老兵の残照 白い少女
大聖殿中央区、半ば練武場と化している中庭にて。
朝霧がうっすらと満ちる早朝、早々に起床したミラは朝食前の朝の鍛錬に独り、打ち込んでいた。
未だ辺りは薄暗く、朝焼けの太陽すら昇らぬ時間帯。当直や早番の人員以外は殆ど人もおらず、中庭には微かな小鳥の囀りが殊更に大きく響き渡っている。
そんな中、ゆっくりと、吸い込んだ空気を肺に留める。
呼吸による血液の循環――それを意識し、同時にその流れに合わせて魔力を身体に巡らせて、再び身の中心、心臓へ。
身体強化の魔法における基礎ともいえる行為であるが、彼女の扱う《三曜の拳》とはその基礎を極限まで昇華させた延長の技術だ。
身の内にある力の流れを知覚し、己を取り巻く周囲の環境や相対する者の流れを知覚し、更にその先へ。
個人の感覚がものをいう部分もあるが、やはり技の精度を上げるのは地道な土台の積み重ねである。
練り上げ、固めた強固な基礎であればある程、ギリギリの状況や窮地において揺らがぬ芯となる。彼女の持論というより、経験則だった。
基本に通ずる者こそが、真髄に至る。
その上で、至った先に得た力を奮う先を、決して見誤る事が無い様に己を律する必要があった。
今はこのような時代だ。平時ならば力を持て余して揉め事を起こしそうな荒くれ者や粗野に過ぎる者達も、取り敢えず邪神の軍勢殴ってるなら問題無い、という風潮がある。
それが悪いと主張する気も、問題視する気も無いが、ミラの求める戦士の理念とは趣が異なるのも事実であった。
意、無き威に、真の威は宿らず。
律した意思の下、強固な一念を通して望む道を貫き、選んだもの、己が手で護りたいものを手繰り寄せる。これこそが戦武の道に生きる者の本懐である。
師にですら「ちょっと石頭が過ぎますね」と苦笑いされた生き方ではあるが、それこそ彼女が好きで選んだ道だ。進路を変える予定は死ぬ迄無い。
そんな思いと共に、戦地に派遣される事の無い日はこうして修練に精を出すミラだったが……どうやら本日の朝稽古は中断せねばならないようだ。
意識を集中させ、大きく広がった知覚の中に、コソコソと忍び足で聖殿の壁際を歩く気配を拾い、彼女は瞳を閉じて溜息をついた。
音を殺して背後から近づくと、白靄の中、抜き足差し足と言った様子で移動するその背中に声を掛ける。
「随分と朝の早いことですね、スノウ」
「ぅぴ!?」
敢えて平坦に押し殺したトーンで放った言葉に、兎が悲鳴をあげればこうなるのでは、といった感じの甲高い声をあげて声の主――スノウがその場で小さく飛び上がる。
「お、おはようミラ……そっちも凄い早起きだね」
「はい、おはよう。で、何をしていたのか聞いても良いですか?」
さも分からない、といった風に問いかけるミラであったが、その眼は少女の手にした縄付きの三又鉤をスーッと細めた眼で見つめている。
どうやら園芸や庭仕事に使うらしき片手の三又鍬を弄って拵えた物らしい。器用な事だ。
慌てて背中に鉤縄を隠すスノウを眺めていると、再び溜息が漏れた。
視線を泳がせるを通り越して溺れているのではないかと言う位に、忙しく目を左右に逸らしまくる白い少女が、言葉を詰まらせながら苦し過ぎる言い訳を絞り出す。
「ちょ、ちょっと唐突に、朝日を浴びながら庭仕事をしたくなりまして……」
「私の目にはそれを使って壁を乗り越えようとしている様に見えましたが」
「最初から見てたのかよ! 意地悪ババアか!? ……ハッ!?」
勢いで言った自分の言葉に、「ヤベッ!?」っと言わんばかりに表情を引きつらせるが、時に既に遅し。
覚悟を決める間すらなく、スノウの頭頂部へと硬く握られた拳骨が炸裂した。
「やぁ、北方では大活躍だったみたいだね。その後の調子はどうだい?」
にこやかに微笑んでわざとらしく小首を傾げる、金髪癖毛の美青年。
街の娘達が見れば頬を染めて硬直するか、黄色い悲鳴を上げるであろう甘いマスクの持ち主の親しみの籠った声に、ミラは露骨に顔を顰めて答えた。
「分かって言っているでしょう、ヴェティ。全く――とんだ怪獣を押し付けられたものです」
大聖殿、壱ノ院。
教皇を除けば聖教会における最高位である、枢機卿が管理を任される区画において、友人に呼び出された彼女はその当人を前に溜息混じりで吐息を付く。
執務室の机に肘をついて自分を眺め、一見人当たりの良さそうな柔和な笑みを浮かべている目の前の男が、外見通りの好青年などでは無い事は嫌になる程知っていた。
ヴェネディエ=フューチ。若くして聖教会の大司教にまで昇りつめ、未来を見通すが如き采配を以て邪神大戦において様々な功績を打ち立てている、人類種の旗印とも呼べる人物だ。
最近になってこの壱ノ院における管理者から、後継者として推薦されているという話も聞くが……必要だと思えば管理者……枢機卿になる程度の事はあっさりとやってのけるのがこの男――ミラの可愛気の無い後輩であった。
ちなみに旗印、という点においては彼女も間違いなくその一人なのだが、あくまで己をただの一戦力と認識しているミラにその自覚は無い。
本人の糞真面目な気質も多分にあっての事だろうが、偏にそうと判断すれば簡単に意見を曲げぬ頑固さが原因であると言える。
この点については彼女の師ですら匙を投げているので、矯正はほぼ不可能だろう。
珍しく愚痴のようなものを溢すミラに、青年――ヴェネディエは普段の彫刻の微笑ではなく、愉快そうな感情を頬に浮かべて楽し気に問いかけた。
「怪獣ねぇ……かの《半龍姫》に最優とまで評された女傑も、子供の世話は苦手という事かな?」
「そもそも其処からして理解が出来ません。何故私があの娘を――スノウの面倒を見ることになったのです」
「いやいや……君だって分かっているだろうミラ?」
心なしか半眼になって見つめて来る友人の疑問に、ヴェネディエは笑みの質を苦笑のソレへと変えて大仰に首を振って見せる。
「前々から散々に言われているだろう? 君は少し働き過ぎだよ。朝起きて食事を摂って出撃して帰って来て寝て起きて食事摂って出撃して……空いた時間には訓練。絡繰りや魔法人形じゃないんだからさ、休暇を取りなよ」
「体調の管理は万全です。激戦区が年々増加しつつある昨今の戦況を考えれば、人外級を遊ばせている余裕など無い筈ですが」
「君が身を粉にして働いてるのをみて、同じように休みを返上して働き詰めになる者が出て来るようでは本末転倒というやつだ。上の者が休まないと、部下も休暇を取り辛いものだよ」
上も何も、自分は公的な立場を持たない只のいちシスターなのですが。
内心でそんな風に思うミラであったが、流石に言葉には出さなかった。幾度となく口にし、その度に「お前の様なただのシスターがいるか」と方々から突っ込まれている過去を顧みれば、言っても意味が無い事は容易に想像が付くので。
とはいえ、現状の改善を訴えるのを諦めるつもりは無かった。
「……休暇だというのなら、尚の事あの娘を世話するのはおかしいでしょう。この数日、スノウ絡みで私が呼び出された回数を知らないとは言わせませんよ」
「ふむ? 多少は耳に入って来てはいるけど……あの少女に相当手を焼いているようだね。見た目はか弱そうな娘だが?」
「普段は大聖堂で怪我人の看病を手伝っている様ですが、定期的に聖殿――というか聖都を脱出しようとします。この間など、あわや北方征きの乗り合い馬車に潜り込む直前でした」
いつもの胡散臭い笑みを引っ込めた友人が、この場に居ない少女を気遣う様に眉根を寄せる。
「……故郷に帰りたい、という事かな?」
「おそらくは」
邪神の軍勢によって滅ぼされた彼女の村は、重度の呪詛汚染によって現在は立ち入り禁止地域に指定されている。
現地の神官達の手で浄化が完了するまで、耐性や身を護る魔法的な術を持たない非戦闘員が近づくには危険過ぎる、という状態だ。
最初に抜け出そうとした際に、スノウにはその辺りを含め丁寧に説明したのだが……効果があったようには思えなかった。
自身も軽度とはいえ、数日前まで呪詛に侵されてその恐ろしさを骨身に染みている筈の彼女は、それでも村に戻ろうとするのを諦めていない。
だからこそ、だ。
少女の世話に手を焼いている――それもある。
休暇と言いつつ、実質気疲れしているだろう――そんな思いもある。
だが、何よりも。
スノウに必要なのは傍らで付き添ってやれる誰かと、故郷を喪った悲しみをどうにか希釈できるだけの時間だ。
無骨な武辺者であり、いざ大きな戦いが始まればどうしたって彼女の側にはいられない自分が適任だとは思えない。
ミラの考えを汲み取ったのか、ヴェネディエが軽く眉間を揉み解し、眉によった皺を伸ばしつつ言葉を続ける。
「そうなると、件の村の生き残りを近隣の領主に預ける、という話。彼女は省いた方が良いかもしれないね――聞いた話から察せる行動力からするに、一人で村に向かってしまいそうだ」
「距離が近くなる分、ますます自制も利かなくなるでしょう。その方が良いかと」
「君を聖殿で休ませる良い口実になると思ったが……まぁ、女の子の心身のケアを投げ捨てて行うものでもないからね。誰か他に適任を探すとしよう」
ちなみに、戦場の他には鍛錬鍛錬また鍛錬という、字面だけで見ればミラより酷いのがいるのだが……彼については例外なので二人は敢えて会話から除外していた。
同じ頃、鍛錬イコールこれ以上無い休暇だと、心底とっても楽しそうに筋トレしている推定人類の筋肉が、中庭で爆風のようなくしゃみをしていたがそれは余談である。
「あの娘の件はそれで良いとして……わざわざ壱ノ院に呼び出したのは、別件があったからでしょう?」
「うん、そうだね。これは一足先に帰還してきたラックや、昨日報告書を提出しにきたガンテスには既に話した事なんだけど……」
ミラの疑問の声に、頬杖を机の上に付き、何でもない事のように――だが何時も浮かべている笑顔を消して、ヴェネディエは告げる。
「最近、特に『見え辛く』なった。明らかに僕を的に対策を掛けて来てる……近々、何か大きな動きがあるかもしれない」
彼が未来視の加護を授かっている事は、公には知られていない。
教会でも相当に上の地位の者と、各国の上層部が一部、といった処だ。
それでも、情報と言うのは何処から漏洩するのか分からないものだ。現にヴェネディエは自身の使い難い加護が、ここ数か月で更に使用が困難になっているのを自覚していた。
年齢や怪我による魔力の衰えなどから、加護の効力が減衰していく事はままある話だが……その兆候が彼に全く無い以上、外部からの干渉によるものだと考えるのが自然である。
故に、自身の加護の事を知悉し、現場でこの上なく頼りになる友人達に現状を周知しておくのは当然の流れであった。
「成程。何が起きようと対処できる様、心構えだけはしておくとしましょう」
ヴェネディエが期待する通り、未来視の使用が厳しくなった事を告げられても微塵も揺らがぬ様子で、目の前の友人は力強く頷く。
この頼もしい友人達がいれば、邪神とその信奉者達が何を企もうと食い破る事が出来るだろう――そんな風に、らしくもなく個人的な情に傾いた希望を胸に、ヴェネディエも頷き返した。
「――では、加護による魔力の消耗を気にする必要はありませんね。ガンテスも中庭にいる事ですし、貴方も偶には外に出て身体を動かしなさい」
「う"ぇっ!? いやちょっと待って。僕もこれから休みを摂ろうかと……」
「どうせ歓楽区に行くのでしょう? 大司教の身でありながら、異性との火遊びに興じるのも大概にしておけと言っているのです」
ミラは逃げようとした男性としては小柄な部類に入るヴェネディエの襟首を掴み、子猫の様に持ち上げる。
奇しくもその姿は、最近彼女が面倒を見ていた白髪の少女とおんなじであった。
日も傾き、全ての建物が斜陽で赤く染められる時間帯。
一日の予定を消化したミラは、この数日間だけ世話をしていた少女――スノウの姿を探して聖殿内を歩き回っていた。
暫くの間か、それとも年単位になるのかは分からないが。
彼女が此処に留まる以上、世話係の様な立場を辞めるにしても言葉を交わす事もあるだろう。
だからこそ後々ぎくしゃくとした関係にならない為に、前もってミラ自身の口から新たな人員が紹介される事を彼女に伝えねばならなかった。
先延ばしにした処で良いことなど一つもない。こういった話は即日に伝える事が肝要である。
そんな思いの下、夕焼け空の下でも一際目立つ、純白の髪の少女を探していたのだが……これが中々に見つからない。
ここ数日はこの時間帯になれば、食堂で栗鼠の様に頬を膨らませて聖都の食事に舌鼓を打っている最中だったのだが……どうした事か未だに食堂には現れていないと言う。
「ふむ……」
聖殿外から勤務している者達が帰宅し、人の気配もややまばらになってきた中央区の廊下で腕を組むとミラは数秒、思案した。
嫌な予感を覚え、足早に大聖堂近くの大壁――防衛設備として機能する高い防壁、その側面へと向かう。
知覚範囲を限界まで高めながら歩みを進めていると……案の定、離れた場所に壁に張り付いた小さな気配を感じ取り、その足は自然と駆けだしていた。
「……あの娘は、また……っ」
悪ガキめ。内心で唸りながら、壁の頂へと手を掛けようとする少女の姿を見つけ、即座に両の脚に魔力を流す。
声はかけない。既に壁を乗り越えようとしている少女が驚いてしまえば、そのまま足を踏み外す可能性があった。
後ろから引っ捕まえるつもりで、軽やかに壁を蹴って駆けあがる。
シスター服の裾を翻し、あっさりと彼女の背後まで跳躍したミラは、壁に大きく延びて映った彼女の影にギョっとして此方を振り返ったスノウの襟首を、何時ものように掴み上げようと手を伸ばし――。
慌てた様に鉤縄を握った右手とは逆……左の掌が此方の手に触れ、力の流れを逸らされてミラの腕は大きく空を切った。
「ッ!?」
驚愕のあまり思考が停止しかけるも、日夜積み上げた鍛錬と――嘗て師との組手で同じような感覚に触れた際の強烈な痛打の記憶に突き動かされ、身体は自然と動いている。
捌かれた勢いに逆らわず、空中で身を捻って旋回。
裾が遠心力に振り回され、ふわりと浮き上がるが気にする事も無く、今度はスノウが伸ばしていた左腕に彼女の方から触れた。
そこで漸く、咄嗟に対応した相手がただの無力な少女であると思い出したのだが、時既に遅く。
「しまった……! スノウ!」
「ふぎゃっ!?」
左腕を支点に上空に跳ね上げられたスノウの身体が半回転し、防壁の上に乗り上げる形でビターンと叩きつけられた。
「う……う"う"……こわいようかぃばばあがぁ……」
「……目が覚めましたか」
何やら悪夢でも見ていたのか、魘された様子のスノウが目を覚ますと。
いつも気難しそうな表情をしている、最近彼女の面倒を見てくれている女性が物凄い仏頂面で顔を覗き込んでいた。
「ぅ……あれ……ミラ? なんで……?」
「まだ寝ていなさい。診た限り怪我は無いし、回復魔法も掛けましたが念の為です」
ぎこちない手つきでスノウの額を撫でる女性の掌の冷たさで、さっきまで必死に壁を登攀していたせいで火照った顔が癒される様で。
暫しの間ぼんやりと、そのひんやりした感触を堪能していたスノウであったが……やがて此処が夕日照らす聖殿の防壁の上で、そこで自分が彼女に膝枕をされている事に気が付いた。
「……なんでわたしはこんなとこで寝てるの?」
「……私が気絶させました」
「きぜつ」
「予想外な事があったもので、つい」
バツが悪そうに目を逸らして呟くミラに、膝枕をされたままう~んと一頻り唸ったスノウは、やがて納得したのかうん、と一つ頷いた。
「……要はまた捕まっちゃって、そのときにって事か。なんかごめんね……」
「いえ、また脱走を試みたのは褒められた事ではありませんが、明らかにやり過ぎたのは私の落ち度です……ごめんなさい」
結構な勢いで投げ飛ばされたにも関わらず、スノウは特に目立った外傷も無く、精々が軽い擦り傷程度だった。
大聖堂に運び込まれた際も、他の村人に比べて怪我や呪詛汚染の深度が一番軽かった事を鑑みれば、おそらく無意識に魔力で身体強化を行っていると考えられる。
そもそも彼女の特徴である白子は、祖先にエルフや魔族といった長命種が混じっていた場合に産まれやすい、と言われている。
一種の先祖返りなのか、肉体的に脆弱性があるがその分高い魔力を生まれ持って備えているケースが多いので、彼女がそうである可能性も十分にあった。
落ち着いたのか、スノウは手足の伸ばすとそのまま大きく伸びをし、ゆっくりと身を起こす。
「また迷惑かけちゃったね……ホントごめん。悪いとは思ってるんだ」
立ち上がることはせず、どこか消沈した様子で呟く彼女の言葉に、ミラは静かに頭を振った。
「……故郷に帰りたい、自身の居場所が失われたなどと他人に言われても、信じられない……当然の事です――まぁ、少々行動力が過ぎるとは思いますが」
最後にチクリと付け足された小さなトゲに、苦笑いして白い少女は「ごめんってば」と、再び謝罪の言葉を口にした。
何とはなしにお互い無言になり、夕焼けに色に染まる壁の上、静かに夕日を眺める。
「本当は、さ。全部分かってるんだ」
やがて、少女の口からポツリと、呟くように独白が漏れる。
「じいちゃんも、ばあちゃんも、わたしを庇って目の前で動かなくなった。隣のおばちゃんや、お向かいの悪ガキも、真っ黒になって燃える家に押し潰されて消えた……皆、みんな、いなく、なった」
膝を曲げて、その間に顔を埋めるように俯いて。
途切れ途切れに語る少女の言葉を、ミラはただ、黙して聞き続ける。
「……で、でも、さ。おじさんに助けられて、目を覚ましたらこんな離れた場所にいて……怪我だってあっという間に治って、あ、あのときのこと、ぜんぶ、夢だったんじゃないか、って」
声が震え、しゃくりあげるような嗚咽が混ざっても、胸に溜まった何かを吐き出さずにいられない。
そんな風に、何度も何度もつっかえながらも喋り続けるスノウの頭に、ミラは迷う様に手を伸ばし――悩んだ末に彷徨った指先は、結局は何に触れる事もなく下ろされた。
「わ、わたしがちゃんと家に帰ることができたら、じいちゃんも、ばあちゃんも元気で、い、いつもみたいに、おかえりって、言ってくれるんじゃない、かって……!」
そんなわけ、無いのにね、と。微かに首を上げてミラを見つめて。
自嘲する様に言葉を締めくくった白い少女の顔は涙と鼻水で濡れ、くしゃくしゃに歪んでいた。
瞳に溢れる水滴のせいで真っ赤に充血し、それでも尚、夕日を浴びて深紅に輝く宝石の様な瞳が、言葉に出来ぬ疑問と――怒りと、哀しみを嫌という程伝えて来る。
どうしてこんな事になったんだろう。
何故わたしは大切な人を、場所を全部壊されなければいけなかったんだろう。
会いたい。
もう会えない、大切な人達に、会いたい。
それは、ミラが戦場で、或いは戦いを終えた後に滞在した街で、常に聞き続けていた声であった。
理不尽に奪われ、蹂躙され、未来を真っ黒に塗り潰された、無辜の民の声なき悲鳴だった。
胸の奥にちろりと、燃え上がる怒りの炎は、未だ世界を穢し、同じ様な悲劇を振りまき続ける邪神とその配下達にか。
或いは、それらを断ち切ると意気込んで戦士の道を選んだ筈が、目の前の少女一人救う事が出来ていない己の無力にか。
いずれにせよ、哀しみに暮れる少女の前で無様に漏らして良い感情では無い。
怒りを押し殺し、鉄面皮となったミラが、それでもなんとかスノウに言葉を掛けようと言葉を探す。
「……他の生き残りの方も居たのでしょう? 知り合いは居なかったのですか?」
「……分かんない、一緒に来たのは、あんまり仲の良い人達じゃなかったから」
ぐしぐしと、服の袖で顔を拭って。
目元を真っ赤に腫らしたまま、彼女はぎこちなく、けれど淋しそうに笑った。
「……怪我の手当を手伝ってるときに、「お前のせいだ、不吉の子め」って怒られちゃった。ずっと言い掛かりをつけて来る嫌な連中だと思ってたけど……本当にその通りなのかも」
白子は不吉の象徴。
大陸中央部や魔族領ならば、そんな偏見など無いだろう。
だが、北方の小さな未開の村ともなれば、未だそういった迷信染みた考えを持つ者達も一定数は存在する。
怒りを押し殺して掛けた言葉は、帰って来た不愉快にも程がある内容の御蔭で、ますます胸の炎に薪を放り込む結果となった。
未開である事が罪となる訳も無し――だが、年若い少女に大人が掛ける言葉としては論外である。
偶然ではあったが、こうして胸の内を吐き出す形となったスノウは、哀しみは消えずとも多少はすっきりとした顔をしている様に見える。
今の彼女であれば、他の村人と共に近隣の領主の元へと預けられても、無謀な帰郷を試みることは無いだろう。
――だが。
「……行く宛てが無いのであれば、聖都に居なさい」
「……うん? でも、ココはお坊様や兵隊さん達がいる場所でしょ? わたし、なんにも出来ないよ?」
「戦えなければ価値が無い等と、それこそ我らが戦う邪神の軍勢共の理屈です。真っ当な勤労意欲があるのならば、人手はあるだけあった方が良い」
このままスノウを、彼女を快く思わない者達と共に遠く離れた北方へと送り出すなど、何が何でも認める事が出来そうに無かった。
元より、彼女だけは聖殿に留まらせる予定であったのだ。何の問題も無い。全部解決。文句があるなら教皇猊下であろうと直にお話をしに行くのみである。
それに、何もできない等と言う事は無かった。
それ処か、下手をすれば……。
「スノウ」
「……なぁに?」
最初に膝枕していた体勢のまま、防壁の上で正座をしていたミラであったが、彼女の居住まいを正した様子に白い少女もなんとなく背筋を伸ばし、向かいあって正座する。
「……貴女は、私が稽古をしている様子を見ていましたね?」
「う、うん……なんかこう、流れが綺麗だなぁって……駄目だった?」
「いえ、何も悪い事はありません。寧ろ僥倖でした」
やはり、そうだった。ミラは確信を深める。
ひどく粗く、力の流動操作も掌握もお粗末で歪であったが、先程己の手を払ってみせた彼女の動きは間違いなく《三曜》の基礎技術が一つ、《流天》であった。
ぞくぞくと背筋に湧き上がる感動にも似た感覚は、百戦錬磨の彼女をして初めての経験である。
まるで道端で、磨けば神器の素材にもなるであろう特大の宝玉の原石を拾ったかの様な。
嘗て見た、師の奮った戦技の極点。己では届かぬその圧倒的な高みに、限りなく近づける翼を持った雛鳥を見つけたかの様な。
珍しく舞い上がっているのを自覚し、ミラは咳払い一つすると大きく深呼吸して気息を整えた。
どのみち、スノウが承諾しなければ意味の無い話だ。
先ずは本人の意思が大事――自己を練磨できるのは自己だけである。如何に超絶の才を有していようと、本人が望まなければこの事は胸にしまっておこう。
それは余りにも勿体ない。そう訴えて来る胸中の未練を捻じ伏せつつ、彼女は白い少女――その深紅の瞳を真っ直ぐに見据えて口を開いた。
「スノウ、貴女が望むのであればですが……私が貴女に戦う術を教えます」
ミラからすれば、割と一世一代の告白くらいのつもりで口にした言葉だったのだが。
「え!? ……と、いう事は、わたしもあの綺麗なの使えるようになるの!? やる!」
至極あっさりと少女の首は縦に振られ、自然と肩に入っていた力が抜けてずっこけそうになる。
思ったより十倍ほど軽い感じで話が纏まったが……スノウが了承したのは確かだ。
何はともあれ、全てはこれから。
突如として吹き込んで来た、新たな空気を呼び込むであろう、白い風。
己の日常に、良い意味での変化が訪れそうな予感に、ほんの少しではあるがミラの表情が緩む。
「……あれ? ミラ、今ひょっとして笑った?」
「気のせいでしょう」
少女に――弟子に指摘され、一瞬でその顔がしかめっ面に戻る。
「えぇ、でも今絶対……」
「いい加減、日も落ちてきましたし。此処から降りるとしましょう――貴女は先ず、涙と鼻水で汚れた顔を水場で洗いなさい」
「は、鼻水とか乙女は出さないし! 出たとしても鼻からでた涙だし!」
「それは結局、鼻水なのでは?」
――取り敢えず、明日の朝一番にあの可愛気の無い後輩に会いにいかねばなるまい。
スノウは引き続き自分が見ておくと、教えておかねばならないので。
あの悪戯好きの後輩が、眼を輝かせて面白そうに根掘り葉掘り聞いてくるの姿が目に浮かび、それに少しばかり憂鬱になりつつも。
正座から立ち上がり、「脚がしびれたー!」と悲鳴を上げている白い少女に手を貸してやりながら、それ以上に明日から始まる少女との時間に様々な期待を覚え。
空の端に輝きだした星々を背に、ミラは弟子に見えない様、少しだけ笑ったのであった。