聖女の猟犬
霊峰中腹にて、ガンテスと白狼が戦闘を開始した同時刻。
僅かな手勢を引き連れた屍使いは、霊峰の頂上へと辿り着こうとしていた。
元より、囮を買って出た男の隠蔽の魔法は、屍使いが仕込んだもの。
自身の魔力を温存する為に弟子に行使させていたものの、彼自身が使用すれば"龍"の住処の周囲にて侍る、主級の霊獣すら欺く事が可能になる。
これより対峙する相手を考えれば極力消耗は避けたかったが、麓での突発的な強敵との遭遇戦の時点で計画は大きく修正を余儀なくされていた。
最悪とは己が"龍"と対峙する前に力尽きる事であり、逆を言えば目の前に立つことさえ出来れば……あとは『切り札』を切る為の余力さえ残っていれば良い。
そう割り切り、手駒を磨り潰す前提で行った強行軍は実を結ぼうとしている。
「……あとわずかで"龍"の住処へと到着する。心構えは良いか?」
「無論です、屍使い殿」
「我らの神の再臨――為すためならば、如何様にもこの身をお使い下さい」
屍使いの両脇に控えた二名が、頭を垂れて意を示す。
囮となった弟子を含め、この二人は烏合の衆であった集団の中でも数少ない使える手駒だ。
自身には遠く及ばぬとはいえ、『神』の再臨の為ならば死すら恐れぬ信仰の持ち主である。
手駒ではあるが、同時に信奉者としての同胞と呼ぶに値する男達の返答に、屍使いは満足気に頷くと、いよいよもって"龍"――《半龍姫》の住む屋敷へと歩を進めた。
獣道が終わると人の手が加えられた踏み固められた道へと変わり、異国風の屋敷が視界に入り――そこで足を止める……止めざるを得なかった。
「……結界だと?」
魔法の一つや二つ、"龍"ならば容易いだろうが、これは違う。
近づくだけで、己の内にある神の加護が焦げ付く様な感覚すら覚えるソレは、忌まわしき教会の者共が構築する聖性を帯びた代物だった。
しかも並みの強度では無い。正面から突破しようと思うならば、最低でも屍使いと同等以上の同胞があと数名は必要であろう超級の浄化結界だ。
「悪いけど、ここから先は通行止めだよ」
鈴を鳴らす様な可憐な声が響き、屋敷の入口から一人の少女が歩み出てくる。
霊峰に積もる雪を陽光で照らしたような銀糸の髪と、蒼穹を写し取ったが如き空色の瞳。
厳しい表情で此方を見据える秀麗な顔立ちの少女は、屍使いの――否、全ての邪神の信奉者達にとって、忌むべき象徴として周知された存在だった。
「よりにもよって教会の聖女とはな。あれ程の修道僧がわざわざこの地に一人訪れる筈も無し……納得がいったわ」
つくづく、期が悪かったらしい。あと数日のズレがあれば己の計画は狂う事無く進行したであろうに。
内心で毒づく屍使いだったが、少女に続いて屋敷から現れた女性を見て瞠目した。
紺碧の髪と、聖女に劣らぬ美貌。特徴的な龍眼と何より結界を隔てて尚、感じられる圧倒的な存在感。
「何の目的でこの地を訪れ、この様な行いを働いたのかは分かりませんが……即刻立ち去りなさい、貴方達に与える物など何一つとして在りはしません」
真っ直ぐに、凛とした声を以て速やかな退去を促してくるその女性に、背後の部下共々、恭しく頭を下げる。
「これはこれは……お初にお目にかかる、霊峰に棲まいし"龍"よ。御姿を拝見できて光栄だ」
計画が成れば、神の新たな似姿となる存在だ。敬意を払うのは邪神の信奉者にとっても当然の事であった。
「……《半龍姫》様、屋敷で待っていてくださいって言ったじゃないですか。この連中の相手はボク達がします」
「いえ、私の身を狙ってきた輩を貴女達に任せきりでは、あの子の師として立つ瀬がありません。要求を跳ねつける程度の意思表示はさせて下さい」
警戒と戦意に満ちた表情から一転して、ひどく親し気な雰囲気で言葉を交わす聖女と《半龍姫》に、屍使いは厄介な組み合わせだ、と顔を顰めた。
どうやら、今代の聖女の片割れと"龍"は相当に友好的な間柄らしい。自身の陣営にとっては悪報でしかない話だ。
(なれば、尚の事、今回の計画は成就させねばならぬ)
あの口にするのも悍ましい大敵によって、神を弑するという有り得てはならない暴挙が為され、神の軍勢たる信奉者の組織は加速度的に瓦解していった。
それ以前から、聖女に付き従う形で大敵は戦場を闊歩し、様々な妨害と被害を同胞に与えている。
目の上のたん瘤、処ではない。存在すら許し難い怨敵にして悪夢だ。
――だが、その悪夢も既に現世には存在しない。
身の程知らずにも神を手に掛けた代償、当然の報いだ。
(聖女の懐刀は折れ、喪われた――ならば、後は神を再びこの世界へと御招きすれば……今度こそ勝利は我らの手中よ!)
一度崩壊した組織と軍の再編は生半な事では無いが……神さえ再び降臨すれば、全ては些末事。
己の研究成果によって神の齎す加護を、より強く、確実に現世に顕現させる手法は確立された。神の恩寵が戻るのであれば、戦力の補充は容易だ。
厄介な"龍"を消し去り、神の依り代へと変える。
一石二鳥どころでは無い、現状を全て覆す逆転の一手。
それを為す一心で、各国の残党狩りの手より屍使いは落ち延び、雌伏の時を過ごしてきたのだ。
「ふん……我らを見逃す旨の発言……慈悲を掛けられたと思ってよいのですかな? そこな教会の娘は我らの殲滅を望む立場の筈。銀麗の聖女よ、戦場での逸話に偽りが無いのであれば、結界に籠ってばかりではなく打って出てきてはどうだ?」
「挑発に乗るつもりは無いよ。待ってれば囮を片付けた先生たちも合流してくる……時間が味方になるのはこっちだ」
見透かされている。
屍使いは舌打ちを堪えながら、銀の聖女と《半龍姫》を交互に見やる。
どうやら、どちらも結界を越えてこちらと交戦するつもりは無い様だ。聖女が言う通り、時間経過で不利になるのは屍使いの方だった。
やはり、此方でこの厄介極まりない結界を排除するしかない。
だが、手持ちにある通常の繰屍を全て投入した処で、眼前の障壁は小動もしないだろう。
となれば、切り札の片方を切らねばならない。
「……屍使い殿、これ以上の時間の浪費は悪手。我らの加護をお使い下さい」
「然り。二人分を"アレ"に喰らわせれば、小娘の結界を打ち破っても消耗は最小限で済みましょう」
己の出した結論を後押しする配下二人の言葉に黙考し――答えは直ぐ出た。
「……よかろう。貴様達の信仰、たとえ死せども我らの神に届こうぞ」
時間が経てば囮によって散らした戦力がこの場所に集結し、此方が不利になるのは明白。
伏せた札はギリギリまで隠しておきたかったが、こと此処に至っては止む無し。
手にした杖に魔力を注ぎ込み、術を行使する。
迸る力の奔流に、浄化結界越しの二人が警戒を滲ませるが……どの道、結界内に止まるつもりならばこちらの術の発動も邪魔出来ない。
僅かなりとも消費を押さえる為に、丁寧に術式を構築し、詠唱を終える。
「さぁ、出でよ。そして我らが神の恩寵を喰らい、その身に蓄えるがよい」
一際強烈な魔力が吹き荒れ、彼の背後に魔法陣が展開される。
其処から飛び出たのは、巨大な顎だった。
邪神の眷属達と同じ泥と、半ば剥げ落ちた腐肉と骨が混ざり合って構成されたソレは、一瞬で配下の男達を噛み砕くと、長首をうねらせ、眼前の浄化結界へと喰らいつく。
大質量と結界が激突し、聖性を宿した障壁が暴威を受け止め、放電の如く火花を散らせて虚空に散った。
拮抗は数秒だ。
強力な破邪の力を宿した結界に泥で構成された部分を激しく灼かれながらも、巨大な"何か"の牙はそれを見事、食い千切ってみせた。
結界が、砕かれる。
破砕されたその断片が、美しい光を放ちながら力を失って降り注ぎ、消えゆく中で。
屍使いは狂気に満ちた笑みを浮かべ、《半龍姫》へと手を差し出した。
「さぁ、"龍"よ。我らが神の新たなる器よ、我らの元へと来るがいい」
◆◆◆
(……! 浄化結界が抜かれた、しかも死霊術で)
砕かれた結界の欠片が光となって消えてゆく中で、ボクは驚愕を押し殺しながら背中に負った鎚鉾を掴み、一息に振り落ろして下段に構えた。
一瞬みえた大きな顎は、邪神の欠片と、"何か"の躯をごちゃ混ぜにして構成された超大型の繰屍だった。
召喚陣から覗いた頭部だけで、10メートルを裕に超えるそのサイズは、全身ともなればどれほどの大きさになるんだろう。
でも、問題なのはその大きさじゃない。
一応、聖女の号を持つボクが全力で構築した浄化結界という、邪神や死霊にとって最高の特効を持つ壁を、その対象どちらにも当て嵌まる存在が力尽くで突破した。それも極短時間で。
最大限に警戒すべき、危険な力だけど……何故だろう。
結界を破壊した力に、微かにだけど、とても自然な……まるでにぃちゃんや《半龍姫》様が使う技みたいな、大きな流れを結んで束ねた様な、そんな力を感じた気がした。
眼前の、怖気を誘う狂笑を口の端に湛える死屍使いが使う事の出来る様な力じゃない。あの"何か"特有のものだ。
見えた一部だけでも、大部分を欠損していて、泥で殆どを補填していたので、元の形状が判別しづらかったけど……一体"何"を繰屍にしたんだ。
当然の疑問が湧くけど、そんな思考も次の瞬間には打ち切られる事になった。
「……今の召喚術、元となった遺物を何処で手に入れたのですか」
固い、感情を押し殺した声が聞こえて、その言葉に裏に、蓋をされた――けれど隠し切れ無い怒りと威圧を感じ取り、思わずボクは死屍使いから視線を切って、隣にいる声の主を見上げる。
声の主は言うまでもなく、《半龍姫》様だ。
その顔は、恐ろしい程に無表情――唯一、無数の光を宿して輝く龍眼だけが大きく見開かれ、激発を堪える様に瞳孔が縦に収縮していた。
一歩、彼女が前に出る。
狂信を剥き出しにした筈の男が、冷水を浴びせられたかの様に顔を引きつらせ、一歩下がった。
「く、は。流石は、"龍"。それでこそ我が神の……」
「質問に答えなさい。――その遺骨を何処で手に入れた」
ギチリ、と。噛みしめた口元から音が鳴り、彼女は更に一歩、足を進める。
「――答えろ、下郎」
低く、冷たい声と共に、蓋をされていた筈の威圧がほんの少しだけ洩れた。
煮えたぎる怒りの、ほんの一欠片。蓋の隙間から漏れ出た湯気みたいなものだろう。
でも、それだけでボクの背筋は氷柱を差し込まれたみたいに粟立った。
喉を締め上げられたみたいな圧迫感に、呼吸がしづらくなる。
「――ッ!」
呻き声を上げそうになる唇を、慌てて噛みしめた。
隣にいるだけのボクでさえこれだ。直接怒りを向けられた死屍使いは、屍を操る処か自分が死人になったんじゃないかと思う程、土気色の顔になっている。
信奉者たちと対峙してから強化していた知覚が、周囲の生物達が一斉にこの周辺から逃げ出しているのを告げていた。
或いは、人間以上に敏感に察知しているんだと思う。
霊峰の主が、《半龍姫》様が、激怒している。
"龍"であるが故に、その思考は人のそれを遥かに上回り。
"龍"であるが故に、その感情の大きさ、深さは天を、または深海を思わせるほどに膨大で。
だからこそ、ひとたび激すれば、それは全てを焼き尽くすか、押し流してしまう迄、止まらない。
それが"龍"。神代から生きる、自然の化身。生命の極点。
だけど。
その怒りを抱いた理由は、何処までも彼女が"人"であるが故だった。
だから、ダメだ。
あの巨大な繰屍が、彼女に所縁のあるものなのだとしたら。
これ以上彼女と対峙させる訳にはいかない――ましてや、戦わせるなんて絶対にさせられない。
だってボクは、知っている。
龍としての力を振るうことで、人から離れた在り方になる事を拒んでいた彼女を。
大切な人との思い出が、自分の中で輝きを失ってしまう事を恐れていた《半龍姫》様を知っているんだ。
ボクにその想いを吐露してくれたときに、握りしめた掌が震えていたのを覚えている。
手を伸ばして、彼女の旗袍の裾を掴む。
それだけで噴火直前の火口を覗き込む様な、生存本能を炙られるビリビリとした感覚が身体を走る。
「《半龍姫》様、駄目です……!」
でも、それを無理やり押し殺して必死に訴えかけた。
思い出して。貴女が何故、むやみに力を振るうのを厭うのか。
貴女が世界よりも大切だと思った、大事な人達との記憶を、自身の心から遠ざけてしまわないで。
そんな思いを込めて、呼びかけた。
それに気付いてくれたのか、自ら踏み止まってくれたのか。
彼女はハッとした表情を見せて、我に返ったように死屍使いに向けて伸ばそうとしていた手を止める。
怒りが消えた訳じゃ無いんだろうけど、活火山か大嵐かを思わせる憤激の気配は収まり、先程まで感じていた威圧感はあっという間に霧散した。
「……すみません、助かりました」
バツが悪そうにボクを見つめて礼を述べてくる《半龍姫》様に、ボクは安堵しながら頭を振って笑顔を返す。
あぁ、良かった……普段の彼女だ。
正直怖かったけど、なんとか声を掛けることができたのは我ながら頑張った……裾を掴んだ瞬間はちょっと漏れちゃったかと思ったけど。
絶死を予感させる憤怒から解放された死屍使いが、額に浮いた脂汗を拭う事もせずに歓喜の声をあげる。
「は……ハハハハッ! 素晴らしい……! その威風、それでこそ"龍"よ。我らが神の器足り得る至高の生命、期待以上だ……!」
器、ね。
未だに死にそうな顔色してるのに、ほんとブレないなぁ、この連中は。
にぃちゃんじゃないけど、うんざりした気分で鎚鉾を改めて握り直す。
さっきの大型繰屍も考慮すれば、決して油断できる相手では無いけど……ついさっき《半龍姫》様を止めた事に比べたら随分と楽だとすら思える。
それに冷静になって考えれば、あれ程の存在を死屍として操ってるんだ。
邪神の泥で補助しているといっても、召喚・行使は消耗が激しい、なんてレベルじゃない筈。
普通に戦ってもいいけど……ここはやっぱり、当初の予定どおり持久戦かな。相手の魔力切れと、にぃちゃんや先生の到着、両方狙えるし。
「私が相手をします……いえ、しなければならない」
兎に角、《半龍姫》様には下がってもらって、後はボクが一人でやろう。
そう思ったんだけど、当の彼女が下がる気が無い。
やっぱり、繰屍にされた"何か"は、関わりのある存在なのかな。さっきまでとは違い爆発寸前の怒りは感じないけど、それでも深く、静かに《半龍姫》様は怒っていた。
でも、相手の目的である彼女を前面に押し出すっていうのは戦略的に駄目だよ。当人が最大戦力である、ってことを差し引いてもさ。
なんとか説得して、下がってもらおうと改めて口を開こうとすると、それ遮る様に死屍使いのくぐもった笑い声が響き渡る。
「ク、カカッ、元より一対一は望む処――なにせ、我が秘術はそれが前提であるが故にな」
言葉と同時に、眼前の老人は杖を構えて――その柄頭にはめ込まれていた呪石を叩き割った。
何某かの術を石の中に仕込んでいたのか、膨大な魔力の籠った魔法陣が彼の足元に展開される。
この陣……召喚系だ!
次の瞬間、二十を超える様々な繰屍が高速召喚される。
霊峰近辺に生息するものから、そうでないものまで、種類は様々……あの切り札らしき"何か"以外、手持ちの戦力を全て吐き出したって感じだ。
そしてその戦力は……全部ボク狙いかよっ!
「浄化に長けた聖女の横やりなどたまったものでは無いのでな。貴様はそやつらの相手をしておれ」
人の数倍の体躯を持つ巨人や蛇竜の繰屍も混ざっているせいで、それらに一気に雪崩れ込まれると《半龍姫》様と引き離されてしまう。
あぁもぅ、そこまで脅威じゃないけど、とにかく数と質量が面倒くさい!
最初に間合いに入って来た氷の巨人の頭部を、聖気を込めた鎚鉾の一撃で砕く。
ぐらり、と聖性で死霊術の操作を断ち切られた巨人の死体が傾き、倒れ込んできたので野球のフルスイングの要領で胴体を殴打して、弾代わりに突っ込んでくる躯の群れへとカッ飛ばす。
弾が錐もみしながら群れに突っ込んで動きを鈍らせると、ボクはそこに範囲魔法を叩きこもうとして――。
スルーされた《半龍姫》様が、横手から無造作に拳で空を打ち、発生した衝撃波で躯達の殆どが粉々に消し飛んだ。
拳から扇状に放たれた破壊力の塊は、敵はおろか、大地を呑み込み、空へと昇って大気を衝撃と轟音で震わせながら消える。
「私の前でこの子に穢れた躯を差し向けるな。不快だ」
言葉の通り、不快気に眉を顰めながら死屍使いを睨みつける。
多少の損傷などものともしない動く死体の群れも、笊で掬うのも難しいレベルで粉砕されたら動ける訳が無い。
先生の渾身に匹敵する一撃を、凄い気軽に打ったよこの人。
頭では理解していたつもりだけど、実際に見るとやっぱりとんでもないな。
かろうじて粉砕されなかった繰屍へとどめを刺しながら、彼女の力の一端を見て半ば唖然とした気分になった。
「やはり、こうなるか。だが良い、時間は稼げた」
相当な業物であったろう魔杖と戦力の殆どを投入して、十秒掛からずに蹴散らされたというのに、老人は動じる事無く次の手を打ってきた。
僅かに稼げた時間の間に詠唱と構築を終えたのか、彼の足元を中心に広範囲――《半龍姫》様も効果範囲に入った陣が展開される。
「貴殿と対面するこの状況こそが、我が策が成る前提条件よ! 儂は本来、戦う者では無いのでな!」
どんな魔法であれ、《半龍姫》自身に干渉が可能とは思えなかった。
けど、これは違う。そもそも相手に直接影響を与えるものじゃない! これは……!
「まさか、時空凍結!? なんで邪神の信奉者が!」
「結界魔法と言えど、浄化の概念以外はただの技術よ! 儂ならば再現も改良すら可能であった――我が秘術、刮目するがいい、"龍"よ!」
時空凍結なら、何故自分ごと巻き込む様に発動させるのか。
改良と言っていた以上、何かあるのかもしれない。
慌てて《半龍姫》様に駆け寄って、術に干渉しようとして……静かな瞳で此方を見つめる彼女と、眼が合った。
"大丈夫です、直ぐに戻ります"
言葉の代わりに、込められた意思が綺麗な龍眼から伝わったような気がして――。
――だが残念、俺だ。
そんな声が彼女の真下から響いた。
直後、地面が盛り上がって何故か腕組みをしたにぃちゃんが地面から垂直に飛び出してくる。
「なっ!?」
「うぇぇっ!?」
「……ひゃっ?」
その場にいた三者三様、呆気にとられた声が自然と喉から出た。
ちなみに最後のちょっと可愛い声は《半龍姫》様だ。
……それも当たり前だよ!
にぃちゃんは文字通り、彼女の真下から出て来たんだ。
ドヤ顔で! 腕を組んだまま!!
《半龍姫》様のお尻に頭から突っ込んで! 彼女をぽーんと上空に高々と跳ね上げたんだよ!! 頭で!! お尻を押し上げて!!
そして、自分の師匠に盛大にセクハラして登場したにぃちゃんは。
やっべ、やっちまった。みたいな引きつらせた顔をしたまま、死屍使い共々、彼の発動した時空凍結らしき結界に巻き込まれて姿を消した。
下手な大樹より高く宙を舞ったおかげか、結界の発動範囲から逃れた《半龍姫》様が、軽やかに地へと着地する。
さっきまでの怒りを湛えた雰囲気は何処へやら、その顔はちょっと赤らんでいた。
一方ボクはと言うと……もう心配やら腹立たしいやらちょっと《半龍姫》様が羨ましいやらで訳が分からない。なんだよこれ、我ながら情緒が滅茶苦茶だよ。
《半龍姫》様は悪くない。寧ろにぃちゃんのやらかしの被害者なのに、頬を染めて顔を伏せる普通の女の子みたいなその姿に、何故だかとっても納得がいかない。
とりあえず、にぃちゃんが敵の切り札に巻き込まれたのは確かなので、すぐに結界によって閉じられた空間の精査に取り掛かった。
心配なのは確かなんだ。絶対に助ける――その上でじっっっくりとお話する事があるけど。
解析に手を貸してくれると言う《半龍姫》様に力を借りながら、ボクは初めて見る特殊な結界術の解除へと取り掛かった。
◆◆◆
颯爽と助けに入ったつもりが速攻でやらかしたでござる(白目
どうしよう、なんか変な空間に閉じ込められたっぽいけど、既にここから出たく無い。
出た後が恐ろしすぎる。自業自得とはいえ、怖い。怒ったリアとお師匠のタッグとかなんなら邪神よかよっぽど怖い。
わざとじゃないんや、ただ、ちょっと急ごうとして霊峰の岩盤をL字にぶち抜いてショトカしてきただけなんや。
一番デカくて分かりやすいのがお師匠の気配だったので、そこを目印に真横から真上に掘りぬいて出て来たら、あんなことになっちゃっただけなんです、信じて(必死
直前で魔力が心許なくなって鎧ちゃんの起動レベルを一段落としたのも不味かった……完全起動状態だったら咄嗟に避けるのも容易だっただろうし、無理だとしてもフルフェイス状態だからまだマシだったのに。
思いっきり頭で尻を押し上げちゃったからなぁ……とってもやわらかかったです。安産型だなとか思っちゃいましたすいません(懺悔
もぅ最悪、腹を切るしかねぇ。最後に手刀で切り裂く事になるのが自分の腹とか、よもやこの節穴のリ〇クの目を以てしても予測できなんだ……!
一人悶々と頭を抱えていると、背後から馬鹿でかい質量に強襲され、《流天》で咄嗟に逸らす。
――重ッツ!?
ガンテスの打撃を捌いたときと同等。いや、下手すりゃそれ以上の威力に力を流しきれず、後ろに吹き飛ばされた。
空中でとんぼをきって、地を滑って着地する。
「貴様ぁ……我らの悲願に下らぬ方法で横やりを入れおって……何のつもりだ小僧!」
背後に馬鹿でかい繰屍の頭部を従えた老人――恐らくは、今回の騒動の首謀者である死屍使いは額に青筋を浮かべながら、地に片膝を付けたままの俺を睥睨した。
――理由は色々あるが、強いてあげるならお前らの嫌がる顔がみたい(キリッ
割と真面目に返答したつもりだったんだが、凄い殺意マシマシで巨大な躯の首が伸び、横殴りに叩きつけてきた。
今度は流しきれない前提で受け、背後に敢えて飛んで捌き切れなかった衝撃を逃がす。
にしても、シンプルな攻撃なのにすげぇ速度と威力だ。首だけでコレって元は何の繰屍なんだよ。
散らし切れない衝撃で痺れる手を開閉させながら、老人の背後に浮かぶデカい生首を観察する。
あれ?
気のせいか、段々と泥で構成されていた部分が減って、死体っぽい血色の悪そうな肉に変わってね?
……いや、絶対気のせいじゃないわコレ!
みるみる内に、泥が泡立つ様にして溶け消えて、その下から骨が、肉が盛り上がってゆく。
挙句の果てには、首の下からボコボコと肉が盛り上がり、骨が飛び出て凄まじい勢いで胴体が、手足が再生……いや復元されていった。
死屍に再生能力がある訳がねぇ。こいつは……まさか、存在の回帰か?
「ほう、気付くか。先程の技から見るに"龍"に師事しているだけあって、無能では無いようだな」
憤怒を捻じ伏せたまま、引きつった歪な笑みを浮かべて此方を嘲笑する死屍使い。
その短い時間で、あっという間に四肢の再構築を終えた超巨大繰屍は、その長大な首をくねらせてゆっくりと身を起こした。
屍となって尚、力に溢れた翼がゆっくりと開かれ、閉ざされたこの空間の中で力強く羽ばたく。
強靭な四肢と、凶悪な形状をしながらも何処か優美な尾。圧倒的な硬度を確信させる外骨格の甲殻。
節くれだった頭部の角は天を突き、ズラリと生え揃った鋭い牙は、岩どころか山だって噛み砕きそうな程、鋭い。
躯でありながら、嘗ての偉大さを想像させて止まないソレは、巨大なドラゴンだった。
ただし、サイズがおかしい。
端的に言って、羽の生えたゴジ〇だ。パねぇ。大戦時に戦った狂える巨人族の末裔の倍以上あるじゃねぇか。
こんなサイズのドラゴンとか見た事もなけりゃ聞いたこともないんですけど。
……すげー嫌な予感がする。こいつぁ本当に竜か?
「この傀儡は、我らの組織に保管されていた秘宝――神代から存在していた牙を元に、我が秘術によって蘇った正真正銘の"龍"の繰屍よ」
当たって欲しくない予想ほど的中するのが世の常ってな、糞が。
頂上に戻る途中で、お師匠がガチ切れしてる気配を感じ取って強引な地中ショトカ開通に踏み切ったんだが……理由はコレだろうな。
親御さんか、はたまた兄弟か。
使われているのは、十中八九、お師匠の身内の遺骨――形見だろう。
そらキレるわ、ほんっっとロクな事しねぇなお前らは。
そうと分かれば、この変な空間――時空凍結擬きの正体も察しが付く。
保管されていたのは牙、と言った。
角と並ぶ、龍の力を象徴する部位であるとはいえ、それだけでこうした全身の再現なぞ出来る訳が無い。
恐らくは、大量の邪神の加護を用いて尚、最初に見せた頭部の疑似的な再現が本来の精一杯。
それを補填し、完全な五体を揃えた屍として再現するのがこの結界だ。
時空凍結では無く、限定的な時間回帰。
結界内の存在を最も力を保つ、万全の状態へと時間ごと戻し続ける。
シアの『繰り返す』能力を大幅に劣化させた上に、絞り切った滓を極小規模に縮小させた様な効果を齎すのが、この空間の肝だ。
粗悪品とすら言えない超劣化版とはいえ、女神様の権能の一部だった能力を疑似的に再現する辺り、この爺は結界研究というジャンルにおいてマジで天才・鬼才の類と言って良いだろう。これで邪神にケツ振ってなけりゃ、歴史に名を遺す偉人になっただろうに。
とはいえ、その天才の生み出した結界にも穴はある。
恐らく、事象の中でも確定された強固なモノ……"死"などは回帰出来ない。
それが可能なら、繰屍じゃなくて復活した龍が今頃俺の前に立ってる筈だからね。糞ゲーすぎワロタ。いや、今の状況でも充分大概だけど。
そんでもって……この時間回帰の効果は、術者やその使役する存在だけが対象じゃない。
この空間内にいる全ての存在……つまりは俺にも適用されている。
実際、この空間に囚われる前には、《地巡》による充填が必須なレベルにまで消耗していた筈の俺の魔力は、普通に全快状態にまで戻っていた。
要するに、だ。
RPGで言う処の、触れるだけで全回復する回復の泉に浸かりながら、明確な『死』が確定するまで、お互い最大出力で潰しあうという頭悪い削り合いを可能とした空間なのだ、此処は。
そして、目の前の死屍使いにとっては、龍の繰屍なんていう、反則級の手札を完全な形で扱える場でもある。
成程ね、これがお師匠相手に喧嘩売って、勝ちの目を見出せる。と判断した理由か。
確かに、大抵の相手は一蹴できるだろう。
俺の知りうる限りでも、コレと一対一で相対して全力で潰し合って打ち勝つ、なんて真似が出来そうなのは三人しか思い浮かばない。
……リアが巻き込まれなくて良かったわ、本当に。
ちなみに、先に述べた三人の内に、お師匠は普通に入ってる。
そらそうよ。確かに完全な龍の繰屍ともなれば、お師匠とも戦えるだろう。
でも戦えるだけだ。正直、彼女が本気になったら目の前のゴ〇ラゾンビが勝てるとは思えん。
ただ、肉親の遺体と戦うって一点でお師匠のメンタルが心配になるが……あの人、身内判定だした相手にはくっそ甘いし。
もう一人に該当する魔族領筆頭――魔王ことロ〇コン不死鳥野郎も、普通にゴリ押しの末にぶった斬るだろうな。
以上の推測から、単純な勝敗って意味では、この結界と龍の躯という二つの切り札込みでも、こいつらの目的は頓挫するのは確定してた訳だが……。
「まぁ、良い。貴様を縊り殺し、傀儡へと変える。そのあとは聖女の小娘に嗾けてやろう。そして今度こそ、"龍"を……神の器を手中とするのだ!」
それを指摘してやった処で、認めるような人種じゃないよな、狂信者は。
召喚者の命に応え、凄まじい威圧を放つ龍の躯が魂の籠らぬ咆哮を上げ、虚ろであって尚、圧倒的な威に満ちた五体が俺を圧殺せんと力を漲らせる。
そも、邪神の端末は俺が完全に霊核を潰して消滅させた。
女神様のガチ対応から考えれば、二度と自身の世界に潜り込まれることなんぞ無い様、外界干渉をきっちりばっちり完全にシャットアウトしてる筈だ。
実際、転移・転生者が邪神討滅以降現れて無いってのは、女神様がスカウトを止めた以外にも、一時的外界との繋がりを遮断してるからだと思われる。
つまり、どうやっても邪神の信奉者達の望みは叶わない。ハナっから空回りなんだよなぁ。憐れ過ぎて草生えるわ。
もうね、端から端まで全部滑ってんのよ、お前ら。
計画の実行タイミングから始まって、実際の成功率、成功してもそもそも無意味な事。
おまけに、切り札をぶつけた相手が本来の目標じゃない上に三人目と来たもんだ。
確かに、この空間は不完全な龍の躯を完全にする、この爺の用意した切り札を切り札足らしめる、最適の場だろうよ。
でも、術者本人よりも恩恵のデカい相手を取り込むなんて想定は――してないんだろうね。
ぶっちゃけ俺も、もう一度使う機会があるとは思ってなかった。
前に使った後、盛大に泣かせちまったしな。
《装填》
己の内にある『炉』を開く。
戦闘開始――向こうにとっては蹂躙の手始めのつもりなんだろうが、巨大な顎に絶大な量の魔力が収束し、龍の息吹となって今にも解き放たれんとしていた。
それを睨み見据えながら、腰を落として構える。
邪神のパシリなんぞに良い様に使われている、この世界における最も気高い生命の器へと。
今、解放してやる。なんてガラにもなく胸中で呟いて。
二年前、最後の戦いで使った切り札を、再び切った。
《魂装魄纏》
◆◆◆
「――っ、複雑すぎる、なんて面倒な構成してるんだこの結界!」
閉じた空間の残滓に、魔力を走らせながらボクは思わず毒づいた。
既に死屍使いとにぃちゃんが、封印された空間に閉じ込められてから、結構な時間が経過してる。
にぃちゃんが負ける訳が無い、そう思っているけど……《半龍姫》様を相手にこの空間に取り込めさえすれば勝機はある、とあの老人は判断していた。
正直、相手の誇大妄想、都合の良い思い込みだとしか思えない。
そして実際、その可能性の方が高いはずなんだ。
――でも。
もし、もし本当に、ソレが出来るだけの罠や切り札を、相手が有しているとしたら。
時間が経つにつれ、嫌な想像が頭を過って止まらない。
こうして解析の困難な、強固な空間を精査していると、嫌でも二年前のあのときを思い出してしまう。
あのときも、そうだった。
必死になって焦りと恐怖にお腹を焼き焦がされる様な感覚の中、隔離された空間をなんとか抉じ開けて。
ようやく開けた光景の先には、凄まじく巨大で醜悪な――半身を消し飛ばされて消滅してゆく邪神の本体と……拳を振り抜いた体勢から、四肢が砕けて地に倒れる、にぃちゃんの、姿が。
「ぃ、ヤだ……!」
噛みしめた唇から、悲鳴を我慢する様な情けない声が洩れる。
違う、あんな事はもう起こらない。
だって、にぃちゃんは帰って来てくれた。
ただいまって言ってくれて、おかえりって伝えることが出来たあの日に。
何度も、何度も、もうおいていかないでって、お願いしたもの。
――泣いて、縋って、懇願するボクに約束してくれた。
もうボク達をおいていかないって! ボクをひとりにしないって!!
歯を食いしばって、涙が零れそうになるのを堪える。
駄目だ、泣いたってなにも変わらない。一秒でも、一瞬でも早くこの結界を抜ける方法を見つけないと。
そう改めて決意して、魔力を走らせ、結界にとっての微かな鍵穴ともいえる綻びを必死に探す。
ボクと向かい合うように、同じく結界を精査していた《半龍姫》様が、何かに気付いた様に顔を上げる。
どうしたのか、声をかける前に一瞬でこっちに向かって飛び込んできて、ボクを抱えて跳びすざった。
「何を――!」
今はほんの少しでも時間が惜しいのに!
抗議の声を上げようとして――。
「何か、結界の内側から来ます――これは……」
ボクの声を遮って呟かれた彼女の言葉は、あの二つのちいさなお墓の前で会話を交わしたときと同じくらい……ううん、それ以上に驚愕で揺れていた。
「これ、は……あの子……! なんて無茶を、この様な……!」
「……にぃちゃん!? にぃちゃんの事を言ってるの!?」
どういうこと! 無茶って何!?
自分が半ばパニックになりつつあるのを自覚しながらも、それを止められない。
「何があったの! にぃちゃんは無事なの!? 教えて! 答えてよぉ!!」
ボクを抱えた《半龍姫》様の襟元を掴んで、かん高い声を上げて彼女に詰問してしまう。
後で思い返すと物凄く礼を失した態度だったけど、彼女は優しくボクの背を撫でると、閉じた空間の名残り――その上方十メートル辺りをそっと指さした。
ドォン、と壁一枚を隔てて届くような、砲撃みたいな音がそこから聞こえる。
次いで、何かにヒビが入るような音が小さく耳朶に届いた。
再び、砲撃音――今度はよりハッキリと。
そして、気付く。
これは、砲撃じゃない。
ピシリ、と。空間に亀裂が走った。
ドン! と三度目の衝撃。
これは――打撃音だ。結界の、時空凍結に類する究極の空間閉鎖を、内側から力尽くで叩き割ろうとしている音だ。
上空に浮かんだ亀裂はもう蜘蛛の巣の様に広がって、無数に走る深い打撃痕の隙間から、光が洩れ始めている。
「――あぁ」
まだそうと決まった訳じゃないけど。
それでも、ボクの喉からは奇妙な確信と安堵で、震えた声が零れていた。
四度目の、最後の打撃音。
霊峰の空を貫く衝撃が走り、閉じられていた空間が突き破られる。
真っ先に飛び出て来たのは、結界を破壊したのであろう、真っ直ぐに突き出された拳だ。
内側から強引に突破されたせいだろうか、結界がガラス片の様に内側の景色を宿したまま、無数の破片となって辺りに降り注ぐ。
その中を、全身に魔鎧を纏ったにぃちゃんは拳を打った勢いもそのままに、上空から飛び降りて、足裏と反対の膝、拳を使った、三点着地で大地を陥没させて帰還した。
一瞬だけ判別が遅れたのは、最初に見えた鎧の姿がいつもと違う様子だったから。
普段は鮮血を思わせる深紅の魔力導線は、まるで火山の中で脈打つマグマの様に熱量を灯した光を放っていて。
内側から溢れ出す熱量に炙られたみたいに、全身の装甲は赤熱化していた。
それも地面に着地する間に色を失って、いつもの深紅と黒に戻っていったけど。
それが幻じゃ無い証拠に、微かに融解した後の残る装甲は白煙をあちこちから噴き上げている。
着地の体勢から動かないにぃちゃんに、言い知れない不安が湧き上がるけど……直ぐにそれも霧散した。
――全身クッソ痛いのに、スーパーヒーロー着地とかするんじゃなかった。
いつもの、魔鎧の下で白目を剥いて嘆いてそうな声が聞こえて、胸を撫で下ろす。
おぉ、消耗はマジでしてないな……痛みは据え置きだったけど。なんて、ブツクサ言いながら立ち上がるにぃちゃんに、駆け寄る。
「にぃちゃん!」
安堵と歓びのままに飛びつこうとしたボクに、にぃちゃんは手を突き出してストップをかけた。
――待たれよ、アリアさん。今はワタクシは全身熱したホットプレート状態なので近づいてはいけません。
えぇ……。
いや、理由は至極納得できるけど。
ここはこう、感激の抱擁とかする場面じゃないの? 絶対そんな空気だったよ。
駄目に決まってんだろ、お前が火傷したらどうするんだ、と至極真面目な声色で言うにぃちゃんに肩の力が抜ける。
あぁ、にぃちゃんだ。
ボクのお願いを、約束を、やっぱり守ってくれた、ボクの――。
やっぱりその首元に飛びつきたくなって、でもなんとか我慢して。
我ながらそわそわと落ち着き無い様子をみせていると、《半龍姫》様が歩み寄ってきて、そっと魔鎧の装甲に包まれたにぃちゃんの肩に触れた。
そのまま埃を払うように掌を水平に切ると、白煙をあげていた鎧に籠った熱量だけが、吹き払われる様に消え飛ぶ。
御礼を言うにぃちゃんには反応せず、眩しいものを、けれど痛ましいものを、或いは認め難いものを見た様に、様々な感情に溢れた瞳を揺らめかせ……彼女は口を開いた。
「……無茶を、しましたね」
魔鎧の、何処か鬼や悪魔を連想させる形状の頭部装甲越しに、優しく掌が添えられる。
「どうやって貴方がかの悪神に単独で勝利したのか、ずっと疑問に思っていました……アレが、貴方の答え。アレが、聖女の苦しみを断ち切る為に手にした、猟犬の牙なのですね」
まぁ、他に手段もなかったもんで。仕方無いね。なんて肩を竦めて言うにぃちゃんに、《半龍姫》様は何故か――羨望と、後悔の色をその龍眼に浮かべたみたいに見えた。
「馬鹿な子……貴方が、私達の、時代に……」
顔を伏せて呟かれた、殆ど聞き取れない……口の中で転がした言葉に、どんな想いが込められていたのか。
ボクにも、にぃちゃんにも、分からない。
応える言葉を持たず――けれど、にぃちゃんは、自身の頬に添えられた《半龍姫》様の手を穏やかに取ると、その掌に自分の掌を重ねて、そっと何かを乗せる。
「これ、は……」
――お師匠にお返ししときます。つーかアナタ以外に持つ資格ある奴いないでしょ、本来。
瞳を見開いて掌にあるそれを凝視して、呆として言葉を詰まらせる《半龍姫》様に、にぃちゃんはお道化た調子で返す。
手渡されたのは、何かの牙の破片、かな?
それを、彼女は大切な宝物のように、両の手で抱えて胸元で抱き締めた。
「……なぜ、だ。なぜ、貴様ガ、イ、る……」
しんみりした空気に割って入る様に、か細い、擦過音の混じった呻き声が、さっきの結界の範囲ギリギリの場所から届く。
ボク達が声の発生源へと振り返ると、そこには胸元から下をごっそりと消失させ、息も絶え絶えな死屍使いの老人が、地に打ち捨てられて転がっていた。
――そういや、トドメを刺し忘れてたな……今回は下手打ってばかりだね、どうも。
自省の色が濃い、苦虫を嚙み潰した声色でにいちゃんは一人ごちて、老人の――いや、自身を繰屍化させてかろうじて存在を保っている、朽ちる寸前の躯の元に歩み寄る。
近づくにぃちゃんに、激昂した躯は最後の断末魔だといわんばかりに、声を張り上げて罵声を浴びせた。
「フ、ざ、けるなァァァッ!! ナゼ我ラの神ヲ滅ぼしておきナガラ、貴様ガ生きてイル!」
特に反応を示さず、無言で躯の前に立つ。
「あのヨウナ戦い方ガアルカ! あんな方法ガ在ってたまるカ!! ……この、気狂イめガ!!」
そのまま、無造作に手刀を天に掲げて。
「儂ハ! 我らの神ハ……!」
脳天から残る胴体胸元まで、《命結》の一撃で一刀両断した。
――うるせぇ、黙って死ね。
心底どうでも良さそうに、グズグズに崩れ落ちて地に還る屍を一瞥して。
にぃちゃんは鼻を鳴らして、魔鎧を解除したのだった。
◆◆◆
襲撃があった日から、空けて二日後。
流石にあんだけゴタついてから、稽古を続行する気にもなれず、最後の一日は荒れた屋敷周辺を整地して、あとはゆっくり休息をとって過ぎていった。
そうそう、あの後直ぐに駆けつけたガンテスは、霊峰を荒らした不届き者と戦ってくれた礼、ということで最後の一日を俺達と同じくお師匠の屋敷で過ごす事になってる。
よろしくないトラブルがあったとはいえ、最終日になって得難い経験が出来た、とオッサンも喜んでたよ。普段の音声ボリュームが最大値にセットされてる人種なので、お師匠が少し押され気味だったのが笑えるけど。
最後の日だからと、リアと師匠が奮発していつもより豪華な食事を振舞ってくれたんだが……足りなくなりそうな肉類を、ガンテスを背に乗せていたあの白狼が届けにきたのは驚いたね。
獲物をお師匠の前に置き、頭を撫でられて喉を鳴らす様は、主級の霊獣というより母親に狩りの成果を自慢しにきた子狼みたいだった。
そして本日、霊峰から去る日。
俺達は、屋敷の前で向かい合って、別れの挨拶を告げていた。
「お世話になりました、《半龍姫》様。――また、お邪魔していいですか?」
「勿論です。そのときは……貴女の姉君も連れて、是非」
リアとお師匠が互いに微笑みあって、握手を交わす。
お師匠は大分リアを気に入ったと思ってたが……リアも懐いたもんだなぁ。身内同士の仲が良いのは俺も嬉しいので、結構な事だ。
ちなみに、ガンテスは「拙僧は最後に飛び入りした身ですからな! 別れの挨拶は長く共に過ごした皆様の時間なれば!」と言って、最初に深々とお師匠に礼をした後、頂上の入口付近で待機してる。豪快を絵に描いたみたいな人柄だけど、そういう処は繊細な気配りが利いたりするんだよね、あのオッサン。
二人が挨拶を終えたようなので、今度は俺が前に進み出てお師匠と向かい合う。
今回も大変お世話になりました、お師匠。
「いえ、私のほうこそ、貴方達には助けられました……その優しさと意思に、感謝を」
胸元から下げた牙飾りに指先を触れ、彼女は柔らかく微笑む。
気のせいか、来た時よりよく笑うようになったんじゃないかね。騒がしくしただけだった気もするが、気晴らしになったってぇなら何より。
そう思って笑い返す俺を、師匠はちょっと考え込むような様子で凝視した。
「……師として命じます。あの力、二度と使用する事はなりません」
うん? あー……切り札の事ですか。
あの特異な結界内部だからこそ躊躇なく切れたんであって、元から二度と使うつもりは無いっスよ? っていうか普通に使うと死ぬし。
「そうでしょうね。だからこそ、貴方が貴方のまま、再びこの地に生を受けた事はとても幸運な事なのだと、きちんと自覚なさい」
あ、そういえば一回死んだこと言って無かった。と、焦る。
でもお師匠はそんな事はとっくに察していたのか、白い繊手の指先を俺の額に向け、子供を叱る様に、軽く突いてきた。
「無茶をしてばかりの弟子への、仕置きと監督変わりです――真っ直ぐ立って、口を開けなさい」
え、なに急に。こわい。
どこか悪戯っぽい表情で言うお師匠に、逃れることは出来なさそうだと、観念してあー、と口を空ける。
これ、このままビンタとかされないよね? 大口開けたまま師匠に平手打ちとかされたら歯が何本飛ぶか分かんないんですけど(白目
そんな風に戦々恐々としていると……。
お師匠は自身の親指を口に含み、軽く吸うと――噛みしめた。
ガリッ、と音が聞こえ、引き抜いた指には唾液の糸と、指先に鮮やかな赤が滲んでいて。
何をしてるのかと困惑している俺の、開きっぱなしの口へ、その指先がねじ込まれた。
――!?!?!??
口腔に指の腹が擦りつけられ、粘膜に刷り込むように鉄と、唾液の味が広がる。
頭が真っ白になって馬鹿みたいに棒立ちになって硬直する俺の口内を存分に蹂躙すると、唐突に指は引き抜かれた。
「あ、あ! ああああぁーっ!?」
俺の口元と、師匠の指先にかかる透明な糸を指さして、リアが目を吊りあげて叫び声をあげる。
そのまま、脳味噌がショートしてフリーズした俺を引っ手繰る様に自分の後ろへと隠すと、妹分は先程までの和気藹々とした雰囲気とは真逆の、威嚇するが如き表情を師匠に向けた。
「な、なな何してるんですか! なんで急にこんなことしてるんですか! なんか《半龍姫》様ばっかりずるいです納得がいかない!」
「い、いえ。私もこの子に掛かっている枷を強化しようと……そもそも、この枷の強度からして、相当な量の血液か体液を既に交か「うわーっ! あーっ!! ふああああああああぁっ!?」筈ではないでしょうか」
勢い良く問い詰めるリアに、オロオロとしながらいきなり珍行動に及んだ理由を語る師匠。
その言葉が終わる前に、俺の両耳を目にも止まらぬ速さで塞ぐと、妹分は顔を真っ赤にして大声をあげて彼女の弁を遮った。
「も、もう挨拶は済んだし、これで御暇します! じゃ、これで!」
そのまま、俺の襟首を掴んだまま引きずって、凄い勢いで帰り道を歩み始める。
呆気に取られたままの師匠の姿がみるみる内に小さくなっていって――ある程度の距離が離れた処で、リアは振り返って声を張り上げた。
「――また来ます! 今度はレティシアも一緒に! だから、そのときまで御元気で!」
赤らんだままの顔は、どこかやけっぱちの様にテンションが高くて。
けれど紛れも無くその言葉には、隠しきれない親愛が籠っていた。
引きずられたまんまの俺も、それに合わせてお師匠に向けてのんびりと手を振る。
まー、そんときは俺も高確率で一緒だと思うんで、また稽古つけて下さーい。お元気でー。
遠目だったから、はっきりとは分からんかったが。
師匠も、笑顔を浮かべていたんじゃないかと思う。
そうして、俺達は彼女……霊峰に住まうひとりぼっちの優しい龍の姫との別れを終え――しかし必ずの再会を誓って歩き出す。
「……にぃちゃん、御機嫌だね。《半龍姫》様、美人だもんね。そりゃ嬉しいよね」
めっちゃ不機嫌な妹分にズルズルと引きずられたまま、俺は抗弁した。
いや、ちょっと待って。あれ俺のせいじゃなくない? そもそも師匠だって枷を強化するとか言ってたやん、その為だって。お互いに他意とか無いって。
「ふーん……大好きなお師匠様の指の感触はどうだったの?」
ハイ! めっちゃ柔らかくていい匂いがしました! ……ハッ!?
「……帰ったらレティシアやアンナも交えて、お話しようね。 にぃちゃんが《半龍姫》様のお尻に、頭から突っ込んだ件も含めて、たっぷりと」
い、嫌ァァッ!? ヤメロォ!! やめて下さいアリアさん! その件まで二人に知られたら本気で死ぬゥ!?(迫真
冷たい北の大地には似つかわしくない程の、晴れ渡った空の下。
ぎゃいのぎゃいのと騒がしく掛け合いを繰り返しながら、俺達はガンテスとの合流を目指す。
緩やかな歩みで、けれど止まることなく。
聖都に向かう帰り道への、そして、何時かの未来に再びこの地へ訪れる為への、遥かな道程を進みだしたのだった。