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老兵の残照 母と娘(前編)




 北方のとある小さな村……いや、村であった場所にて。

 嘗ては小さなレンガ造りの家だった、焼け落ちた廃墟の中で少女は目を覚ます。

 この二ヵ月足らずの間で、こういった場所で夜を明かすことにもすっかり慣れてしまった。


 最初の内は鎧を使った反動で刻まれた全身の傷がズキズキと痛みを訴え、殆ど眠る事も出来なかったのだが……今は痛覚自体がひどく鈍化しているのもあり、そう気にならなくなっている。

 日が経つにつれ、どこか感覚が曖昧になっている自覚はあった。

 その代わりと言わんばかりに"誰か"の……自分と同じく魔鎧を使っていた人達の記憶が流れ込んで、それに同調する度に身体の奥に燻り続ける感情は薪を放り込まれた炎の様に燃え盛る。

 その結果、鎧との融合深度は加速し、日ごとに力を増していた。


 これなら、もっと戦える。わたし達から数えきれない位に奪った連中を――邪神とその信奉者達を、もっと。


 暗い意思を滾らせながら、半ば焦げて崩れ落ちた天井に向けて翳した掌を握りしめる。


 此処、彼女の故郷である村の跡地で眠る様になってはや数日。

 村の中に残っていた僅かな無事な物資を利用して、思ったよりはマシな状態で休息を摂れている。

 寝床代わりの藁に、毛布、罅の無い水瓶。

 井戸の水が呪詛に殆ど汚染されていないのも有難かった。この程度なら自分の《三曜》で問題無く散らせる。


 軋む身体を起こして、顔を洗おうと水瓶を覗き込んで……そこに映った自分に苦笑いが漏れた。


(……ひどい顔だな)


 少し瘦せた頬に、目の下には濃い隈。

 紅い瞳だけが、暗い熱を持ち続ける負の感情に熱された様に、爛々と光を放っている。

 伸ばしたまま手入れもせずに放置してある白い髪も手伝って、暗がりで見たら幽鬼の類に見える事だろう。


『せっかく珍しくて綺麗な髪をしているのに、なんでこんなに手入れが適当なんですの! アホか!? ブラン!』

『了解です、お嬢様。はい、ここに座って動かないで下さいねースノウさん。お手入れの道具持ってきますので』


 大切な友達とのやり取りが、ほんの数か月前なのに随分と昔の事のように感じる。

 あの二人に綺麗にしてもらった自分の白い髪は、今は薄汚れてみる影も無い。


(……いたい、な)


 殆ど機能しなくなった筈の痛覚が、不意に胸に痛みを伝えてきた気がした。


 それでも。


 それでも、これはわたしが、わたしの(憎悪)が望んだ事だ。


《魔王》と戦った直後は、彼女が夢を見るたび、憎しみの感情に一際強く胸を焦がされるたび、まるで熱を放つ様に切り裂かれた腕が痛みを持った。

 鈍くなった痛覚を無視するように、魔鎧の侵食に反応して発生するソレに。最初は煩わしさを覚えたが。

 この痛みがあれば、意識が霞むこと無く深く魔鎧に刻まれた記憶達と同調する事が出来る。そう気付いてからは、寧ろそれを利用した部分すらある。

 短期間での連続使用に加え、歴代の魔鎧の使い手――そのほぼ全ての記憶を夢という形で追体験する事で、限界まで融合深度は深まった。

 今の自分であれば、魔鎧の力をもっと引き出せる筈だ……多分、今までの誰よりも。


 自身と歴代の使い手達の憎悪。その両方に背を押され、或いは引きずられて。

 少女は嘗て師に導かれて手を伸ばした強さとは真逆の、無窮の暗闇を堕ちるが如き"力"を以て更なる領域に手をかけようとしていた。


 事実、直近で襲撃を行った戦場においても戦いを始めた当初と比べ、遥かに短い時間での殲滅が可能になっている。


 なら、あとはこの力で少しでも、一匹でも多く、邪神の軍勢を冥府に送ってやると、改めて決意する。()()の、そのときが来るまで。


 ……此処にはもう来ない。多分、来れない。

 だから、此処を出る前に村の共同墓地に埋葬されていた、祖父母や村の皆に会いに行こう、と。考えを巡らせる。

 もし手つかずのままであれば、自分がお墓を作ってあげないと――そんな風に思っていたのだが、教会の人達は村全体の浄化は無理でも、犠牲者の埋葬と墓地の浄化は優先して行ってくれた様だ。これに関しては素直に感謝しかない。


 顔を洗って、水を飲んで。魔鎧を纏わない状態ではひどく重く感じる様になった身体を引き摺るようにして村の端――共同墓地へと向かう。







 そして、ゆっくりと進んだ先。その途中で道を塞ぐように立ち塞がる人を見つけて、少女は立ち竦んだ。


「やはり、此処にいましたね」


 何時も聞いていた、凛とした声だ。

 知ってる。声の通りに厳しい人である事を。

 知っている。声の主が、厳しくて、だけどそれ以上に不器用で、とても優しい人だと。


 それは、多くを喪った彼女に残された、一番大切になった人だった。

 それは、彼女が一番に会いたくて――けれど、会えば自分の中の憎悪(ほのお)を弱めてしまう、会ってはいけない人だった。


 今の自分を見られたくなくて。

 それでも、何度振り切ってもこうやって追いかけて来てくれる事が、どうしようも無く嬉しくて。


 そんなグシャグシャに混乱した感情を抱く事すら、魔鎧を手に取る事を選んだ彼女には、自身と同じ嘗ての"誰か"への裏切りになるのではないかという思いがあった。


 その人は薄汚れた傷だらけの少女を見て、まるで自分が斬り付けられた様に苦し気に唇を嚙みしめて。

 けれど、瞳に浮かんだ様々な感情を全て意思で押さえつけて飲み込み、迷いの無い、強い口調で告げる。


「迎えに来ました――一緒に帰りましょう、スノウ」

「…………み、ら……」


 少女の師、ミラ=ヒッチンがそこにいた。







 正面から師弟が相対すると同時、周辺を囲む様に高度な結界が展開される。

 明らかにスノウをこの場から離脱させない為の代物であった。

 とはいえ、如何に優れた結界でも人外級の戦力が一点突破を狙えば苦も無く突き破られる。当然、《報復(ヴェンジェンス)》を扱う彼女にも突破は容易だ――それが通常の結界であるなら。

 鈍化した五感の代わりに魔力や生命力への探知・感知が異様に鋭敏化している少女には、展開された結界がとんでもない数の結界魔法を圧縮した多重構造である事が感じ取れた。

 この多重展開と……何より行使された魔力には覚えがある。


「やぁ、暫くぶりだねスノウ」

「…………!」


 少女の高まった探知能力を潜り抜ける精度の隠蔽の魔法を行使していたのか、ミラの背後の景色が揺らぎ――其処から現れたのは師の次に交流があった大人達だ。


「……随分と、ボロっちぃ(ナリ)になったな……飯は食えてるのか?」


 仏頂面を更に顰めて、不機嫌そうにスノウの姿を見回す傭兵のおじさん――ラック。


「……報告よりも傷が増えておりますな」


 何時もは快活に笑っている顔を沈痛の表情で陰らせ、言葉少なに聖印を切る助祭様――ガンテス。


「かの鎧の性質を考えれば、仕方ない事だよ――尤も、これ以上増えるのは看過出来ないけどね」


 そして、結界を展開した当人。こんな状況でも飄々とした態度の、運動嫌いの大司教様のヴェネディエ。


 聖教国、最高戦力の四英雄……その全員が、この場に集っていた。


 聖都から遠く離れた、こんな北方の小さな村の跡地にこの四人が揃う。

 それが如何におかしくて、難しいことかは少女にも分かる。


「ど……し、て……」

「……先程も言ったでしょう。貴女を迎えにきました」


 融合深度が深まり過ぎた弊害か、この半月足らずで不自由になった舌を苦労して動かす少女に、女傑が硬い口調で先程も述べた言葉を繰り返す。

 僅かなやり取りでも弟子の状態に気が付いたのか、己や魔鎧への激怒や心痛、嘆きを押し殺して能面の如き無表情となったミラの拳から、肉と骨が軋む音が漏れて血が滴った。


「彼らは、私の我儘に付き合ってくれた形です――それに甘える様ですが、この一件に関しては私も自重する事はやめました」


 始めに拒絶された事で迷い、躊躇い、その結果。

 スノウは、家族同然に思う様になった唯一の弟子は、こうして傷だらけになって独り、破滅同然の道を突き進み続けている。


 だから、ミラも腹を括ったのだ。

 己が為すべき道だと選んだ戦士としての使命も、教会の最高戦力などという過分な立場も。

 全部、一度放り投げる。後にやって来るであろう諸々の皺寄せの事はそのときになって考える。

 この我儘で何処かの戦線で被害が発生したというのなら――叱責も、処罰も、全て甘んじて受け入れよう。

 その上で、譲らない。

 各国上層部が不接触を命じて来ようが、当人であるスノウが拒絶しようが、己の我儘を通す――その為に此処迄やってきた。


 殊更に少女に向けて威嚇している訳ではないのだが、それでもミラが激情を堪えているのは察したのか、少しばかり腰が引けた様子のスノウに向けて常の通り……いや、何時もより遥かに強固な決意を漲らせた言葉を紡いだ。


「私は、私の弟子を呪いの魔鎧などにくれてやるつもりは無い――《報復(ヴェンジェンス)》は引き剥がして封印に叩き込み、貴女を取り戻す」


 宣言する様に告げると、何処か怯んだ様子だった少女の態度が目に見えて硬化する。

 だが、ミラにとってそれも想定の内だ。

 基本、邪神の軍勢以外には蓄積させた負の感情を向けない――言ってしまえば《《他》》は眼中に無い《報復(ヴェンジェンス)》とその使い手が、明確に人類種側へと牙を剥いた事例。

 資料にも残されている数少ないソレは、全て同じ理由だった。

 即ち、使い手と引き離す、封印処置を以て以降の主を見出せない様にするといった行動に対する反撃である。

 根幹である憎悪を向ける対象への報復――それを大きく妨げる相手には、当然の如く魔鎧も対処を行う、という事であろう。

 そしてそれは、魔鎧の精神侵食を著しく受けた使い手にも同じ事が言える。


「…………」


 無言の儘に、少女が半歩だけ後ろに退く。

 その紅い瞳には、動揺、哀しみ、微かな怒り――そして何より、強い拒絶があった。


 或いは、彼女が言葉に不自由する様になっていなければ、先ずは対話によるやり取りもあったのかもしれない。


 だが、碌に話せなくなっている自分では、会話で師を翻意させる事は出来ないと判断したのか。

 これまでそうしてきた様に、魔鎧の機動力を用いた離脱を考えるスノウだが……それを行うにはヴェネディエが展開している多重の結界が邪魔をしている。

 今の彼女であれば、突破自体は不可能では無い。

 無いが、多少なりとも時間が掛かる。背を向けて結界をこじ開けようとすれば、当然無防備になった処を師や他の大人達は見逃さないだろう。


 既に先手を打たれて逃亡を封じられた状況だ。それでも師の告げた言葉に抵抗しようというのなら……どうしたって力尽くにならざるを得ない。


(……それは、ダメ)


 過去にそうであった様に、魔鎧は使い手から引き剥がそうとする者達への敵意を表す。

 その感情が流入してくる感覚にスノウは胸元に掌を当て、それを押さえ込んだ。


 ミラを、この場にいる人達を傷つける。


 それは少女にとって最も忌避すべき行為だ。

 だがこのまま何もせずにいれば、心底本気の眼をしている師はそのまま《報復(ヴェンジェンス)》をスノウから引っぺがし、二度と現世に顕現出来ない様に厳重な封印を施してしまうだろう。


 どうしよう。

 どうすればいいの。

 皆を、ミラを傷つけたくない。

 でも、鎧を手放すなんて事はもっと出来ない。

 もう、もう放っておいてよ。わたしは。

 わたしは、選んだんだから。

 ミラの傍で護られ続ける事を拒んで、自分の中の憎悪を燃やす事を選んだんだから。


 混ざり合い、絡まり、混沌とした胸の裡をさりとて言葉にも出来ず。

 魔鎧を手に取って以降、常にその精神侵食を拒む事無く同調すらしていたスノウの精神は、此処に来て初めて鎧との齟齬を見せた。

 自身の感情と魔鎧の防衛反応の齎す敵意に板挟みになり、更に思考は千々に乱れてゆく。


 今にも泣きだしそうな表情で顔を歪める少女に、既に覚悟の決まりきった師の静かな声が掛けられた。


「スノウ。この場で貴女がどんな選択をしても、それは貴女のせいではありません」

「――ッ」

「再三言うようですが、これは私情、私の我儘です」


 師の言葉が切欠、という訳でも無いだろうが。

 必死に自身の胸を掴んで、何かを押さえつける様な素振りを見せていた少女から空気が焦げ付く様な魔力の胎動を感じ取り、師弟の会話を黙して聞いていたガンテス達が後に訪れる展開を察したのか、静かに身構える。


「貴女が悩み、苦しみ、その末に。今までの全てを振り切って報復の為の力を求めたのだとしても」


 正面からその強烈な攻性を伴った魔力の波動に炙られながら、それでも一切怯むこと無く、ミラは続ける。

 彼女の言う我儘を――想いを、目の前の少女に伝える為に。


「貴女がそんな自身の選択に巻き込まない様にと、私を拒絶したのだとしても」

「――ぅ、ぁっ」


 よろよろと、覚束ない足取りで後退り、距離を取る少女の瞳には既に涙の粒が溢れんばかりに溜まっていた。

 放射されている魔力は更に膨れ上がり、爆発寸前の炸薬を思わせる危険な圧を発している。


 正と負。両方の感情が精神の臨界まで満ち、苦し気に呻くスノウへ。もう一度だけ、告げた。




「――それでも、私は貴女と一緒にいたい。師としての責務ではなく、私がそうしたいと望み、それを為す為に此処に来たのです」




 真っ直ぐに、迷いなく断言された言葉を受け。


「――――――ぁ」


 涙が限界を越えて頬をつたい、同時に溢れた魔力も決壊を迎えた。


「ぅ、あぁぁぁぁぁぁAAAAAAAAAAAッ!!!」


 溢れ出す。

 憎悪で蓋をしていた筈の、憎悪以外の感情が。

 憎しみに灼かれたスノウという少女の心に、それでも確かに在り続けたそれらは哀切であり、郷愁であり、歓びであり、親愛でもあった。

 師と相対し、そして言葉を交わせばこうなってしまうと。

 どうしようも無く、閉じ込めた感情が暴れ出してしまうと。

 或いは無意識にでも、少女は理解していたのかもしれない。


 そして、それらを振り切る様に、目を逸らす様に。

 憎悪で焼き付いた筈の心に染み入ろうとするその感情達を、叫びと共に吐き出そうとする。


 それはまるで、癇癪を起こした赤子の泣き声の様な。

 帰る場所も分らずに、泣きじゃくる幼子の様な。

 壊れてしまった宝物の欠片を大切にしまって――けれどそれが二度と元に戻る事が無いのだと泣き叫ぶ少女の慟哭だった。


 悲鳴の様な叫びが小さな村の跡地に響き、感情を暴発させた主に応える様に魔鎧が起動する。


 爆発的に膨れ上がった魔力が漆黒の装甲の形を取り、少女の全身を覆って。

 その全身を深紅の魔力導線が奔り抜け、最後に頭部装甲の頬の部分に、涙の跡を思わせる新たな線が刻まれる。


 血涙を思わせるソレを睨み据え……ミラは背に負っていた鋼棍を手に取り、一振りした。


「スノウは魔鎧(お前)には渡さない――私の弟子を返してもらうぞ、《報復(ヴェンジェンス)》」







 起動した《報復(ヴェンジェンス)》は、以前ミラが《魔王》との戦いに割って入った際に見た物とは姿を変えていた。

 全身鎧としては細身な印象はそのままに、手足の装甲がより重厚に――だが獣の爪牙を思わせる鋭利さを宿し。

 肩部は肥大化し、新たな装甲が追加されていた。

 そして何より、脊椎から枝分かれして伸びる、長い鋼の尾。

 背から覗く、ゆらりと揺れるソレは威嚇するかの様に尖った先端で地を抉る。


 推測になるが、歴代の所有者達が最期に至った果ての力――それらを発現させた物であると、ミラは判断した。

 やや前傾姿勢のまま、凶悪さを増した手足の装甲を軋ませて此方を伺うそれは、魔鎧というよりは、獣。

 大戦の黎明より受け継がれる憎悪の炎で鍛造された、漆黒に深紅を宿した鋼の"獣"だった。


 その"獣"が、地を揺さぶり、天を突く様な咆哮を上げる。


 負の感情を叫びに変えたソレに、使い手である少女の理性は感じ取る事が出来ない。

 だがミラは動じなかった。スノウの意識があろうと無かろうと、やる事は変わらない。


 文字通り、獣の如く低い姿勢で漆黒の鎧が弾丸の如く飛び出した。


 突撃の速度を載せた鉤手の形に開いた掌が女傑の身に届く前に、割って入る様に飛び出した人物が正面からそれを受け止める。


「――師弟の拳の語らいにて無粋を失礼。ですが、スノウ嬢をミラ殿のもとへと返すのが我らの今回の目的ですからな!」


 両の腕を用いてがっちり魔鎧と組み合ってみせたのはガンテスだ。

 その桁外れの膂力を生かし、"獣"の動きを止めようと試みる。


 ――だが、驚嘆すべき事に"獣"は同じく膂力で以てそれに拮抗した。


「ぬぅっ!?」


 予想を遥かに超える手応えに、口を真一文字に引き結んだ巨漢が唸り声を洩らす。

 単純なパワーという点では、おそらく彼の方が上だ。

 だが、"獣"は装甲の各部に備わっている魔力噴射を用いて、静止状態からの爆発的な瞬発力を発揮する。

 怯まず押し返さんと、ガンテスの両腕が力瘤で盛り上がり、その単純な膂力同士の鬩ぎ合いに耐え切れずに両者の足元の大地が陥没し、亀裂が生じた。


 剛力の極点の如き力同士の拮抗は、数瞬。


 崩されたのはガンテスであった。

 全力を振り絞った互いの四肢――其処に、彼には無い代物が差し込まれる。

 "獣"の背の陰から凄まじい速度で振るわれたのは、鋼の靭尾。

 無数の節が連なったそれは鞭の様にしなり、同時に刃の鋭さを以て巨漢の肩口を狙う。

 膂力も然ることながら、人外の領域に至った戦士の中でも桁外れの耐久と防御を誇る修道僧の筋肉を、"獣"の尾は浅くではあるが切り裂いた。

 僅かに身体をぐらつかせたガンテスに向け、翻った尾の先端が音速を越えて突き込まれる。


 それを手にした長剣で撃ち落としたのはラックだ。

 可視化する程の魔力強化を施した剣は、ガンテスの頑強さを貫く程の一撃を危なげなく防ぎ切る。


「……重いな」


 大型の魔獣による突撃を受け止めた様な感覚に、傭兵は巌を思わせる面を歪めた。

 高硬度の金属同士が擦れ合い、甲高い音と火花を散らす。

 巨漢と傭兵によって四肢と尾――五体の動きを止められた"獣"の横腹に、するりと伸びた棍の先端が軽く当てられ。


「――命結」


 短く呟かれたミラの一言と共に、魔鎧の表面を練り上げた魔力が走り抜ける。

 打点を中心として装甲に亀裂が走り、衝撃で弾かれた"獣"が飛び退る様に背後へと跳躍した。


 油断無く距離を詰めようとする三人へと、再び咆哮する。

 今度は只の叫びでは無かった。


 "獣"の背後――その上空に、数えるのも馬鹿らしくなる程の無数の魔力弾が一瞬で形成される。

 細長く、先端を尖らせたシンプルな形状のそれは、弾というよりは針か、錐の先端に近い。

 脚を止め、瞬時に迎撃の態勢へと切り替えたミラ達に、豪雨の如き魔力の錐が降り注ぐ。


「それは()()()()よ」


 それが彼女達へと届く前に対応してみせたのは、これまで沈黙を保っていたヴェネディエだ。

 刹那の間に、障壁が魔力錐と三人を分かつように展開される。

 高い貫通力と圧倒的な物量で魔力障壁が破壊される僅かな間に、直線的な錐の射線に対して斜めに受ける角度で追加展開した障壁が、爆撃じみた魔力の雨を凌ぎ切った。


「……助かりました、ヴェティ」

「まぁ、これ位はね。とはいえ、スノウがこの場から離脱するのを防ぐ為にも多重結界は切れない。悪いけど、いつもみたいな支援は出来ないと思ってくれ」


 魔力錐を降り注がせる間に破損した装甲を復元させた"獣"から視線は切らぬまま、ミラが友人へと礼を述べると、その当人は普段の飄々とした態度を潜めた真剣な声色で応じる。


「流石に特級呪物扱いされるだけの事はあるな……まだ伏せた札も持ってそうだ」

「然り。先のミラ殿の一撃を容易く復元させた回復力も考慮すれば、やはり拙僧とラック殿が動きを止める役割に注力すべきかと」


 互いの得物――長剣と岩塊の如き拳をそれぞれ構えて"獣"の眼前へと進み出るラックとガンテス。


 今回の目的は、魔鎧の打倒ではなくあくまで使い手であるスノウの保護。

 極力彼女を傷付けず、魔鎧を一時的に休眠状態にさせる為の大破を狙うには、装甲の防御を貫く威力とそれを内部に伝えない繊細な技量の両立が求められる。

報復(ヴェンジェンス)》を相手にそれを行うのは、四英雄と称された彼らでも容易では無い。

 安定して魔鎧()()に損耗を与える事が可能なのは、こと技量という一点においては人類種の上澄みの中でも更に突出しているミラだけであった。


 故に、この布陣だ。


 前衛に二名、壁役として最前列にガンテス。そのフォローとしてラック。

 後衛にヴェネディエ――結界にリソースを割いている彼は、魔法による支援より未来視の加護を用いた危険な攻撃の察知と対処を主とし。

 遊撃……目的達成の主力としてミラ。彼女は《三曜》を用いた技で早々に魔鎧を停止状態に追い込む火力役だ。

 元より、教会の最高戦力などと呼ばれ始める前はこの四人で様々な局面を打破して来た。言葉や打ち合わせが無くとも、ある程度の連携は自然と熟せる。


 互いに完全に態勢を整え直した四名と"獣"は、改めて対峙する。

 動きの無い時間は五秒か、十秒か。

 張り詰めた空気が空間を軋ませて音すら立てる様であった。


 先に動いたのは、漆黒の鎧姿だ。

 魔力噴射による超加速で、一瞬と掛からずに己の影すら振り切る速度に達する。

 狙いは最後列のヴェネディエ。

 五指に凶悪なまでの力を漲らせ、小柄な青年を引き裂こうと鉤型に開かれた指先が天に振り上げられる。


「――させません」


 圧倒的な速力にものをいわせて前衛を振り切ろうとした"獣"は、しかし差し込まれた鋼棍により絶妙なタイミングで脛を払われ、斜め前方へと吹き飛ぶ様に宙を舞った。

 しかし空中で再度魔力を噴射。身を丸めて回転すると瞬時に体勢を立て直し、大地に爪を立てて削りながら減速を行う。


「ぬん!!」


 四肢を使って着地を終えた"獣"が顔を上げると、間髪入れずに追撃に入っていたガンテスの剛腕が振り下ろされる。

 咄嗟に両腕を交差させ、"獣"は鉄槌の如き拳を受け止めるが、それは悪手であった。

 スノウに打撃の威力が通らぬ様に加減された一撃ではあったが、それでもその威力を受け止めきれぬ大地が悲鳴を上げ、周囲の地面ごと大きく陥没すると踏みしめていた脚が深く地へとめり込む。


 立て直そうとする"獣"の知覚に、高速で左から飛び込んでくるラックの姿が認識された。

 鋼の尾が持ち上がり、意思を持った個別の生き物の如く迎撃を行う。

 最初の激突と同じく、長剣と尾が打ち合わされて火花を散らした。


「厄介だな」


 瞬時に弧を描いて右、返しの左薙ぎ、弾かれてからの正面への突き。

 瞬きより短い間に剣と尾が交差し、残像を残して鋼の軌跡が虚空に描かれる。

 一際大きく打ち合い、鍔迫り合いに近い状態になるとラックは不敵に笑った。


「――だが、尾一本で止めようなんざ、幾ら何でも俺を舐めすぎだ」


 剣の柄が軋む程に握り込まれると、既に高密度の魔力が通っていた刀身が淡く輝き、更に強化される。

 高く、何処か涼やかですらある音が鳴り、"獣"の尾が半ばから斬り飛ばされた。


「チビスケに尻尾は生えてないからな。中身が無いってんなら遠慮なく斬れる」


 質は良いものの数打ちの鋼で呪いの魔装を断ち切ってみせた剣技は凄まじいものがあったが、やはり武器への負荷は大きい。

 背後へと跳躍して距離を取りながら刀身に罅の入った剣を打ち捨てると、背に負った短槍を握って構え直す。


 入れ替わるように間合いに踏み込んだのは、充分に魔力を練り上げたミラだ。

 尾を落とされ、更にはガンテスに上から抑え込まれた状況を"獣"は強引に魔力噴射で突破しようとする。

 その漆黒の鎧姿が加速される前に、棍の鋭い横薙ぎが背を打った。


 そして、再度叩き込まれる《三曜》の一撃。


 衝撃がさざ波の様に伝わり、背面の装甲に蜘蛛の巣状の罅が走る。

 一瞬遅れ、魔力噴射によって魔鎧が一気に間合いを離す。砕けた装甲の破片が宙を舞った。

 両手両足を使って四足の獣の如き動作で地に着地するその背から、ベキベキと鈍い音が響く。

 既に尾と装甲の復元が始まっているが――破損した状態で強引な加速を行った事もあり、装甲の回復には相当な魔力を消費するだろう。

 このまま消耗させていけば、一時的にだが機能停止に追い込む事が出来る筈であった。


 人外級の戦士四人を相手に、単騎でこれ程に食い下がる――邪神戦役の負の遺産とまで呼ばれるその力に偽り無し、といった処だが……それでも戦いはミラ達に優位に進んでいる。

 それも当然と言えば当然の話ではあった。単純な戦力比で見ても差は明確だが、この場にいる四人が四人とも、油断や慢心とは縁遠い気質である。連携も取れている以上、相対する者は勝機への僅かな綻びを見つける事も難しい。


 だが、これで終わる様ならば永きに渡って邪神の軍勢を鏖殺せんとする『災害』、等と称されはしない。


 変化は幾度目かの激突にて表れた。

 ガンテスが繰り出した打撃が、"獣"の掌で無造作に捌かれる。


「――ぬ!?」


 覚えのある手応えに巨漢が咄嗟に足腰に力を入れて踏ん張り、上体が泳ぐのを堪えた。

 受け流しの動作から流れる様に肘が撃ち込まれ、自身の骨肉を貫いて身体の奥にある氣脈を打ち抜かんとする一撃に、巨漢はたたらを踏む。


(これは、スノウ嬢の《三曜》……よもやこれ程の練度に達しているとは……!)


 即座に圧縮した魔力を氣脈に押し通し、"獣"によって打ち込まれた《命結》の打効を相殺する。

 全身から魔力噴射を行った鎧姿がかき消え、次の瞬間にはガンテスの背後に現れた。

 振り向き様に大気に穴を穿ちながら放たれる裏拳を先程と同じく《流天》で受け流すと、"獣"はそのまま丸太の如き腕を取り、関節を極めながら背負い投げを打つ。

 ガンテスの巨躯が宙を舞い、破城槌を地面に打ち込んだ様な衝撃を撒き散らしながら地に叩きつけられた。


 追撃を加えようとする"獣"に向け、ミラとラックが前後からの挟撃を行おうと間合いを詰める。

 対して、"獣"は後方のミラへと振り向く事もせずに先に見せた魔力の錐を生成・展開した。

 咆哮すらない完全な無詠唱であった為か、先程の半分以下の数ではあったが……それでも人ひとりに向ける魔法としては圧倒的と評して良い物量の錐が女傑へと殺到する。

 近距離で一斉に放たれたソレをヴェネディエが展開した障壁が阻み――秒に届くかどうかの時間で砕かれた。

 だが、その刹那の間に迎撃の態勢をとったミラが、《流天》と手にした棍を用いて魔力錐の雨を悉く叩き落とす。


 その間にも、叩きつけたガンテスの手首と肩を極めたままの魔鎧は靭尾を振るい、ラックと切り結ぶ。

 一呼吸の間に十は突き込んだ短槍の穂先が全て尾の側面で捌かれ、そこに武器を強化した魔力ごと力の流れを変えられた感触を感じ取り、傭兵は舌打ちした。


「尾でも《流天》を使ってくるかよ!」


 二人が攻めあぐねていると、地に大穴を開けてめり込んでいたガンテスが動いた。


「ふんぬっ!」


 関節を極められた腕とは逆の腕で大地をブン殴り、地中を拳で抉りながらその体躯が寝返りを打つ様に一回転する。

 地面を掘り抜いて飛び出した拳が開かれ、"獣"の足首をむんずと掴むとそのまま畑の野菜を引っこ抜くように空に放り投げた。

 宙に放られ、あっさりと姿勢を制御して地に着地する"獣"。だが、巨漢の方も全身のバネを使って一瞬で跳ね起きている。


 土まみれになった身体を払う巨漢の傍にミラとラックが並び、ヴェネディエが後衛の位置取りを保持して後方に着いた。


「……無事ですか、ガンテス?」

「問題ありませんぞ。余程特異な例を除き、拙僧に投げの技は通りませぬ故」

「関節も効いて無いだろうが。マジで人間なのか疑わしいなお前」

「まぁ、鉄の塊を土に叩きつけた処で傷む筈も無いっていうのは道理だよね……関節の方はもう僕には意味分からないけど」


 大体筋肉でなんとかしたらしい人型肉弾戦車に、呆れた友人達の視線が突き刺さる。

 眼前の"獣"にスノウの意識が残っているのかは疑わしいが……それでも、極めた腕をへし折ろうとしたら、継ぎ目の無い鋼の柱を抱え込んだ様な感触が返って来た事には困惑したことだろう。


 将来、とある霊獣から種族誤認を受けそうな漢の事はさておき。


 "獣"が今の主の技能である《三曜の拳》を扱いだした事で、優性だった戦いはやや膠着気味になりつつあった。

 だが厳密にはそれだけが理由では無い。

 従来からの圧倒的な性能と、嘗て無く拡張された機能を用いて邪神の軍勢を蹴散らしていた今代の魔鎧は、それ故にその全てを使いこなす局面に遭遇せず、必要にも駆られなかった。

 だが、その能力を十全に振るわねばならない相手が現れた事で、急速に力の扱い方を学習しつつある。

 これが《報復(ヴェンジェンス)》の持つ学習能力なのか、それとも担い手たる少女の才覚(センス)によるものなのか迄は判別が付かないが……より厄介になった事だけは確かであった。


 長引かせればそれだけ脅威は高まる。


 ミラ達は誰が言う迄も無くそれを察し、視線だけを交じり合わせると頷く。

 早々に決着をつけるべく、各々十分に身体に魔力を巡らせると眼前の魔鎧へと向けて地を蹴った。

 "獣"も応じるように咆哮し、野を駆ける四足の如き低い姿勢で疾走を開始する。


 そして、何度目かの両者の激突が始まった。


 剛腕が地を割り、それを捌いた"獣"が爪牙となる四肢を振るい。

 漆黒の鎧の加速を止めんと、槍が影すら置き去りにする高速機動を正確に捉えて突き込まれた。

 仲間の窮地に絶妙のタイミングで差し込まれる魔力障壁が、"獣"の四肢や尾から繰り出される致命の痛打を受け止め。

 多彩な猛攻を全て潜り抜けて捻じ込まれる鋼の棍が装甲を砕き、細かな破片を舞い散らせる。

 目まぐるしく一瞬で変わる立ち位置。息も付かせぬ攻防。

 飛び交う豪打剛撃、超速と精緻の極みの応酬。それに時折魔法の光が混じり、戦いは更に加速してゆく。


 その最中、ミラは気付いた。


 ――"獣"の振るう《三曜》の精度が向上している。

 気のせいでは無い。

 ミラの一撃をその身に受ける度。或いは彼女が"獣"の攻撃を捌き、受け流す度に。

 まるで見取り稽古の様に、"獣"の技が洗練されてゆく。

 構えも型もあったものではない、文字通り人型の獣が爪を振るうが如き動きであるにも関わらず。

 天地に、自身に在る魔力の流れ。

 それを掌握する速度はより速く、五体と地に巡らせるはより滑らかに、体内で撓め、結ぶのはより強固に力強く。


 先にも述べた通り、今の《報復(ヴェンジェンス)》にスノウのしっかりとした意識があるかは疑わしい。

 精神侵食を強く受けた影響で、防衛反応に引き摺られる形で一時的に魔鎧に呑まれている可能性の方が余程高かった。


 それでも、魔鎧の主は白い少女であり、依り代となるその身は彼女のものだ。


 ミラが見出した、珠玉の才。

 長ずれば開祖たる《半龍姫》の領域へと歴史上最も近付くであろう天才は、この状況下にあってもその才覚を曇らせることは欠片も無く。

 本気の師と、師に並ぶ強者。それらと相対する事で、少女は師によって磨かれていた才を開花させようとしていた。


(――ッ、なんという……! スノウ、これが貴女の……!)


 "獣"の《地巡》による魔力補充……その妨害も難度を増して行き、つい先程まで余力を以て捌き切れていた筈の一撃が重く、鋭くなってゆく。

 攻防の難易度が上がっていると感じたのは、当然ミラだけでは無い。

 前衛役である二人は勿論の事、唯一の後衛であるヴェネディエも気付いたのか、その表情は険しい。


 ガンテスとラックが左右から同時に攻めかかった。

 小さな滝程度なら拳圧だけで両断してのける拳と、音の壁を容易く超える無数の刺突。

 相対するのが邪神の上位眷属であっても押し勝てるソレを、"獣"は両の腕と尾による《流天》で捌き切る。

 二人が本当の意味で本気を出せば、こうも容易く凌げはしないだろう。

 だが、少しでも加減を誤ればスノウに致命傷を与えかねない以上、前衛の二人はこれ以上の威力を伴った攻撃を撃ち込む事が出来ない。


 受け流されるのは承知の上。有効打を与えられるミラの為に隙を作らんと、巨漢と傭兵は更に速度と回転を上げ、手数で以て"獣"をその場に縛り付けようとする。

 面制圧も出来そうな拳の弾幕、手首や肘、膝、足首と可動箇所を狙いすました槍の刺突と薙ぎ払い。

 狙い通りに"獣"は脚を止めて迎撃に注力し、その間隙を狙わんと《命結》で魔力を練り上げたミラが一気に間合いを詰めた。


 ――それに違和感を覚えたのはヴェネディエだった。


 如何に《三曜》によって攻撃を受け流す事が可能だと言っても、強みである圧倒的な機動力を生かさず、足を止めての迎撃。

 今もそうだ。現状、ダメージ源になっているミラが間合いに踏み込もうとしているにも関わらず、迎え撃つのに適した魔法錐を展開すらしていない。

 違和感は予感に変わり、魔鎧の肩の装甲がバクン、と音を立てて開いた瞬間に確信に変わった。


 大気を呑み込む様な音を立てて、大量の空気が開いた装甲へと吸い込まれると同時――《視えた》光景に、ヴェネディエは総毛立つ。

 新たな機能を用いた攻撃が来る――そう判断して守りと迎撃の態勢に入ったミラ達に向けて、怒鳴る様に叫んだ。


「受けるな! 退け!!」


 その声に、ミラとラックは弾かれた様に後方へと跳躍し。

 魔鎧と至近距離にいたガンテスは、咄嗟に後退した二人をその背に隠すように立ち塞がり、文字通りその巨躯を壁とした。

 かろうじてヴェネディエの展開した魔力障壁が巨漢の眼前に広がり――。


 ――放たれたのは、音。


 開いた肩部より飛び出したのは、圧縮された大気と"獣"の咆哮に桁外れの増幅を掛けた音の槍だった。

 一瞬で魔力障壁が粉砕されると凄まじい轟音が響き渡り、北方の大地が震動で揺れる。

 指向性を以て放たれたそれは、距離を取ったミラとラック――更には有効射程の外にいたヴェネディエの鼓膜にまで衝撃を伝え、耳孔で乱反射した音に揺さぶられて視界が揺れた。


 一方、壁役を全うし、至近距離でその大半を受け止めたガンテスだが。

 物理的な衝撃を伴った音圧で上衣が引き裂かれ、圧縮空気の壁を叩きつけられた事で発生した摩擦熱によって全身が白煙を吹き上げていたが、煙の下の肉体そのものは無傷。

 だが、他の三名がそうであったように音を受け止めた鼓膜は無事では済まなかった。


「ぐ……ぉ……っ!!」


 ブシュ、という小さな音と共に、彼の両耳から血が噴き出る。

 耳孔だけでなく鼻腔や両の眼からも赤い筋を垂らした巨漢は、短い呻き声を上げながら身体を折り曲げ、片膝を付いた。


 そこに間髪入れずに"獣"による蹴撃が叩きこまれる。

 存分に《命結》を練り上げ、魔力噴射を併用して打ち出された突き蹴りはくずれ落ちたガンテスの鳩尾へと突き刺さり、その巨躯を水平に吹き飛ばした。


「ガンテス!!」


 壁となってくれた友人程では無いとはいえ、未だ轟音のダメージが残るミラが叫ぶ。


「……ちぃっ! ヴェティ、そこの筋肉馬鹿を!」


 舌打ち一つして、僅かに揺れの残る視界を叱咤し、ラックが治療の時間を稼ぐ為に"獣"へと突撃した。

 幾度目かの咆哮を"獣"が上げると、この戦闘における最大量と言ってよい魔力錐が展開される。

 もう一度舌打ちを重ね、ラックは右手で短槍を握り直すと左手で腰のショートソードを抜き放った。


 迎撃の手数を増やすために二つの武器を器用に駆使しながら、射出される錐を叩き落とす。

 降り注ぐ魔力の豪雨を前にも脚は止めず、多少の被弾は覚悟で尚も前に出る傭兵に対し、"獣"は脚を振り上げ、激烈な踏み込みで以て大地を震わせた。


「――まさか!?」


 知覚した魔力の動きに、ミラが驚愕の声を上げる。

 上空から直線的に撃ち出されていた錐の軌道が、弧を描く。

 その数ゆえに狙いの精度よりも攻撃範囲による制圧力を重視していた筈の魔力の雨は、大きな流れに絡め取られる様に曲線を描き、或いは旋回してその全てがラックに向けて殺到した。


「ッソがぁっ……容赦ねぇなチビスケ……!!」


 前後左右、視界一杯に広がる死すら予感させる光景に、凄絶な笑みを浮かべながら傭兵は武器を振るう。

 叩き落とす。肩を掠める。

 叩き落とす。左の二の腕に錐が突き立った。

 叩き落とす。右の腿と脇腹を抉られ、血が噴き出る。

 神速で奔る剣と槍の二閃は、だが単純な物量に押し潰されて圧殺されようとしていた。


 血に塗れたラックが針鼠になる直前、ミラの干渉が間に合う。


「《日昇》……!」


 螺旋を描く動作で翳された両の手掌が、錐の軌道を掌握して巻き取る。

 軌道を明後日の方向に逸らされた魔力錐の全てが地面に突き刺さると同時、限界を超えた様にラックの握る武器から魔力の輝きが喪われ、砕け散る。

 身体のあちこちから錐を生やして全身を朱に染めた傭兵は、息を切らしながら穂先の割れた槍を地に突き立て、折れそうになる膝を支えた。


 その眼前、一瞬で距離を潰した"獣"が腕を振り上げる。

 鋭利な装甲に包まれた五指がラックを引き裂こうとするが、割って入ったミラの棍によって爪撃は受け流され、警戒する様に"獣"は即座に間合いを離した。


「……悪い、助かった」

「動けますか? ヴェティの処まで下がって治療を受けて下さい」


 荒い息のまま、顔を顰めて礼を述べる友人に、ミラは"獣"から目を逸らす事なく硬い声で応じる。

 先程、魔鎧が自身の行使した魔法の軌道を操作してみせたのは、術の構成や魔法自体の精度によるものではない。

 あれは間違いなく《三曜》の技――完成したあの規模の魔法に対し、周囲の空間に満ちた魔力ごと干渉した事も鑑みれば、奥伝にも相当するであろう難度の技術であった。


「……チビスケ……いや、魔鎧のヤバさは想像以上だった。一人じゃ危険だぞ」


 躊躇いがちに呟かれる友人の言葉には、暗に撤退も視野にいれるべきだ、という意味も込められていた。


 それは、きっと正しい判断なのだろう。


 元より、此方がスノウと魔鎧を引き剥がそうとしているからこそ苛烈な反撃を行ってくるのだ。

 ヴェネディエに結界を解いてもらい、全員で速やかに退けば"獣"はおそらく追っては来ない。


 だが、正しい選択が必ずしも望む選択とは限らない。


「……申し訳ありません、私は退けない。此処で退けば――あの娘に向かった伸ばした手を引いてしまえば、二度と届かなくなる。手を伸ばす資格を失う」


 それは師として。

 そして、あの娘の……叶うなら家族として。

 どれほど愚かな答えなのだとしても、どれ程に困難な選択なのだとしても。

 退かない。退けない。

 あの娘に、独りぼっちで憎しみに身を焦がす事を選んだ意地っ張りの少女に届くまで、手を伸ばし続ける。

 そう、決めたのだ。


「先ずは傷を癒して下さい……私が倒れたら、直ぐに撤退に移れるように」


 前を向いて、"獣"を……その漆黒の装甲の奥に隠されたスノウを見つめて。


 ミラは一歩、踏み出した。

 後方からガンテスを支えたヴェネディエがやって来て、ラックに回復魔法を施す気配を感じ取りながら、振り向く事無く、前へ。

 魔鎧に向けてゆっくりと歩む途中、手にした棍を大地に突き刺し、無手となって進む。


 奇妙な事に、"獣"は緩やかに歩み寄る彼女に対して行動を起こすこと無く。寧ろ待ち受ける様に、静かにその場に留まり続けていた。

 そして両者の距離が一挙手一投足の間合いにまで縮まり、手を伸ばせば直ぐにでも触れ合う様な距離で、魔鎧と女傑――弟子と師は対峙する。


 力を込めた指先を音を立てて鳴らし。

 ミラは眉庇(バイザー)越しに己を見ている筈の紅い瞳を想起して、不敵に微笑んだ。


「さぁ、来なさいスノウ――何時かの稽古の続きをしましょう」







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