老兵の残照 出会い
大陸北方――激戦区である中央から離れた、散発的な小競り合いが主であるとされた北の大地は今、大きな戦火に呑み込まれようとしていた。
剛剣が振るわれ、後衛の魔導士達の手によって足止めされた邪神の下位眷属が両断される。
体液と思わしき黒い飛沫をまき散らし、周囲の草木や大地を穢しながらグズグズと崩れ征く呪詛が人型を為した様な存在に、ソレを叩き斬った当人である騎士が忌々しそうに舌打ちした。
「クソが。なんで眷属が複数出て来るような戦線が北方で発生するってんだよ……!」
「――若! 御無事ですか!?」
慌てた様子で駆け寄ってくる老年の魔導士の安否の声に、若と呼ばれた騎士は「応、大した怪我もない」と応じ、先程まで眷属と斬り結んでいたせいで破損した兜を脱ぎ、地に放り捨てる。
自身が初陣のときから愛用している魔装処理を施した板金鎧一式であったが、下位とはいえ邪神の眷属と正面から打ち合うなどという無茶をしたせいか、今までの鎧傷とは比較にならないほどボロボロになっていた。魔力導線が未だに機能しているのが救いではあるが。
「こっちは何とか片付いたが……他の戦況はどうなってる? 親父殿は無事か?」
「……あちらでも眷属級の呪詛が発生したらしく、御当主はこれを撃破。ですが、負傷の為に一時戦線を離脱したそうです」
「――チッ、傷の具合はどうなんだ? くたばったりはしないだろうな?」
「軽くはないようですが、御命がどうこう、という程では無いようで」
最悪は免れたかよ、と苦々しい表情で呟く騎士であったが、直ぐに切り替え、周囲に残った戦力……部下たちに声を張り上げて指示を下す。
「ここの信奉者共は眷属の顕現にほぼ消費された! 残敵の掃討を行う戦力を残し、他領の軍に助太刀しに行くぞ! 誰か馬牽いてこい!」
「若!? お待ちを! 御自身も今しがた眷属を一体討滅したばかりでしょう! 一度御当主と合流して……」
「アホか。俺と親父殿の処だけババ引いたなんて事があるわけ無いだろうが。他にも複数眷属級が湧いてると考えるのが妥当だ」
連中と戦り合える奴なんざ近辺の領軍に何人もいないだろうが。と、吐き捨てる様に愚痴り、部下が引いて来た馬の手綱を握る。
「なりませんぞ若! 次期当主として此処は堪える処です!」
「他の戦線が食い破られて近隣の領土に雪崩れ込まれてみろ! 被害がデカいのはウチだぞ! 民が食い散らかされ、瓦礫となった街で領主を名乗るなぞ、道化ですらないわ!」
押し問答を繰り返す騎士と魔導士に、馬を牽いて来た部下――黒髪の男が割って入る。
「坊ちゃんも導師殿も一旦落ち着きましょうや――俺が坊ちゃんの脇に付きます。いざとなったら引き摺ってでも退却させますんで、今は他んトコに応援に行くべきかと」
突発的に始まったと思われた今回の戦いは、邪神の軍勢側からは予想以上に大規模な戦力が動員されている。
対して、小競り合いに悪い意味で慣れてしまった北方の軍勢は、今回もその類であろう、という楽観的な初動のせいで戦力の厚みが足りない。
援軍が到着する前にどこかの戦線で穴を空けられてしまえば、そこから一気に瓦解する可能性があった。
「俺と坊ちゃんの二人がかりなら、現場にいる戦力も加味すりゃ、もう何体かは眷属級も相手に出来るでしょうよ――まぁ、俺も死にたくないんで、ヤバくなったら素直に引きましょう」
「ハッ、邪神の眷属相手でも喧嘩上等の戦闘狂擬きが、随分とまっとうな事を言う様になった。例の騎士爵の娘か?」
「分かってんなら野暮は言わないで下さいよ、この戦が終わったら良い店に飲みに行こうって約束してんですから。マジで今回は死ねないんですよ」
騎士にとっては、目の前の部下は傭兵団から手ずから引き抜いた、大当たりの拾い物だ。将来は己の右に置く予定の人物なので、当然死なせる予定は無い。
老年の男――自領のお抱えである筆頭魔導士も、女神の加護篤いとされる転移者――黒髪の男が護衛に付くとなれば、ある程度は騎士の安全も担保されると判断したようだ。
土埃と血の匂いが漂う戦場の中、居住まいを正して魔導士は黒髪の男へと念押しの言葉を掛ける。
「……分かりました、儂は一度御当主様の元に戻ります故――再び合流する迄、くれぐれも若を頼むぞ」
「あいよ、任されました……そんな訳で、申し訳ないですが坊ちゃんの馬に二ケツしてもいいですかね?」
「……後回しにしていたが、お前はいい加減、馬術を覚えるべきだな。そんな事では例のお嬢ちゃんと遠乗りも出来んだろうに」
あっちじゃ、馬に乗るのなんざ極々一部の人間だけだったんですよ、と苦笑いしながら抗弁し、男がひらりと騎士の跨った馬へと飛び乗った。
魔導士が自身の指揮する部隊の過半を騎士に預け、この場の残存戦力を狩る人員以外が移動を開始しようとした直後。
彼らの居る平原の向こう、おそらくは近隣の領主が展開している領軍が戦っている方角から、大きな魔法が空に向かって数発、打ち上げられる。
魔法の種類と、打った数によって簡易な信号とする、昔からある手法だ。
聖教国や帝国ならば遠話の魔道具や念話の魔法を扱える人材も多数抱えている為、廃れ気味ではあるが、小国が群を為す北方においては、未だにポピュラーな戦場での連絡手段として使われている。
安易に乱用が過ぎれば敵勢力の魔導士に利用されかねない、という声もあるが、微小であっても聖性を用いた魔法を使用することで、それらを全く扱えぬ信奉者達には偽装は行えなくなる為、区別は比較的容易であった。
平原の奥、小高い丘向こうの空に咲いたのは、限りなく白色に調整された魔法。
日が傾きかけ、斜陽に照らされた戦場の空に一際目立つ様、煌々とした光が昇った。
白は聖職者・聖性を表し、放たれた数は対象である色の求められる急用性を指す。
白色の場合、一~二発は治療・回復の為の要員を望む場合に上げられ。
三発以降は戦力として求められる状況――即ち、聖気による護りが必要とされる、邪神の加護を持つ信奉者や眷属を相手にする戦場での危急の合図だ。
最悪な事に、上がった魔法は五発。騎士も初めて見る数であった。
「……おいおい、なんだありゃぁ。まさか上位の眷属でも出て来たってのか」
「だとしたら最悪ですね。北方で現れたのは……確か大戦の最初期に一回、でしたっけ?」
「記録にある限りではな」
馬に跨った男二人が空に撃ち上げられた魔法の光を眺め、顔を引き攣らせてボヤく。
だが、騎士は即座に表情を引き締めると、同じく丘の方角を見上げて絶句している魔導士へと問いかけた。
「ウチでは高位の聖職者は何人行軍している?」
「……仮にあの救援要請の下で顕現しているのが上位眷属であった場合、有効な護りを発揮できるのは御当主に付いている司祭殿のみでしょうな」
「成程、確かに最悪だな」
こうなると、すぐ様救援に駆けつける、という訳にはいかなかった。
邪神の眷属を相手にする以上、高位の聖職者による聖性の護りが無い場合は常に心身――取り分け精神を削られながら対峙せねばならなくなる。
相手が上位眷属ならば、あらゆる意味で今まで相対してきた者達の比では無いだろう。
おそらく相対して、近距離でまともに戦えるのは自分と、後ろに乗せた部下のみ。
魔導士の部隊も遠距離からの砲兵として運用すればある程度は立ち回れるだろうが、壁となるべき兵達が敵と対峙すら出来ずに呪詛に汚染される可能性が高い。
そうなれば、壁役の居ない魔導士部隊など、本領を発揮する前に潰されて終わる。
この地を守護する騎士として、貴族として、死地へと挑む事に躊躇いは無い。
だが、敵を道連れにすら出来ずに敗れて死ねば、あとは後ろにある街々やそこに住む民が惨たらしい死を与えられることだろう。
最悪でも相討ちにもっていけるように場と、戦力を整える必要があった。
そして、他の領軍に高位の聖職者が在籍しているか不明である以上、無いものとして自分達の戦力でやり繰りするしか無い。
「チッ、業腹だが仕方ない。一旦、親父殿の陣まで退くぞ。司祭殿には申し訳ないが、地獄に付き合ってもらわねばならん」
全く以て最悪であった。他所の領地の者達であるとはいえ、友軍を僅かな間の足止め役として見捨てる――最悪、全滅も有り得るだろう選択をせねばならないのだ。
胸糞悪い事この上無かったが、他に手段を選べる状況では無いのも事実。
残敵を掃討する予定だった人員も含め、総員で一時退却する旨を騎士は声を張り上げて伝える。
「とにかく移動する! 残兵狩りも中断だ! 歩けん奴は兵装を積んで来た荷台にでもなんでも無理矢理乗せろ! 最悪馬に括りつけても構わん、道中、生きてる味方は全員拾っていくぞ!」
号に従い、部下達が慌ただしく行動を開始すると。
「若!」
筆頭魔導士が緊迫した声と共に、手にした杖で頭上を指し示し――振り返る前に既に怖気が奔るような魔力の胎動を感じ取って騎士……否、その場にいる全員が空を見上げた。
宙に一点、握り拳程の黒い染みが滲む。
瞬く間に大きくなったソレは縁から溢れ出た泥の如き呪詛を滴らせ、真下にある草木と大地を腐らせて穢しながら、まるで脈打つ様に膨らんだ。
凄まじい威圧と嫌悪感に総毛立ちながらも、騎士の判断は早い。
「総員、頭上の『穴』を中心に散開しろ! 魔導士部隊は有効射程ギリギリまで後退し、最大火力を同時に叩きこめ!」
雷鳴の鋭さを伴った一喝に、呆然と空に穿たれた黒穴を見上げていた兵達が弾かれた様に動き出した。
壁役の重装歩兵が前へと進み、騎士と同じ最前列へと並び立つ。
中距離に軽弓を主とした弓隊が配置され、後衛に魔導士部隊と、少数ではあるが魔装の大弓を用いた部隊が展開され、簡易ながらも黒穴を中心とした包囲陣を構築する。
「早々に敵を片付けたのが仇になるたぁ、皮肉ですね」
馬から飛び降りて、腰に佩いた幅広のショートソードを抜き放つ黒髪の部下の言葉に、苦虫を噛み潰した様な表情で騎士は応じた。
「見捨てる側から見捨てられる側になったって訳だ――まぁ、役割の交代に文句をいっても始まらん、やれるだけやるぞ」
殆どの信奉者と、顕現した下位の眷属が打倒された彼らの戦場。
即座に強力な浄化結界などで大気中に散った呪詛混じりの魔力を祓えれば良かったのだろうが、それが可能な余力を残した聖職者がこの場には足りなかった。
救援要請の出た丘向こうでは無く、先程までの戦いで眷属の泥が染み付いた大地と糧となる信奉者達の死体が既に大量に存在するこの場が、より相応しい『上位眷属の顕現の場』として選ばれた、という事だろう。
黒穴の縁に、同色の粘液を滴らせた指先が掛けられる。
顔――と言って良いのか分からないが、とにかくソレが頭部と思わしき部位を黒穴の向こうから潜らせた瞬間。
「――撃て!!」
騎士が抜剣と同時に切っ先でソレを指し示し、後衛の部隊から渾身の魔力を込めた無数の魔法が放たれる。
宙に穿たれた黒穴に向かい、様々な魔法が殺到・炸裂し、爆炎と魔力の爆発が躍って戦場を照らす。
先手必勝、完全な顕現の前に痛手を与えようという、初手から最大火力を以て差し込まれた一撃は、タイミングとしては完璧だったのだが……騎士と部下は揃って舌打ちした。
「ご丁寧に下位の眷属までセットか……いよいよ腹を括らねばならんな」
「……やれやれ、良い店を予約したんですがねぇ」
魔法の集中砲火で焼け焦げ、黒穴より落下する様にして大地にべしゃりと落ちたのは、先程彼らが討滅した下位の眷属と同種であろう人型の呪詛――数体。
顕現前の上位眷属の盾となるが如く、一足先に顕現したソレらは先の此方の猛攻で手傷を負ってはいるが……全てが未だ健在だった。
騎士は愛馬の背より飛び降りる。
並みの軍馬ならとうに狂乱し、暴れ馬と化して逃げ出すか泡を吹いて倒れているであろう邪気を前にしても、健気に己に付き従ってくれている葦毛の友の首を撫でた。
部隊の指揮を次席に任せ、己の側に控えていた筆頭魔導士へと、愛馬の手綱を向ける。
「お前は親父殿の処へ行け。後の事は頼む……親父殿には、さっさと後妻を迎えて新しく跡継ぎをこさえるように言っとけ」
静かな表情で告げる騎士の言葉に、老いた魔導士は怒りすら滲ませた表情で気色ばんだ。
「馬鹿な事を仰りますな! この場で落ち延びるべきはどう考えても若でしょう!」
「連中の戦力に対して、前衛が足りん。 俺がいなければ即座に瓦解する――聞き分けてくれ、爺」
「聞けませぬ! 退くのであれば若もご一緒です! でなければ儂は梃子でも動きませんぞ!」
顔を真っ赤にして、いい年をして地団太を踏む魔導士に黒髪の男が苦笑いしながら語り掛けた。
「あー……まぁ、こうなっちまったら必ず坊ちゃんを生かして返す、とは胸張って言い切れませんが……まぁ、一番最後まで残らせて見せますよ。導師殿と御当主が必死こいて援軍引っ張って来てくれたなら、生き延びる可能性は上がるんで早く行って下さい」
おそらくは自身の生存は度外視しているであろう男の台詞に、筆頭魔導士は唇を噛みしめ、自身より先に死地に向かおうとしている自身の半分も生きていない若者の顔を睨みつける。
「お主こそ、それで良いのか。あのお嬢さん……カッツバルゲル嬢になんと申し開きするつもりだ」
「……平手打ちで済めば安いんじゃないですかねぇ」
お道化た様に肩を竦めた言葉を最後に前へと進み出て、身を起こした下位眷属の群れに向き直る男。
「ま、謝っていたと伝えて貰えると助かりますわ……早く行って下さい、離脱が遅れる程に援軍も遅れる――坊ちゃんの生存率も下がります」
筆頭魔導士とて、理屈の上では分かっているのだ。
この場に己が留まれば多少は戦いも楽になるだろう。
だが――遅かれ早かれ、全滅するのは避けられない。
ならば、単騎でこの場を離脱して……仮に伏兵があったとしても後方の本陣へと辿り着ける可能性が高い己が、御当主への援軍を要請する為に馬で駆けるべきなのだと。
二人がどうしても戦線から離脱できぬ以上、それが最適解なのだと。
だが、本来であれば若い者達より真っ先に死ぬべきであろう老兵の己が、恥知らずにも死地より背を向ける。それがどうしても躊躇われた。
将来の主君であり、口には出せずとも孫の様に思っている若君と、その右腕たる将来有望な若者を差し置いて、自身が最も生き延びる可能性が高い役を担う。
それに、納得が出来ない。己を身代わりになんとか、どうにか彼らを生かす方法は無いものなのか。
黒髪の男の隣に並び立ち、抜刀した長剣を同じく構えながら先頭にて敵と対峙する騎士が吠える。
騎士の身を案じるが故に躊躇い、動けない老人の迷いを、断ち切る様に。
「征け! 爺! 俺の最後の命令だ!」
「――ッ、ぐ、ぅぅぅぅっ! ご、御武運を!」
唇を嚙み千切って口元の白髭を赤く染めた魔導士が、歯を食いしばって馬の鞍へと手を掛けた瞬間であった。
――突如、包囲の外より飛来した棒状の物体が、黒穴へと突き刺さる。
一見しただけで業物と分かる精緻な魔力導線の刻まれた、魔装処理の施されている鋼棍は、攻城用の弩弓にも劣らぬ貫通力で以て、黒穴より這い出ようとしていた上位眷属を縫い留めた。
硝子板を爪で引っ掻いた様な、聴覚を貫く不快な悲鳴が上がる。
圧倒的な存在感と絶望的な邪気を放って戦場を支配しようとしていた存在の、紛れもない苦鳴の叫びに、人類側の兵だけではなく、先に地へと降り立った下位の眷属の群れまでもが呆気に取られたかのように宙に浮く黒穴を凝視して――。
その隙を縫うかの如く、再び包囲の外より――今度は人影が飛び出した。
騎士達の対面、眷属の群れを挟んだ反対側から高く跳躍し、後衛から前衛までの人の壁を一気に飛び越え、敵の背面を付く位置に着地したのは一人の女聖職者である。
年の頃は二十代半ば程だろうか。
美しいアッシュブロンドの髪を馬の尾の様に後ろで括り、たなびかせた女性は、動きやすさを優先しているのか深めの切れ込みが入った僧衣を翻し、一直線に黒穴の真下――下位眷属の群れへと突進を開始した。
「ちょっ――!?」
思わず上げた声は、騎士のものか、はたまた部下の男か、それとも他の誰かであったのか。
その声のせい、という訳でも無いだろうが、シスターの接近に気付いた眷属の内一体が、無造作に触手の如き腕を振るう。
毒性の呪詛が濃厚に宿った触腕が鞭のようにしなり、音の壁を叩きながら凄まじい速度で伸縮する。
騎士にとって幾度となく、嫌になる程見た一撃。
何人もの部下が一撃で身体を貫かれ、粉砕され、自身も何度も肝が冷える思いをさせられた、その脅威に対し。
女性は完全に見えてる、といわんばかりにそっと手を差し出し、自身の身体に届く前に、掌で撫でるように触腕の側面に触れた。
そして――ただ、それだけの動作で触腕は受け流され、まるで大人と全力の綱引きをした幼子の様に攻撃を繰り出した眷属の身体が前方へと引っ張られ、宙に投げ出される。
その頭部を出迎えるのは、僧衣の裾を跳ね上げて飛び出した膝だ。
すらりと伸びた黒の長脚絆に包まれた脚線美が披露され、その優美な曲線とは裏腹に彼女の放った飛び膝蹴りは凶悪極まりない威力を発揮した。
直撃を喰らった眷属の頭部が一瞬おいて風船の様に膨らみ――ついでに胴体の方まで膨張して破裂する。
散々に魔法を撃ち込み、何度も削り、消耗させた末にようやっと討滅した邪神の下位眷属……その同種が一撃で地面に落とした水風船みたいな事になったのを目の当たりにし、騎士を筆頭にその場に居た全員の目が限界まで見開かれ、顎が外れそうになるほど下に落ちた。
突如として乱入してきた謎のシスターの猛攻は、それで終わらない。
線の細い見かけからは想像もつかない豪快なジャンピング・ニーを決めた彼女は、地へと着地する際を狙って放たれた他の眷属達の攻撃を両の掌を以て完璧に捌いてみせる。
凄まじい速度で槍の如く一直線に突き出された無数の黒い触手が、根こそぎ直角にひん曲がって地面に突き刺さる様はいっそシュールですらあった。
攻撃の波が途切れた瞬間、再び女性は跳躍する。
放たれた矢の如く、瞬きする間に眷属の一体へと肉薄した彼女は、その頭部を鷲掴みにし、それを支点に頭上へと飛び上がると――数瞬、片手倒立の体勢となった。
「――《命結》」
静かに、なれど鋭く囁かれた声が騎士の耳朶を打った瞬間。
水気を含んだ生肉を圧し潰すような音が戦場に響き渡り、眷属の黒い身体が縦に圧縮される。
真上から巨人の掌で叩き潰されたかの如く、限りなく地面と平行になるまで平たくなった邪神の尖兵は、滅ぶ間際に呪詛を撒き散らすことすら出来ず日に照らされた影の様に消し飛んだ。
脳に叩き込まれる出鱈目に過ぎる光景にその場に居た人間全てが硬直しているのを尻目に、シスターは眷属を消滅させた一撃の反動を利用して空中でとんぼを切り、騎士の眼前へと鮮やかに着地した。
切れ長の瞳が静かに騎士を見据え……先程までの圧倒的な武威も在って、彼が黙り込んで見つめ返していると。
その頭が軽く下げられ、女性はそっと自身の胸元に手を当てて名乗りを上げた。
「――子爵の御子息ですね? 聖教会所属ミラ=ヒッチン。教国、北方諸国間の約定と要請に従い、此度の戦に参戦する事となりました。助太刀致します」
端的な紹介を終えると、ミラと名乗ったシスターは騎士が何かを口にする前に再び飛び出してゆき、残った下位眷属を殲滅しにかかる。
半ば呆然としていた騎士はその背を見て思わず、といった様子で呟いていた。
「……ふつくしい……」
「あー……坊ちゃん?」
「若?」
部下二人の声にハッとした様子で我に返ると、彼は慌てて状況を確認し、周囲の兵達へと指示を開始した。
「彼女――ミラさ……殿への支援を主軸に立ち回れ! 無理はせんでいい! 兎に角彼女が戦い易いように『機』を作る事を優先しろ!」
声を張り上げ、この場で最も最適に近いであろう戦い方を即座に包囲を敷く味方へと周知させると、自身もミラを援護すべく、剣を片手に飛び込んでゆく。
つい先刻までの絶望的な戦場の雰囲気はどこへやら、勝機と、それに続く希望に意気を燃やした兵達が慌ただしくも戦意高く動き出す。
同じく、降って湧いた生存と勝利の空気に昂揚は覚えつつも、半歩出遅れた感がある黒髪の男と筆頭魔導士が揃って顔を見合わせた。
「……浮いた話をあんまり聞かんと思ってましたが、あぁいう女傑が坊ちゃんの好みだったんですかねぇ」
「いや、あれは彼女の武力に対する憧れも半々という処であろう……お主的にはどうなのだ?」
「『薔薇の棘を愛でるのも、男の甲斐性』ってアイツも言ってはいましたが……棘どころじゃなく魔装の槍が生えてるのはNGで」
玉も縮み上がりますよありゃ、と気の抜けた表情でボヤく男に、まぁ、気持ちは分かる、と言わんばかりに魔導士も無言で頷いた。
正直、もう見てるだけでも良い気がしなくもないが……御当主の嫡子である騎士が気炎を吐いて戦いに加わっている中、その右腕と領内の筆頭魔導士がボケっと突っ立っているだけという訳にもいかないだろう。
老人はその場で魔力を練り上げ、詠唱を開始し、黒髪の男は騎士と同じく、愛剣片手に恐ろしくも頼もしい助っ人を援護する形で戦線へと躍り出る。
彼女を中心とした戦いを行うことで、極めて少ない犠牲で瞬く間に下位眷属の群れは掃討されていった。
「――そろそろ上の大物が出てきますね」
騎士のサポートを受け、最後の眷属の胴体へと掌底を叩き込んで消滅させたミラが、鋭い視線を上空――黒穴へと向ける。
先程、彼女のものと思われる投擲を受け、昆虫標本の様に穴の内部で磔されていた上位眷属が強引に顕現しようとしていた。
如何なる力か、聖気とは似て非なる魔力の込められた鋼棍は、未だ深くその胴体へと食い込んでいたが……白煙を噴き上げて自らを灼くそれをものともせず、巨体が黒穴より這い出ようとする。
周囲一帯に呪詛がまき散らされ、後衛の聖職者達から身を護る聖気の加護が兵達へと放たれるが――それが在って尚、心身を蝕む邪神の欠片、その脅威よ。
最初の状況と比べれば格段に有利になったとはいえ、それでも気を抜いて当たれる相手では無い。
ミラを先頭に騎士と黒髪の男が彼女の左右を固め、包囲を敷く子爵の領軍が息を呑んで上位眷属の巨体が顕現する様を待ち受け――。
「喝ァァァァァァァァァツ!!」
天を割るかのような野太い一声と共に、先程の鋼棍の焼き直しの如く、空より何かが飛来した。
棍と比べれば、余りに大きく、分厚く、そして太いソレは、そもそも無機物ではなく人であり――更に言うなれば、人というより巨大な筋肉であった。
僧服を風圧ではためかせながら隕石の様に落下してきたのは、先に述べた通り、筋骨隆々の体躯を誇る青年である。
剃り上げた禿頭を戦場を照らす夕日の光でキラリと反射させながら、青年はそのまま上位眷属が這い出る瞬間であった黒穴へと着弾した。
後衛の魔導士達による一斉砲火に匹敵――否、凌駕する炸裂音が響き渡り、未だに黒穴から出る事すら出来ない上位眷属が再度悲鳴を上げる。
硝子を軋ませる様なその音は、およそ人語からかけ離れ、理解の及ぶものでは無かったが……気のせいか『またかよ!』と言ってる様に聞こえた。
「……眷属の顕現してくる『穴』って、物理で潰せるもんなんですねぇ……」
本日何度めかの唖然とした様子で呟く黒髪の男の視線の先には、真上から押し潰され、拉げて円環から横に潰れたハートの様な形になった黒穴がある。
ちなみに、魔法的な視点からいうのなら『黒穴』は邪神が居を構えているとされる空間から、直接出現場所へと己の欠片を送り込む、文字通り虚空に空いた穴だ。本来は物理現象に左右されるような代物では無い。断じて。
人間砲弾と化して黒穴と、其処から顕現しようとしていた上位眷属に激突した青年は、着弾の反動を空中で回転する事で殺しながら地響きを立てて大地へと着地する。
「――ガンテスですか。あちらの戦域は片付いたようですね」
「然り! 故に拙僧も助太刀いたしますぞミラ殿!」
ミラの言葉に、並外れた体躯を誇る巨漢の青年――ガンテスがニッコリと笑って返し、先程の激突の際に上位眷属の胴体からむしり取ってきた鋼棍を彼女へと差し出す。
それを受け取り、掌の中でくるりと廻すとミラは後ろ手に棍を構え――力強い震脚を以て大地を深く踏み込んだ。
如何なる神技か、浄化の性質を持つ魔法を使った痕跡も無く、だと言うのに地にめり込んだ彼女の足を中心として、辺り一帯の呪詛混じりの邪気が吹き払われる。
最早、常識外れにも程がある光景を連続で見せられて言葉も無い周囲を置き去りに、シスターと巨漢はようやっと穴から身を捻り出し、地上に顕現を終えた上位眷属を前に怯むことなく並び立つ。
「ふむ。多腕型ですか……では私が右。貴方が左で」
「競争ですな! 捥いだ数が少ない方が此度の報告書を纏めるというのは如何でしょう!」
「不謹慎ですよ、戦いに興を挟むのはお止しなさい」
後輩の茶目っ気を見せた言葉に手厳しく応え……ミラは最後に付け足す様、不敵に笑って見せる。
「――そもそも、私が勝つと決まりきった賭け事など、意味が無いでしょう?」
「ハッハッハ! これは辛辣! なれば、此度こそ連敗記録を止めるとしましょう!」
顕現前に散々に痛めつけられた事を不快に感じているのか、周囲の空気を軋ませる様な圧を放ち、無数の腕を以て大地を踏み鳴らしながら邪気と呪詛を振りまく巨大な怪物を相手に、女傑と筋肉は自然体で構えを取ったのであった。
大陸最大の宗教組織である聖教会本拠、聖都は大聖殿。
北方で開かれた大きな戦端を無事に収めたミラとガンテスは、戦後処理を済ませて漸く拠点へと帰還していた。
大聖堂が建造された中央区へと足を進める二人に、擦れ違う他の神官やシスター達が口々に労いと、無事を喜ぶ挨拶の声を掛ける。
「お帰りなさいませ、ミラ様、グラッブス助祭。お怪我も無いようで何よりです」
「ミラ様、北方の状況は如何でしたか? あぁいえ、先ずはゆっくりとお休み下さい」
次々に向けらえる言葉に、頷きを以て返すミラと愛想良く返答するガンテスであったが、ミラの方は言葉以上に態度に込められた敬意や憧憬の気配に、やや食傷気味な様子であった。
「……ただのシスター……腕が立つだけの一兵力に、過分な評価を向けるのは如何なものかと思うのですが」
「その様に申されては、そのいちシスターに武に於いて遥か後塵を拝している拙僧の身の置き所がありませんな。過ぎた謙遜は美徳とは言えませんぞ?」
顰めっ面のミラの言葉に、ガンテスが苦笑しながら諫める様に応じる。
返す言葉を持たず、溜息を溢しながら歩を進める彼女だったが、大聖堂の壁面に寄り掛かっていた知人を見つけると、ガンテスと揃って足を止めた。
他の聖殿に住まう者・勤める者達とは違い、僧衣ではなく、冒険者や傭兵が好む戦闘用の軽装に身を包んだ仏頂面の疵面の男は、二人の姿を視界に収めるとミラ以上の顰め面を僅かばかり和らげる。
「――戻ったか。少し遅かったな」
「おぉ、ラック殿。そちらも北方へと援軍として派遣されたと伺っておりましたが……御無事で何より!」
ラック=ライン。
本人が偽名であると憚りなく宣言してはいるものの、それが男の名として定着している呼称であった。
元は帝国の特級冒険者という、栄光を約束された身の上だったが、組合の上層部と折り合いが悪く、現在は冒険者を廃業して聖殿に傭兵として雇われている。
「ラック。貴方は私達より更に北上した地点の迎撃を受け持ったという話でしたが……何かあったのですか?」
何時も機嫌の悪そうな顔をしている眼前の戦友ではあるが、今は殊更に眉間の皺が深い。
他人から見れば気付くはずも無い微かな差異ではあったが、ミラは見逃す事無く、ラックへと問いかけた。
「……別に、ありふれた事さ。手遅れだった――それだけだ」
「……」
「むぅ……」
吐き捨てる様に呟かれた言葉に、ミラは沈黙を以て返し、ガンテスは無念そうに口元を歪める。
如何に突き抜けた武や戦力を持とうと、個人である以上、どうやっても覆せない悲劇は生まれるものだ。
今回彼らが派遣された北方の戦線――ミラとガンテスは間に合う事が出来たが、ラックはそうではなかった……言ってしまえば、ただ、それだけの話である。
誇張抜きで、今は人類の存亡をかけた大戦の最中だ。その中に身を置き続ける以上、どうしたって届かず、取り零す者達は現れる。
教会最高戦力、等と持て囃されるミラやガンテスにしても、それは同じ事であった。
「……戦端が拓かれた直ぐ先に、村があった。俺がクソ共を残らずブチ殺して見に行った時には……殆ど生き残りは居なかったよ」
「……救えなかった者だけを見つめるのではなく、救えた者をこそ見るべきです。貴方が戦ったからこそ、生き残った者達がいたのでしょう?」
目の前の強面、という言葉では足りない程の凶悪な人相をした傭兵が、その実、情に篤い一面を持っているのはミラとガンテスも知る処だ。
頑なに語ろうとはしないが……冒険者を辞めた理由も、特級冒険者という金看板を大事にしたい組合が、その為に多くの下位の冒険者達の犠牲を容認する動きを見せ、それに反発した結果であると噂されている。
おそらく、此処に居るのもそのわずかに生き残った者達を連れ、現在、救護院として機能している大聖堂で治療を受けさせる為だろう。
「――大聖堂内で待っていれば良いものを、相も変わらず臍曲がりですね」
「フン。ただでさえお堅い坊主共に囲まれた生活をしているんだ、この上、神様の家になぞ長時間尻を下ろしていたら、ケツが火脹れを起こしそうでな」
「ラック殿の慈悲篤い在り方なれば、かの創造神も閉ざす扉を持ち合わせぬ筈ですぞ! 件の村の方々が御心配ならば、素直に聖堂内で見守るが最善かと!」
「うるせぇ、黙れ筋肉馬鹿」
重くなりかけていた空気を、友人同士の何時ものやり取りである程度は払拭できた。そう思われた矢先であった。
大聖堂の正面扉が勢いよく開け放たれ、内から小柄な《《白い》》人影が飛び出してくる。
次いで、慌てた様に追いかけて扉を潜った僧――建物内部で負傷者の治療にあたっていた者の静止の声を振り切り、その人物は一直線に聖殿の出入り口に向けて走りだして――。
一瞬で追いついたミラにその襟首を掴み上げられ、子猫の様に持ち上げられた。
「――ッ、何すんだよ! 離せこのババア!」
ジタバタと宙に浮いた足で藻掻く人物――年若い少女が振り向きざまに罵り、次の瞬間、その脳天に硬い拳骨が炸裂する。
「痛ったぁーっ!? なにすんっ」
「誰がババアだ糞餓鬼」
痛みに怯んだのも一瞬、直ぐに歯を剥いて威嚇しようとした少女は、恐ろしくドスの利いた低い声に接着されたかの如く、ピタリと口を真一文字に閉ざした。
ミラの手によってぶら下げられている少女に、大聖堂で治療を行っていた僧が慌てて近寄り、その状態を確認し始め。
「も、申し訳ありませんミラ様、お手数をおかけしました……聖堂に連れてこられた際には眠っていたのですが、眼を覚ました途端に飛び起きて「此処はどこだ」と騒ぎ始めまして……」
治療途中で走り出したので、傷が開いたらどうしようかと思いました、と。安堵した様子で胸を撫で下ろす僧に、ミラは「ご苦労様です」と返すと、改めて己が片手で吊り下げた少女を眺めた。
飛び出してきた瞬間、白い、と咄嗟に認識したのも当然である。
雪の様な純白の髪に、宝石を思わせる紅い瞳。
不貞腐れた様子でぶら下げられた儘の少女は、俗にいう白子であった。
「……何をやってるんだお前は」
「あっ!? おじさん! 此処どこなの! なんでわたしは寝てたの! あとこの怖い人だれ!?」
ラックの呆れた様な声に、パッと顔を上げた少女は勢いを取り戻した様子で手足を再起動させ、ジタバタと動き出す。
頭痛を堪える様に掌を額に当てて天を仰いでいる戦友に変わり、ミラが咳払い一つして騒がしく暴れる少女を高く摘まみ上げ、自身の目線と合わせるように対面の形へと襟首を吊り下げた。
「落ち着きなさい――ここは大陸中央にある、聖都と呼ばれる宗教国家の中枢です。貴女や、貴女の村の人達は、ここで傷の治療を受けていたのですよ」
「怪我……あれ、そういえば痛くない? 治った?」
「そこの彼が癒したのです。何はともあれ、貴女が走り回った大聖堂は、多くの怪我人が現在治療を受けている場所――埃を立てて場を荒らすような真似は感心できませんよ?」
言い含める様に告げられた言葉に、少女は遅ればせながら自分の行為に気付いたようだ。
ハッとした表情で、自身を治療してくれた僧と、その背後に建つ聖堂を見てちいさく「ごめんなさい……」と呟く。
最初の口の悪さは何処へやら、しょぼくれた様子で素直に謝罪の言葉を口にする少女に、ミラは溜息一つ零して頷くと、静かに襟首を離して彼女を地に下ろした。
「よろしい。素直に謝れる子は将来立派な大人になりますよ――では、改めて自己紹介をしましょう」
膝を折り、俯く少女の目線に合わせるようにして、名乗る。
「私はミラ=ヒッチン。ここのいちシスターです……貴女の名を教えてくれますか?」
穏やかなミラの言葉に紅い瞳の少女は少しの間、視線を虚空に彷徨わせ、やがて躊躇いがちに口を開いた。
「……スノウ――スノウ=カレンデュラ……よろしく、ミラ」
騎士様
死を覚悟した戦場にて、ぶっとんだ女傑と筋肉に助けられて重度のファンになった男。
部下には「あんな女性が好みなんやなぁ」とか思われたが、将来嫁にした女性は穏やかで優しい貴族の御令嬢であった。
嫁さんがアッシュブロンドの髪が美しい、切れ長瞳の美人だったのはご愛敬。
随分と先の未来で、「推しのアイドルと結ばれる相手は別」と宣ったとある部隊の隊長の言の通り、推しと嫁はしっかり区別しつつちゃんと嫁さんと幸せになった人。
近い将来、領地を継いだら自分の右腕にしようと思っていた部下を、横から掻っ攫われて白目を剥く羽目になる。
黒髪の部下
言うまでも無く、日本からの転移者。
死地において九死に一生を得て、前々から仲良くしてた女の子と帰還後に良い店でデートと洒落込む事が出来た。
尚、嫋やかなお嬢さんだと思っていた相手は肉食獣だった模様。無事捕食された。