老兵の残照 友人
少女は今、死に物狂いで走っていた。
聖都外周、城壁の縁にて必死に足を動かす。
既に呼吸は荒く、限界は近い。前へと踏み出す脚は重く、顎が自然とあがりそうになる。
それでも、止まることは出来ない。
持ち前の負けん気を発揮して、歯を食い縛って走り続ける。
「――うぁっ」
脚を動かす事ばかりに意識を取られたせいで、小石に蹴躓いた。
慌てて踏ん張り、なんとか転倒は免れるもののこれは非常によろしくない。何故なら――。
「ペースが落ちていますよ」
「あ"痛だぁっ!?」
常に背後から一定の速度でこちらを追ってきている鬼ババアが、追いつくたびに少女の尻を容赦なく引っぱたくからだ。
バッシーン! と実に良い音が城壁沿いの草原に響き渡り、それに倍するボリュームで少女の悲鳴が上がる。
結構なペースで長距離を走っている筈なのだが、後ろを追いかける修道服姿の妙齢の美人……少女のいう鬼ババアは息一つ乱さず、いつも通りの鉄面皮のままであった。
その手には日本語で『根性注入』とえらく達筆で書かれた平たい棒板――書かれた言語の国でいう処の警策と呼ばれる代物が握られているが、転移・転生者に知り合いがいる訳でもない少女にそれを知る由は無い。
足は止めぬ儘にヒリヒリと痛む尻を擦り、思わず背後を振り返って背後の女性――彼女の師となった人物に涙目で文句を垂れる。
「い、今のは仕方ないでしょ! 自分でペース落とした訳じゃ無いし!?」
「惰性で足を動かすのでは無く、走る際に最適な位置取りも意識しなさい――文句を言える余裕があるのなら、もう少しペースを上げても良さそうですね」
「ふざけんな!? 泣くぞこの鬼! 鬼畜ババア! ミラ!」
「誰がババアだ」
再び少女――スノウの尻から快音が響き渡り、いい加減泣きの入って来た何度目かの悲鳴が快晴の空に吸い込まれて消えていった。
「ふむ、魔力強化無しでもそこそこ……貴女の体質も考えれば肉体的な虚弱さは仕方無し、と思っていましたが杞憂であったのは幸いでした」
城門前で地面に大の字になって転がるスノウを見下ろし、ミラが腕を組みながら思案を巡らせる。
訓練が始まりはや数日。
「先ずは何が無くとも基礎体力の確認です」
という師の御言葉と共に、少女は只ひたすらに聖都外周を走らされる毎日である。
日常的に無意識に行われていたスノウの微弱な魔力強化を、指先で軽く突いただけで封じてのけたミラがまず行ったのは、少女の素の体力の限界値を知る事だった。
結果は予想より遥かに良好。確かに同年代のよく身体を動かす少年少女と比べればやや劣るものの、白子という先天的な虚弱性を持つ体質であることを考えれば破格のものがあった。
魔力の方は言うまでも無い。やはり白子は限定的な先祖返り、という説は正しかったのか、平均的な人間のもつ魔力量より相当に高い資質を有している。
正しい魔力の運用法と効率の良い肉体強化を教えるだけで、肉体的な基礎能力はそこらの新兵をあっさり上回る事だろう。
ここ数日の走り込みで、根性や負けん気といった厳しい鍛錬に不可欠な精神的要素も中々に良い物を持っていると知れた。
初めての弟子をどう磨き上げてやろうかと、仏頂面なのにどこか楽し気であるミラだったが、当の弟子であるスノウはゲロ吐く寸前まで走らされて死んだように地面に転がっている。というか初日は普通に吐いた。
彼女に自覚は無かったものの、いつも行っていた魔力強化無しの素の限界を見極める地獄のマラソンは、体力精神力は勿論の事、初日から乙女の尊厳すら消耗させた様である。
ちなみに、間に強化有りの日も挟まれたがそれは彼女にとって何の慰めにもなっていない。枯渇するのが体力か魔力かという違いだけなので、地獄に変わりはないからだ。
「まぁ、取り敢えず今日はここまでにしておきましょう、立てますか?」
「……立てない」
「……限界まで走る様に言ったのは私ですが、実戦では最悪でも逃げられる程度のスタミナは確保しておかねばなりませんよ?」
今はお小言は聞きたく無い、と言わんばかりに地面に転がったまま顔を逸らすスノウであったが、拗ねた様な膨れっ面のまま、腕だけをミラに向かって伸ばす。
ここ数日の慣れたやり取りに、ミラも軽く溜息を吐くに留め――その腕を引っ張ってスノウを抱き起すと、そのまま自分の背に少女の小柄な身体を背負う。
疲労困憊ぶりを表す様に、ぐったりと体重を預けて来る弟子を背中で揺らし、ミラは城門を潜って聖殿への帰り道を歩き出した。
「帰ったら一休みして食事にしましょう。食べられそうですか?」
「……パンケーキならたべれる」
「最近食堂に入ったという若い料理人の品でしたか……気に入ったのですか?」
「うん……あまくてふわふわ……」
「食べないよりは良いですが……きちんと肉と野菜も摂りなさい」
取り止めの無い会話を繰り返しながら、急ぐこともなくゆっくりと歩いていくシスターと、その背に負われた小柄な少女。
道行く人はここ数日見るようになった微笑ましい光景に、少しばかり頬を緩めてそれを見送っている。
普段、畏敬や憧憬混じりの視線に晒される事が多く、害意以外の視線には鈍感になっているミラと体力を限界まで使い切ったスノウがそれに気づく事は無かったが。
未だ日も高い晴れ渡った空の下、穏やかな陽気に照らされ。
重なった二つの影が二人の足元に伸びるのであった。
「――そこの貴女、ちょっとよろしくて?」
そう声を掛けられたのは、スノウが中庭で自主訓練を行おうと身体をほぐしている最中である。
彼女が鬼バ――もとい、師に教えを乞うようになって半月。
師、ミラの立場を考えれば、長すぎる程であった休暇が終わり、彼女は帝国近辺で起こった大規模な戦闘に派遣される事となった。
始めにそう聞かされたとき、咄嗟に「ついていきたい」と考え無しに口にしてしまったが、それが叶う筈も無く。
「距離的にもそう長い間、留守にはなりません――この半月で教えた基礎的な動きと体力作りを欠かさず行っておくようになさい」
いつも通りの鉄面皮だったが何処か柔らかい口調でそう言い残し、ミラは戦場に行ってしまった。
同行していた自分を助けてくれた傭兵のおじさんと、でっかいお坊様が「手をうろうろさせてないでちゃんとのせてやったらどうか」なんて揶揄う様に言って、その直後に投げ飛ばされていたのはなんだったのか。
まぁ、それは今はいい。
とにかく、今は話しかけて来た目の前の二人組である。
どちらも女性――声を掛けて来た方はスノウと同じ位の年齢の少女で、彼女の背後に控えるように立っている少女は、その三つ四つ程、年上だろうか。
格好自体は二人ともここではよく見るシスター……修道服を身に纏っているが、前に出ている少女のソレは、まるで師の様に深めの切れ込みが入っていた。
地面に伏せて柔軟運動を行っていたスノウを、ふんぞり返って仁王立ちで見下ろしている少女の首から上もまた、あまり聖殿では見ないタイプである。
茶金の前髪を左右に流して晒された、キラリと光りそうなおでこも特徴的ではあるが、白いリボンで左右に纏めた髪がぐるぐると渦を巻いている様は、お話で聞く貴族のお嬢様の様だ。
背後の少女は、栗色の髪に背中にかかる程度まで伸ばした長髪――美人ではあるが、前に立つ少女のインパクトに比べるとごく普通のシスターといった感じだった。
栗色の髪のお姉さんはともかく、貴族っぽい顔立ちと髪型の少女はスノウ的にはシスターの恰好があんまりにもアンバランスである。似合ってないということは無いのだろうが、いやドレスでも着てろよ、と言いたくなる雰囲気を纏っているのが違和感を助長していた。
「えーと……なんか用?」
小首を傾げて問う白い少女に、貴族っぽい少女が大仰に肩を竦めて嘆く様に頭を振る。
「やれやれ、初対面の人間に随分なご挨拶ですわねぇ。此処は普通、挨拶から始まるものではなくて?」
不思議と悪意は感じないのだが、それでも小馬鹿にする様な口調にムッとしたスノウが唇を尖らせて反論した。
「アンタだって挨拶なんてしてないじゃん。そっちが話しかけてきたんだから、人にどうこう言う前に名前くらい名乗りなよ」
「んま! なんとも口のわ「正論ですね、お嬢様が悪いと思います」ちょっ、ブラン。貴女どっちの味方ですの?」
口に手を当て、これまた大仰な仕草で嘆こうとした少女の言葉をばっさりと遮り、後ろに従者の如く控えていた栗色の髪の少女がニッコリと笑う。
「勿論、私はお嬢様の味方です。ですので、お嬢様がやらかしたら腕付くでも止めるのが私の役割だと思っています――今は爵位も無いのですから、まずは初対面の方には自分から挨拶をしましょう。それが礼儀というものですよ?」
「分かりました! 分かりましたから腰のメイスに手を伸ばすのはお止めなさい! 貴女本当に遠慮が無くなりましたわね!?」
笑顔のままジリジリと威圧感を与えて来る栗色の髪の少女の言に、慌てた様に手を挙げて降参のポーズを取る――どうやら元は本当に貴族であったらしい少女。
両者のやりとりに呆気に取られていたスノウの視線に気付き、額に浮かぶ冷や汗を拭った少女が、咳払いして場を仕切り直す。
「オホン……では、名乗らせて頂きます。わたくしはエーデル=ヴァリアン。嘗ては栄えある帝国に於いて子爵の位を授けられたヴァリアン家に連なる者ですわ――こちらはわたくしの従者であったブランと言いますの」
「ブランと申します、どうかお見知りおきを」
修道服のスカートの裾を摘まんで優雅に一礼するエーデルと、丁寧に頭を下げるその従者であった――今でも従者の様に振舞う少女、ブラン。
取り敢えず、座りっぱなしで挨拶というのもブランの言う礼儀に欠けると思ったスノウは、軽く腰回りに付いた芝生の欠片を払いながら立ち上がる。
「ご丁寧にどーも。わたしはスノウ=カレンデュラ、つい最近此処にやってきた新参者ですよー……それで、改めて聞くけど何か用なの?」
「そう、それですわ!」
テンションたっかいなー、疲れないのかなー、とか思っちゃってるスノウの胸中など知らぬとばかりに、エーデルがビシィッ! と音が鳴りそうな勢いで指を突き付けて来る。
「わたくしの記憶が確かならば、貴女、ここ最近北方よりやってきた戦災に見舞われた方々の内の一人でしょう。皆さん、既に北方に帰還したと聞きましたが何故貴女は此処に残り、ミラ様のお世話になっていますの?」
「なんか戦い方を教えてくれるっていうから弟子になった」
「軽っ!? ちょっと貴女! あのミラ様に師事するなどという機会に恵まれておきながら、ちょっとご自身の立場に対する自覚が薄いのではなくて!?」
口角泡を飛ばしそうな勢いのエーデルの言葉に、困惑と苛立ちが半々になったスノウが顔を顰めて返す。
「声おっきいよ。で、結局何が言いたいのさ」
半眼になった白い少女の結論を急ぐ言葉に、おでこをキラリと光らせた少女は左右に下がる特徴的な巻き毛を手の甲で払い、自信あり気に笑って見せた。
「ミラ様が戦地に向かわれ、軽い自主訓練が精々なのでしょう? 折角ですから、わたくしが貴女の腕前を見て差し上げますわ」
中庭の端に移動した二人は、壁際に下がって見守る態勢に入ったブランを残して対峙する。
「正直、意外でしたわ」
「何が?」
お互いの訓練用の得物――エーデルは長柄の戦槌、スノウは拳に、厚手の布を幾重も巻きつけながら会話を投げ合う。
「スノウ。いくらミラ様に師事していると言っても、貴女戦い方を学び始めて半月足らずでしょう? いきなり組手に誘われてあっさり乗るのは少々軽率なのではなくて?」
「なんで誘ってきたエーデルが言うの、ソレ」
呆れた様子で向けられる言葉に、同じく呆れた様に返す。
最初は彼女が嫌味ったらしい口調で話しかけて来たことから、何かしら嫌がらせでも仕掛けて来るのでは、なんて警戒したスノウであったが。
向けて来る言葉とは裏腹に奇妙な程に悪感情を感じないエーデルに、それなりに高かった警戒度は下がっている。
皮肉な話だが、故郷の一部の人間から『不吉の子』呼ばわりされて育ったが故に、少女はそういった感情に対して敏感なのだ。
理屈を伴った根拠は無いが、感覚的にスノウは目の前のおでこちゃんがそう悪い娘では無いと悟っていた。
――ミラがちゃんと帰ってくるのか、怪我なんてしていないか――じいちゃんやばあちゃんみたいに、自分の前から居なくなったりしないか。
そんな風に気を揉みながら、延々一人で基礎の繰り返しだけを行うのもいい加減気が滅入ってきたところだ。
エーデルの誘いは、渡りに船ですらあったといえる。
それに、村に近い年の女の子は居なかった。折角だ。
「――売られた喧嘩は買っておくのも良いかと思って」
「チンピラみたいな理由ですわね!? ミラ様が知ったら嘆きますわよ!?」
内心を省いて結論だけを語ったせいか、エーデルが目を剥いて本気で注意してくるが……どうだろう、ミラなら本気の諍いならともかく、喧嘩くらいは普通に止めなさそう。というかミラも売られたら買いそうだ。
鉄面皮とは裏腹に、意外と激情家というか、負けず嫌いな感じがする師の顔を思い浮かべ、布を巻きつけた拳を開閉させる。
「うん、良し。じゃ、やろうか」
「……まぁ、良いですわ。未だ見習いとはいえ、わたくしも戦人の一人。先達として一丁揉んで差し上げます」
「何かおっさん臭い言い回しだよね、ソレ」
「じゃかぁしぃですわ!」
特に開始の合図も無く、エーデルが勢いよく踏み込んでくる。
(うわっ、やっぱ早っ)
村の悪ガキ共……ともすれば自分より年上の兵士志望であった男の子相手ですら、喧嘩で負けた事が無かったスノウであるが、今ならば理解が及ぶ。
無意識だったとはいえ、白子である自分の体力的なハンデを補うため、僅かながらでも魔力強化を行っていたのだ、そりゃあ子供の喧嘩くらいでは負け無しになる訳である。
自分と同じ土俵――否、自分より遥かに長い間、魔法による身体強化をきっちりと修め、戦う術を学んでいるエーデルが桁違いに早く感じるのは当然であった。
振り抜かれる戦槌をバックステップして躱すと、振り終わりを狙って懐に飛び込もうと試みるが……あっさりと切り返してきた返しの一撃に、再び距離を取る。
「一定以上の実力者ならばともかく、わたくし達戦士の卵程度では、間合いの差は絶対的ですわよっ!」
「みたいだ、ねっ! 嫌という程実感してるって!」
豪快に振り回される長柄と、自身の拳。
体格差があればまた違ったのかもしれないが、スノウとエーデルでは殆ど身長にも差が無い。武器によるリーチ差は露骨にエーデルの優位となって表れていた。
なんだかんだといって、同じ見習いとは言えエーデルが戦槌の扱いを心得ているのも大きいだろう。本当に基礎も基礎のみを齧っただけのスノウでは、土台からして差があり過ぎた。
間合いの差にものを言わせて繰り出される乱撃に、白い少女はかろうじて逃げ回るのが精一杯ではあるが……エーデルからすれば半月前までド素人だった少女が、ここまで逃げきれているというだけで驚愕だった。
(構えも周囲への配慮もガバッガバ。体術もたまに見せる動き以外は素人と大差無し……それで此処まで食い下がりますの……!)
現時点では技術的な面は見るべきところは無いが……白い少女の身体強化の魔法は、聖殿にて何時か戦場に立つべき戦士として訓練を重ねるエーデルをして、瞠目に値した。
ロクに訓練を経ていないのにも関わらず、相当に高い魔力もそうだが……何よりその強化の滑らかさ。
咄嗟の回避や大きな動作が必要な箇所へと、流れる様に行われる魔力の流動は既に前線で戦う現役の戦士達のソレに近いのではないか。
(なるほど……聖教会の誇る英雄たるミラ様が目を掛けるだけの事はある、ということですわね)
まだまだ修行中の身の上である彼女であっても、その大器の片鱗を感じることが出来る眼前の白い少女。
とはいえ、如何な才覚があってもまだまだひよっこですらない卵のままでは、年単位で訓練を積んで来たエーデルの相手になる訳も無かった。
なんとか円を描く様に移動しているつもりだったのだろうが、段々と追い詰められ、スノウは後退するしか無い局面が多くなる。
そして、とうとう横殴りの戦槌の一撃を躱した際、その背中が壁へと触れた。
「終わり、ですわっ!」
〆の一撃を放とうとしたエーデルが戦槌を振りかぶると同時に、スノウが弾かれたように前にでる。
(壁際ならば長柄が引っ掛かる……良い発想ですが、対策済みですわよ!)
ほぼ素人が咄嗟に考えたにしては上出来な作戦であったが、壁に打ち付ける事が無い様に間合いは調節済み――おまけに万が一を考えて握りを変えて振りはコンパクトにしてある。
身を低くして突進してくるスノウの背に、厚手の布でぐるぐる巻きにされた戦槌の先端が打ち付けられようとして――。
大した力も籠ってない様に見える、白い少女のひっぱたく様な掌の一撃でその軌道が大きく逸らされた。
「ンなぁっ!?」
明らかにおかしい手応えと共に自身の一撃が明後日の方向にひん曲がった事に、エーデルが素っ頓狂な悲鳴を上げる。
「おりゃぁ!」
気合一声、スノウが魔力強化を施された拳で戦槌の柄――握りに近い部分をブン殴った。
典型的な喧嘩パンチであったが、フィニッシュのつもりで放った一撃を完全に予想外な形で無力化され、上体が泳いでいたエーデルには対応することが出来ず。
強化によって威力だけは中々のものである拳によって、戦槌が弾き飛ばされて宙を舞う。
「……よっしゃぅぁぁっ!??」
喝采を上げようとしたスノウであったが、最後まで言い切る前に叫びは悲鳴へと様変わりした。
得物を掌から弾き飛ばされた瞬間、エーデルが躊躇無くスノウの振り切った拳に飛びつき、脚を引っかけて地に転がしたのである。
「……おーっほっほっほ! 油断しましたわねぇ! 武器を失ったとて素手の組討ち術くらい嗜んでいましてよ!」
「う、ぐぎぎっ、このっ……!」
変則的な腕十字のアームロック態勢に入ったエーデルが、高笑いしながらぐりぐりとスノウの腕を伸ばし切ろうと体重を掛ける。
なんとかそれを外そうと藻掻く白い少女の姿に余裕の笑みを浮かべてみせるが、内心は割と冷や汗ものだった。
(……っぶねぇ、ギリギリでしたわ! なんで素人丸出しのこの娘があんなえげつない捌きをしてきますの!?)
現状も完全に関節が極まっている訳では無く、単純な魔力強化率ではエーデルよりスノウの方が上な為、膂力で無理矢理にアームロックを外されそうになる。
「えぇい、往生際が悪いですわよ! 大人しく降参なさい!」
「ぬぅぅぅっ、い・や・だぁぁっ! ……てか! 元お貴族様の癖に、なんで寝技なんて使うのさ……!」
「はっ、無知ですわねぇ! 女神より遣わされた戦士たる転生者の方々曰く、『関節技こそ王者の技よ!』ですわ! 覚えておくとよろしくてよ!」
「王者ってなに!? あんた元は子爵って言ってたじゃん……!」
中庭の芝生を踵で削り、手足をばたつかせてなんとか極められかけた右腕を外そうとする白い少女と、おでこに光る汗を浮かべながらさせじと抱えた腕を伸ばし切ろうとするドリルツインテールの少女。
最初の未熟ながらも互いの持ち札を生かした攻防とは打って変わり、組手はやや泥仕合の様相を呈してきた。
壁際で動じる事無く観戦していたブランは、土と草まみれになる二人を見て「あらあら、あとでお洗濯しないといけませんね」などとコメントしている。
とはいえ、寝技は見た目こそ地味になりがちだが、その実、非常に体力を使う。
スノウの奮闘によって暫くは拮抗した状態であったが……やがて圧倒的に有利な体勢であったエーデルに天秤が傾き始めた。
焦るスノウ。対し、会心の笑みを浮かべるエーデル。
「……ようやくですの! その根性だけは褒めて差し上げますわ、ですが――」
「……ふんっ!」
「わたくしに勝つには少しょう"ぉ"お"う"っ!?」
年頃の少女が上げるにはやや野太いというか、色々とひどい悲鳴をあげエーデルは硬直した。
その隙をついて、スノウがあっさりとアームロックを外して寝技から脱出する。
転がって間合いを離し、肩で息をしたまま片膝をつく白い少女へと、エーデルは尻を押さえたまま顔を真っ赤にして怒鳴りつけた。
「あ、あ、貴女ねぇっ!? 何処に指ぶっ刺してやがりますの! 危うく痔を患う処でしたわよ!? 真面目に戦いなさい!」
「ハァ、ハァ……ハッ……ケンカに真面目も不真面目も無いねっ……! 実戦でも同じこと言ってみなよ……!」
「こ、このガキャァ、人が淑女として対応していれば調子に乗りくさって……! 泣かしてやりますわこの白髪ザルゥ!?」
「やってみろデコスケ……!」
!? とか『ビキィッ』とか効果音付きそうな形相で立ち上がり、拳を握って前に構えるエーデルに、スノウも負けじと立ってファイティングポーズを取って応じ――。
なんかもう組手とか関係ない口汚い罵り声をあげつつ、ノーガードの殴り合いが始まった。
「――ここまで、ですね」
互いの拳が交差し、同時に頬に突き刺さると。
限界を迎えたのか、両者糸が切れた様に膝が落ち、大の字になって芝生の上へとひっくり返る。
青痣と打撲痕だらけで酷い事になってる少女達のダブルノックダウンを見届けると、ブランが静かに宣言した。
「勝者無し、引き分け……スノウさんは予想より遥かに食い下がられましたね、お嬢様?」
「……判定に異議を申し立てますわ。わたくしのほうが四発は多く入れてましたわよ」
ちょっと他人に見せられないレベルでお顔が腫れあがってた年頃の乙女達であったが、ブランの回復魔法によって取り敢えず大きな腫れと青痣だけは大体引っ込んだ。
だが、精魂尽き果てるまで殴り合った体力が戻る訳ではなく、特に魔力抜き、素の体力で劣るスノウは完全なグロッキーと化している。
「私の目からみてもスノウさんはほぼ未経験者でした。それがお嬢様相手に武器を弾き飛ばし、寝技を脱してみせたのですから……これはもう実質お嬢様の判定負けでは?」
「……さっきも言いましたが、貴女どっちの味方ですの?」
「お嬢様ですよ?」
「わぁ、良い笑顔。嘘くせぇですわぁ」
億劫そうではあるものの、会話をする程度の余力はあったらしいエーデルが身を起こしてスノウの顔を覗き込む。
「……なによ?」
「ふん。多少はマシな顔になりましたわね」
「嫌味か。エーデルだってボコボコじゃん」
「……そういう意味ではありませんわ」
睨み付けてくるスノウの言葉に肩を竦め、治りきらないおでこのたんこぶを撫でながら少女が立ち上がる。
「今回の様な品に欠ける殴り合いはもう御免ですが……普通の組手や練習くらいならまた相手をして差し上げますわ、光栄に思ってもよろしくてよ?」
最後にそう言い残して、エーデルは若干ふらつく足を叱咤しつつ中庭から出てゆく。
あれだけ言いたい放題互いに罵り合い、殴り合ったというのに、怒りは見せても嫌悪や悪意は終ぞ表さなかった変なお嬢様に、スノウが困惑した様子でその背を見送る。
大の字で仰向けに転がったままである彼女へと、今度はブランが上から覗き込むようにして微笑みかけて来た。
「出来れば、お嬢様を嫌いにならないであげて下さいね? 貴女がここ数日、沈んだ表情で独り訓練を繰り返しているのを見てずーっと気を揉んでいたんです」
「……そうなの?」
「ハイ。それで、とうとう今日になって我慢が出来なくなったみたいですね」
かわいい処があるでしょう? なんて悪戯っぽく笑うブランの容赦ないカミングアウトに、ちょっとエーデルが気の毒になる。
どうも、周りの大人達は『ミラの弟子』である自分に対して遠慮があるというか、言ってしまえば「ミラ様の育成に自分が口を差し挟むなど恐れ多い」みたいな様子が見受けられる。
なので、一人で訓練を続けるのに飽きて色々と他の人達にアドバイスを貰おうとしたり、参考に意見を聞こうとしてもどこか消極的なのだ。
もちろん、皆優しいし、自分の事を気に掛けてくれているのは伝わってくる。
それでも――ちょっと疎外感みたいなものを感じてしまっていたのは確かだった。
こんな感情、自分が弱いせいで感じる贅沢な我儘だと、そう思っていたのだが……。
ブランの言葉に自身を振り返ってみると、気が付けば奇妙にすっきりして胸のつかえがとれた気分になっていたのは確かだった。代わりに身体のあちこちが鈍痛を訴えて来るが。
最後にこちらに丁寧に一礼してお嬢様の後を追いかけるブランに、寝転がったままひらひらと手を振り返して。
「……ありがと」
聞こえる筈もない礼の言葉がなんとなく唇から零れ、見上げた空に吸われて消えていった。
「訓練中に考え事とは余裕ですね」
「ぁ痛だぁっ!?」
あっさりと無傷で帰って来た師に、再び指導されるようになり、数日。
型稽古中に心ここに在らずを指摘され、スノウは『乾坤一擲』と書かれた警策で額をバッシーンと叩かれる。
「……今日はどうしたのです、何か気がかりな事でもあるのですか?」
少女がここまで気を散らすのは、今迄に無かったことだ。
煙をあげそうになっている打たれた額を撫でながら、それでも何か考え事をしているらしき弟子へと、ミラは不思議そうに問いかけた。
深刻な様子などは見られないことから、そう悪い事ではないのだろうが……このまま修行に身が入らないというのはよろしくない。
やがて、悩んでいても仕方ない、と思ったのか。
額を撫でながら、少女は師へと遠慮がちに切り出した。
「……あの、さ。ミラ。たまにで良いからわたしとの訓練に、別の子達を混ぜてあげても良い?」
「ふむ? というと、聖殿にいる見習いの者達の誰かですか……私が留守の間に交流でも?」
「うん。なんかお返しとかも色々考えたんだけど、あの子ミラに憧れているっぽいし、これが一番良いかなぁって」
あのド突き合い以降、何度か一緒に訓練した凸凹主従のおでこちゃんの方が、やたらと目を輝かせて少女の師がどれだけ凄いのか力説していたのを思い出し、スノウは上目遣いで師――ミラへと頼み込む。
「偶になら問題はありませんよ。とは言っても、扱う武器や戦法によってはあまり私の意見は参考にならないかもしれませんが」
「――! それなら大丈夫だと思う。ありがと!」
パァッと表情を明るくし、さぁー修行だー! と気合を入れ始めた少女を見て、ミラが微かに目を細め、口角を緩めた。
「……良い出会いがあった様ですね」
「え? あ、うん」
師の言葉に少女は照れ臭そうに笑い、鼻の下を指の背でひと擦りして答えた。
「友達、かな? うん。友達」