老兵の残照 わたしのともだち
大森林方面で起きた、邪神の軍勢の大規模な攻勢から二日後。
転移魔法によって撤退してきた一部の生き残りを治療する為、多くの人員が行き交い、慌ただしく喧噪に包まれていた大聖殿は一先ずの落ち着きを見せていた。
とはいえ、未だ多くの者達は治療の最中であるし、重傷者の中には助からなかった者も数多くいる。
負傷者の受け入れと最低限の処置が一段落したというだけだ。治療に当たる者、治療を受ける者――双方ともに気力を振り絞って臨まねばならないのはこれからであった。
静けさを取り戻した大聖堂の前。
夕闇が夜の帳を引き連れ、斜陽が西の空に沈みながらも周囲を緋色に染めている。
大勢の負傷者と、それを癒すべく奮闘しているであろう者達が詰めている荘厳な建造物を見上げ、ミラは立ち尽くしていた。
唇を噛みしめ、睨み付ける様に聖堂のシンボルを眺めていた視線が力を失ったように伏せられ――そこで芝生に埋もれた小さな木札を目に留める。
そっと拾い上げたソレは、彼女の弟子が知人に配り歩いた物であると一目で知れた。
血と泥で汚れた護り札を手で優しく拭い、暫しの間ジッと見つめ。
取り出したハンカチで丁寧に包むと、懐にそれをしまって歩き出した。
件の大攻勢から一日遅れで、別の戦地より帰還したミラとガンテスは直ぐ様事の次第をヴェネディエより聞かされた。
問題の地域の戦線が崩壊した所為で、詳細な情報は入って来てはいないが、少なくとも近隣の都市に邪神の軍勢が雪崩れ込んで来た、という事態には陥ってはいないらしい。
だが、それも時間の問題であると思われた。
圧し潰された戦線を前進拠点として、その地に満ちた犠牲者の骸を用いた眷属の回復や新たなる召喚を行っている筈だ。
邪神の軍勢は指揮能力という点では人類種の平均より大きく劣るが、それを補って余りある眷属の召喚という鬼札がある。
顕現した眷属の脇を固めるのは加護によって力を底上げされた信奉者達と、呪詛に侵されて在り方を歪められた魔獣。
それらによる雑な物量によるごり押しで、大陸に住まう人類種と一進一退の攻防を繰り広げていたのだが……今回の一件は予想外に大きな搦め手を打たれた、という事だろう。
工作や攪乱が無かったとは言わないが、種族間の連携を断つ程の大掛かりな物は長く続く戦役の中でも初めての行動と言ってもよいものだった。
おそらく、今回の侵攻で奪った土地を大規模な橋頭堡として、更なる攻勢が予想される。
効率の良い反撃・迎撃の骨子であった未来視の加護を封じられた件から始まり、事、此処に至るまで完全に敵方に流れを掌握されていた。
その事に、各国首脳部や主力の戦士達――事前に警戒を促されていた者達は皆、忸怩たる思いを抱えたまま、次の激戦に備えて準備を進めている。
その手始めとして、現在ヴェネディエは大森林に近い都市群に向けた大規模な援軍を組織する為、帝国を主軸とした各国と遠話の魔道具で以て連絡を密とし、壱ノ院に詰めているのだ。
『……此処から先は、事の経緯から擦り合わせた推察になるけど』
感情を押し殺して淡々と述べる友人の表情を、女傑は思い返す。
人類種側としては大きな痛手を被ったが、実の処、邪神の側としても全てが思惑通り、という訳でも無いらしい。
自陣に付いたはぐれの魔族の多くを投入し、犠牲とした今回の作戦は――恐らくは、本来なら一気呵成に近隣の都市群を呑み干す予定であったからだ。
その為に、人類種側の防衛網に穴を空けんとエルフの聖地を強襲し、神木たる界樹を呪詛で穢したのだろう。聖地に兵を引かせる為に、敢えてエルフ達の郷を破壊しなかった可能性すらあった。
大森林に住まうエルフ達の気質を考えれば、即座に全戦力を聖地に戻すであろうと判断しての作戦だったが、此処で邪神の軍勢側にも予想外な出来事が発生する。
聖地のエルフ――その主導者たる長老衆は、確かに狙い通り外に派遣した全戦力の撤退を命じた。
その命に即座に従うと思われたエルフの戦士達だったが……帰還を躊躇う者の数が予想を超えて多かったのだ。
最終的にほぼ全ての戦士団が大森林に兵を引いたとはいえ、想定より遥かに時間が掛かった。
その間に人類種側の防衛線の再構築が進んでいた為、結果として戦線を一つ攻略するに留まったのである。
これはミラは勿論の事、推論を立てたヴェネディエにすら知る由も無い事ではあるが。
嘗てガンテスが共に肩を並べたエルフの戦士達――派遣された戦士団の中で実力・地位ともに最も高い者が率いていた集団が、聖地の長老衆達から再三の強硬な要請があるまで戦場に留まり続けた為、芋づる式に他の戦士達が帰還の先延ばしを選んだ、という背景があった。
それでも、多くの犠牲が出た事に変わりは無い。
喪われた命が戻ることは無く、残された者の心に刻まれた痛みが変わることもまた、無い。
ミラは目的の部屋のドアの前に立つと、躊躇いがちにそれをノックした。
「……スノウ、入りますよ」
返事は無いが、扉越しに息を殺す様にして動かない気配は感じ取れている。
ノブを廻すと、鍵は掛かっていなかった。
そっと扉を開け、室内へと足を踏み入れる。
まだ此処を使い始めて一年足らずのせいだろうか。生活感はあれど机の上に置かれた小物の他は殆ど私物の無い空間で、その部屋の主である少女はベッドの隅に膝を抱えて座り込んでいた。
いつもは師が帰還すれば飛びつく様に迎えに行くスノウであるが、今は膝の間に押し付けられた顔が上がることは無く、両者の間には痛い程の沈黙が横たわっている。
部屋の入口から、少女のもとまで、精々数歩。
その数歩を進めるのがひどく重く、困難に感じながらも、表面上はそれをおくびにも出さずにミラは弟子の傍へと歩み寄った。
「…………」
膝を抱え、俯いたままの少女にどんな言葉を掛ければ良いのかも分からず。
ただ、無言で彼女を見下ろして女傑は沈黙する。
どれ程そうしていただろうか。
相変わらず動くことは無かったが、少女の口から叫び尽くしてしわがれた様な声で呟きがこぼれ落ちた。
「…………ブランは、どうなったの」
「……峠は越えました。まだ小康状態ではありますが、負傷による命の危機は脱したようです」
声を向けられた事にらしくも無く安堵を感じながら、ミラは先程まで自身も治療に加わっていた栗色の髪の少女の容態を端的に伝える。
ほんの微かにではあるが、スノウの纏った陰鬱な空気が柔らかくなった。
それが切欠、という訳でも無いだろうが、師は弟子の隣へと寄り添う様にベッドへと腰を下ろす。
「聖堂の僧達の他にも、今はガンテスが診ていてくれています……あの娘が呪詛に打ち克つ事を、今は信じましょう」
「うん……」
気休めだと言ってしまえば、そうなのだろう。
それでも、この一年で最も頼りとする人物となった師の言葉に、スノウは静かに頷いて……少しだけ顔を上げた。
「なんで、こんな事になったの……?」
ずっと、泣きはらしていたのだろうか。
あの日、彼女達が師弟の関係になった外壁の上での会話のときの様にその顔には涙の跡が残り、紅い瞳は真っ赤に充血している。
今のスノウに話しても良いものか……ミラは僅かに逡巡したが――どの道、大まかな話は聖殿の多くの者達が知る処だ。
噂話に戸口は立てられない。今はぐらかしても時期に少女の耳にも事の経緯は届くだろう。
ヴェネディエの推論までは語らずとも、話すべきであろう。そう判断して、実際に起きた一連の件をミラは極力感情を挟まずに語る。
「……なに、それ」
はたして、少女の反応は至極当然のものであった。
「皆、おんなじ人類種ってやつでしょ。なんでそんな事になったの……」
唇を噛みしめ、此処にはいない誰かを睨みつけるように、部屋の壁面に向かって強い視線が注がれる。
「……元より、はぐれの魔族は殆どが《魔王》陛下の庇護を拒絶した者同士が徒党を組むか、人相書きが廻って魔族領を筆頭に各国から弾かれた罪人が多いのです……そういった者達を時間を掛けて集めたのでしょう」
「そんなの、殆ど魔族同士の問題じゃんか! なんでそんな事に、そんな連中のやった事の為に皆……!」
師の言葉に激昂して叫び返し、少女はベッドの上で立ち上がった。
「エルフだってそうだ! どうしてこっちになんにも言わずに全員帰って来い、なんて言えるの! 他の種族の偉い人と話すらしないで勝手に決めるなんて、わたしにだっておかしいって分かるよ!」
湧き上がる怒りの感情のままに怒鳴りつけ――目の前の女傑にそれを言った処で意味が無い、と気付いたのか。
激昂によって荒らげられた声は急速に萎み、怒りの名残りだけを残して言葉は途切れる。
スノウは壁に寄りかかると、再びずるずると腰を落として座り込んだ。
「……魔族も、エルフも、だいっきらい……!!」
やり場の無い感情を持て余し、苦し気に呟かれた一言に、ミラは静かに諫める言葉を以て応える。
「怒りを覚えるのも、或いは嫌悪を感じるのも仕方ない事なのかもしれません――ですが、それを種族で括ってしまうのは止しなさい」
そもそもの諸悪の根源は邪神の軍勢だ。
種族ごとの人口の母数もあるのだろうが、その大多数は人間である。今回の件が偶々はぐれの魔族を利用した、というだけなのだ。
自身の大切な者を傷つけた相手に、怒りや憎しみを覚えるのは真っ当な感情の動きではあるが……そこに種族間での隔意を挟んでしまえば、後々に永く冷たい遺恨が残るだけだ。それこそかの悪神の信奉者共の思うつぼである。
何より――。
「聖殿にも、他国にも、皆と手を取り合って戦う魔族やエルフはいます。そして、あの娘――ブランにもその血は流れている」
おそらくはスノウ、白子である貴女にも。
あくまで可能性が高い、というだけの最後の言葉は口の中で転がすに留め……それでもミラは己が出来うる限りの真摯な想いを込めて、言葉を紡ぐ。
弟子が誤った偏見や見識を他種族に抱いてしまうのを危惧した、というのは勿論あったが、それよりも。
彼女に自分自身の血筋や、友人の内にも確かに流れる他種族の血――それを否定して欲しくは無かった。きっと、それをしてしまえば苦しむのはスノウ自身の筈だから。
そんな思いが通じたのか。
少女は師の言葉に俯き、再び顔を膝の間に埋めてしまって――けれども小さな声を洩らす。
「……ごめんなさい」
「……何も悪い事はありません、貴女が道に迷ったならば、行き先を示すのが師の責務です」
師としての義務、そう言い切るには聊か以上に目の前の少女に入れ込んでいる自覚はあった。
が、それを当人の前で口にするのにはミラ自身もまた若すぎたのであろう。
口に出したのは、いつも通りの師として尤もらしい言葉であった。
その言葉に、スノウはどんな想いを抱いたのか。
膝の間に隠された表情は窺い知ることは出来なかったが、それでも彼女はこの二日間で胸に堰き止めていた様々な感情を吐露するように、少しずつ言葉を零し始めた。
「……村には男の子が多くて……初めての、同じくらいの年齢の女の子の友達だったんだ」
「――そうですか」
少女は語る。出会って一年と経っていない、だけど、とても大切な友人の事を。
「初めて会ったとき、思いっきり喧嘩して、村にいた頃に戻ったみたいだった」
「……年頃の女子がノーガードの殴り合いもどうかとは思いますが」
けれど、もう会えない娘の事を。
「おでこちゃんは悪口なんかじゃないって、かわいいって思ってるって素直に言えば良かった」
「彼女も分かっていたでしょう、貴女を『おさる』扱いしているときの表情は、貴女のソレと同じでしたから」
やがて、堰を切った様に溢れ出す。
「妙に自信満々で、なんか偉そうで――だけどそれが格好良くて、いつか御家を再興するんだって……!」
「……えぇ」
「すごく、優しいのに……! 恥ずかしがってそれを隠すぶきっちょで、家族の、お姉ちゃんのことがだいすきで……!」
「……えぇ」
言葉が溢れ、思い出があふれて。
胸の奥から突き上げるような痛みと共に、枯れる程に流した筈の涙も溢れ出す。
「……ともだちだった!」
叫んだ言葉は、喪った者を悼む声だった。
あるいは、スノウはようやっと、この瞬間に実感したのかもしれない。
あの変な髪型のお嬢様には――あの優しい友人には、もう会えないのだと。
「……わたしのともだちだった!! 大好きだった! もっと一緒にいられると思ってたのに! もっと一緒にいたかったのに!」
どうして。
じいちゃんも、ばあちゃんも、村の皆も、みんなみんな、自分をおいて逝った。
一年前、全部わたしから取り上げたじゃないか、やっともう一度手に入れたのに、どうして。
嗚咽と共に次々と吐き出される少女の嘆きは、何に向けたものだったのだろう。
元凶たる邪神とその軍勢か、それとも創造神たる女神か――或いはもっと漠然とした、運命や時代といったものであったのか。
神ならぬ身であるミラには、少女の痛みを想像することしか出来ないが。
それでも、慟哭と共に友人の――エーデルへの想いを吐露し続けるスノウの髪をぎこちなく撫で、少しでもその苦しみが和らぐように祈りながら。
やがて少女が泣き疲れて眠ってしまうまで、ただ、静かにその傍に寄り添い続けた。
涙で目を腫らしたまま寝入ってしまったスノウの顔をタオルで拭いてやり、しっかりと毛布をかけてやるとミラは音を立てないように少女の部屋を後にした。
既に日は落ちた。月明かりが地上を優しく照らし、星が空に瞬いている。
こちらの抱えた想いや悩みなど知った事では無いと言わんばかりに、晴れた夜空で美しく輝く星々を見上げてなんとも言えない気持ちになったが、気候相手に愚痴を垂れても詮無い事だと思い直す。
弟子が心配で一度は中座したが、あとは大聖殿に戻って夜を徹して重傷者達の治療に当たる予定であった。
ガンテスも戦地より戻ってそのまま聖堂での治療に参加した身だ。魔力の消耗を考えても、一度交代して休息と摂らせる必要があるだろう。
休めと言ってるのに不安で落ち着かないと筋トレを始めそうな後輩を、どう眠らせるか。そんな考えを巡らせつつ、足早に大聖堂へと向かう。
その途中、いつかのように聖堂の外壁に寄りかかって腕を組んでいる友人の姿を見つけ、静かに声を掛けた。
「……貴方も重症でしょう。まだ横になっていた方が良いのではないですか」
「この程度は冒険者時代から慣れたモンだ」
心底面白くなさそうに――それこそ吐き捨てるように返されたラックの言葉には、己の不甲斐無さに対する怒りが満ち満ちている様であった。
「お前や筋肉馬鹿と違って、俺は回復魔法はロクに修めてないからな。治癒の手助けも出来ん奴が聖堂内に居座っていても邪魔なだけだろう。自分で立って歩けるなら猶更だ」
「殿を務めた者がその様に自身を卑下しては、治療を受ける者も心安らかに傷を癒す事が出来ないでしょう」
「ハッ、偶々生き残った奴らの最後尾にいたってだけだ……チビスケの手前、殿だとは言ったが、本当の殿と言える奴らは今もあそこにいる。糞みたいな呪詛塗れの地で、埋葬すらされずにな」
そう言ったきり、黙り込んだ傭兵にミラも返す言葉を持たず、両者の間に沈黙が降りる。
十秒か、二十秒か。ややあって沈黙を破ったのは傭兵の方であった。
「……あの従者のお嬢ちゃんはどうなった? 一度抜けた様だが、診てたんだろう?」
腕を組んだまま、足元の芝生を睨みつけているラックの呟くような声に、ミラは極力抑揚を押さえた声で応える。
「ブランの事でしたら、一命は取り留めました――ただ、呪詛が身体の奥深くまで喰い込んでいます」
「……浄化は難しいのか」
「えぇ……呪詛をどうにか取り除かない限り、意識を取り戻す可能性も低いそうです」
これ以上負担にならぬ様、スノウには敢えて話さなかった事ではあるが、ブランの状態は決して良いものとは言えない。
皮肉にも意識が無いが故に避ける事が出来ているが、今も邪神の呪いに蝕まれている少女の身体は本来は相当な苦痛を覚えている筈だ。
ミラが《三曜》の技をもってある程度散らしたものの、臓腑にまで喰い込んだ呪は深く、根本的な治癒には至っていない。
例え肉体的な傷が癒えたとしても、定期的な浄化魔法による除染が無ければ、傷痕から溢れ出した呪は短期間でブランの身を消耗させ、死に追いやるだろう。
現状では生命を繋ぎ止めるだけで精一杯。
それこそ、上位眷属の齎す呪詛であろうと問答無用で浄化出来る程の聖気――大規模な儀式か、現世において最も女神の加護厚いとされた聖女の癒しでも無い限り根治は不可能である。
前者は人員や総合的なリソースの問題でとてもでは無いが実行など出来ず、後者が最後に現れたのは二百年以上も昔の話だ。
故に……『戦場において致命的な呪詛汚染を受けた者は、慈悲を以て女神の御許へ送る』という選択はこの世界、この時代では決して有り得ない話では無かった。
勿論、可能ならば助けたい、助けるべきだ。
そう思う者が多いのは当然であり、ブランを始めとした同様の重傷者は今も懸命な治療が続けられている。
「……クソったれが」
傭兵の喉から低く、唸る様に捻りだされた声は拭い様の無い悔恨に濡れていた。
「……ラック」
「分かってる、ペーペーの新米やガキじゃ無いんだ、分かってるさ」
自分達は万能でも無敵でも無い。
どれほど腕が立っても、どれほど強くとも、それだけで眼前の困難全てを打破出来る筈も無いのだ。
ラックとて一度は冒険者として最高位に到達した身だ。高みに登る過程において、そんな事は嫌という程身に染みている。
だが。
だが、それでも、だ。
ばりばりと指先で頭を掻きながら仏頂面を更に顰め、ひどく陰鬱な気分で傭兵は星空を見上げる。
今回の一件で帰って来なかった多くの知人の顔が、脳裏にチラつく。
『門』を前にして、己が抑え込んだ少女の悲鳴の様な泣き声が、耳にこびりついて離れない。
初めて会ったのも、家族を目の前で失った彼女が慟哭の叫びをあげた最中であった。
――これで何度目だ。
自身の不甲斐無さを呪う様に、どうしたってそんな事を考えてしまう。
強い自責の念を抱える戦友に、ミラは緩々と頭を振った。
「真に不甲斐無いのは私の方でしょう。肝心な時にまんまと違う戦場へと釣り出され……多くの者達を死なせ、あの娘の傍にいる事も出来なかった」
「おい、そりゃぁ……」
違うだろう。と言いかけ、それが意味が無い言葉であるとラックは気づいて、口にすること無く吞み込んだ。
理屈では無いのだろう、互いに。
否。二人だけでなく、生き残った者、残された者全てが。
隣に居た誰かが居なくなる度に腹に淀み、重く溜まった悲嘆を。
時間と共に薄れたと、或いは乗り越えたと思っていたそれを、また誰かが居なくなる度に思い出して。
それでも、と。
ともすれば止まってしまいそうになる手足を叱咤して、胸の痛みを戦いへの気炎に変える。
この世界では、多くの者がそうやって進んで来た。そうやって生きて来た。
だから、この遣る瀬無さも、自分の不甲斐無さに覚える怒りも、それでも再び立ち上がって歩き出す為には必要な感情なのだと。
そんな風に、纏まりの無い思考が脳裏を巡り……ほんの僅かではあるが苦笑が漏れる。
類い稀な強者であるが故に、何度も何度も……嫌になるくらいに彼は、彼らは『見送る側』だった。
独りで抱え込んで、この想いを消化する事にもすっかり慣れてしまった――そうでは無かった頃を、思い出せない位に。
だからこそ、今回そうなってしまった少女にどう声をかければ良かったのか、アレで良かったのか、分からない。
そんな風に考えているのであろう、目の前の女傑の懊悩に気が付いたが故の苦笑いであった。
全く、教会の英雄だの最終兵器だのなんだのと恐ろしい逸話ばかりの怖い女が、随分と新たな一面を見せてくれるものだ。
何時ものミラならば、相手に拒絶される事も覚悟の上でド正面・ド正論を以て諫めるなり諭すなりするだろう。友人間で『最上級の魔装もびっくりの鉄の女』と称されるのは伊達では無い。
それがスノウ相手にはひどく慎重に――ともすれば臆病にすら思えるほどに悩んで、言葉を選んで対応しているのは、少女に嫌われる事と――なにより傷つけることを恐れているからに他ならない。
少なくともラックはそう判断していた。
こんな状況でなければ、存分に弄って揶揄ってやる処なのだが……これから大勢の負傷者の治療に関わる人物の気を削ぐ訳にもいかないだろう。
急に含み笑いを始めた傭兵に、訝し気な視線を向けるミラ。
それには構わず、彼はヒラヒラと手を振った。
「まぁ、いい。治療に戻るんだろう? 癒やし手が必要な状況だから仕方ないが、お前が倒れちゃ本末転倒になるのは忘れるなよ」
「……ベッドから抜け出してこのような場所にいる貴方に言われると腹が立ちますね」
「分かった分かった、もう暫くしたら戻るとするさ……」
そんな風に、何時ものようにやり取りをして二人は別れる。
だが……表面上はおくびにも出さずとも、両者ともやはり怪我や疲労の影響はあったのだろう。
二人の会話を植木の陰に隠れて聞いていた小柄な人影に、気付かなかったのだから。
寝入る直前まで傍に居てくれたぬくもりが離れていった事で、直ぐに目を覚ました少女は、心細さのままに師の後を追いかけ――偶然ではあるがミラとラックの話を聞いた。
聞いて、しまった。
或いは、スノウがもう少し一緒に居て欲しいと、我儘を言えば。
或いは、ミラがもう少し弟子と一緒に居ようと、私情を優先させれば。
また、違った結末があったのかもしれない。
だが杯より零れた葡萄酒が戻ることは無く、時がさかしまに戻る事も無い。
夜が明け、ミラが再び部屋を訪れたそのとき、部屋は既にもぬけの殻で。
――否、部屋だけでは無く。
スノウの姿は、聖殿の何処にも無かった。