればオレも繋がりを持っておきたい処である。

 醤油ラーメンなんていう一足飛びな贅沢は望まないから、せめてすまし汁が飲みたい。あと刺身。

 個人的には味噌の量産も良いが醤油にも力を入れて欲しいな。

 とはいえ、それは彼女の恩師への話だ。今は(おとうと)達と同じく、この大会に臨む彼女自身を応援しておこう。


『選手紹介も後半になって漸く現れた、喧嘩大好き戦闘種族! 魔族領より《風兎》が参戦だー!』

『名の如く、獣人の戦士の御様子。拙僧の記憶によれば、瞬発力や跳躍力が獣人の中でも群を抜く種族の方々であった筈です。見目の小柄さや愛らしさで侮るは、手痛い教訓となって身に返って来ることでしょう』

『《風兎》選手のコメントによると「この大会での優勝は足掛かり。こいつを看板にして故郷に凱旋して《災禍》に挑む」だそうでーす! 可愛い見た目に反してギラついたハングリー精神! 下馬評を覆してダークホースと成り得るのか! あたし的には高ポイントなのでアリじゃね? 応援したい!』


 舞台へと集結してゆく参加者達をワクワクした顔で眺めつつ、たこ焼きを貪っていた《魔王》が背後の《不死身》の方へと振り向いた。


「だとよ。血の気の多い若いのに狙われる身は大変だな?」

「なんで僕が相手をする前提なんですか……」


 相棒に渡された棒に巻かれたお好み焼きを齧っている《不死身》が、上司の言葉に顔を顰めて返している。

 ちなみに俺とアリアもたこ焼きなんだが、ここのは量が多くて二人でシェアしてる。初日も食いきれなくて結局相棒が片付けてくれたからな。

 あんまりにも懐かしくてついつい前世と同じ量……食い盛りだった男の基準で色々と買い込んだけど、やっぱ今同じ量を食うのは無理があったな、うん。

 ま、まぁでも? 残った品を片付けるのに、たっぷりと相棒にあーんとか出来たし? 無駄にはならなかったというか寧ろお値段を圧倒的に上回るプラス収支だったというか。


「いや、こういうのは順番ってモンがあるだろうよ。立場的には末席(オマエ)が最初に挑まれるべきだろ――それもあの小僧が優勝出来れば、だが」

「《風兎(かれ)》のやる気は買いますけど……流石に優勝は厳しいんじゃないですかね? 明確な格上が複数いるし」


 魔力量や立ち振舞いからしても、あの獣人の若者が相当に腕が立つのは確かだ。

 一口に獣人と言っても、《風兎》は先祖返りの要素が強い――相棒風に言えばケモ度が高いタイプなので、種族的な長所は同族の中でも更に優れている事だろう。

 それでも、オレの眼から見ても彼より総合力は上であろう選手は何人かいる。

 単純な性能比較だけで勝敗が決まるほど、戦いというやつは単純では無いが、優勝となると厳しそうなのは同感だ。


 ボリュームたっぷりのたこ焼きを食いつくした《魔王》が、口の端についたソースを舐めとりながら「そういえば」と切り出して相棒の方に視線を向ける。


「格上云々で思い出したんだが、予選のときに俺とお前がやった『篩い』で、中々面白そうな奴を見つけてな。ダークホースってんなら、案外そいつがそうなるかもしれねぇぞ」


 言葉の通りに愉快そうに片頬を吊り上げて言い放たれた内容に、水を向けられた相棒は勿論の事、その場の面々は揃って怪訝な顔をした。

 面白そう、ってのはまた具体性に欠ける評価だな。性格や気質じゃなくて武力を表わす指標としては尚更に。

 で、それはあの場にいる誰なんだよ? という相棒の当然の疑問には答えず《魔王》は「折角だ、当てて見ろよ」とだけ返して椅子の上で胡坐をかいて頬杖をつく。

 気になることを言い出した本人が武舞台へと視線を移してしまったので、オレ達も自然とそちらに意識を戻す事になった。

 シャマとグラッブス司祭がノリノリで進行役を務めていた選手紹介も、佳境に入った様だ。


『――お次の選手はちょっと趣向を変えて二人同時に紹介! ブライシオとボルドの名傭兵コンビ! どっちもきっちり予選を突破してきた凄腕だけど、今回はちょっぴり運が悪かった! 一回戦からかち合う羽目になった二人がどう立ち回るのか、乞うご期待!』

『先のジャック選手と同じく、御二方とも帝国領の南部からの参加の御様子。帝国が誇る騎士の皆様のみならず、冒険者や傭兵といった国家に所属せぬ戦力の層の厚さも垣間見た思いですな!』


 先程から更に数名の選手紹介を終え、場内の観客も良い具合にあったまってるのが見て取れる。

 それに影響されたのか、シャマの奴もいつもより割り増しで高いテンションのまま、いよいよシード枠――優勝候補の紹介に移った。


『さぁ、いよいよ来ますは優勝候補の片割れ! 予選免除でシード権も得ている参加者だしー!』


 竜の彫刻が聳える方角から、颯爽とその選手が進み出る。

 自信に満ち溢れた所作と、それを張りぼてにしないだけの高い魔力をその身に宿し、その背には相当な業物――おそらくはドワーフ製であろう両手剣。

 こっちの世界でも十分に美男子、と言っても通じるであろう甘いマスクの青年は、黒髪黒瞳の転移者だった。


『ぶちのめした邪神の軍勢、落とした女の子の数は共に数知れず! 冒険者組合期待の星にして、今最も特級冒険者に近い男! 《水剣》シンヤ=アイミヤ、満を持しての登場だぁーっ!!』


 様々な人が犇めく闘技場(コロッセオ)にて、本日最大の歓声が上がる。

 声量の主力となっているのは、年若い女の子が多い。

 逆に男からはちょっと受けが良くないみたいだ。中にはブーイングを飛ばしてる奴もいる。皆、近くに居る女性客に睨み付けられて直ぐに大人しくなってるが。

 でも、野次を飛ばしてる男連中も心底本気で言ってる奴なんて極一部みたいだ。殆どの声はどっちかというと口の悪い激励、といった感じだろうか?

 そこら辺はアイミヤ選手自身も理解しているのか、苦笑交じりで場内の声に応えて手を振っていた。


 ――ヘイ、捥げ爆ぜろイケメン! 決勝まで勝ち上がって副官ちゃんにボコボコにされるがいい! 


「お前も野次ンのかよ」


 楽しそうに口笛付きで舞台上の同郷へと声を張り上げる相棒に、ロ〇コン野郎が呆れた声色でツッコミを入れている。


 ――ちょっと話した事ある、位だけど、シンヤ君が異性に黄色い声を上げられて、同性には笑顔で中指立てられるキャラなのは知っとる! 本人以外は女の子しかいないハーレムPT野郎だからね! 仕方ないね! モッゲーロ、モゲロ、モッゲーロッ、ヘイッ!!


 変なリズムに乗って手拍子する《聖女の猟犬(バカたれ)》に便乗して「そうなのか……じゃぁ俺もやるか!」とか言って、手拍子に乗り始める《魔王(へんたい)》という地獄みたいな光景が出来上がった。

 これはひどい。公にはなっていないとはいえ、これが邪神を倒した奴と倒す事の出来る奴だってんだから更に酷い。

 よくある英雄像とかでこいつら二人をイメージしてる奴が見たら、発狂するか真っ白になるだろこんなん。

 手拍子して今にも躍り出しそうなあんぽんたん共を、仕切り内の席にいる全員が馬鹿をみる目付きで眺めているのだが……すっかり悪ノリしてる学生みたいなテンションになってる二人はどこ吹く風といった様子だ。


 ……でもまぁ、なんだ。うん。

 馬鹿だとは思うし、呆れもしてるが。

 屈託なく笑って、楽しんでいる相棒を見ていると悪い気はしない。

 きっと、オレやアリアが初日にはしゃいでいたときは、相棒の方がこんな気分だったんだろう。

 オレたち三人だけにしか分からない、一種のシンパシーにも近い感情。それに、小さな歓びが胸に湧き上がる。

 我ながら拗らせてると思うが、今更だ。

 こっそりとそんな事を考えていると、アリアも似たような事を考えていたらしく、眼が合い――オレ達はちょっとだけ笑い合った。


 その間にも拡声の魔法で音量アップした相槌の声が、テンポよく選手に関する補足を入れる。

 マジで初実況とは思えない位に板についてるなぁ……ちょっと失礼な物言いだが、司祭の筋肉方面以外での活躍とかなんだか新鮮だ。


『アイミヤ殿は"後一年も戦争が続けば、特級に昇進するのは確実だった"と、まことしやかに囁かれる程の腕前ですからな! 今大会最強の一角とされるのも妥当かと!』


 解説内容から察するに、グラッブス司祭もアイミヤと知り合いみたいだ。オレと相棒も彼とは戦場で面識を得たし、オレ達が参加してる戦線に加わってたってことはバリバリの最前線で戦えるだけの実力の持ち主って事だろうし。確かにこの大会の規定(レギュレーション)の中では、最高レベル――優勝候補と言って良いだろう。

 実況の二人からの太鼓判を聞いた他の参加者達から闘志・戦意に溢れたギラギラした視線を叩きつけられるも、爽やかに笑ってそれを受け流した彼が出場者たちの列に加わる。

 九割方出そろった本戦出場者達を眺め、海産物系の串焼きを興味深そうに齧っていたサルビアがしみじみと呟いた。


「……こうして見ると、やはり前衛職の方が花形となる大会なのでしょうね。弓使いか魔導士の多いエルフは、本戦に出たとしても勝ち残るのは厳しそうです」

「まあ、種族単位での適正とかはあるからなぁ……開催地が教国になった場合は、帝国との催しのジャンルの棲み分けも兼ねて中衛・後衛が活躍できるような大会をやるのもいいかもな」

「あ、それならいっそ、闘技大会じゃなくて距離や数で加点方式の的当てとかでも良いかもね」

「おぉ、それならば我らエルフの得意とする勝負が出来そうです……次回以降、教国で大祭が開かれる際には、腕自慢の同胞が外界に出る事も増えるやも知れませんな」


 アリアや御付きの若者も加えて、次回以降の《大豊穣祭》について意見を交わしていると、選手紹介はいよいよ最後の一人――この大会のド本命の番がやってきた。

 拡声の魔道具を鷲掴みにして、すっかりボルテージのあがりきったシャマがノリノリで叫ぶ。


『次で最後! お出でますはもう一人のシード選手にして優勝候補! っていうかこの人の参加は規定(レギュ)違反じゃね? とかしょーじき誰もが思ってる! 開催国の強みを活かし過ぎたグレーゾーンにも程があるぞ帝国ぅ!』

『はっはっはっは! 実に率直! 此処よりお見えになる関係者各位が揃って額を押さえておりますれば、シャマダハル殿が後でお叱りを受けぬか心配になりますな!』


 ただでさえ大音声なのに、拡声されて爆音みたいになったグラッブス司祭の大笑が闘技場(コロッセオ)内に響き渡るが、その音すら打ち消すほどに観客席の喧噪と熱気は高まっている。

 選手の一同紹介――言ってしまえば前置きの段階でこれだ。試合が実際に始まったらどれだけヒートアップするのやら。

 勿論オレもこの空気を楽しんでいる側なのだが、立ち見の観客達は興奮し過ぎて集団転倒とかにはならない様に気を付けて欲しい処だ。騎士と魔導士が一定間隔で配置されてるから、最悪でも大怪我や死人は出ないとは思うけどさ。


『泣く子も黙り、敵対者は泣き喚き! 怒る姿に部下は白目を剥く! 《刃衆(エッジス)》の鬼の副長、邪神の信奉者にとっての死神の一人!』


 言葉と共に吐き出し切った吐息を再び音を立てて吸い込み、実況解説を行う褐色美人が一拍、溜めを作った。


『――知らねぇ(モグリ)はしっかり見て覚えとけ! 《銀牙》アンナ=エンハウンス!!』


 ビシィッ! っと音が鳴りそうな勢いで獅子の彫刻が座する選手入場口が指し示される。


 そして現れた、銀髪をサイドに纏めた少女の姿に。

 先のアイミヤ選手を上回る、爆発的な歓声が上がった。


 真っ直ぐに正面を見て歩を進めるアンナは、出向中は羽織る事の少なかった黒い外套(コート)――《刃衆(エッジス)》の隊服を普段の騎士服の上から身に着け、腰には愛用の二振りの剣をぶら下げていた。

 愛想良く、という程では無いが、割れんばかりの拍手歓声が降り注ぐ中、軽く手を振ってそれに応えている。

 正面を向いていた眼が実況席に向けられ、何事かを呟いた。


 ――えーと……あ・と・で・お・ぼ・え・て・ろ、か……テンションに任せてやっちまったなぁダハルさん!


 いち早く唇の動きを読み取った相棒が、両手を合わせてナンマンダブーと祈る仕草を見せる。

 実際、読唇はほぼ当たっているんだろう。シャマの顔が目に見えて引き攣ったしな。調子に乗ってぶっ飛んだ実況を続けてるからだぞー。

 選手入場口からそう長くも無い武舞台までの間、これでもかと拍手やら声援の雨を浴びたアンナが居並ぶ参加者達に加わり、これで闘技大会の出場者が出揃った。


『い、以上十四名で優勝の座が争われるし! どれも見応えのある勝負になるから一試合たりとも見逃すなー!』

『うむ、こうして腕に覚えある方々が集う様は壮観ですな! 戦場に永く身を置いていた者として、血潮が滾るのを押さえきれませぬ』


 動揺の為か、シャマがやや震えた声だったが……幸いして興奮しきった観客がそれに気づく事は無かった様だ。

 選手紹介を〆る司祭の言葉に、《魔王》の奴が深々と頷いている。


「完全同意する。俺も参加したかったなー」

「大会自体も会場も滅茶苦茶になるから絶対にやめて下さい頭領(ボス)

「わぁーってるよ。ちょっとした愚痴みてぇなもんだ、本気にするな」

「愚痴や冗談に聞こえないんだよなぁ……!」


 一緒に来ている他の《災禍の席》……《狂槍》はリリィが一般席で観戦する為、そっちに付き添っているらしい。

 確か帝国に来てから出来た友達に、一緒に観戦しようと誘われたんだったか? あの娘も順調に外界に馴染んできてる様で何よりである。

 その分、一人で自分の処の頭領を押さえる羽目になっている《不死身》だが……それでもリリィと離してある方がまだマシだと判断したんだろうな。

 とはいえ、困った上司の面倒を見るという厄介な仕事は変わらない。虚空を見上げてボヤく《不死身》の表情と声は、なんというか切実だった。

 ひどく疲れた表情で、ちょっと冷めてしまったお好み焼きの残りをモソモソと口にしている。

 お疲れ様だな。酷な事を言う様だが、そのまま《大豊穣祭》が終わるまでなんとか抑えきってもらいたいものだ。

 この変態不死鳥擬きがはっちゃけるととにかく規模がデカくなりがちだし、何より、派手に色々と壊れる。

 魔族領内だとそんな騒ぎも半ば風物詩と化しているが、流石に国外では不味いだろうし……頑張ってくれ、うん。

《大豊穣祭》に併せて刷られた帝都案内書を捲りながら、アリアが闘技大会の日程を確認する。


「えーと、日を跨いで、数試合に分けて進行していく感じだね。今日は一回戦の前半までの予定、って書いてあるよ」


 大会日程まで書かれてるのかよ。ここ数日で大分お世話になった本ではあるが、本当に祭り用に特化してるというか、実質分厚いパンフレットみたいなもんだな。

 その言葉通り、選手紹介と大会開始の宣言を終えた武舞台上では出場者達が一時的に撤収を始めていた。


『二十分後には早速第一回戦が始まるから、観客の皆さんは今のうちに飲み食いするモノ用意するなりなんなりすると良いしー。試合が佳境に入ったタイミングで厠に行きたくなったりしたら最悪だぞ☆』

『会場内では巡回販売も行われております、飲食物が入用なれば、近くを通った販売員の方に声を御掛けすると良いでしょう!』


 グラッブス司祭の声を受け、相棒が片手をあげる。


 ――なんか飲み物買って来るわー、欲しいもんある人おるー?


 確かに。屋台の食い物全般、味が濃いからな。試合が終わるまでの間、何か一つくらいは飲み物が欲しい処だ。


「じゃ、オレはお茶系が良いかな」

「ボクはレモネード! あったらで良いよ」

「酒。麦酒(エール)飲みてぇ」

「自重しろ頭領(ボス)。あ、僕はなんでもいいです」

「あー……私もお茶系統で……エルフ的には聖者様を顎で使うとか普通に胃痛案件なんですけどね、本当は」

「何ぶん、御本人が望まぬお話です、我らも倣って常の通りを心がけましょう……水でお願いします」


 ――バラバラかよワロタ。まぁいいや、ひとっ走り行って来る。


 浮足立った喧噪に満たされた闘技場(コロッセオ)

 二十分後には、再び熱気と歓声が唸りを上げて天にも昇るのであろう。

 その中心にある、腕利きの猛者が武勇を交わす事になる、今は無人の武舞台を眺める。


 それぞれに注目する点や愉しみ方は違うだろうが、何処かワクワクとする気分だけは、きっと皆に共通している感覚なんだろう。

 そんな風に、大事な奴らが欠けずに隣にいる平和の時代ってやつを、何度噛みしめても飽きない歓びを、もう一度しっかりと噛みしめて。

 自分でも少し緩んでいると分かる表情のまま、オレは晴れ渡った青い空を見上げたのだった。







◆◆◆




 夜も更けた帝都。


 本来ならばとうに夜の帳が降り、酒を出す一部店を除けば僅かな街灯の光と月と星だけが静かに輝く時間。

 そんな時間となっても、昼と比べれば賑やかさは減れど少なくない光源が灯され、未だ街は活気に包まれている。

《大豊穣祭》の間は眠らぬ街となった帝国首都であるが、その喧噪と輝きから少々外れた場所、城壁の直ぐ外である郊外にて。


「初日の闘技会は大盛り上がりだったみたいッスねぇ……ローレッタ嬢にはバフナリーの一件で迷惑をかけたし、副長と合わせて、応援くらいはしたかったんスけど……」


 ま、こっちの仕事も大事だから仕方ねーッスね、と肩を竦めたのは、狐を思わせる面貌の男だ。


 黒い外套(コート)を羽織った騎士の青年――トニーは、現在自身が追いかけている事件と関係があると思われる場所へと訪れていた。

 今日から始まった《狂槍》の『散歩』によって、数多く拿捕された人攫いを行っていたゴロツキ連中。

 彼らの万倍凶悪な魔族領のチンピラの手によって、その四肢だけでなく、精神の方まで丁寧にきっちりと()()()()男達は、屯所の兵やトニーの尋問にも実に素直に答えてくれた。


 力尽くで捕らえるのが楽であるから孤児を中心に狙っていた事。

 ある程度の健康状態が維持されていれば、"仕事"自体は老若男女、種族問わずに行っていた事。

 聞けば聞くほど不愉快な話ではあったが、ゴロツキの中でも集めた"商品"を引き渡すまとめ役の様な者達が早々に捕まったのは朗報だった。

 情報の欺瞞を警戒して、複数のそういった立場の悪漢共に、しっかりと尋問を行い――辿り着いたのが此処、帝都に繋がる水路近くに建てられた廃屋である。


 元は城壁外にて水路を管理・清掃する者の為に作られた小屋らしいが、実際に見ると廃屋というほど傷んではいない。

 水路を挟んだ反対側にもっと設備の整ったものが建てられた為、放置されているらしい。

 灯りの類も少なく、夜ともなれば人の気配など無いも同然の場所だ。後ろ暗い取引を行う場としては適した場所なのだろう。


 尋問の結果、得られた情報によれば、こういった"商品"を取引する場所は複数存在し、時期や天候によって指定される場所は様々に変わるらしいが……祭りの準備期間からこっち、昼も夜も騒がしい都市内は避けられ、こういった郊外にある場所での取引が主となっているらしい。

 トニーが訪れたのは、今夜、その取引相手が訪れる可能性が高いと思われる場所だった。


 路地裏などの悪所での話とは言え、陽も高いうちから子供達を攫っているゴロツキ共と比べ、金を出している雇い主の方は随分と慎重な立ち回りだ。

 或いは、この慎重さが今までの基本姿勢だったのかもしれない。今回の粗雑な連中を数ばかり雇った行動で、事が明るみになった、という事か。

 だが、幾ら慎重だとしても帝国の兵が細目に巡回している都市内部でそういった取引を行っていた、というのは少々解せない点もある。

 いくつか聞き出した取引場所は、確かに人目を避けた悪所・暗所の類ばかりであった。

 だが、広い水路に繋がる下水道などは、頻度が高くないとはいえ衛兵の巡回も行われている。そういった場所に孤児や浮浪者が住み着く程度なら可愛いもので、犯罪者が潜伏場所に利用する、などといった可能性もあるからだ。

 前言の通り兵の巡回頻度自体は高くないが、ある程度の不規則性を以て行われるソレにかち合う可能性を考慮すれば、都市内での"商品"の取引はどう考えてもリスクが大きい筈。

 魔法か斥候技術か。巡回の兵を完全に避けて立ち回れるだけの探知系統の技能持ちがいるのか、或いは……。


(見回りや巡回の任に就いてる騎士や兵の、勤務の日取りや担当区域を把握してる……?)


 そこまで考えて、流石に思考を飛躍させすぎたかと苦笑いが漏れた。

 個人単位の物ならば、誰がどういった任に当たっているか、知ることも不可能では無い。

 例えば、酒場で同僚と酒を飲む際に「次は何処其処の見回りだ」と愚痴を溢す者だっているだろう。

 だが、勤務状況全体となると管理は王城のものだ。どうやっても犯罪組織の類に入手出来る情報ではない。

 それこそ、王城内にある程度自由に出入り出来る者が定期的に情報提供を行ってでもいなければ、この方法は成り立たないのだ。

 これでは推論というより悲観的な妄想だ。最悪を想定し過ぎて思考が斜め下に滑るのは、裏方を長くやってる人間にありがちな悪癖である。

 自省の念と共にトニーは頭を振った。


(此処にくる連中も黒幕本人って訳じゃないだろうし、出来れば尾行……無理なら捕縛して尋問――なんとか尻尾を掴みたい処ッスね)


 あの孤児の少年……カイルとの約束もある。

 なんとか交代無しで自身がこの任を続けられるよう、上に伺いを立ててはいるが……新たに引っ張られた任務の方も中々に厄介事らしく、難しいかもしれない。

 せめて引継ぎまでの期間を数日でも延ばしてくれる事を祈っておこう、とそこまで考えて、一旦その事は頭から締め出す。


 少々思考に意識を割き過ぎた。今は任務に集中すべし、と気配を殺し、廃屋の側にある樹の陰へと身を隠す事、小一時間。

 複数の気配が廃屋の近くに出現し、それを察したのか、草木や植え込みから響いていた虫達の涼やかな鳴き声が途絶える。


(――お、ココが当たりだったッスか)


 現れたのは、ありふれた旅用の外套――そのフードを目深に被った集団。

 それほど強力なものでは無いとはいえ、隠蔽の魔法まで使ってのご登場であった。

 雇ったゴロツキ連中がまだやってこない事に、苛立った様子で何人かの者達が声を潜めてやりとりしている。

 折角の黒幕に繋がる手掛かりだ、先ずは些細なことでも情報を集めようとトニーは耳を澄ました。


「……やはりおらんでは無いか。どうやら纏めて兵に捕らえられたというのはガセでは無いらしい」

「面倒な事になったな……一人二人ならともかく、あの人数を牢から出す様に働きかけるのは不可能だ。《赤獅子》の耳に入らぬ筈が無い」

「となると、あの連中はそのまま切り捨てか……それ自体は良いとしても、"素材"の取引場所も全て破棄せねばならんのは痛いですな」

「そもそもあの様な連中など雇うべきでは無かった。孤児などよりあの手の連中を余程"素材"に用いるべきだろうに。あの御方もらしくもない……何を焦っておられるのやら」


 男達は声を抑えてはいるが、不満や不安を洩らすその語気は荒い。

 色々と気になる単語がチラホラと聞こえ、彼らの背後にあるのが予想より一段上の組織図であると、脳内の情報に一部修正を加える。


(そうなるってーと、この場で連中をとっ捕まえても、こいつらも蜥蜴の尻尾切りされる可能性は高いッスね……当初の予定通り、このまま尾行して背後関係を掴むのが最善か)


 さっさと移動を開始して欲しいのが本音ではあるが、フードの集団が無駄口をたたいてくれるほど、此方の得る情報は増える。

 どうせなら"あの御方"とやらの名前をポロっと口にしてくれねーかな、などと考えながら、隠形を保ったまま耳を傾けていると。




「――昨日の今日でもう此処を嗅ぎ付けたのか。なんとも仕事が早いねぇ」




 そんな、聞き覚えの無い声が直ぐ背後から届いた。

 背筋を電流の様な怖気が奔り、咄嗟に前方へと身を投げ出す。


 同時に身を捻りながら腰の剣を抜刀。自身の背に向かって突きこまれた刃が防具を貫き、浅く肉を抉るが、かろうじて身を貫かれる事は避け、鋼同士が打ち合わされる音を立てて相手の剣を弾く事に成功した。

 背中に感じる灼熱感は無視し、そのまま剣を構えて距離を取る。

 トニーの背後を容易くとったのは、廃屋前に屯する集団と同じく目深にフードを被った男だ。


「ッ、何事だ!?」

「曲者か!? どこの所属だ!」


 静かな郊外で剣を打ち合えば派手に音が鳴り響く。ローブ姿の男達が気付かぬ訳もなかった。

 曲者はお前らの方だろーが、などと思いつつ舌打ち一つ漏らすトニーであったが、相対した男は泰然とした様子でフードから覗く無精髭に覆われた顎先を撫でる。


「このおにいちゃん、相当やるぞ――捕まって盾にでもされたら面倒だ。それが嫌なら下がってな」


 軽い口調ではあるが、男からは邪魔になるなら仲間ごと斬り捨てる、という意志がありありと透けて見えた。

 顔を青褪めさせて距離を取るローブ姿の男達を尻目に、見える口元を笑みの形に吊り上げて、男はいっそ気さくな空気すら感じさせて口を開く。


「完全に殺ったと思ったんだがな……装備が硬かったってのもあるが、良い反応だ――うん、やっぱ奇襲の類は苦手だな。性に合わん」

「わざわざ刺す前に声を出しておいて言う台詞ッスかね、ソレ?」


(動脈は無事、出血はあるが許容範囲。肩、動く。腕、動く。戦闘に支障なし――問題は)


 男の軽口に皮肉で応じつつ、摺り足で間合いを図りながら負傷の具合を自己診断。

 痛みはあるが、戦闘能力の低下はほぼ無し。このローブの集団がどういった者達なのか、未だに判断出来る要素が足りないが……少なくともこの場にいる戦闘員はこの男一人のみ。

 一瞬で判断を終えると、トニーは躊躇せずに懐に手を入れた。


「お?」


 首を傾げた男に向けて、小さな暗褐色をした、球状の物体を放る。

 一瞬の後、帝都にで上がる花火の音に紛れるようにして火薬の炸裂音が響き渡り、凄まじい光量が珠を割って飛び出した。

 幻惑魔法を用いて作られた疑似花火を再調整して作られたそれは、美しさや鮮やかさとは無縁の、瞬間光量だけを上げた視覚を突き刺す極光の炸裂だ。

 道具の発動と同時に目を伏せ、地を蹴って背後へと跳び下がったトニーだったが、膨れ上がった光を切り裂いて鋼の刃が強襲する。


「――ッぅ!」

「驚いたな、こっちにも閃光手榴弾(フラッシュ・バン)の類があるとはねぇ」


 かろうじて受け止めた剣と鍔競り合うと、楽しそうに笑う男を至近距離で睨み付けた。


「あんな実力も糞も無い不意討ち(スタブ)で正確に実力差を把握。即時撤退を選択か――厄介だねぇ、おたく」

「……その髪、転移者ッスか」

「……さっきの光の効果か。やっぱり怖いねぇ……帝国最精鋭に偽り無しってわけだ」


 フードから覗く自身の髪の色が、ブラウンから黒に変わっている事に気付いた男が、感心と驚きを織り交ぜた表情で苦笑いする。

 鍔競りを押し切られそうになりながらも強引に膝を跳ね上げ、相手の脇腹を蹴りつけるとトニーは再度男との間合いを広げた。

 だが、それもあくまで相手がこちらの出方を伺っている故に成功したのだと理解している。

 そう、身体は動く。隠形は破られたが戦闘に支障はない。問題なのは――。


(俺じゃ、どうやっても勝てねぇ……!)


 表情は変えず、内心で歯噛みする。

 間違いない――目の前の男は自身の上司である黒髪の少女や部隊の顧問、そしてここ数ヵ月で急速に増えたおっかない知り合い達と同レベルの実力者だ。

 こんな人攫いやってる犯罪者集団に、何故こんなとんでもないのが混じっているのか。

 当然の疑問が胸中に湧くが、聞いた処でまともな答えが返って来るとは思えなかった。


 じりじりと後退しながら離脱の機を伺うトニーに向け、幻惑魔法による変装を剝がされた男が剣の切っ先を持ち上げて突き付ける。


「知られちゃ色々と面倒になる事を、あんたは知り過ぎた。《刃衆(エッジス)》である事を差し引いても――悪いが、この場から帰せないねぇ」

「最初っから逃がす気なんて無いだろうに、よく言うッスね」

「ははっ――違いない」


 肩を竦めて男が笑い、次の瞬間には眼前から消えた。

 視覚では追い切れないその踏み込みを、トニーは靴底が地を抉った音の響きと刀身が空気を裂く気配、死線を感じ取って鋭敏化した五感全てで以て予測を立て、己の身体と男の一撃の間に剣を差し込む。

 先程までと同じくかろうじて――だが完全には逸らし切れずに刃に身を削られて、月明かりの下、帝都城壁外にて幾つもの赤い滴が宙を舞う。

 大きく後退しながらなんとか四肢や首が切り飛ばされるのだけは凌ぐトニーだったが……打ち合って何合目かに武器の方が先に音を上げた。


 マイン氏族のドワーフの手によって鍛えられた魔装の剣が、ただの数打ちの鋼で以て半ばから斬り落とされる。


 それに瞠目する暇もなく、腰の投擲刃(スローイングナイフ)を抜いて投擲。だが、当然の様に打ち落された。


「終わりだな」


 短く告げ、正面から凄まじい速度で踏み込んで来た男が剣を一閃させ。


(――此処っ!)


 全力で後方に跳躍しながら、男の一撃を折れた剣で受けたトニーの身体が、剣身とそれを握った右腕ごと切り裂かれる。

 だが、それが彼の狙いだった。

 本来なら魔装の防具すら容易く突破し、胴を両断するであろう威力の一撃を、残った剣身と背後に跳んだ身体を介して鋭利な斬撃(スラッシュ)ではなく相手を吹き飛ばす剛撃(ノックバック)として受け止める。

 鮮血を撒き散らしながら叩き飛ばされたトニーの背後には――帝都と繋がる水路があった。

 返り血で半身を朱に染めた男が瞬時にそれを察し、躊躇なく追撃に移る。


 ――が、次の瞬間、血に染まって裂けたトニーの懐から先程の物と同じ、暗褐色の球体が数個、零れ落ち。


「あ」と、呆れた様な、感心した様な男の呟きが零れ。

 ぶった斬られ、血まみれになって宙を舞うトニーが、動く左腕を使って男に向かって中指をおっ立てた。


 耳をつんざく爆音と、周囲一帯を白く染める光の爆発が両者の間にて炸裂する。

 その光に呑まれ、視覚と聴覚を乱打されながらも、若き騎士の身体は水路へと落下し、派手に水柱を上げた。


「……やれやれ、本当におっかないねぇ……」


 流石に多少は効果があったのか、両の眼を眇めた男が水路に広がる波紋を覗き込む。

 確かにあの最後っ屁には面食らったが、それでも男からすれば追撃自体は不可能では無かった。

 だが、あの一瞬、あの状況で騎士の青年に刃を届かせようとすれば、攻撃は刺突一択に絞られる。

 あの閃光手榴弾(フラッシュ・バン)擬きで視覚と聴覚を封じられた瞬間だ。その刺突にしても急所を()()()()可能性があった。

 そして、最後に見せたあの眼。

 あれは、男が突きを打っていれば、ぶっ刺されても反撃を試みるであろう眼である。

 野郎相手に刺して刺されて、冷たい水底に仲良くドボン、なんていうのは男としても遠慮したいオチだ。


 結果的には逃がした形となったが……彼としては先の事はそれほど心配していなかった。


「夜は冷え込む秋口、あの深手、あの出血で流れのある水路に飛び込むなんぞ、よくやる」


 しかも落下の直前、自身も眼と耳を一時的に潰されていた筈だ。

 十中八九、失血死か、直ぐに意識を失って溺死だろう。

 それに万が一、あの狐顔の青年が生き延びたとしても――。


「それはそれで()()()事になりそう、か」


 どう転んでも自分に損はない。

 そんな風に確信を抱いた男は、近い将来帝都に訪れるであろう騒乱の予感に無精髭に包まれた顎をひと撫でし――愉快そうに笑った。




 ――感じたのは冷たい水の感触。


 確実な離脱の為とはいえ、一時的に五感の内ふたつ――視覚と聴覚を麻痺させた状態での入水は、一瞬で前後左右不覚となり、本来ならそう苦労する事もない水流が全身を絡め取った。

 水の冷たさと、身体から流れ出てゆく熱と血液の感触を殊更に強く感じながら、トニーは必死に動く片腕で水を掻き、水路の側面に手を付こうと藻掻く。


(ま……ず…………っ!)


 暗闇の中、上下すら曖昧な状態で、水路を流されて何処に居る最中なのかも解からず、意識だけが遠のいている事に焦る。

 上司や仲間の顔、友人の顔、自分を斬った男の顔――そして最後に、泣きそうな顔で頭を下げる幼い少年の顔が脳裏を巡り。


(く……そ……)


 ゴボリ、と。口から血の混じった大きな気泡を吐き出して、トニーの意識は暗転した。







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