老兵の残照 悲嘆
「納得が行かない」
ブスっとした表情で白髪紅眼の少女――スノウが呟く。
「まだブーたれてやがりますの、いい加減諦めなさいな」
呆れを滲ませた声色で特徴的な髪型の少女、エーデルが応え、プクーっと膨らんだスノウの頬を指先でつつく。
そんな二人を何時もの様に微笑みながら見つめる、二人より少しだけ年上の栗色の髪の少女、ブラン。
スノウが大聖殿で暮らす様になり、そろそろ一年。
彼女の友人である凸凹主従は一足先に見習いを卒業し、戦場へ向かおうとしていた。
エーデルとブランが向かうのは大陸中央、大森林付近で発生した小さな戦闘――所謂小競り合いと言って良い小規模の戦線だ。
一度は上位眷属が顕現した程の激戦区となったのだが、現在別の戦場で大暴れしている女傑と筋肉が敵方の主力を叩き潰して以降、散発的に小さな戦闘が起こるのみとなっている。
危険度も低く、初陣としてはうってつけといって良いだろう。
だが、スノウにとってそこは重要では無かった。
聖都城門前にて出立の準備を進める者達とそれを見送る者――後者としてやってきた少女は、昨日も幾度となく言い募った不満を口にする。
「なんで二人が実戦に出るのにわたしは無理なのさー。理由を聞く前にミラはまた戦いに出ちゃったし」
「何回同じ話をしていますの。見送りくらい快く送り出しなさい」
「だってさー、わたしに負け越してるエーデルが初陣に出れるならわたしだって良くない?」
「オーケー、そこになおりなさい。信奉者共の前にボコって差し上げますわおさる」
ゴキゴキと拳を鳴らして一歩前に出ようとしたエーデルを押さえ、ブランがとりなす様に割って入った。
「まぁまぁ。確かにスノウさんは驚異的な速度で腕をあげましたが、まだ訓練を初めて一年も経っていないでしょう? いくら実力があるといっても、極端に短い訓練期間で戦場に出る前例が出来てしまうのは良くないのでは?」
年齢的な問題もあるだろう。これが成人でならある程度のリスクは自己責任という事で戦地に向かう事も出来ただろうが、年若く、師兼後見人であるミラの監督下にあるスノウが戦場に出ることになるのはもう暫く先の話になる。
新兵の低年齢化や訓練の簡略化といった、よろしくない措置の悪しき前例となりかねない、と言われてしまえばスノウとしては黙るしかない。
「模擬戦で負け越しているのは事実ですわ。ですが、実戦でしか得られない貴重な経験もあるでしょう――そうなったら直ぐに戦績も逆転しますわねぇ、オーッホッホッホ!」
「ウギギギギ……勝ち誇るには早いぞおでこちゃん! 今の段階で勝ってるのはわたしなんだからね!」
まだ見習い卒業出来ないならその分ガッツリ訓練してやらぁ! 後で吠え面かくなよぉ! なんて威嚇するように叫ぶ白い少女。寧ろ彼女の方がキャンキャンと吠える小犬の如き様相である。
未だに不満です、といった膨れっ面をしているスノウに向け、エーデルは先程までの煽るような態度を引っ込めて代わりに苦笑を浮かべた。
「まったく……派遣先の戦地はミラ様の御蔭で危険度の下がった地域であると、この間も話したでしょう。心配されて悪い気はしませんが、今回はラック様も同地域に出ていますのよ? 危険どころか下手すりゃ後方で待機してる間に終わる可能性もありますわ」
「……し、心配とかしてないし! た、ただ、ちょっと二人が怪我とかしたら嫌だなーって思っただけだし!」
「語るに落ちてますわよ」
先程と同じ様に唸りながら、しかし頬を赤らめて押し黙ったスノウに、エーデルとブランの生暖かい視線が注がれる。
三人の少女の間に満ちた暖かい空気――約一名にとっては居た堪れない空気だが――を、切り替えるように今回派遣される教会関係者を乗せる馬車から、集合するように声が上がる。
肩を竦めると、エーデルは背負った戦鎚を固定している肩紐を指先で位置調整した。
「時間ですわね。ま、貴女が見習いを卒業した際には先達として引率して差し上げますわ」
「訳すると『そのときまで待ってるから一緒に戦おう』ですね。それまでスノウさんは私達の武運を祈って下さると助かります」
「いらん翻訳を掛けるんじゃありませんわよっ」
「……うん、分かった。御祈りしとくよ。あと訳さなくても分かってるから大丈夫」
「二人ともおだまりっ!」
今度はドリルツインテールな少女が赤面し、攻守交代とばかりに生暖かい視線に晒される。
馬車に乗り込む様、再度上がる声にこれ幸いと、まだ頬に赤みの残るエーデルが二人の視線を振り切るようにズカズカと幌馬車の一つに向かう。
唯一、ずっと攻める側だった栗色の髪の少女が微笑んで一礼し、それに続いた。
この場に残る見送りの者達の一人となったスノウは、最後に幌の最後尾に乗り込んだ二人に向けて声を上げる。
「――二人ともいってらっしゃい! 無事に帰ってきてね!」
その言葉に、友人達は振り返って。
「……ったりめぇですわ! 帰ったらパインサラダを食べるので用意しておいて下さる?」
「それ言っちゃ駄目なやつって大司教様が言ってなかったっけ!?」
「ヴェネディエ様は『理解った上で敢えて言う事で効果が逆転する場合もある』とも言ってましたわ! 要は気合ということですわね!」
「もう、お嬢様ったら。力瘤なんてはしたないですよ? ……では、いってきますねスノウさん」
不敵に笑って腕に力を込めるポーズで応えるエーデルに、目を剥いてスノウがツッコミを入れる。
その隣で相変わらず淡い微笑みを浮かべながらブランが手を振って出発の挨拶を返した。
そして、馬車が動き出す。
スノウがぶんぶんと手を振るのに、律儀に手を振り返してくれる友人達。
お互いに少しばかり気恥ずかしかったが、でも悪い気はしなくて。
少女はいつも師を見送るときと同じように、馬車が見えなくなるまで手を振り続けた。
さて、早くも次の日である。
エーデルに訓練をしっかりやっておくと啖呵を切った以上、一人であろうと自主訓練に打ち込むのみだ。
「……皆いないって何気に初めてだなぁ」
この聖殿の近い年齢の者達の中では、一番交流のある友人達は昨日見送りをしたばかり。ラックも同じ地に一足先に向かっているらしい。
ミラとガンテスは別の戦場で戦っている最中だ。
前述した者達の次点となるのが、本来なら雲の上の立場と言って良い大司教様ことヴェネディエなのだが、いつぞやも言った通り一対一は教育に悪いので駄目と師に言い含められているので、除外である。
彼自身はミラの弟子であり、彼女の面白い面を引き出してくれるスノウの事は思いの外気に入っている様なのだが。
基礎技術の《地巡》によって魔力の循環を行い、巡らせた力を五体に滑らかに行き渡らせつつも、久しぶりの完全な一人での訓練に何処か上の空になってしまう。
なんだかんだとスノウが一人で居れば理由をつけて会いに来てくれる者達がいた事を、今更ながら彼女は強く意識した。
「……今更だけど、わたしって結構恵まれた立場だよね」
最初は軽い気持ちで弟子入りしたおっかない女の人は、今では天涯孤独になってしまったスノウにとって唯一の家族みたいな人になって。
その人を起点にして、色んな出会いがあって、仲の良い友達や頼りになる沢山の優しい人達と関りを持つことが出来た。
例えば、あのまま生き残った村の者達と故郷の近くの領主様に難民として引き取られたとして、今の様な気持ちで日々を過ごすことが出来ただろうか。
……おそらくは無理だろう。陰鬱とした気持ちを抱えたまま、いずれは我慢できずに村に飛び出して行きそうだ。
だからこの環境に、自分を取り巻く今にスノウは感謝している。
なので、たかだか数日、一人になる時間が多いからといって『淋しい』なんて甘ったれた考えを抱いてはいけないのだ。
「――ッ、だめだめ、漫然と技をなぞるだけじゃ意味が無いってミラも言ってたし」
様々に胸中に浮かぶ思いに、集中しているとは言い難い自分を自覚して頭を振る。
フンス、と鼻息も荒く気合を入れ直し、中庭の片隅で少女は集中力を高めて最初から型を打ち始めた。
それから更に数日後。
「やぁ、おはようスノウ。自主訓練を頑張ってるみたいだね」
少女が朝の走り込みから帰ってくると、食堂前で一人で会話するなと言われている人物と遭遇した。
とはいえ、向こうが挨拶をしてきてくれたのに挨拶を返さないというのも人として駄目な気がするので、普通に対応する。
「あ、おはようございますもやし。こんな朝早くに珍しいですね」
「ちょっと待って、今凄い呼び方しなかった?」
顔を引き攣らせる若き大司教様にスノウは不思議そうに小首を傾げる。
別になにかおかしな事は言ってないと思うのだが。そもそもミラが『彼は大司教になって益々部屋に籠りがちになりました。あのままでは昔のもやし小僧に戻ってしまうでしょう』とか言ってたし。
なので心の中で目の前の青年は常にもやし扱いのスノウであった。立場上、戦士見習い兼シスター見習いの様になっている少女が大司教を呼ぶ呼称としてはぶっ飛んでいるのにも程があるが。
「……偶には僕も運動したほうがいいのかなぁ」
「よく分からないけど、身体を動かすのは良い事だと思いますよ」
持ち前の頭の回転でなんとなく察したのか、若干遠い目をして中庭の方に視線を飛ばすヴェネディエの言葉に頷いて同意を示す。
彼も朝食を摂りにきたのか、スノウに並んで歩き出すと二人は食堂の扉を開けて中に入った。
「まぁ、今日は流石に止めておくよ。実の処、早起きではなくて、ついさっき抱えていた書類を片付け終えたばかりでね」
「あ、徹夜だったんだ? お疲れ様です。寝ないと駄目ですよ、わたしはそれでこの前、友達に怒られました」
なんとなく流れで二人連れ立って、厨房にメニューを注文し、席につく。
てっきり途中で別れると思ったのだが、対面の席にニコニコと笑ったまま腰を下ろした青年に少女は再び首を傾げる。
「? わたしに用があるんですか?」
「いやいや、特段用って訳じゃないんだけどね。寝る前に軽く何か胃にいれておくにしても、壁を眺めて食事するより可愛い女の子を眺めて食べた方が身体に良さそうだろう?」
「ミラに教育に悪いから一対一で話すなって言われてたんですけど、今すごく納得しました」
「師弟揃って辛辣だなぁ……!」
卓の上に突っ伏して呻くヴェネディエを尻目に、サラダとハムエッグ、パンケーキとよく頼むメニューを前にスノウは手早く祈りを言葉を捧げ、フォークとナイフを手に取った。
再三言うようだが、本来は雲の上と言っても良い立場の青年相手に、白い少女は全く委縮もせずに普通に会話している。
まぁ、そもそも彼女の師が自称いちシスターを名乗る聖教会決戦兵器みたいな女傑なので、今更だと思っているのかもしれない。単純に物怖じしない性格というのもあるだろうが。
しっかり走り込んでお腹を空かせて来た御蔭か、みるみるうちに朝食を平らげてゆく少女の健啖っぷりを眺めて、ヴェネディエは自身も注文したサンドイッチの皿を手元に引き寄せた。
「良い食べっぷりだねぇ……ミラやいつも一緒にいる娘達も居ないし、気を落としているんじゃないかと思ったけど、これは杞憂だったかな?」
「ふぁ? ひんはいひてふゅれるんふぇふか?」
「うん。呑み込んでから喋ろうね。後でバレたら行儀が悪いってこわーい師匠に怒られるよ?」
そうだった。一人の時間が久しぶり過ぎてへんな処で気が緩んでいたらしい。
スノウは慌てて頷きだけで応じると急いで口を動かし、サラダを嚥下する。
水を一口飲んで一旦落ち着くと、苦笑している青年に向かって軽く頭を下げた。
「……ヴェネディエ様が心配してくれるのは、正直ちょっと意外でした。ありがとうございます」
「まぁ、ガラじゃないのは分かっているよ。でも、君の師は君が一人になる期間が長い、ということに大層気を揉みながら出撃していったからねぇ。時間があれば様子を見るくらいはするさ」
友人として、それくらいはね。 と言葉を結んで、苦笑から微笑みにシフトする大司教様ではあるが、スノウとしては師が自分を心配していたのが嬉しいやらくすぐったいやら恥ずかしいやらで、どうにも居心地が悪そうだ。
ミラを筆頭に揃って留守である普段少女が関わる大人達の代わりに、ちょっとだけ様子を伺いに来たらしい青年は、彼の友人達が危惧するような教育に悪い言動を取ることも無く。
暫くの間、穏やかに会話を続けると、皿の上のサンドイッチが空になると同時に席を立った。軽く食べたことでいよいよ眠気がきつくなってきたらしい。
「うん、流石に眠くなってきたから戻って仮眠を摂る事にするよ。君も無理しない範囲で訓練頑張ってね」
軽く手を振りながら食堂から出てゆくヴェネディエに、スノウも『おやすみなさい』とだけ返して座ったまま一礼する。
一人になって残ったパンケーキをもぐもぐと咀嚼しながら、彼女は不思議そうに呟いた。
「凄い普通の会話しかしなかったけど……どこが教育に悪いんだろ。皆心配し過ぎじゃないかなぁ」
少女は知る由も無い事だが、彼が素を出して話すと後で弟子が師にそのときの事を話した場合、高確率で女傑、筋肉、傭兵に三人がかりで組手(強制)させられる恐れがあったのでがっつり猫を被っていただけである。
そういったリスクを考慮した上で尚、女傑の弟子の様子を見に来る辺り、実は中々に友人想いではあるようだが……飄々とした青年の様子からスノウがそこまで汲み取るのは無理な話なのであった。
――次の日。
前日と同じように聖都外周を走り込みしていたスノウが、周回を終えて一息つく。
「大分慣れたもんだなぁ」
軽く息を切らせたまま、最初の頃は同じ距離を走って立つことも出来ない程に疲労困憊になっていた事を思い出して苦笑いを浮かべた。
基礎体力を高める為に素の状態で走り込んでいるが、今の彼女なら魔力強化有りならば半分以下の時間で息一つ切らさずに同じ距離を走り抜ける事も可能だろう。
一歩進むごとに踏みしめる地から魔力を循環させ、途切れる事無く身体に巡らせながら、いざという時には瞬時の攻防に用いる事も可能だ。
比較対象が師である為、いまいち自覚の薄いスノウであったが、単純な《三曜》の精度という点で見れば、既に歴史上に存在した使い手の中でも上位と言って良い領域に到達しようとしている。
肉体的な基礎性能はあくまで訓練を初めて一年弱の十代半ばの少女のものである為、総合的な戦力という意味では未だ嘗ての使い手達には及ばないのだろうが、それでも驚異的な成長速度であった。
自身の現在の力量――それには大して頓着する事も無く、少女は空を見上げて眉を顰めた。
「……嫌な天気だな……」
村が燃えてしまったあの日も、こんな曇天だった。
分厚い雲にお日様が隠され、どことなく薄暗くて重たく感じる空気のせいだろうか。
いつもより思考が暗くなっている気がして、気分を入れ替える様に軽く自分の頬をたたく。
「よしっ、縁起でも無い事は考えないっ」
声に出して気合を入れてみるものの、それでもスノウの表情は何処か影が差したままである。
こんな風に負に偏った考えや雰囲気になるのは、先日、日が落ちる頃に聖殿にいる知人に嫌な話を聞いたせいだ。
大陸中央部――エーデル達が向かった戦線より更に先の、エルフ達の住む森で何かあった、とかなんとか。
現地に近い都市でも情報が錯綜している為、正確な内容が入って来てはいないが、それで酷くバタバタしていると知人――大聖堂で怪我人の治療を行っている人達から聞いた。
友人達が向かった戦場と、ある程度距離も近い場所の話だ。頭から追い払おうとはしても、どうしたって不安になってしまう。
「はぁ……とりあえず、帰ろ」
入れたはずの気合は直ぐに萎み、僅かに肩を落としてスノウは聖殿への道を歩き出した。
城門をくぐる際、すっかり顔馴染みになった門番の男性二人と言葉を交わす。
「よう、お嬢ちゃん。今日の走り込みは終わりかい? いつも頑張ってるねぇ」
「うん。おじさんたちもいつも門番お疲れ。今日も頑張ってね」
「昨日、上司から連絡が回って来たんだけど、ミラ様は明日か明後日くらいには帰還なさるらしいよ。良かったねスノウちゃん」
何時もの様に、警備の人達と挨拶がてらの雑談交わしていたときであった。
凄まじい魔力の奔流が、聖殿の方角から立ち昇る。
この場からでも容易に知覚できる巨大なソレに、少女も、門番の二人も驚愕のままに瞬時にそちらへと首を向けた。
「な、なにあれ。聖殿であんな魔力が発動したの見た事ないよ! 何があったの!?」
「――ッ、ありゃ転移の魔法だ……! 聖殿内に座標を開けるっつー事は相当なお偉いさんに何かあったって事だぞ……!」
狼狽えたスノウの言葉に、苦虫を噛み潰した様な顔で応える壮年の門番へと、若い方が狼狽えた声を上げる。
「う、うぇぇ!? それマズくないですか!? ど、どうしましょう先輩、俺達此処で警備したままで良いんですか!?」
「馬鹿たれ、こんな時だからこそだ! 緊急性のある問題が発生した以上、都市外から情報を持った誰かがやってくるかもしれん――俺が待機しておくから、お前は一応上に確認を取りに行け、急げよ! お嬢ちゃん、お前さんは急いで聖殿に戻れ! 場合によっちゃ大門閉じて締め出されちまうぞ!」
「わ、分かった!」
切羽詰まった様子で後輩に指示する門番の言葉に、スノウも慌てて走り出す。
一気に大きくなって広がる胸の不安を押し殺す様に、全開の魔力強化を施した脚で都市を駆ける。
(……ッ、エーデル、ブラン……ミラ! 大丈夫だよね? 違うよね?)
祈る様に、或いは、縋る様に。
ともすれば泣き出しそうになってしまう自分を叱咤しながら、白い少女は必死に聖殿への道を最短で走り続けた。
「――浄化結界の多重展開を急げ! 開いた《門》から敵性が乱入してくるかもしれん!」
「治療に必要な聖水が足りない! 酒保の在庫もあるだけ吐き出させろ!」
「包帯と清潔な布を! 裏手に乾したシーツを使って構いません! 急いで持ってきて!」
少女が聖殿内に飛び込んだとき、既に其処は戦場と見紛うばかりの怒号と喧噪、足音荒く移動する人々でごったがえしていた。
広大な敷地を誇る大聖殿中央区――その中心に聳える大聖堂の真ん前に、先程の莫大な魔力の源と思われる虚空に空いた穴……転移魔法によって開けられた《門》が鎮座している。
その傍には、赤いカソックを来た壮年の男性の姿があった。
顔を蒼白にしながらも、《門》に向けて魔力を注ぎ続ける男性の足元には、点々と赤い染み――血痕が落ちており、時間と共にそれは少しずつ増えていた。
「枢機卿、《門》の維持は我々が行います! 先ず治療を受けて下さい!」
「駄目だ、君達では向こう側からの干渉があった際に保持が出来ん。味方の避難が終わるまで私が維持する……!」
服の色合いのせいで判別がし辛いが、足元だけでなく身体のあちこちからカソック越しに赤い染みを滲ませる男性――壱ノ院の枢機卿は、体力魔力の枯渇で飛びそうになる意識を無理やり繋ぎ止め、転移の魔法を展開し続ける。
腰を下ろせば気を失う、そう言って満身創痍をおして立ったままの彼の負担を軽減しようと、周囲には複数の神官達がついて全身に回復魔法を施していた。
開かれたままの《門》から現れるのは、剣士、兵士、騎士、弓兵、聖職者、魔導士。
職業問わず、何人もの負傷した戦士達が肩を貸し合い、或いは背負われて聖殿の地を踏み、そこで力尽きた様にくずれ落ちる。
大小差はあれど、無事な者は一人としておらず、皆、傷を負っていた。
「何があった!? あちらの戦線はどうなってるんだ!?」
「……分からんっ、エルフが急に戦力を引き上げて、空いた穴を埋める為の編成が終わる前に大規模な攻勢が始まった……! 枢機卿が無茶をして《門》を開いてくれねば、我々も全滅していたかもしれん……!」
掴み掛からんばかりに問い詰める神官の言葉に、血に染まった肩を押さえて座り込んだ騎士が苦々しく応える。
「エルフが……!? 大森林の一件と何か関係があるのか? 都市はどうなった、近辺の領軍は!?」
「分からんのだ! 情報が入り乱れ過ぎていた! 野良の魔族が関わっているという話もあったが、確認を取る余裕なぞ無かった!」
知り合い同士なのか、神官と騎士が怒鳴り合っている間にも次々と負傷者が《門》を通って運び込まれる。
「道を開けてくれ、重傷者だ! 早く浄化と癒しを!」
そんな声と共に、新たに《門》を潜った怪我人のもとへ、大量の医薬品やシーツ、聖水を抱えた治療の為の人員が駆け寄る。
血濡れで担がれ、または背負われてやってきた、特に重度の呪詛汚染や傷を負った者達。
――その中に、見知った顔を見つけて。
呆然と立ち尽くした儘だったスノウの喉から、引き攣った様な声が洩れた。
「――ッ、ヒ、あ」
真っ白なシーツの上に寝かされ、みるみるうちにそれを赤く染めてしまった傷だらけの修道服姿の少女。
普段はシスターの僧衣である帽子の下に隠れている、母親譲りの少しだけ尖った耳は、抉れて途中で欠け落ち。
治療を行う神官の手によって必死に抑えられている腹部には、大きな裂傷。
怖気が走る程の呪詛によって汚染されているそこは、負傷部位を黒く染めて侵食しながら内臓にまで達しているのが見て取れた。
いつもは優しい微笑みを浮かべて、スノウや――彼女の大切な家族を見つめている瞳は、今は力無く閉じられ、か細い擦過音が喉から漏れるばかりで。
「……ブ、ら……ッ!」
栓をされたみたいに声の出ない喉から、裏返りそうになった悲鳴の破片だけが零れ落ち、スノウは転げる様に友人の――ブランの傍へと走り寄る。
「――この娘の知り合いですか!? 呼びかけて! 意識を留めさせるのです!」
治療にあたる神官の切羽詰まった声に、咄嗟に友人の手を取ろうとして――その腕が無残に捩じれ折れていることに気付いて、息を呑んで硬直した。
こえを、声をかけないと。寝たら駄目だ、起きて、ブラン。
必死に呼びかけようとするも、腫れあがった様に鈍痛を訴える喉はまともに動いてくれない。
どうして、嫌だ、なんで――千々に乱れた思考は纏まらず、役立たずの木偶みたいになった身体は勝手に制御を離れ、動かない友人を映した視界を滲ませる。
偶然か、それとも頬に落ちる滴に刺激を受けたのか。
スノウの涙で濡れたブランの表情が僅かに顰められ、瞳がゆっくりと開かれた。
「……ァ……スノ……さ……」
「――ッ、ブラン!!」
ひび割れた唇から自分を呼ぶ声が零れると、ようやっとスノウは叫ぶ様に彼女の名を呼ぶことが出来た。
意識を取り戻してくれた事に、ほんの微かに安堵を感じた瞬間――。
凄まじい勢いでブランの腕が跳ね上がり、スノウの二の腕を掴む。
折れている筈の腕の何処にそんな力があるのか。指先が喰い込む程の力を込めながら、意識を取り戻した栗色の髪の少女は鬼気迫る形相で身を起こそうとする。
「何をしているの!? 動いては駄目です!」
「誰か沈静効果のある魔法を!」
治療を行う神官達の言葉にも耳を貸さず、ブランはスノウだけを見つめて震える声を絞り出した。
「お、願いです……お嬢様、を……エーデルを……!!」
言葉を紡ぐ口の端から、赤黒い血が溢れたのを見てスノウの首筋が総毛立つ。
「ブラン! 今は動いちゃダメだよ! 傷が……!」
「……お願い、です……! あの娘を……!」
本来なら意識を保つことさえ困難な状態で、だが、スノウの腕を掴む力は全く緩む事無く。
力無く掠れ、今にも泣き出しそうな、懇願を滲ませた震える声色で、ブランはひたすらに繰り返す。
「……お願い……! おねがい……!!」
どうすればいいのか。
少女は迷った。
今も《門》からは、続々と大陸中央部より撤退してきた者達が現れている。
当然、スノウだって友人の片割れ――エーデルの事は凄く心配なので、ブランが出てくるまではずっと《門》を見ていた。
それまでにあのおでこの可愛い友人の姿は見ていない……ブランを見てる間に別の場所に運ばれた可能性がある。
それを正直に伝えるのか。伝えた処で、今も死に物狂いで自分の腕を掴んでくる、彼女の姉が、無理やり身を起こそうとするのを止めてくれるのか。
迷ったのは僅かな間だけだった。
小さく咳き込んだ友人の口から、再び血が溢れたのを見た瞬間、少女は咄嗟に嘘をついた。
「――ッ、エーデルなら大丈夫、ちょっと離れた処で治療を受けてるよ! 後でわたしが様子を見に行くから、だから……!」
「―――――ぁ」
その言葉に。
一瞬、呆然とした表情を見せたブランは、安堵した様に吐息を一つ、吐き出して。
スノウの腕を掴んでいた指先から力が喪われ、滑る様に地へ落ちた。
「ブラン!!」
声を上げるスノウを押し退ける様にして、神官達が意識を失った栗色の髪の少女を数人がかりで囲む。
「傷口が深い! 先ずは呪詛を取り除かねば!」
「聖水の追加を! 洗浄しながら止血を試みます!」
「こちらは腕の処置を行います! 放置していては切断せねばならなくなる、そうなれば彼女の体力がもたない……!」
喧々囂々と指示が飛び交い、しかして適切にそれを聞き分ける者達によって次々と処置が施されてゆく。
回復魔法は手習い程度にしか学んでいないスノウでは、この場で出来る事は無い。
さりとて、目を離す事など出来る筈も無く。祈るような気持ちで治療の様を見つめていると。
《門》の向こうから凶悪な呪詛を湛えた触腕が飛び出し――既に多重展開されていた浄化結界に阻まれてヘドロが焦げ付く様な悪臭を放ちながら弾かれる。
「――眷属だ!」
「此方に来させるな、押し返せ!」
全身を結界に阻まれ、焼き焦がされながらも無理矢理に《門》を通り抜けようとする怪物に、大人達が怒号を上げて武器を手に取り、立ち上がる。
しかし、それも直ぐに無意味となった――この場に限り、良い意味で。
邪神の眷属――大きさや呪詛の強さからして下位のものであろうソレの頭部から、剣の刀身が生える。
肉眼で魔力を確認出来る程に強化を施された刃はそのまま眷属の腰まで一気に斬り下ろし、捻りを加えながら引かれ、そのまま《門》の向こう側へと眷属の身体を引きずり戻した。
入れ替わる様に飛び込んで来たのは、眷属を切り裂いた剣を手にした、軽装鎧を纏う大柄な男である。
「――おじさん!」
スノウが上げた叫びに一瞬だけ視線を向けるものの、男――ラックは直ぐに《門》を維持している枢機卿へと目を向け、大きく頷いた。
安堵した様に枢機卿の全身から力が抜け、彼は意識を失う。
傍で治療に当たっていた者が慌ててそれを支えるのを尻目に、魔力供給を断たれて徐々に縮小してゆく《門》を、ラックは油断なく見据えて剣を構える。
平然と立っているが、彼もまた相当に傷だらけだ。肩から背にかけて大型の魔獣のものらしき牙が何本か喰い込んでいるのにも関わらず、一撃で眷属を両断した先程の手並みは凄まじいの一言に尽きた。
「下がってろ。《門》が閉じるまで俺が見ておく」
駆け寄るスノウに、振り向く事無く告げる強面の傭兵の声は硬い。
「閉じる……他にも逃げ遅れた人がいるんじゃ」
「……俺が殿だ」
端的に、そして残酷な事実を語るラックの言葉に、少女は声を詰まらせる。
彼の言葉は実際真実であった。
生き残った者達をどうにか纏め上げ、転移魔法を発動させた枢機卿が聖殿内に《門》を作り、それを維持する。
そうして怪我人を優先して《門》をくぐらせ、ラックを中核として戦える僅かな手勢でもって、味方の避難が終わるまでの時間を稼いだ。
殿を受け持った者達の中で、生き残ったのは彼だけである。
振り向く事のないラックに、スノウは不安を押し殺して更に言葉を絞り出す。
「……おじさん、エーデルを……わたしの友達を知らない? こう怪我した人が多いと、何処にいるのか分からなくて」
言葉は、無い。
「……おじさん?」
何か言ってよ。
そう、続けようとした口が動かなくなったのは、或いは少女にも予感があったのか。
――それとも、聞く事で決定的な言葉が彼の口から出て来ることを、恐れたのか。
長い、長い――少なくともスノウにはそう感じた、数秒の沈黙の後に。
「………………すまない」
やはり振り向く事無く、だが血を吐くような声色で告げられたのはその一言のみだった。
それを聞いた瞬間。
スノウの意識は真っ白になり、全ての思考が吹き飛んで。
――気が付けば、今も段々とその大きさを狭めている《門》へと飛び出していた。
「駄目だ……!」
当然、彼女の前にいたラックがその腕を掴んで押し留める。
掴まれた腕を起点に、少女は一瞬で《流天》を発動。
力の流れを操作された傭兵の身体は投げ飛ばされる様に宙に浮き――その技のキレに驚愕しながらも空中で身を捻って着地する。
その間にも、スノウは《門》に向けて走り出していた。
「とめろ!!」
叫ぶラックの声に、咄嗟にその場の誰もが反応出来ず。
今にも閉じられようとする《門》へと、スノウの手が伸ばされ――。
少女と《門》の間に、一瞬で強固な障壁が展開され、彼女の指先は無情にも弾かれた。
「……間に合ったか」
安堵する様に息をついたのは、高位の僧服を纏った金髪癖毛の青年――ヴェネディエだ。
その言葉に反応する事もなく、スノウは即座に障壁へと《命結》の拳を打ち込んで一撃で叩き割る。
だが、破壊した瞬間に数倍の枚数の障壁が眼前に展開され、否が応でも脚を止めざるを得なくなった。
「――ッ!」
ならば飛び越える、そう切り替えて足に魔力を装填し、脚力を強化しようとして――背後から飛びついたラックによって抑え込まれる。
「落ち着け! 行っても死ぬだけだぞ!」
耳元で怒鳴る傭兵の言葉にも耳を貸さず、完全に制圧された体勢で、尚も藻掻く。
「放して!」
目の前で閉じられていく転移魔法の名残りを前に、スノウは喉も枯れよといわんばかりに絶叫を上げた。
「放してよぉ……っ! はなせぇぇぇぇぇっ!!!」
分厚い雲に太陽を隠された暗い空の下、白い少女の慟哭が響く。
生き残った者達の治療の為に今も多くの人々が行き交い、慌ただしい大聖堂前の芝生に、小さな木札が転がっていた。
泥と血に汚れ、様々な靴底で踏みしめられてしまったソレは、今も懸命な治療を施されている栗色の髪の少女のものか。
――或いは、還ってくる事が出来なかった、もう一人の少女のものなのか。
淡い光を放っていた筈の護り札は、今はくすみ、輝きを失って土に埋もれている。
まるで、こんな物に意味は無いのだと、冷たく告げる様に。
この世界で、こんな悲劇は一山いくらのありふれた物なのだと、突き付けるように。