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再会 筋肉の場合(前編)




 屋敷の中を、一人の少女が小走りで駆けていた。

 淡い金糸の髪を翻し、白を基調とした僧衣に包まれた両の脚を慌ただしく交互に動かす彼女の顔は、焦燥に染まっている。

 この半月足らずの逗留で、それなりに過ごし慣れて来た建物の中を最短ルートで駆け抜けると、少女――巷では金色の聖女とも呼ばれるレティシア=ディズリングは自身が寝泊まりしている部屋の扉を勢いよく開け放ち、中へと飛び込んだ。


 その慌ただしい動作からしても相当に焦りに駆られている事が伺えるが、奇妙な事に深刻さは感じられない。

 彼女が寝台の脇に置いてある自身の鞄を引っ繰り返し、中から取り出したのは真球の宝珠――緊急の連絡用として聖都へと繋がる遠話の魔道具であった。

 何があったのか、動揺も大きいせいで起動の為の手順にもややモタつくが……なんとか発動の準備を終え、待ってる時間も惜しいとばかりにその身の莫大な魔力を叩き込む。


 宝珠が明滅し、気が急いているときの電話のコール音の如きもどかしさを感じながらも、待つこと十数秒。


 起動した魔道具が、聖殿の奥ノ院にある宝珠の片割れへと魔力的な繋がりを発生。無事に通話の機能を確立させた。


『おはよう、まだ朝も早いが……何かあったのかな?』

教皇猊下(ジイさん)、オレだ! とんでもない事が起こった!」


 聞こえて来た声が望んでいた人物であったことに少しだけホッとしつつ、それでも収まらぬ焦りのままにレティシアは口早に告げる。

 宝珠の向こうから聞こえる声の主は、一応は聖教会のトップに立つ人物だ。

 普段は完全なプライベートでも無い限りは、多少は取り繕った態度で応対しているのだが……今はその余裕も無いのか、初っ端から素のままである。


『落ち着きなさい。何があったにせよ、平常心を欠いたままでは正確な情報は伝わらないよ』


 そんな諫めの言葉と共に、僅かに食器が擦れる音が聞こえる。どうやら声の主はモーニングティーの最中であった様だ。

 聖女たるレティシアがこれ程露骨に焦りを見せる緊急の連絡を寄越してきたのにも関わらず、泰然とした声色を崩さない。

 年の功か、或いは当人の気質か。教会の最大権力者たる教皇としての貫禄を感じる対応ではあったのだが――。




「グラッブス司祭がプロポーズされた! しかもエルフのお偉いさんに!!」

『――――ブッフゥゥゥゥゥゥッ!?!?』




 放たれたとんでもない発言に、教皇――ヴェネディエ=フューチ=ヘイロウは口に含んだ紅茶を全力で噴き出し、アーチを描いて宝珠に降り注いだ液体はビチャビチャとあまり聞きたくない音を立てた。







 事の発端は一時間程前に遡る。


 今日も朝から元気に鍛錬に精を出す肉弾戦車が時折大地を震わせる微かな振動を感じつつ、レティシアは妹のアリアと相棒たる青年と共に、屋敷の客間にて寛いでいた。

 本日の予定は全員揃ってフリー。とはいえ、本番である《大豊穣祭》前から仕事の合間を縫って全力で遊び倒していては、肝心の祭りの際にスタミナ切れを起こしてしまう。


 レティシアとしては青年と二人きりで買い物など行ければ最も満足いく休日となるのだが、遅れてやって来た妹も合流した現状、彼を独り占めというのも難しく……なにより肝心の青年が何やら気疲れする事でもあったのか、少々精彩を欠いている。

 本人は自覚も無い程度の微かなものだろうが、レティシアからすれば直ぐに気付く。伊達に何年も相棒として傍にいないのだ。

 厄介な事に自覚症状が出る程に不調ならば、誰にも気付かれないように慎重に立ち回る男ではあるが、今回は本当に精神的にちょっと疲れた、程度なのだろう。

 ……更に非常に不満な事に、当の本人は使っている武装を相棒(バディ)呼びして憚らないが、それはこの場では関係ない事なので割愛するとして。


 折角の休みではあるが、休養も大事だ。夕方までのんびりと屋敷内で過ごし、夕飯は皆で何処かに食べにいこうかと、三人で談笑しながら大雑把に今日の予定を決めていると。


「御歓談中、失礼します。お客様がお見えですが、お通し致しますか?」

「客? こんな朝……って、前もやったなこのやり取り。誰が来たんだ?」


 逗留中、屋敷の管理を任されている執事さんの言葉に、以前朝早くやってきた友人の事を思い出しつつ、誰が訪ねて来たのかを問いかける。

 相棒の青年がナイスミドル! 名前はセバスチャンに違いない間違いない等と常々言っている、いつもピシッと燕尾服を着こなした壮年の男性は、柔和な笑顔で音無く一礼した。


「大陸中央、大森林より来賓として招かれました、エルフの一団の方々でございます。代表の最長老様曰く、以前、交流があったと伺っておりますが……」

「わ、サルビアさん来たんだ。よく陛下が招待状だしたなぁ、あんなにエルフと関わるの嫌そうだったのに……」


 意外、という表情と言葉を隠しもせずに大きな瞳をぱちくりとさせる妹に、レティシアとしても同感である。

 大森林のエルフの御神木たる界樹に関する一件で関わった、サルビア=エルダを筆頭とするエルフ達の派閥の一つである開明派。

 今はそのサルビアが最長老としてエルフのトップに就任した為、名称等は変わっているかもしれないが、半ば敵対状態に近かったもう片方の派閥の保守派と比べ、非常に良好な関係を結べた者達である。

 同行した帝国側の人員――ミヤコやトニーも同じように開明派とは友好的に過ごした仲なので、彼女達が渋る皇帝陛下に進言したのだろう。


 ――思ったより早い再会になったな……いや、百年森から出られねぇ! とか嘆いてたから良かったわ、マジで。


「だな。サルビア達なら問題ないから通してやってくれ。森のエルフは朝早いから食事とかは済ませてるだろうし、お茶だけ用意してもらえるかな?」

「かしこまりました、それではそのように」


 その場のノリと勢いでサルビアを最長老に推薦した青年も、任命した責任的なものは感じていたのか、彼女と外界で再会できる事を素直に喜んでいる。

 やって来た人数によってはここの客間では手狭になるだろう、という事で広間に移動しようと聖女姉妹と青年が腰を上げようとしたときであった。




「ヒョ、ひょえぇぇぇえええぇぇっ!?!!?」




 甲高い、素っ頓狂な叫びがその場にいた者達の耳に届く。

 おそらくは屋敷の玄関口の方から聞こえて来たソレは、大層な驚愕と混乱、そして何故か、微かに喜色の混じった黄色い悲鳴であった。


「……今のって、サルビアさんの声だよね?」

「……多分な。大森林(あっち)じゃ何回もあの人の叫び声を聞いたが、全く聞いた事の無い妙な感じの悲鳴だったけど」


 ――取り敢えず行ってみるべ。声の感じからして荒事ではなさそうだし。


 熾烈な戦いを経験してきた戦士の勘、というやつであろうか。

 なんとなく、深刻だったり血を見る様な類のトラブルでは無いと感じとった三名は、それほど慌てる事も無く顔を見合わせて、今度こそ揃って立ち上がる。


「聖女様方が御自らお出迎えですか? では、僭越ですが私共は広間にてお客様をもてなす準備をさせて頂きます」


 同じく、動揺を見せる事無く執事の男性が、やはり音も無く一礼した。







 聖女一行が客人達を出迎える為、屋敷の玄関へと向かうと。

 そこには話に聞いていた通り、共に汚染された界樹の除染にあたった開明派のエルフ達の姿が見える。


 それと、もう一人。


 来客があった事を察して鍛錬を切り上げたのか、それとも一通り筋トレを終えて戻って来る最中に偶然遭遇したのか、一際目立つ巨躯の姿があった。

 人類種でも最高峰の剛力剛体の持ち主――聖教会司祭、ガンテス=グラッブスである。

 毎朝、自前で遮音の結界が必要になる様な轟音や振動が轟く鍛錬を欠かさない鋼の如き筋骨隆々の武僧は、滝の様な汗を流して濡れそぼった上衣を小脇に抱え、全身から暑苦しい熱波を放出しながら来客への対応を行っていた。


「いや、まっこと申し訳なく。お客人が参られたにも関わらず、この様な姿での不調法。拙僧とした事が迂闊でありました」

「いえ、唐突に伺った此方に非がありますので、お気になさらず……我ら聖地住まいのエルフは、火や灯りを多用する暮らしに疎いので日の出・日の入りを基準とした生活なのですが……この時間帯は街に暮らす方々にとって、やや非常識な来客時間なのですね。お恥ずかしい限りです」

「なんの、拙僧も太陽が顔を覗かせる時刻には起床し、鍛錬を始めるように心掛けておりますれば! 確かに人里にて暮らす場合は未だ就寝中の方もいらっしゃるでしょうが、お気になされる程のものではありませんぞ!」


 ガンテスの声量こそ何時も通り大きいが、実に和気藹々と和やかな雰囲気で会話を交わしている。

 相手をしているのは、レティシア達が界樹の浄化を行った際にも肩を並べて戦ったエルフの若者だ。実質的にサルビアの右腕に近い役割を担っていた人物であると、三人とも記憶している。


 そして、本来前に出てこういった挨拶や交流を積極的に行うべきであろう、新米最長老殿はというと。


「あ、あわ。あわわわっあっばばばっはわああわばばばばb」


 処理落ちした動画みたいに延々とはわあわ言いながら顔を真っ赤にして硬直している。

 両手で顔を隠す様は、一見、突如として遭遇した上半身裸のゴリッゴリの筋肉の塊を直視しないように目を塞いでいる様に見えるが……指の隙間から見える瞳は瞬き一つせずに食い入る様にガンテスを凝視している。なんなら半ば隠されているというのに物理的な圧すら発生しそうな眼力の強さであった。


 明らかに挙動不審なサルビアに気付かぬ筈も無い。

 視線を向けられている武僧が困った様に、或いは申し訳なさそうに眉根を寄せ、心なしかその逞し過ぎる肩を落として自身の禿頭を後ろ手に掻く。


「むぅ……後ろの御婦人には見苦しいものをお見せしてしまい、心苦しいですな。屋敷を管理する方々に後はお任せします故、拙僧は汗を落として衣を変えて参ります」

「いえ、先程も言いましたがお気になさらず。ほら、サルビア様っ、司祭殿が行ってしまいますよ、折角の再か「見苦しい等という事はありません!! 全然っまったく! これっぽっちも!!」す、から……」


 自戒を込めた言葉に対し、エルフの若者が何某かの言葉を返そうとした瞬間、処理落ちしていた最長老が再起動して食い気味にガンテスの言を否定する。


「ま、まともにご挨拶も返せずに申し訳ありません……な、慣れぬ外界で、少々疲労が溜まっているようでして……」

「む、そうでありましたか。いや、永く森に住まう暮らしを続けていた皆々様が、新たなる一歩を踏み出す為に力を振り絞るは察するに余りありますれば。どうか御自愛ください」


 前に出たは良いが、今度はまともに眼を合わせられずに視線を忙しなく泳がせてボソボソと呟くサルビアに、ガンテスは角張った厳つい顔に人好きのする笑みを浮かべて両の掌を合わせ、目の前の女性の壮健を願って祈りを捧げる仕草を見せる。


「では、改めましてご挨拶を。拙僧はガンテス=グラッブスと申します。聖教会にて過分ながら司祭の位を頂いておりまする――以前お会いした際に、名乗る事すらせずに戦地を後にした不義理、どうかご容赦をば」


 穏やかに告げられた名乗りに対し、エルフの最長老の反応は劇的であった。

 有り体にいって酷くキョドっていた仕草がピタリと止まり、大きく見開かれた瞳が漸く眼前の人型筋肉要塞とはっきりしっかりと見つめ合う。


「お、覚えていらっしゃったのですか……?」

「えぇ、勿論ですとも! 愚僧は戦地にて戦武を奮うばかりの無骨者ではありますが、戦場(いくさば)にて肩を並べた方々は敬意と共にこの胸に刻み込む様、心掛けております」


 見目麗しきエルフの御婦人ともなれば、脳裏より忘却する事こそが難事でありますな! と笑って続けられた言葉は、彼なりのジョークを交えた社交辞令のつもりだったのだろう。

 だが、何か大いに刺さるものがあったのか、向かい合うサルビアは瞳を潤ませて両の手を組み合わせ、ひどく感激した面持ちで絞り出すように名乗りを返す事となった。


「う、うるわ……! こ、光栄でしゅ! わ、私はサルビア=エルダと申します! エルダの氏族の出身にて、現在は聖地のエルフにおける最長老の役職に就いています……!」


 名を交わす事に、特別な思い入れでもあったのか。

 エルフの最長老は、まるで長年の念願叶ったといわんばかりに、噛みしめる様に口の中でちいさくガンテスの名を反芻する。


 この時点でレティシアやその隣のアリア、そしてこういった機微に関してはクソ雑魚にも程がある青年ですら、サルビアの態度に何かしら察するものがあったのか、互いに顔を見合わせた後、信じられないものを見る様に筋肉と最長老の二人を眺めていた。

 なのだが、当人達の片割れであるガンテスはその空気に気付く事もなく、快活に笑って利き腕を差し出す。


「うむ。件の御神木に関する経緯はレティシア様やアリア様よりお聞きしております。お若い身で種族をまとめるは、さぞ心労多き事でしょう。政には役にも立たぬ身でありますが、サルビア殿が望むエルフと外界の新たな交わりの成就、そして戦場(いくさば)にて結んだ交誼を平和となった世でも紡いでゆける事、女神に願うばかりです」


 差し出された分厚く、厳つい掌を、その角張った顔と交互に見つめ。

 なにやら感極まった様子のサルビアは、両の手で包み込む様にして筋肉武僧の掌を握り返し、瞳を潤ませて上擦った声で応える。


「はい、はい……! 私もそう願っています、()()()そう思っていました……!! ふ、ふちゅちゅかものですが、す、すえながく! ガンテス様とおちゅきあいを続けられる事を、界樹と女神にお誓いしたいと……!!」


 すげー噛んでるけど、なんだかちょっと告白みたいな事言ってんなコレ、と思ったのは、周囲のほぼ全ての人間であり。

 彼女に同行していたエルフ達は、界樹と女神に誓う、という言葉に心底驚いた様子であんぐりと口を開けて自分達の最長老の顔を注視する。


 おそらくは大森林のエルフ達特有の、特別な誓いや約束言葉の様なものなのだろう。

 つい口から転がり出た、といった風情であったが、直ぐに自分が何を言ったのか自覚したサルビアの顔からサァッと血の気が退き、一拍置いて最初の状態に輪を掛けて真っ赤に染まる。

 茹で上げた蛸か、はたまたよく熟した林檎の如く鮮やかに、その長い耳の先端まで血をのぼらせたエルフの最長老は、傍目にもパニックになっていると分かるグルグルと目を廻した様相で小さく悲鳴をあげた。


「ウヒェッ……う、あ、あばばばっばばばばばば」


 左右を見回し、部下の呆気に取られた顔を見。

 眼前の巨漢の背後にいるレティシア達に今更ながら気が付いて、更に混乱と羞恥に拍車を掛け。

 最後に、顔色が赤くなったり青くなったりと忙しいサルビアを心配してか、握手を交わしたまま半歩近づいて、覗き込んでくる再会叶った御仁を見て。


 大部分の思考が茹った中、かろうじて残った冷静な部分が、深呼吸して気を落ち着けよう、と脳裏で囁いたのに従い、深く、勢いよく空気を吸い込んで――その途中で「あ、でもこれ目の前に鍛錬で汗を流したガンテス様がいるじゃん」と気が付いた。


 ――が、時既に遅し。

 結果、どうなったかというと。




「――――――――エ"ン"ッ"!!」




 長命種であるが故、人間と比すればおよそ遥かに長い時間を生き――ここ数十年になるまで浮いた話の一つも無かったエルフの最長老は、唯一その対象と定めた相手の放つ空気を胸いっぱいに吸い込み、鼻血を吹いて失神した。


「ちょぉぉぉっ、サ、サルビア様ぁぁぁッ!?」

「おい、漫画みたいな鼻血の噴き方したぞ!? 回復魔法回復魔法!」

「ぬぅっ、よもやサルビア殿は何某かの病に罹っておいでか!? 急ぎ寝台に運びますれば!」

「……先生が運んだら悪化しそうな気がするなぁ、なんとなく」


 当然といえば当然だが、その場でぶっ倒れた彼女を見て騒然となる周囲の者達。

 焦った様子のガンテスに抱き上げられ、手近なベッドのある部屋に運び込まれるサルビアであったが。

 鼻から下が赤く染まったその顔は、なんかトべるお薬を危険な量まで吸入したかのような幸せそうな表情であった。




 尚、珍しく今までの流れで大体全てを察した、聖女の猟犬たる黒髪の青年はと言うと。




 ――よし、取り敢えず空から雹とか槍とか邪神の眷属とかは降って来てないな……油断は出来んが。


 近くの窓から顔を出すと、まるで異常気象か天変地異が起こる前触れを感じたとばかりに、晴れ渡る晴天の空を警戒感バリバリで見上げ、額の汗を拭っていた。然もあらん。







◆◆◆




 大聖殿、聖教会の秘儀の数々が眠る奥ノ院。


 限られた者だけしか足を踏み入れることが許されない其処は、普段はその場所柄故に静謐に包まれた空間となっている。

 偶にフラリと遊びにくる顔パスの自称・フリーの傭兵の青年がやってきた場合などは、やや賑やかになる場合も多いのだが、現在彼は遠い国の空の下。

 故に、奥ノ院に勤める者達は静かな、そして少し退屈に感じる様になってしまった時間を粛々と過ごしていたのだが。


 参ノ院へと繋がる回廊への大扉がドバァン! と音を立てて開け放たれ、扉の両脇で警護を行っていた僧兵達は何事かと警戒を露わにした。

 が、そこから飛び出て来た人物を視認した瞬間、警戒は混乱へと変わり、彼らは互いに顔を見合わせる。


「げ、猊下? 一体どうなされたのです!?」

「急用が出来た! ちょっと出て来るよ!」


 問答してる時間も惜しいとばかりに、見た事もない焦った表情で走り去っていく教皇の背を見て呆気にとられ、二人は再度顔を見合わせた。


「……一体何があったというのだ……」

「……また何かの悪戯をミラ様かストラグル枢機卿に咎められたのではないか? 慌てて釈明に向かったのだとすれば説明もつく。次にやれば吊るすとミラ様も冷えた口調で仰られていた、必死にもなるだろう」

「そうか、ならばいつもの事だな」

「うむ、我らは務めに戻るとしよう」


 うんうんと頷き合うと、平静を取り戻した僧兵達は開けっ放しであった大扉をそっと閉め直し、再び不動の体勢での警護に戻った。







 運動嫌いを自認する当代教皇のヴェネディエであるが、今はそんな事言ってる場合じゃねぇ! と言わんばかりに走る、走る。

 普段は揺り椅子と同化してるとトイルやルヴィ、スカラといった枢機卿達に半眼で揶揄されている老人は、普段全く気にせずに椅子に揺られている泰然とした態度を何処ぞに放り投げ、年齢にそぐわない程の華麗なダッシュフォームで回廊を走り抜ける。


 最近では滅多に行わなくなった魔力強化で身体能力を底上げし、下手な兵士も顔負けの速度で爆走する爺を見て擦れ違う聖殿の者達は目を見開き、更にそれが聖教会の頂点たる教皇猊下である事に気付いて、皆、顎が外れんばかりに口を開くと二度見した。


 参ノ院をあっと言う前に走り抜けると、息一つ切らさずにそのまま大聖堂方面へと駆け続け、その足は聖殿入口の門へと向かっている。

 ヴェネディエは動揺しながらも声を掛けて来る者達を最低限の返答であしらって全て振り切ると、そのまま聖殿の外へと飛び出そうとして――。


「この糞忙しい時期に、何処に出掛けるおつもりなのかしら糞爺(猊下)ぁ」

「ヘブォ!?」


 無造作に差し込まれた長い脚に引っかかり、加速の勢いもそのままにスッ転んで顔面からヘッドスライディングを決めた。

 引っかけた足をブラブラと揺らし、不機嫌丸出しで鼻を鳴らしたのは、赤いカソックを身に纏った妙齢の美女――三枢機卿の一人、シルヴィー=トランカードである。


「本来なら私もアリアちゃん達と一緒に帝国に向かってる筈なんですよぉ、予定が遅れている以上、外で遊んでる時間なんか無いのがお分かりにならないのかしらぁ、この爺様はぁ」


 自身の豪奢なマゼンタ色の髪を乱雑に払いながら、地面に転がった教皇を睥睨するその顔は、寝不足気味で隈が浮かんでいる。

 そんな状態でも仮眠前や束の間の休息には酒を欠かさないシルヴィーも大概だったりするのだが、彼女の場合は下手にアルコールを断つと逆に仕事の能率が下がるという事が判明している。なので同僚であるトイル・スカラの両名も匙を投げていた。


 部下の手――この場合は脚と言った方がよいか――によって、聖殿の石畳と情熱的な口づけを交わす羽目になった老人は、しかし直ぐに跳ね起きると走り出したときの勢いを全く途切れさせないまま、口早にシルヴィーへと理由を語り始める。


「今はそんなことを言っている場合じゃないんだよ、ルヴィ! 一刻も早くミラに伝えなければないけない事があるんだ!」

「また何かしょうもない悪巧みでもバレたんですかぁ? いい機会だから吊るされると良いのではぁ?」

「僕の周りの子達は皆辛辣だなぁ!?」


 テンションたっけぇなこの爺、と言わんばかりに顔を顰めて応じる美女の素っ気ない対応に、流石に少しばかり冷静さを取り戻したヴェネディエは、軽く咳払い一つすると正面から彼女を見つめて告げる。


「いいかい、落ち着いて聞いてくれ、ルヴィ」

「落ち着くべきなのは猊下の方だと思いますけどぉ。急激に無茶な運動してポックリ逝っても知りませんよぉ」

「ガンテスに、春が、来た」


 区切る様に、だがヴェネディエ自身も現実感に欠ける、といった様子で吐かれた言葉に、シルヴィーは石化の呪を喰らったが如く硬直した。


 シ~ン。とばかりに、両者の間に痛い程の沈黙が降りる。


 ややあって、自力で硬直状態から脱した酔いどれ枢機卿が、酒気なぞ消し飛んだ様子で真顔になって問い返す。


「……申し訳ありません猊下ぁ、ちょっと聞き違いをしてしまった様なので、もう一度よろしいですかぁ?」

「ガンテスがプロポーズされた」

「……何処産の岩人形(ロック・ゴーレム)にぃ? それとも何処かの霊石に宿った精霊の類かしらぁ?」

「御相手はエルフの最長老殿。美人で苦労人、気立ても良いという話だ」


 三枢機卿の紅一点は、今度こそ完全に石化した。

 目と口を限界まで開いて、驚愕のあまり動作不良を起こしたシルヴィーに向け、立ち上がったヴェネディエは聞こえていないだろうとは思いつつも伝言を残して行く。


「とにかく、これから急いでミラに事の次第を伝えて来る。今日は間が悪い事に孤児院の手伝いに出てしまっているからね、早く行って教えてやらないと……!」


 誰か人員(ひと)を使えや教皇。という至極真っ当なツッコミを入れられる者が不在な空間に背を向け、老人は再び走り出す。

 一人残された状態になっても復帰出来ないまま固まっていたシルヴィーであったが……暫くの後、その肩をたたかれ我に返った。


「どうかしたのかね、このような場所でへたり込んで」


 のろのろと彼女が視線をあげた先には、相も変わらずしかめっ面の片眼鏡(モノクル)の男性――同僚の枢機卿、トイル=ストラグルの顔がある。


「ジジ……猊下が聖殿内を全力疾走しているという、意味の分からない報告が届いたのだが……君のその様子と何か関係あるのかね、トランカード枢機卿?」

「……トイルぅ、私、暫く禁酒するわぁ」

「本当に何があった!?」


 同僚の口から何があっても聞く事が無いと思っていた言葉が出てきたことに、驚愕のあまり目を引ん剝いて仰け反るトイルに向け、力無い様子でシルヴィーはゆっくりと首を振る。


「いや、ちょっと変な幻聴を聞いちゃったのよぉ……流石にコレは駄目だと思うから、帝国に出発するまでは断酒してみるわぁ……」

「……一体何を聞いたらその結論に至るのかね? いや短い間とはいえ、酒を断つ事自体には賛成するが」

「司祭様が美人にプロポーズされたってぇ」

「成程、重症だ。帝国に行く迄と言わず、半年ほどかけてじっくりと頭から酒を抜き給え」


 アホらしい戯言を聞いた、といわんばかりに肩を竦めたトイルは、何処かぐったりしたままの同僚を引っ張り起こし、とりあえず朝食を摂りに行こうと食堂へと足を向けるのであった。




 ちなみに余談ではあるが、後日シルヴィーの妄言が真実であったと知らされたトイルは真顔になり、その場で「流石に働き詰めだったか……」と呟いて急遽休みを取る事となる。


 仮にもしこれが邪神の信奉者達……その残党による攪乱情報の類であったのなら、大成功を収めたと言えるだろう。

 なにせ、教会のトップが揃って驚愕のあまり惑乱した行動を取る羽目になったのだから。実際にはただの事実なのだが。


 ともあれ、現地である帝国のとある屋敷の一角と教国上層部に多大な混乱を齎しつつも、数十年越しのエルフの最長老の恋路は漸く幕を開けたのであった。










後編(孤児院、酒場、現地)へ続く。





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