老兵の残照 魔鎧
スノウが行方不明となり、半月以上が経過した。
話は直ぐにミラからヴェネディエへと伝わり、迅速に聖都内へと人をやって捜索が行われたが、当然見つかる事も無く、おそらくは都市外へと出てしまったのだろうと思われた。
それを知らされたミラは、そのまま都市の外へと飛び出して行きそうになったが、今の状況が状況だ。
件の崩壊した戦線から信奉者の大攻勢が行われる可能性を考慮すれば、最大戦力である彼女をこの時期にあても無くフラつかせるというのは不可能であり、ヴェネディエの部下の中で捜索に秀でた技能を持つ者の幾人かがスノウの足取りを追う、という形で女傑を納得させる形になった。
それでも、本当は今すぐ聖都を飛び出して自身の足で探して回りたいというのが本音なのだろう。
師としての責務、教会の戦力としての立場、個人としての情。
様々なものに雁字搦めにされ、結果として身動きの取れなくなったミラは、普段の彼女からすれば想像もつかない程に消沈し、精彩を欠いていた。
来るべき大攻勢に備え、慌ただしく迎撃の準備が進められる大聖殿において、筋骨隆々の巨漢の僧と凶悪な面構えの傭兵が、お互いに渋い顔をしながらベンチに座って話し込んでいる。
「今朝もヴェネディエ殿に捜索状況をお聞きしましたが、目だった進展は無いようです」
「そうか……現状、ヴェティの奴も帝国と連携しての援軍編成で忙しいだろうしな。家出娘を探すのに注力は難しいだろうよ」
二人並んでいるのを見れば邪神の眷属であっても回れ右しそうな男共は、どこか力無い様子で同時に溜息を吐き出した。
「で……ミラの方はどうなってるんだ?」
「表面上は普段の如く毅然とした立ち振る舞いです。が、やはりスノウ嬢が心配なようで。眠りも浅く、食も細くなっている御様子」
体調管理などはほぼ完璧であった女傑が、薄っすらと眼の下に隈を作っていたのを思い出して巨漢――ガンテスは憂いのままに眼を閉じて頭を振った。
「もどかしいものですな。こういった事態においては磨いた戦武がなんら益にならぬ事、無力感に胸を抉られる思いです」
「……俺の冒険者時代のツテが生きてれば、帝国方面になら情報を仕入れる事も出来たんだがな」
「ラック殿も傷が塞がったばかりでしょう。スノウ嬢を案じる気持ちは察するに余りありますが、先ずは来るべき激戦に備え、身を癒すことが先決ですぞ」
それはお前もだろうが、と言いかけたラックであったが、いや、コイツに限ってそれは無いか、と思い直して口を閉ざす。
目の前の筋肉馬鹿はことタフネスという点では人類種全体でも比肩出来る者の方が少ない。
スノウの姿が見えなくなってからというもの、ミラに劣らず不安な様子を見せ、焦燥に追い立てられる様に何時にも増して筋トレに励んでいる癖に、肉体的には全く消耗している様子が無いので心配するだけ無駄である。
それでも、普段と比べればどことなくその巨体が萎んでいるように見えなくも無いのは、何時もであれば鬱陶しいくらいに溢れ出る快活な空気が感じられないからであろう。
あの師弟に関して気を揉んで、それでも何も出来ない事を歯がゆく感じている――この点においては同類という事だ。むさくるしい野郎二人でなんとも華の無い話ではあるが。
両者共に黙り込み、なんとなく同時に空を見上げた。
やがて、先に傭兵の方が独白するように呟く。
「さっきはツテ云々言ったが……チビスケは――スノウは帝国方面には行かんだろう」
「拙僧も同感です。例の一件以来、相当に消沈していたらしきスノウ嬢の様子からすれば、向かう先は……」
彼女の育った北方の村か、或いは……例の崩壊した戦線――現在は邪神の軍勢の進撃拠点となっている地か。
故郷であればまだ良い。一年近くが経ち、人の手による浄化作業こそ始まってはいないが邪気自体は薄まっている筈だ。
だが、後者のほうがあまりにも危険過ぎる。
その辺りはヴェネディエも危惧しているのか、拠点周辺に潜ませた監視員には敵方の動きだけでなく、近づく者がいないか注意を払うように伝達していると聞いたが……。
現時点では監視の者から敵方の動きの報告も、白い少女の報告も無い。自分達にも待機の命が出ている以上、結局傭兵と筋肉に出来るのはこうして埒も無い話を垂れるくらいだった。
「……儘ならんものだ」
「全く以て、己の未熟を痛感する事しきりです」
白塗りの小さなベンチが死ぬほど似合わないむくつけき男二人は、再度揃って嘆息を洩らした。
――数日後。
「例の場所を監視させている者から連絡があった――やはり信奉者達はあの地を拠点化させているみたいだね」
「……そうですか、ならば近い内に侵攻があるのは確実となりましたね」
壱ノ院の執務室にて、大量の書類に埋もれたヴェネディエが淡々と告げた言葉に、これまた平坦な口調でミラが応じる。
件の戦線が崩壊した際、派遣先の軍を率いる領主との会談を行っていた壱ノ院の枢機卿は、味方が大打撃を受けたと報を聞くや否や領主に協力を要請して最低限の援軍を組織。
潰走する味方を拾い集める為の陣頭指揮を執り、最終的には高位の魔導士のみが使える転移の魔法を用いてある程度の生き残りを帰還させる事に成功した。
状況を考えれば、紛れも無いウルトラC難度の救助活動だ。その立役者たる枢機卿は、負傷に加えて体力魔力共に枯渇した状態で最高位の魔法である転移の為の《門》の維持を行った事も駄目押しとなり、未だにベッドの上から起き上がる事が出来ない状況である。
現在は壱ノ院の後継者と目されていたヴェネディエが代理となって一時的に職務を引き継いでいる為、若き大司教の整った顔立ちには隠せぬ疲労の色が濃い。
一方、向かい合うミラは単純に待機している身ではあるが――行方の知れなくなった少女の事が余程精神を削っているらしい。
僅かに隈の浮いた目元以外は、一見すると普段の彼女と大して変わりないように見える。
だが、それなりに長い付き合いの者からすると、普段と比べてミラが精彩を欠いた状態であるのは一目瞭然であった。
上位眷属と戦った当日でも平然と食事と睡眠をしっかり摂れる筈の女傑は、ヴェネディエも初めて見るレベルで憔悴している。
故に、青年は少しばかり逡巡した。
果たして……今の彼女に、今から口にする情報を告げても良いものか。
では黙っているのか。と考えて――それが余りにも不義理であり、不誠実であると判断して、結局は選択肢が無いな。と、寝不足で頭痛のする頭を抱えたくなった。
というか今更な話ではある。只の経過報告ならばわざわざ執務室にミラを呼び出して話をする必要はないのだから。
彼女だって、呼ばれた理由には見当がついているだろう。現に、こうやって黙り込んでいる自分を見る眼には焦れたような、話の続きを促す強い光が宿っているようにも見える。
「……ヴェティ、本題があるのでしょう?」
眼力で要求するだけでは足りなくなったのか、とうとう口に出してきた女傑にヴェネディエも腹を括った。
こっそりと魔力を練りながら、覚悟を決めて監視員から報告された追加の情報を口にする。
「――連中が拠点を構築している場の近辺で、白い髪の女性を見たという報告があった」
言い終えるかどうか、その瞬間には――。
ミラはその場で踵を返し、足早に執務室の扉に向けて歩き出していた。
その手がドアノブを掴む瞬間、眼前に展開された魔力障壁によって阻まれる。
「まだスノウと確定した訳ではないよ」
やっぱりこうなったか、という思いは口と表情には登らせずに胸中で押し留め、障壁を発動させたヴェネディエは極力平然とした様子を保って女傑の背に言葉を掛ける。
「遠見の魔法で、姿を見かけたのは数秒――しかも後ろ姿のみだったそうだ。背格好は同じだったみたいだけど、それでも顔を確認した訳では――」
「銀髪ではなく、白。そして体格が同じだというのなら、十中八九間違いないでしょう。現場に向かいます」
青年の言葉をぶった切って、ついでに彼が展開した魔力障壁も無造作に伸ばした指先でぶった斬ったミラは、再びノブに手を伸ばす。
追加の障壁を五枚ほど連続で展開しながら、ヴェネディエは以前スノウにも同じ様にして行く手を遮った事を思い出して――やはり師弟だな、などと益体もない事を考えた。
目の前に広がった魔力の壁を眉を顰めて眺め、今にも叩き壊しそうな友人に向けて、宥める様に声を掛ける。
「いやいや、待とうよミラ。君、一応待機の命が出てた筈だよね?」
「叱責はあとで幾らでも受けます――私は行かねばならない」
硬い声のまま、だが、強烈な意思の籠った言葉を呟く女傑の姿に、青年は苦笑と安堵がない交ぜになった笑いで口の端を微かに持ち上げた。
あぁ、やはりか。こうなればミラは止まらないだろう。
半ば予想していた反応ではある。教会の上役としては困った話だが……個人としては悪い気はしなかった。
生真面目な彼女が上からの指示を無視して飛び出して行くのは驚き以上に頭の痛い話ではあるが、消沈していた友人が気力を取り戻した事自体は嬉しくもあるのだ。
何より、ヴェネディエとてスノウを心配していない訳では無い。何処ぞに飛び出して行ってしまった少女を師が首根っこひっ捕まえて連れ戻してくるというのなら、それが一番だとは思っている。
「ま、君ならそう言うだろうとは思ってたよ」
なので、後は彼女が憂いなく現地に向かえる様に『整える』。元より根回しや前準備は自分の仕事だ。
執務用の机の引き出しを開け、取り出したのは二つの宝玉。
掌に収まるサイズのそれを、彼女に向けて無造作に放る。
危なげなくキャッチしたそれを、ミラは手の中でぐるりと廻して確認した。
「これは……遠話の魔道具と……?」
「もう一つは僕のお手製。転移の魔法が組み込んである。とは言っても《門》が開くのは精々数秒だけどね」
座標は聖都付近の平原。ヴェネディエの権限では流石に都市内に設定したものは作成許可が下りなかった。
机の上で肘をついて腕を組むとその上に顎を乗せ、いつもの調子を崩さぬ様に青年は飄々とした笑みを維持して告げる。
「ミラ、君には例の場所――邪神の軍勢の新たな拠点となった場所の偵察に行ってもらう、場合によっては威力偵察に切り替える事も許可しよう」
こちらの思惑に気付いたのか、居住まいを正して話を聞く態勢になった女傑に若き大司教は尤もらしく命を下す。
「ただし、教国の最大戦力たる君を徒に失ったり消耗させたりする訳にはいかない。あくまで偵察。身の危険が高まったなら即座に宝珠を用いて《門》を開き、離脱する事。いいね?」
「――感謝します、ヴェティ」
遠話の魔道具の方はともかく、《門》の魔法が込められた宝珠はおそらくこうなる事を見越して、此処半月の間に激務の合間を縫って作成したものだろう。
タイミングにしろ、理屈にしろ強引にも程がある任を……おそらくは転移の魔具を含めて存分に職権乱用して用意してくれた友人に、ミラは深く頭を下げた。
大陸中央部――大森林にほど近い都市群へと、馬を走らせる。
今回はあくまでミラの単騎偵察……という体を取ったスノウの捜索だ。速度を優先して荷は最小限、逸る気持ちを押し殺し、無理をさせない程度に馬に鞭を入れる。
予定としては先ずは都市に到着後、物資の補給を済ませてその先にある敵方の拠点に向かう。
既に監視の任についている者と合流して、スノウに関して追加の情報は無いかなどを確認し――場合によっては本当に敵の領域内に踏み入る事も考慮に入れていた。
道すがら、やはり考えるのは弟子である白い少女の事だ。
(……スノウ)
やはり、自分の対応は間違っていたのか。
己が器用とは言い難く、無骨な武辺者であることなど嫌という程自覚している。
或いは――聖殿にいる多くのシスター達がそうであるように、己が優しさや慈愛で以て他者の傷を癒すことが出来る様な女性であれば、あの子は今も傍にいたのであろうか。
どうすれば良かったのか。
どうしてあげれば、あの子が一人で飛び出して行く、などという危険な真似を思い留まってくれたのか。
考えても、悩んでも、明確な答えなど出なかった。
だが、それでも。
それでも、スノウが今も独り、危険な場所を彷徨い歩いているかもしれない、という現状をミラは認めることが出来ない。
彼女がどういった考えで聖都を出たのかは分からない。
ひょっとすればミラに対して隔意を抱いてしまったのかもしれない。
そう考えるだけでひどく暗澹とした気分になるが……少女が目の届かない場所で危険に晒される事の方が、遥かに許容し難い。
件の戦場跡地で少女が今この瞬間も危機にあるかもしれない。
到着した頃には時既に遅く、最悪も有り得るのかもしれない。
そんな不安が胃を下に引っ張るような感覚を与え、邪神の眷属と対峙するときよりも明確な恐怖が心臓を鷲掴みにするようだった。
移動の最中、胸中に湧き上がり続けるそれを、その度に強く意思を以て押し退け、握り潰す。
多少強引になっても、連れ戻す。
その上で、話をしよう。今度はもっと時間を掛けて。何日がかりでも、スノウが納得してくれるまで。
このペースならば翌日には街に到着、目的地まではあと二日といった処だ。馬には少し無理をさせてしまうがペースを上げようかと考えた処で、肩に掛けた鞄の中にある魔道具が魔力を放つ。
遠話の繋がる先は当然、彼女を送り出してくれた友人――ヴェネディエだ。定時連絡以外での発動ということは、何某かの緊急の案件かもしれない。
「――どうどう、止まりなさい……! そのまま少し待つように」
手綱を引いて馬の走りを止めると軽くその首を撫で、ミラは馬上のままで鞄から魔道具を取り出した。
手の中で軽く魔力を通すと、既に発信元から十分な魔力を注がれていた宝玉は即座に発動し、遠く離れた友人の声をこの場に届ける。
『――ミラ、緊急だ。拠点化した例の戦線で動きがあった』
声が繋がると同時、前口上は抜きでヴェネディエの硬い声が魔道具越しに響く。
「――ッ! 攻勢が始まったという事ですか?」
『いや、そうじゃない。監視員も安全な距離を取らせているから詳細は不明なんだけど、どうも連中の拠点内部で大規模な戦闘が発生したらしい。相当な威力であろう爆音や戦闘による魔力の胎動を感知したそうだ』
感情を殺して告げる青年の声は、端的な報告の裏で暗に問うていた。
経緯や何者の仕業なのかは不明。だが、戦闘が既に始まっているのなら、危険度は一気に上がる。
それでも、行くのか? と。
聞かれるまでも無く、答えは決まっていた。
魔道具を手にしたまま、馬の背より飛び降りる。
最低限の食糧と水だけを鞄に移し、馬の鞍より垂れた布地を裏返して聖教国のシンボルマークが刻まれた面を表にした。
「此処からは自身の脚で進みます。出来れば馬を回収する人員を出して下さい」
『やっぱり行くみたいだね……分かった、近くにいる者に連絡をつけよう』
手綱を牽いて街道脇の小さな草原に馬を移動させると、ミラは再度その首を優しく撫でる。
「遅くとも明日には教国の者がやってくる筈です。あまり街道から離れてはいけませんよ?」
魔獣に襲われる可能性を考慮し、縄での固定はしない。街道から離れ過ぎなければこの場から多少移動しても回収に来た者が道を辿って見つける事は容易だろう。
早馬にも使われる駿馬を選んで来たのだが、脚だけでなく頭の方も中々に良いのか、まるでミラの言う事を聞き分けたかのように一鳴きし、街道近くの草をのんびりと食み始めたのを見て一つ頷く。
街道に再び戻るとその場で軽く屈伸を始め、膝を曲げ伸ばし。
『今の君は正真正銘の単騎だ。引き際は重々弁えてくれ――気を付けて』
「えぇ、後ほどまた連絡します」
最後にそう付け足す友人の声に力強く返答し、沈黙した魔道具を鞄に戻すと、ミラは何度か深呼吸を繰り返して。
全開の魔力強化を施した脚力を以て、放たれた矢より早く駆けだした。
多少の消耗を割り切り、全力で走りだす事、数時間。
卓抜した技量にばかり目を奪われがちになるが、ミラとて人外級に数えられる戦士の一人だ。
強化された身体能力を存分に発揮し、桁外れの速力をもって馬で二日かかる距離を走破した彼女は、最寄りの街にも入ることなく突っ切り、邪神の軍勢が拠点を構築している場所――それを監視している人員が潜伏している場所へと辿り着こうとしていた。
一時間ほど前から感知網に掛かり始めた散発的に巨大な魔力の膨れ上がる様は、先程の緊急連絡の通り、敵方の拠点での大規模な戦闘が発生していることを意味している。
どんな者達が、何の目的で強襲を仕掛けたのかは不明だが、急がねばならない。
スノウが本当にあの地に居るのならば、戦闘に巻き込まれている可能性は高い。焦燥のままに更に加速してゆく。
常ならば行わない、《地巡》を用いた強引な魔力回復による全開の肉体強化を維持したまま、地を奔る流星の如く駆け続ける。
「ミラ様! 御無事でしたか!」
駆け抜けようとした岩場の陰より上がった声に、踵で地を抉りながら急制動を掛けた。
岩場より飛び出すように現れた男は、聖殿で見た事のある顔だ――ヴェネディエの言っていた監視員に相違無かった。
「……指定されていた場所はまだ先だった筈ですが」
「は。先程から奴らの拠点で発生している戦闘から、幾人かが逃げ出すように此方に向かって来まして……こちらの隠蔽を抜いてくる者もいたので、突発的に戦闘になって後退を」
「そうですか。監視を行っていた者達の中で負傷者は?」
全員軽傷です、と男が返すと同時に数人の同僚と思わしき者達が潜伏していたらしき岩場より現れ、ミラに黙礼を行う。
拠点から逃げ出す者達とカチ合う形で戦いはしたが、連中は自分達に時間を割くのすら惜しいといわんばかりに兎に角拠点から離れる事を優先していた為、損害は極軽微であったとの事だ。
「……逃げ出して来た者達の中には、明らかに雑兵ではない腕利きも混ざっていました――それが、あの様に何かに追い立てられて逃走に移るなど……あの地で何が起こっているのでしょう」
監視を続けていた半月の間、それこそ無数の眷属が入り乱れているのであろう禍々しき魔力が立ち昇っていた拠点のある方向を見つめ、男がうすら寒そうに身を震わせて呟く。
ミラは男と同じく、先程までと比べて爆発音や魔力の蠢動が減って来たかの地の方角へと目を向け……今はそれよりも重要な事があると直ぐに視線を戻した。
「……スノウらしき人物を見たという者は、この場にいるのですか?」
「それでしたら、私です。報告に上げた通り、顔を確認した訳では無いのですが……私見では、背格好や服装から見るに彼女で間違いないと思います。私もスノウ嬢とは何度か言葉を交わしたことがあるので」
彼によると、遠視の魔法を用いて拠点の監視を行っていた際、敵の敷いた陣にかなり近い場所で何かを確認しながら移動している白い髪の小柄な女性の姿を見つけたのだとか。
岩や樹々に隠れるように直ぐに死角に入ってしまい、それ以降は見かける事も無かったとの事だが……監視員の男の断言も合わさり、女傑はそれがスノウであるとの確信を強めた。
「分かりました、私はこのままあの地に突入します」
「お気をつけて……スノウ嬢と二人で聖都に帰還なさる事を祈っております」
指で聖印を切り、創造神へと祈りを捧げながら送り出してくれる者達へと頷き、ミラは再び走り出した。
数十分後、邪神の軍勢が構築した拠点であった地を注意深く進む女傑の姿があった。
この場に足を踏み入れる際、監視の者達の様に逃亡途中の信奉者と幾度か遭遇したが、逃亡兵――怯懦の感情に身を竦ませている者など物の数では無い。
全て一撃で打ち倒し、凄まじい戦闘痕も生々しい戦場へと飛び込んだ。
この地が奪われた際に起こった戦いに加え、つい先程まで何者かが激しい戦闘を行っていた為か、地には無数の抉れた痕や巨大な穴が穿たれ、燃え上がった樹々の焼け残りが乾いた音を立てながら崩れる音があちこちから聞こえる。
道中、無造作に積み上げられた味方の遺体を何度か見かけ、その度に腹が煮える様な憤怒と――その中に彼女が探す少女の姿が無いかと、凍る様な恐怖に身を炙られ、その特徴的な色の髪が見当たらないことに安堵し。
折り重なる友軍の骸達に、直ぐに埋葬してやれない事を心中で詫びながら、静けさに包まれた戦場の中を進む。
いや、もう戦場跡、と表現すべきなのかもしれない。
突入直前までは響いていた爆音や大魔力の炸裂は既に鳴りを潜め、動く者がいなくなった戦場は、ミラが数えきれない程に体感してきた『戦いの終わり』の匂いを色濃く放っている。
戦いが終わった――その上で、邪神の軍勢の拠点となったこの地で、見かけるのは既に事切れた信奉者達の姿ばかり。
それは……どういう形にせよ、強襲をかけた側が勝利した事を意味する。
(……この規模の敵軍相手に……相当な戦力が無ければ不可能な筈)
一体どんな勢力がこれだけの真似をやってのけたというのか。
「……《災禍の席》、或いは《魔王》が直接動いた……?」
漏れた呟きは、確証の無い消去法から出た予測であった。
同族の行ったエルフの聖地への襲撃が原因で、この短期間で周辺国家から孤立した状態に陥っているらしい魔族領の事が思い浮かぶ。
かの地の筆頭や幹部達の気性を考えれば、有り得ない話では無いが……風当りの強くなってきた各地の魔族を保護する為に手を割いている現状、魔族領が独自に襲撃を掛けるというのは無理がある様にも思える。
何であれ、邪神の軍勢に戦いを仕掛けている以上、少なくとも敵では無いと思いたいが……正体が知れない以上は警戒する必要があった。
焼け焦げ、破壊された戦場跡を、ミラは進み続ける。
やがて戦闘の行われた中心地に近づいてきたのか、地に転がる信奉者達の骸の数が急激に増えて来た。
同時に大地に蔓延していた呪詛も濃くなっていくのを感じ取り、身に回す魔力に聖性を宿して呪を防ぐ。
残滓だけでこの濃度――下手をすれば上位眷属が複数顕現していたのかもしれない。
眉を顰めながら、地に転がる敵の破片を眺めた。
過剰なまでの破壊を受けたのか、多くの信奉者や使役された魔獣はバラバラに千切れ飛び、無数に散らばって大地を赤黒く染めている。
その中でも比較的マシな損壊具合の骸には、皆一様に同じ断末魔の感情が顔に張り付いているようであった。
引き攣り、歪んだ表情から読み取れるソレは――おそらく『恐怖』。
死をも恐れぬ狂人が数多く存在する邪神の信奉者達……その多くが恐れ、怯え、叫び声をあげながら息絶えている。
命乞いでもしたのか、両膝を付いて祈るような体勢のまま、頭部だけが消失した躯。
逃げ出そうと背を向けた処を、背骨ごと胴を抉り取られたのであろう死体もある。
散らばる骸、その一つ一つに、凄まじい憎悪を以て殺意を結実させた。
そんな確信が抱ける様な戦い方――否、殺し方であった。
邪神の配下に憐憫の情など感じる筈も無いが、惨たらしいと評するべき殺戮の跡に、ミラは益々警戒を強めて拠点の中心へと進み。
――一際巨大な、おそらくは上位眷属の依り代となっていたのであろう、竜の骸を背に座り込んでいる白い少女の姿を見て、全ての疑問も警戒も吹き飛んだ。
「スノウ!!」
咄嗟に駆けだそうとして、竜の死体に宿る強烈な呪いの残滓に肌が粟立つ。
近付いただけでこれだ。背を預けて寄りかかっている少女がどれだけの呪詛を浴びているのか。
そう思い至った瞬間、渾身の力を込めて地に靴底を叩きつけて《三曜の拳》を発動。
《日昇》で周囲の大気ごと呪詛を巻き取るように集め、《月輝》で呪詛を地の下へと押し込み、再度叩き込んだ震脚に《星辰》を乗せて押し込んだ呪詛を半ば強引に消し飛ばす。
溜めも無しに大技を連続で行使したせいで、少なくない魔力を消耗するが――知った事では無かった。
駆け寄り、肩を掴んで。そのちいさな身体がボロボロである事に慄き、けれど、しっかりと暖かい事に泣きたくなる程の安堵を覚える。
「スノウ!」
再び、名を呼ぶ。
奇妙な事に、あれだけの呪詛の近くに居たのにも関わらず、少女に汚染を受けた様子は診受けられない。
だが、それを差し引いてもスノウは傷だらけだった。
まるで全身に刃物が喰い込んだかの様に、身体中に無数の裂傷とそれに伴う出血の痕がある。
全力で回復魔法を発動させて少女の傷を癒しながら、ミラはもう一度呼びかけた。
「スノウ、私です、分かりますか?」
「…………ミラ?」
茫洋と虚空を見ていた紅い瞳が焦点を取り戻し、少女の口から不思議そうな、師を呼ぶ声が零れ落ちた。
久しぶりのその声を聞いて、ミラの胸中に溢れたのは安堵、心配、歓び、申し訳なさ、そしてほんの僅かな怒り。
言いたかった事も、伝えたかった事も全て開いた唇から滑り落ち。
何も言葉にすることが出来ず、代わりに師は弟子の傷だらけの身体をそっと抱きしめた。
回復魔法は発動させ続けたまま、無言でスノウを頭部を抱え込み続けるミラに、抱きすくめられた当人も感じるものがあったのか。
「……ごめんなさい」
俯いて、ただそう返し――そして思い出した様に顔を上げて、血が滲んだ自らの衣服のポケットの中を漁った。
「これ……ミラが持ってて」
「……これは」
そう言って、掌に乗せられた物を見つめ、ミラは絶句する。
赤黒く変色した血と泥で薄汚れているそれは、嘗ては純白だったであろう絹のリボンだった。
「これしか、これだけしか見つからなかったけど……ブランに渡してあげて」
傷だらけの身体では無い、もっと深い処の痛みを堪えるように、その声は微かに震えていた。
力無く笑って告げられる少女の願いに、ミラは頭を振る。
「渡すのであれば、貴女の手であった方が彼女も喜ぶでしょう」
「……無理だよ」
即座に帰って来た否定の言葉は力無い儘ではあったが、強い拒絶が籠っていた。
「わたしに、それを――エーデルの形見をブランに渡す資格なんて無いんだ……だってわたしは、ブランに酷い嘘をついたんだから」
だからお願い、と。再度懇願するスノウに、ミラも折れた様に頷く。
仔細は分からないが、今も治療を受けているであろう栗色の髪の少女に対し、スノウは強い後悔と後ろめたさを抱えている様だ。
なんとかしてやりたいとは思うが……先ずは聖都に帰り、スノウの傷を癒してからの話だ。
「……では、これは私が必ずブランに渡します……兎に角、この場を離れましょう。貴女の傷の治療もきちんと行わなければなりません」
「うぅん、まだだよ」
再びの即答。
だが、今度の言葉には先程までとは打って変わり……強い、それこそ激情と呼んでも良い程の感情が込められていた。
自身を包んでいたミラの腕を優しく振りほどくと、少女は立ち上がる。
「わたしはずっと守られていた。最初はじいちゃんと、ばあちゃんに。二人がいなくなってからはミラに」
「……スノウ?」
「エーデルもいなくなって、ブランは目を覚まさなくて、どうして、って。なんでわたしの大切な人ばっかりって思った――けど、そうじゃなかった」
困惑と……漠然とした不安を感じて少女の名を呼ぶ師の言葉には答えず、彼女は振り向いて小山の様な竜の死骸を睨みつける。
その表情に、その瞳に。
ミラは今まで少女に見る事の無かった感情を感じ取って息を呑んだ。
「守られているままで、だから気付かないだけだった。理解してるつもりなだけだった……わたしだけじゃない。ずっと昔から、今だって。邪神は誰かの大切な人を奪い続けてる、虫を踏み潰すみたいに、なんの躊躇いも心の呵責も無く」
それは、その感情は。
「だから、そのツケを、わたしが。わたし達が払わせてやる。わたし達が喪ったものの価値を、痛みを、何万分の一でも、アイツらに教えてやる――その為の"力"なら手に入れた」
自身の身を焼きかねない程の、嚇怒と――憎悪だった。
《起動》
少女を中心として、凄まじい魔力が吹き荒れる。
顕れたのは、漆黒の全身鎧。
既存の魔力を宿した武装の概念からすれば有り得ない――狂気すら感じる量の魔力導線が彫りこまれた装甲はどこまでも攻撃的で禍々しく、ともすれば死神か悪魔の様にすら映った。
深紅の魔力光を放つそれは、全身を巡る鮮血を思わせる不吉な輝きを宿し、脈動する様に明滅している。
その姿に、文献の上ではあるがミラは見覚えがあった。
驚愕に罅割れた声で、絞り出すように。
けれど必死の想いと、懇願すら込めてもう一度。少女へと呼びかけようとして。
「スノ……」
「……傷、治してくれてありがとう――ごめんね」
フルフェイスの装甲越しに、くぐもった声が遮る様に発せられ。
伸ばされた師の手を振り切る様に背を向けて、魔鎧を纏ったスノウは全身から爆発的な魔力噴射を行い、一瞬でその場から姿を消した。
己の知覚すら振り切る程の超加速に、ミラは咄嗟に後を追う様に立ち上がり……とうに気配も魔力も感じられない事に気が付いて、力を失ったかの如く膝からくずれ落ちた。
「…………な、ぜ……」
届かなかった手が、行き場を失ったまま虚空だけを指先で抉り。
「どうして……スノウ……!」
弟子に置いていかれてしまった師の――否、家族に拒まれてしまった一人の女性の嘆く声が、血に染まった戦場跡に吹いた風に浚われ、消えていった。